第六話 開花の前兆
森閑する辺りに、鋭い緊張が走る。
───気配を辿れ。
奴の存在を感じろ。決して、攻撃を許す隙は見せてはならない。
───思考しろ。
奴なら次はどう動く。これまでの奴なら、次はどう動いてきた。
───感覚を研ぎ澄ませ。
全身の神経を集中させろ。身体の全てを外界と同化させ……あ、やべぇ腹減ってきた。
考えてみれば、もうこの模擬戦を初めて二時間が経つ。日常的に食事をするようになり、すっかり人間の物に戻った私の胃は、きゅるきゅると情けない悲鳴を上げ始めていた。
「遅ぇんだよ! 早く出て来い馬鹿弟子! 私の腹の虫がそろそろ限界なんだよ! なんだ!? 私の空腹を狙う作成か!? もう出て来ないなら帰るぞ!? 帰って飯作るぞ!? 勿論お前の分はなしだがな!!」
「お前が……アサシンは堪えて待てって教えたんだろうがっ───!」
大きな怒鳴り声が発せられたのは私の背後。短刀を二本携えた私の弟子ことカミトは、憤りを全て乗せた斬撃を私に見舞った。
「アサシンが挑発に乗って出てきてんじゃ……ねぇ!」
振り返りざまに、私は短刀などお構い無しに───刃に当たったところで私に害はないし、恐らく短刀が無残に砕け散るだけだからな───カミトの顔面へ蹴りを見舞う。蹴りは側頭部に綺麗に決まり、そして、ぐにゃりと柔らかい感触に捕まった。
「げっ!? お、お前ズルいぞ!? ウルも主人に魔法を向けるとかどういう了見だおい!」
私が怒鳴り散らすと、頭の中から弱く細い声が応答した。
『だ、だってカミトが分身一個作ってくれたら昼のおかず一つ増やしてあげるって……』
「おい、ウンディーネ……」
お前そんな食いッ気あるキャラだっけ? 精霊が昼のおかず一品で契約者じゃない人間に魔力を貸すとか、どんだけ食に飢えてるんだよ……。
私は半眼で右足を睨む。カミトの姿をした"何か"の頭をブチ抜いたまま、動かなくなった右足を。
水属性の上位魔法『水分身』だ。この魔法は恐ろしい程の精密さを必要とするため、階級は第七階位に位置している。この階位となるともう常人に扱える領域になく、世界中探しても百人居るかどうかといったところだろう。
『水分身』はその名の通り水の光を反射する性質を魔力によって操作し、分身を作り出す魔法だ。しかしこの魔法の厄介なところは分身能力ではなく、それが実体を持つところにある。その結果が今のこの奇怪な状況を生み出しているのだ。
分身を作るために必要な水の衝撃を加えると固くなる性質、あれはなんて名前だったか。ええと……ああそうそう、粘弾性だ。その性質をこれまた魔法で操作し、触った対象を捉えるという効果も持っている。よってこの魔法の本来の使用目的は敵の捕縛であり、分身はあくまでも副効果なのだ。
この魔法は通常罠として設置するものだ。理由は明白、先に述べたように分身を操作する事が極めて困難だからだ。いくら粘弾性を使えば硬化するとはいえ水は不定形な物質だ。人間が扱おうとするならば、それなりの精度が求められる上、そんな思いをしてまでわざわざ動かすメリットが殆ど無い。分身による攪乱を目的とするならば、闇属性の下級魔法を使えばいい。
だがこれを使用し操作するのは水を司る上位精霊、ウンディーネだ。それにウルは、ウンディーネの中でも更に高位の存在なのだ。分身を操作するなんてのは、彼女であれば欠伸をしながらでも可能だろう。
さて、罠が正常に機能したのだ。そろそろ本人が動き出す頃合だろう。
「いい格好だなロウリィ……フフッ」
「お前、今笑ったな?」
「わ、笑ってない」
口元を右手で抑えながら、いよいよカミト本人が茂みから姿を現した。隠してはいるが、奴は今笑いを堪えるので必死だ。畜生後で覚えてろよコイツ。
「それでクソ弟子。私の前にノコノコ出てきて、一体どうするつもりだ?」
いくらカミトでも、右足を封じただけで私に勝ったつもりではないだろう。大体がこんなもの、その気になればすぐに外せる。きっとそれもカミトは理解しているだろう。
それでもわざわざ出てきた理由はなんだ? その狙いは何処にある?
「そんなの、勝ちに行くに決まってるだろ。さあ、行くぞお前ら!」
「ああ来いって……は? お前ら……?」
その掛け声を合図に、遠方から地響きが鳴り出した。発信源の方を見やると、土埃を巻き上げて、なにかが高速で接近している様子がうかがえた。その先に広がる光景を見て、私は堪らず思考することを放棄した。
水だ。水が走ってくる。なにを言っているのか分からないと思うが本当だ。水が両手両足を仕切りに振って林道を爆走している。
「……」
あーこれは、このままだと非常に不味い。この模擬戦の勝利条件は"相手に一撃を入れる"だ。無手の状態で百を超える分身の相手をするのは、流石の私でも無傷で終えることは不可能だろう。そう判断した私は、即座に足を捉えている分身に魔力を注ぎ、それを破壊する。そして、すかさず詠唱を開始した。
『顕現せよ 不滅を冠する白銀の剣 デュランダル』
剣を封じた誓い? ハッハッハー、そんなものは忘れたな!
身体の内から放出される白銀の粒子が右手に集まり、秀麗な細剣を形作る。右手に収まったその剣の名はデュランダル。私が私たる理由。私が私を証明する剣だ。
「ウル、お前には暫く魔力はやらん」
『水分身』の大群に向かって剣を向け、敵にではなく己の内に敵意を向ける。
『えっ、チョッ……ちょっとソレは幾らなんでもヤり過ぎというか』
「やり過ぎはお前だこの大馬鹿者! 一品につき一体なんだろ? あんなに作ったらうちの食糧が尽きるぞ!?」
『……あっ、本当ダ』
本当に今気付いたという声音だ。頭の中に響く間の抜けた声にイライラは更に加速する。
「もう頭に来た。おいカミト、今日は生きて帰れると思うなよ?」
怒りに震えた声で、今度はカミトに敵意の矛先を向ける。ああ、これ程感情が動いたのは一体どれくらいぶりだろうか。
「ああ上等だ! 不滅だかなんだか知らんが、今日こそは絶対に俺が勝つ!」
愛剣を握り締め、魔力を込める。剣が白く発光し、それに呼応した。私の記憶違いでなければ、その輝きは普段よりも少し強い。まるで剣が封じられていたことに抗議しているようだ。
───使ってやらなくて悪かった。
心の中で一言謝罪し、私は構える。使うのは実に私らしい、故に最強必殺の技。
「吼えろデュランダル!『フラッシュ・ハッシュ』!」
私は剣を横薙に思いっ切り振り抜いた。同時に剣から光の斬撃が大量な水に向かって射出された。フラッシュ・ハッシュ。その名の通り真っ直ぐに切り刻むという意味だ。そう、切り刻むのだ。
「死ねぇぇぇええええええええ!」
剣技もクソもない、ただただ振り回された剣から幾撃もの剣撃が射出される。それらは水を切り裂き尚も勢いを止めず、後ろに広がる森の木々をも切り倒す。こうすれば近付くことなく敵を殲滅出来る。面倒くさがりな私は、全盛期これを本当に使いまくった。だって便利なんだもん。
斬りまくって森が半分程滅んだところで、疾駆する水の群れは完全にその勢いを失った。切り裂かれて魔力での影響がなくなった水は、当然のように辺りにぶちまけられる。そこだけ大雨が降った様な惨状だった。
「ウル、とっとと森を直してこい」
『い、いやイヤいや!ワタシは水の精霊ダヨ?』
きっと今ウルが実体化していたら、目尻に涙をためていることだろう。実際聞こえる声は少し湿っぽい気もする。泣き落としとは小賢しい。コイツに同情の余地など欠片もありはしないというのに。
「いや、お前なら出来る。木が完全に死ぬ前にさっさとやってこい」
『ち、ちナミに魔力は……?』
「はっ、自分でなんとかしろ」
『ハーイ……』
本当に残念そうな声だが、知らん。原因を作ったのはコイツだ。それに、まだ勝負は着いていないのだ。また余計なことをされても面倒くさいし、悪いが精霊様にはここらで退場してもらおう。
実体化してトボトボと森へと漂うウルをやれやれと見送り、私は意識を戦闘へと戻す。
「大量の分身を作れば私を捕えられるとでも思ったか。舐められたもんだ。そして……っ!!」
私は先と同じように、振り向きざまに回し蹴りを、誰もいないはずの背後へ繰り出した。目に見える情報通りならば空振りであったその蹴りは、"何か"に当たり、それを吹き飛ばした。
遠方へ弾みながら転がっていくそれは、静止してようやく姿を現した。
「よう。思慮が浅いぞ? 本物くん」
「……お前が規格外過ぎんだよ。クソっ、今度は勝ったと思ったんだけどなぁ」
受身を取った姿勢でカミトが本当に悔しそうにこちらを見上げる。その目線の先は私ではなく、その後方だ。
「初めの分身による不意打ちで魔法の脅威を印象付け、その後大量の囮で無策の強襲。私の注意を分身に向けながら、自身は離れたところから私の背後へと移動。『水分身』を殲滅し、私が気を抜いたところに『不可視化』を使った本体による揺動の攻撃。そんで───]
私は後ろに回した右手で捕まえた短剣を見て、弟子の策への評価を続ける。
「本命の分身による攻撃。うん。悪くない作戦だ」
短剣を持った景色に擬態した分身を破壊しつつ、私はカミトへの評価を伝えた。対戦の勝利条件、"相手に一撃を入れる"をよく理解して作られた作成である。
「なんで最後の攻撃が分かったんだ?」
カミトの質問に、短剣を投げ返しつつ答える。
「そこに気付いたのはお前が私の背後に回った時だ。分身がちゃんと移動するかを気にし過ぎだな。気配をきっちり殺しているから余計に……な。全く、これはウルへのペナルティーを追加する必要がありそうだ」
どこか遠方から抗議の声が飛んできた気がするが、そんなものは無視だ無視。
「ああ、やっぱりそこか……」
やはり自身でも思うところがあったのだろう。カミトは悔しそうに顔を歪め、仰向けに地面に寝頃んだ。なにかブツブツ言ってるのを見るに、きっともう次のことを考えているのだろう。
ならば、この疑問は解消しておかねばなるまい。私はカミトの頭上に仁王立ち、やがて鋭利なナイフとなるその問いを放った。
「何故最初に私が分身に捕まった時点で、分身を爆発させなかったんだ?」
『水分身』はただ捕らえる事に特化したものではない。魔力を流す事で破裂させ、捕縛対象に重傷を負わせることが出来るのだ。だから私が捕まった時点で即座にそれを発動させていれば、この勝負はカミトが勝っていたかもしれない。故に他に確実な方法があったのだと思ったのだが……ふむ。
「それをやったらウルが加えた一撃になるだろ。だから……」
唖然とするしかなかった。これ程までに勝ちにこだわるカミトが、まさかこんな単純なルールを見落としていたとは思いもしなかったからだ。
とっておきの作戦がまたしても正面から打ち破られたのだ。カミトの消沈っぷりは見た通りなのだが、私は驚きのあまり彼に気を使うことなくトドメの一撃を放った。
「ウルがお前の指示で出した分身は、確かにウルの魔法だ。じゃあ、ウルに指示を出して発生した攻撃は? これは、お前がウルを使って加えた攻撃にならないか? つまりだ……」
カミトの白い顔色がみるみるうちに青へと変わる。呆然といったその表情にため息を落とし、私は遂に決定的な言葉を口にした。
「十分に勝利条件を満たしているぞ。このど阿呆が」
♢
「あれは誘導を印象付けるためにわざとやったんだ……勘違いしていたわけじゃ……ブツブツ……」
「あーもう分かった! 分かったから黙って料理しろ!」
「くっそぉ……次は絶対俺が……ブツブツ……」
「……はぁ。どんだけ負けず嫌いなんだよ……」
天井を仰ぎ、深い溜息を吐く。負ける時はいつもこうだ。もう三年目だから慣れはしたが、鬱陶しいものは鬱陶しい。食卓にいち早く座った私はそのまま、天井の木目を数えるなどして暇を潰した。
このような明らかに無駄な時間も、勝者の特権である。
「何度も言うが、カミト。弟子の課題は師の期待に応えることだ。その点で言えば、お前は私の弟子として文句なくそれをこなせているんだぞ?」
その言葉に裏はない。現にカミトは目を見張る速度でその戦闘技術に磨きをかけている。だからこれも精一杯の慰めのつもりで言ったのだが……台所から見え隠れする白髪から返答は無かった。
訓練の後ならばまだしも、試合で負けた相手に言われたとなれば面白くもないか。
ではなんと機嫌を取ったものかと、やや大仰に腕を組んだその時だった。
「はァ……タダイまぁ……」
壁をすり抜け、疲労困憊な声と共に実体化したウルが現れる。疲れた様子を見せてはいるが、実体化しているということはまだまだ余力はあるのだろう。物質を生成するというのは、存外魔力が喰われるのだ。
「森はどうなった? 飯に懐柔された精霊様?」
「ダ、だからゴメンってば! ……生きテた木は全部癒シテ元に戻して来たわ。モウ死んじゃってた木はどウニも出来なかったけど……」
今頃になって、本気で申し訳ないという態度を見せる。恐らくだが、関係ない木々を傷つける結果になってしまったことを悔いているのだろう。彼らは喋れこそしないが、ちゃんと地に根を張り、逞しく生きているのだ。それらを片っ端からぶった切った私が言うのもあれだが。
「まあ、それはしょうがない。全く、最初はアイツを危険だとか言ってた癖に、随分と懐いたもんだな」
「ナニナニ? 嫉妬? 安心して! ワタシはマスターローラン一筋だかラ!」
「あ? なんだって?」
ガタリと大げさに音を立てて椅子から立ち上がり、キッとウルを睨みつける。分かりやすく肩を跳ねさせて脅えるウルに、私は一歩二歩とにじり寄った。
「す、ステイ……っ! ステイローラン……っ!!」
その声色は、まるで暴れ馬を宥めるようだ。頻りに両手を振り乱すウルに、私の怒りから悪戯心が霧散した。胸に燃ゆるこの怒りは純度百パーセントだ。
「ほう、そんなに死にたいか尻軽」
バキバキと拳を鳴らしてウルへと詰め寄る。しかし一層顔を顰める私に反して、ウルの脅え顔はたちまちイタズラ小娘のそれへと変わる。
「ほらやっぱり妬いてたんじゃなイ! フフッ、可愛いんダカラ〜」
口元に手を当て、右手をひらひらと振るその様子はまるでどこかの貴族様のようだ。全くコイツはどうしてここまで神経を逆撫でるのか。
「おう上等だ表へ出ろ! ぶちのめしてやらぁ!」
とうとう声を荒げ、私は不格好に揺れるウルの手を強引に引っ張った。しかしウルのしたり顔を誘発するだけで、憎たらしい笑みが殺意を感じさせる程歪み始めた。コイツもう美人を売りにするのやめちまえばいいのにと本気で思わせる程の悪人面だ。
「喧嘩もいいが、やるなら飯を食ってからにしてくれよ」
台所からカミトが顔を覗かせる。その手が持っているのは旨そうな匂いを漂わせるカレーライスだった。付け合わせまで綺麗に並べられたそれを見て、私の腹が思い出したかのようにきゅうきゅうと悲鳴を上げる。
時間切れでは仕方がない。私たちは一時休戦としてそれぞれの席に着いた。
「ほら、運ぶから手伝ってくれ」
「何故勝った私が手伝わなきゃならん」
「嘘ツキの手伝いはシなーい」
ウルを騙して力を借りたことを、流石にカミトも反省していたのだろう。齢十一歳とまだまだ子供だが、物事の良し悪しの判別は大人よりも俯瞰出来る子だ。コイツは好戦的だが、礼儀知らずではない。
「……そ、それについては、本当にごめん」
故に悪いと思ったことは素直に謝罪をする。だが……。
「「……プッ」」
「わ、笑うんじゃねぇ!」
ここまで素直なカミトは珍しい。可哀そうを通り越して寧ろその様は非情に滑稽だった。
「畜生……次は絶対俺が勝つからな!」
やや煩雑に食器と料理が並べられていく。しかしみっともないと思ったのだろうか。カミトは配膳されたそれらを丁寧に並べ直してからようやく席へと着いた。
運ばれて来た料理は……ま、まあ食べられると評価してやってもいいだろう。うん。
「オオー! やっぱりカミトのご飯ノ方がローランのより美味しソウ!」
「ウル、『霊体化しろ』」
「エ? な、ナンで───」
魔言を乗せた下僕への命令は絶対だ。ウルは本人の意思とは関係なく、瞬時にその美しい肢体は光の粒と成った。
「フウ。よかった戻れた。ちょっとイキナリなにスルのよ!」
「ふん、知らん!」
しかし即座に復活し、再びあの忌々しい顔が私の眼前へと現れる。それから思いっきり顔を反らし、私はただ憤慨した。
そう。悔しいことにこの男、料理の腕だけはメキメキ伸びるのだ。ウルが言った通り、カミトの料理は既に私が作るものよりもちょっとだけ美味い。
ちょっとだけ、本当にちょっとだけだぞ。
「なに言ってんだウル。ロウリィの方が俺より美味い飯を作るぞ? 最近俺ばっかり作ってるから分かんなくなってるだけだろ」
それに加えて「久々に食いたいな」などと言いやがるから余計に腹が立つ。しかも本気で思っているからタチが悪い。畜生……絶対お前より美味い飯を作ってやるぞ。
配膳されたカレーを見ながら、私はそんなことを悶々と考えていた。
「それじゃあ、いただきます」
「「いただきます(マス)」」
食前食後の挨拶を、私は欠かしたことがない。それは食材となった者たちへの感謝を忘れぬ為に。それは、私が人間らしい感覚をを失わない為に。
「くっそ……絶対お前より美味い飯を……あっ」
───カラン。
スプーンが床に転がる。取り落としたのは勿論私だ。
「食器を落とすなんて珍しいな。てか、今のが初めてか?」
カミトの声色は、今の小事を特に気にした様子ではない。黙々とスプーンを動かす少年を目尻にやり、私は取り落とした右手を見つめた。
今、一瞬……。
「ふん、私だってたまにはドジをすることもある」
短く返答し、私は左手でスプーンを拾い上げ、そのままの手で用意されたカレーを掬い……ぱくり。
ああ本当に……実に美味いカレーだ。