第一話 終わりを始める邂逅
今から約千年前、その英雄は伝説と謳われた。
それは、未だ精霊や巨龍が跋扈する混沌の時代。
恐れ戦く人々の許に、かの英雄は現れた。
かの者は人の身でありながら、万里を駆け、天地を裂き、数多の巨影を討った。
誰もが称えた。不滅の剣を帯し、世界に安寧をもたらした気高き英名を。
享年、その英雄は比類なき至高の自伝をしたためたという。
その自伝は千年経った現在も継がれ、人々の心に勇気の火を灯す。
誰もが知るその伝記、誰もが知る英雄の中の英雄。
かの者の名を、ローラン。
受け継がれた著書の名を───デュランダル・レコードと言った。
薫風が頬を撫でる。
昨日までこの頃は雨降り続きだったため、晴天の清々しい気候が何処か懐かしい。
森を濡らす朝露が燦々と降る日光に照り、外の景色はまるで新緑色の宝石を虚空へぶちまけたかのように奇麗に煌めいていた。
ふらりと漂う薫緑の匂いが鼻腔をくすぐり、その心地良さに身体の内から洗われているような感覚へと誘っていく。
そよぐ風に擦れる葉の音。日を浴びて嬉しそうに鳴く鳥の声。私は雨は嫌いだが、雨上がりのこの独特の空気は大好きだった。
窓外を泳ぐ視線は自然と、久々に顔を覗かせた太陽へと向かう。雲一つない蒼い空に、ポツリと浮かぶ橙色の楕円。まさに快晴と呼ぶにふさわしい天候だ。
その猛々しく燃える様に、私はたまらず目を細めた。全く出鱈目な晴天だ。これ程の晴天もまた珍しい気がする。
折角の好天だ。私は試しにと、一つ深呼吸をし───
「ゴホッゴホッ……! げぇ……最悪だ……」
……これは失敗だった。肺いっぱいに吸う清々しい空気と共に、ボロ屋のカビた木材と、錆び付いた鉄骨の臭いが、私の全身を駆け巡ったのだ。
数秒経ってようやく咳が治まった私は、恨めしげにボロ屋を見渡す。
完全に私の自業自得ではあるのだが、心の平穏を保つためにはそうするしかない。
「このボロ屋もそろそろ限界か。いや、数百年もよく持ったと思うべきか……?」
少々苛立たし気に椅子から立ち上がり、私は数年ぶりに出入口のドアを開け放った。
ギィと嫌な音を立てるドアを潜ると、そこからは王城の庭園が一望出来た。赤、青、黄……様々な色彩を放つ薔薇をはじめ、姿も形もまちまちな草花がそこには植えられている。一見釣り合いが取れていないようにも見えるが、そのアンバランスさが花々の美しさを一層引き立てていた。
王国お抱えの庭師に丁寧に手入れされたその庭は、遠目で見ても美しく、懐かしさも相まって意図せずうちにため息が漏れる。
そんな風景と追想と共に今度こそと、私は外の空気を吸い込み……再び顔を顰めた。
「……これは」
鉄か? いいや、これは血の臭いだ。
獣の臭いではない。この臭いは紛れもなく人間の臭いだ。この近くには私以外に人は居ない。ここは王城の裏手に聳える小山のてっぺんで、この山は丸ごと立ち入り禁止区域となっている。国とはそういう契約を結んでいるはずだ。
これほどの重傷……敗走兵か? だが大きな争いごとは近頃起こっていないはずだ。自殺……ということもないだろう。それを行うならこんな面倒な場所に来る必要もない。もしや肝試し感覚で阿呆が迷い込んだか? だとすれば自業自得も甚だしい。
そこまで考えて、私は思考することを放棄した。
これ程までに臭いが濃いのだ。恐らく負傷者はもう生きてはいないだろう。これ以上の思考は無意味。不法侵入者が既に死んでいるのならば、残る仕事はその片付けに限定されるからだ。
はぁ、死体の片付けは身体が汚れるから嫌なんだけどなぁ……
心の中で文句を垂れながら、私は臭いを辿ってボロ屋の周囲を散策する。一周目は流し目で、二周目は目を凝らして、三周目は隈なく、軒下まで覗き込んだ。だが、それらしきものは一向に見つかる気配がない。
「おかしい」
そう、おかしいのだ。家の周りをぐるりと一周したというのに、死体の死の字も無ければ血痕すらないのだ。だと言うのに未だ死の臭いは辺り一帯に充満している。
常識的に考えれば闇魔法の類での気配遮断なのだが、調べても魔法の痕跡は見受けられない。だとすれば……
「上か?」
だが、瀕死の重体でわざわざ屋根の上に昇るか? しかし、もうそこ以外に当たりの付く場所はない。足先に少し力を込め、トンと屋根の上に飛び上がる。
……そしてようやく、臭いの元を発見した。
「……まだ子供じゃないか」
屋根の上に横たわる小さな死体。それは、未だ十もいかないであろう子供の死体だった。
「可哀想に」
私は少年の死体に歩み寄り、その死顔を観察する。種族は恐らく、私と同じヒューマンだ。当然の如くその呼吸は止まっており、仏の顔は苦痛に歪んでいた。
少年の身体には無数の傷跡があった。切り口からして恐らく剣による切創、槍による刺創、果ては炎系統の魔法による爆傷、火傷も見受けられた。全身の傷跡からは夥しい量の血が流れ出ており、少年が受けた傷の深さを物語る。
当然衣服もズタズタに切り裂かれ、白い生地で仕立てられたその簡素な衣服は、もうほとんど服としての機能を果たしていなかった。
一体どんな理由があれば、子供がこんなにも痛めつけられなければならないと言うのか。その思考を、私は頭を振って払う。そう、弱者が抗う術を持たないのは、この世界において当たり前の常識なのだ。
私は感傷に浸るのをやめ、少年に鎮魂の祈りを捧げた。そうしてようやく、本来の目的である死体の片付けに取りかかった。
───その時だった。
「なっ───」
死体の肩に触れた瞬間、触れた右手が少年の左手に掴まれた。同時に弾けるようにして、閉ざされていた瞼が見開く。
少年の射貫くような瞳と、私の瞳が交錯する。劫火を帯びる紅蓮の双眸は、深い激情を宿して震えていた。
「こいつ生きて───っ!?」
「───っぁぁぁぁぁあああああああああ!!」
凄まじい力だ。この感覚は、かつての戦時巨人に捕まれた時のものと似ている。傷だらけの少年は獣のような雄叫びを上げ、左手1本で私の体を持ち上げた。
「おいおいおい! ちょっとまっ」
「らぁっ!」
───ドンッ!
振り下ろされた左手と共に私は屋根に叩きつけられ、その衝撃でボロ屋の屋根が崩壊する。足場を失った私たちはそのまま屋内へ、崩れ行く瓦礫と共に転落した。
「わ、私の家が……この糞ガキ……!」
左腕を掴んで離さない、謎の少年と落下の途中。ふと見上げれば、ボロ屋の崩壊は連鎖的に広がり、屋根の大半が吹き飛んでいた。というか、重力に耐え兼ねて崩れ落ちていた。
これを直すのは骨が折れるぞ……。
頭の片隅でそんな思考が過る。そんな落下の途中、そろそろ背中を床に打ち付けるかという頃、歯を剥きだして襲い来る少年に、私はフッと笑いかけた。
「そら、お返しだ!」
叩き付けられた姿勢なのだ。当然床に着くのは私の方が速い。
私は少年の左手をへし折るつもりで握り返した。そして床に足が着と同時に思いっ切り身体を捻り、少年ごと右腕を振り抜く。
ドン───ッと、またも轟音が轟いた。
驚き見開く双眸が視界の端を流れ、少年は顔面から床に落ち、その衝撃で積もった埃と砕けた床が欠片となって辺りに舞う。
「ふんっ。流石に死んだだろ……あれ?」
鼻を鳴らし、腕を組んだところでその違和感に気付いた。右手に握ったはずの、少年の左腕がないのだ。落ちた時にすっぽ抜けたか? いや、この感覚は───
「───はぁ……っ!」
「うお……っ!?」
私の真後ろに再び気配が現れた。それと同時に、鋭い蹴りが風を切って迫る。転がるように前方へ逃げることで、なんとか蹴り技を回避。その直後、背中のすぐ後ろで置き去りにされた音が悲鳴を上げた。
人を分断しかねない蹴りの威力に、私は思わず舌を巻く。気付くのがほんの少し遅ければ直撃を受けていた。
即座に体勢を立て直し、少年へと向き直る。少年の瞳は爛々と輝き、萎えることない闘士を示す。机がクッションになったのだろうか。少年は大してダメージを負っていないように見えた。
全く、これは一体どういうことだ? 発見した時、少年は確かに死んでいた筈だ。死人がこうも元気に動き回れるはずがない。
それにこの動きの鋭さと正確さ。年端も行かない少年に、どうしてこれ程の戦闘能力があるのだ? それが分からない。
しかし、いい加減私も頭にきた。人の家で好き勝手に暴れまわる少年に、私はとうとう我慢できずに怒鳴り散らした。
「おい糞ガキ! やるのはいいがやんちゃごっこは外でやれ! 私の家がぶっ壊れるだろうが!」
「……そんなの、僕には関係ないっ!」
なんて野郎だ。無断で人ん家の敷居を跨いでる時点で関係大有りだっての!
私の声に耳を貸す様子はない。腐り始めていた床を踏み砕きながら、少年は接近を開始した。その速度も凄まじく、身体能力の長けたビースト系の種族と遜色ない速さだ。
私は拳術の類はドがつく素人だ。それに対してこの少年の拳術は、そこらの武術家を既に凌駕している。でなければ私にここまで追いすがる理由にならない。気を抜けば、私とて敵わないかもしれない。剣を使えば話は別だが、それだけはしたくなかった。
私は、あの剣はもう使わないと誓ったんだ。
「おいテメェ! なんで私を襲ってくるんだ!? 私がお前になにか気に障ることでもしたか!?」
「……うるさい」
やはりこちらの声を聞く気は全くないようだ。少年は更に加速し、上体に隠すように右腕を大きく引いた。その動き方は、大昔に拳闘士の試合で見た物と似ていた。不味い、これを避けたら確実に背後の壁が───!
そんな思考とは裏腹に、私は咄嗟に体を引き、突き出された掌底から逃れていた。少年の腕は半身になった私の胴を掠めて通過し……そして。
───パァン!
乾いた音が腐敗した家中に響き渡った。
まるで空気の大砲のようだ。空を切った平手突きの威力はそれは凄まじく、背後にあったボロ屋の壁を音もなく吹き飛ばした。
「あぁ……そんな……」
綺麗な円形にくり抜かれ、壁に大穴が空いた。それに伴い、いよいよ愛するボロ屋が倒壊を始めた。
汗臭い男どもと学んだ建築の知識を総動員して作った校倉。頑丈が売りだったはずのこの建築法だったが、やはりそれにも限度はあったようだ。
メキメキと悲鳴を上げ、埃と錆を撒き散らしながら、思い出の我が家は無残にその一生を終えようとしていた。
「お前は……」
「……?」
「お前は私を怒らせた……己が蛮行を恨んで逝け!」
剣は使わないが、剣術を使わないとは一言も言っていないし誓っていない。私は右手で手刀を形作り、横一線に薙ぎ払った。それも全力の全力でだ。
音をも置き去りにする私の手刀を見た昔の仲間は、確か私を歩く固定砲台と形容していたか。いや、失礼にも程があるだろう。
───ズバンッ!!
動作に数舜遅れて、家屋のど真ん中に大嵐が吹き荒れた。手刀によって起こった大嵐は我が家諸共少年を巻き上げ、砕き、塵にしてゆく。
蒼天を仰ぐ頬を伝うこれは、断じて涙などではない……断じてだっ!
怒りに任せた行動は、決まって終わった後に酷く後悔するものである。今私の胸中を締める感情は、「あーあ、やっちゃった」が十割りだ。もうガキのこととか心底どうでもいい。
嵐がやみ、落下を始めるポロポロと我が家の破片、材木、鉄屑の塊を呆然と眺め、私は己の浅はかな行動を呪った。
数百年、私を雨や風から守ってくれた我が家は、皮肉にも家主の手によって粉々に砕け散ってしまった。
「ふ、ふんっ。これで流石に死んだだろう。ったく、なんだったんだあいつ」
誤魔化すように鼻を鳴らし、崩落したかつて家だったものの残滓、積み上がったゴミの山を見る。少年は手負いのところを更に痛めつけられたという形となったが……まあ、少年の自業自得だろう。
しっかし、最近のガキンチョは皆ああなのか? もしそうなら軍は万々歳だな。
「まあ、そんなわけないか」
きっと少年が特異なのだろう。その特異さ故に、少年はあのような無残な姿となっていたのだろう。
「惨いことをするねぇ……」
再び訪れる感傷を即座に捨てる。結局少年にトドメを刺したのはこの私だ。私が彼を可哀そうだと思うのは、戦った彼に対して失礼だ。
さて、ともあれ危険は去ったのだ。後で王城に行って新しい家を要求しに行かなければな……全く、不法侵入を許した罪は重いぞ……?
「うっ……」
「───っ!?」
まだ……息がある!?
気のせいであってほしかった。だがそんな期待はものの数秒で打ち砕かれる。積み上がった瓦礫の一部が崩れ落ち、フラフラと少年が這い出る。
その幼い身体を、自らの血で一層染めて。
「……ったく。どんだけだよ」
「僕は……」
「あぁ?」
何かを語る少年に、私は向き直った。
悪寒が背筋を這ったのはその時だった。一歩、また一歩と、少年は歩みを進める。
その様子を見れば誰だって分かる。彼にはもう立ち上がる力も残っていない。だというのに、まだ少年の闘士は萎えず、眼光の鋭さはより鋭さを増すばかりだ。
気圧されてるのか……? この私が、あんな子供に……?
「僕は……まだ死ねない……約束を……したん───」
約束。そう言ってドサりと音を立て、少年はまるで糸が切れた人形のように崩れ落ちた。うわ言の様なその言葉には、この戦闘の中では感じなかった、少年の優しさが含まれていた。縋りつくような童心も一緒に。
「死ねない……ねぇ」
構えを解き、溜めていた息をすぅと吐き出す。
死ねないと、少年は言った。彼の決意の現われであるその言葉が、何故だか私には助けを乞う泣き声のように聞こえた。
「ああ……これは面倒ごとの臭いがプンプンしやがる……」
一応警戒をしつつ、少年へと近付く。突いても叩いても蹴っても反応がない事を確認し、私は血みどろの少年を肩に担いだ。
はぁ。結局、清々しい空気を肺いっぱい吸うことは叶わなかったな……
崩落により、一層辺りには錆臭さと埃っぽさが充満している。名残惜しく見上げた空は、実に陽気な日和だ。底が抜けきった晴天とはまさにこのことを言うのだろう。
血の臭いが香る荷物と共に、私はもういつぶりになるかも分からない下山を開始した。
♢
「邪魔するぞ〜」
「だっ、誰だ貴様は!」
豪奢な絨毯を泥に塗れた靴でドカドカと進む。なんか煩い虫が喚いているがそんなものに構ってやる時間はない。
「貴様止まらんか! ……ぶっ!?」
「それを読んどけ。私はここの関係者だ。ちょっと風呂場を借りるぞ」
見張り番と思われる兵士の顔面に紙面を一片押し当て、そうして兵士が面食らっている間に、私は赤い布を潜った。
しかしまあ、王城の警備もぬるくなったものだ。堂々と正面から乗り込んだというのに、誰も警笛を鳴らしやしない。
はぁ、平和ボケとはこれこのことか。
さてと。ともあれ目当ての場所へは辿り着いた。ええっと、作りが昔と変わっていなければ……ここを左だな。
「おっ、あったあった。さてと」
脱衣場に入り、一度少年を肩から降ろす。流石の私も早脱ぎ早着替えの特技は持ち合わせていないからな。
衣服を脱ぎ棄て、ついでに少年の元衣服だったものも剥ぎ取り、大浴場へと続く大扉を勢いよく開け放った。
「ほぉ~、王城ともなると流石に広いな!」
脱衣場の扉を抜けた先には、それはもう豪華な湯船が鎮座していた。白を基調として作られた石造りのタイルが敷き詰められ、所々に施されている黄金の装飾が、慎ましくこの場の豪奢さを引き立てていた。
ここは召使い用の大浴場のはずなのだが……それでもこれだけの広さとは。いや、大人数が同時に入るという目的故に広いのだろうか?
「私も風呂はご無沙汰だしなぁ……ああ、楽しみだ」
一応私とて乙女の端くれだ。今すぐ湯船に飛び込みたい衝動を辛うじて抑え込み、私は先に少年の体を洗った。洗面台の前に横に寝かせ、組んできたお湯で付着した血を流す。すると、血に隠れていた外傷がいよいよ顕になった。
「へぇ〜、傷もよく見りゃ全部浅い傷だな。さっき手刀も、ギリギリで致命傷を避けてやがる。ムカつくが、このガキの実力は本物だな」
今一度少年の全身をよく観察する。少年の容姿を一言で表すのならば、それは白だ。髪の毛の先から足の指の先まで、少年を形成するものは全て白で出来ていた。
根元から真っ白なことを見ると、白髪なのは元々の髪色なのだろう。これであれば街中でも見かける、さほど珍しいものではない。
だが異常なのは肌の白さだ。それはまるで、生まれてから一度も陽の光を浴びていないかのような白さだった。
「にしてもいい筋肉をしているな。ふむふむ、なるほどこりゃ便利な身体だな」
次に身体に触れて確かめる。頭から足の先まで調べて分かったことは、筋肉の付き方、関節の柔らかさ、骨の強度、そのどれもが対人戦闘に最適化されていることだ。その全てがまるで芸術品のように完成されている。
「だが妙だな……」
せっせと傷口を洗っていると、私はあることに気付いた。これより古い傷跡が一つも無いのだ。
あれだけの戦闘力と、これ程の完成された肉体を持つ者が、今まで怪我をしたことないなんてことは有り得ない。
そこから浮かび上がる仮説は二つ。一つは治癒魔法に秀でた魔法使いが常に控えていたか。もう一つは、生まれ付きの体質で傷が残りにくいか。そのどちらかである。
ふん。まさか、一つの怪我もなく修練を経たなんてことはあるまい。
「まあ、なんでもいいか。それはこいつを起こしてから聞けばいい。さあて……ウル、ちょっと来てくれ」
虚空に向かって私が呼びかけると、私の体中から水色の粒子が放出された。飛び出した粒子はやがて楕円を形作り、人型を取って顕現した。
現れたのは青を称えた全裸の少女だ。普段ならばドレスを纏い、髪型もバッチリ作っているのだが、ここは場に合わせたのだろう。
少女の閉じた瞳がゆるりと開き、碧の双眸が覗く。少女の周囲を舞う燐光も手伝って、彼女からは何処か神々しさすら感じる。
だが少女は、こちらの感動など気にするそぶりもなく、せっかくの神秘的な雰囲気をぶち壊す盛大な欠伸をかました。
「ふアぁ……ふう。久しぶりね、ロー……ウワッ!? ナニこの汚い子供ハ!」
欠伸をしたかと思えば突如大声を上げて取り乱す。全く忙しい女だ。
美しく伸びる青の髪をブンブンと揺らしながら、ウルは激しく狼狽する。絶世の美女が慌てふためく様子は見ていて飽きないが、それでは話が進まないため私は少年へと話の路線を戻した。
「さっき拾った糞ガキだ。怪我をしている。こいつを治してやってほしい」
「エー! なんでワタシがソんなコト!」
えーって……子供かよ……
美しい碧の双眸に微量の怒りを宿しながら、ウルは私を見る。その視線をふんと鼻を鳴らして一蹴し、私はため息交じりに彼女を煽る。
「おいおい、まさか治せないのか? 生命を司るウンディーネ様が、この程度の傷も治せないだなんてまさかそんな」
「デ、出来るわヨ! ほラ、見てなさイ!」
……ふふふ、こいつがチョロいのはいつになっても変わんないなぁ。相変わらず扱いやすくていい。
したり顔を見られないよう、私はウルから少年へと視線を戻す。少し早歩きでウルが隣にしゃがみ込む。
少々中身に難ありだが、こいつは列記とした水の上位精霊であるウンディーネだ。私に昔から使える精霊であり、治癒魔法に長けている。ウルという名前も私が付けたものだ。
由来は確か……水という言葉から連想した、潤いという単語から取った物だ。
『治りなさい』
横たわる少年の上にウルが手を翳し、魔言を発する。通常は長い演唱を必要とする魔法ですら、彼女達精霊は言葉に乗せるだけで使用する事が出来る。人間でも頑張れば無演唱で魔法を使うことも可能だが、出来ても初等階位の魔法程度だろう。
傷の治る速度を見るに、行使した魔法はかなり上位に位置する回復魔法だ。それが久々の出番だから格好を付けたかったのか、それとも少年の容態が酷かったからかは不明だが……気取ったような表情を見る限り恐らく前者の理由だろう。
「ホラ見なさい、完璧に治ったワ! こレで満足かシら?」
ウルが得意げにぶるんと豊満な胸を揺らしながらふんぞり返る。いけない、これは女の身であっても目に毒だ。精神衛生上非常に良くない。
現実から機敏に目を逸らし、努めて少年の容態を確認する。確かに、先ほどまでの大怪我が嘘のように治っていた。ウルが魔法を揮うのを見るのはいつぶりだろうか。相も変わらず見事な手際である。
「ああ、流石ウルだ。さて、これで要は済んだ。起こして悪かったな、もう休んでいいぞ」
「え〜。折角なんたシ、久しぶりにお話ししようヨ」
何処か寂しげな声が風呂場に小さく木霊する。そういえば、確かこいつは人間と話をするのが好きだったな。久しぶりといえば確かにそうだが、私も寝てばかりでなにか話題にするような話も特別ないし……ふむ。
「しょうがないな。それじゃあ、一緒に風呂でも入るか?」
「ヤッター! 何十年モ眠りっぱナシで退屈してたのヨ! あ、でもチョっと待っテて。このオ湯すっごい垢だラケ! めちゃくちゃ汚いから浄化して来ルね!」
「はいはい。ありがとな、ウル」
ああ、ホントにこいつはチョロいというか、扱いやすいというか。そこがウルの魅力なのだろうが……ずっとこの調子で居られると、だんだんと私が彼女を騙していいように扱っているような錯覚に捕らわれるな。
ウルは、先ほど大声で汚いと罵った湯船に躊躇いなく腕を突っ込み、なにやら浄化魔法をかけている。ご機嫌にフリフリと揺れる白いケツから目を離し、私は少年の足首を掴んだ。
……さてと。
「それじゃあ、坊主にもそろそろ起きて貰うとしますかね」
掴んだ足を持ち上げ、顔の前に少年を掲げる。きっと私は今、己が史上最高の悪人顔を浮かべているに違いない。