螺鈿の鳥
大唐は長安の日輪の上、告天子が一声鋭く鳴けば、甍の波もまどろみから醒めて鈍く煌めく。
太常卿の崔子温には二人の娘がおり、その歳は二つ違い、名を仙花と仙月といい、どちらも勝ち気そうな容貌と、それを裏切らぬ気性の持ち主であった。
才貌双全かつ大官の愛娘たちということで、定婚の引き合いは星の降るごとくあり、だが二人を溺愛する父親はより条件の良い結婚を望んで相手をえり好み放題、また本人達も自身を安売りするつもりは毛頭なかったのである。
さて、崔子温は高官の身として、女傑で名高い皇后の悋気は恐れつつも、やはり栄達のため娘達の入宮を強く望むようになり、また本人達も父親以上に宮中に上がる野望を身のうちにたぎらせていた。
しかし、宮中より声がかかったのは姉の仙花のみであった。後宮の花に選ばれた仙花は有頂天となり、歯軋りやまぬ妹を尻目に、目もくらまんばかりに華やかな礼服に身をつつみ、五色の房が垂れさがった輿に乗って、彼女は意気揚々と蓬莱宮に吸い込まれていった。
おさまらないのは妹である。手巾を噛み洟をすすり、ひとしきりくやし涙に暮れた彼女は、ついに一月後、父親にある申し出を行った。
「…しかし、お前、そんなことをお前がつとめおおせると思うのか?」
仰天する父親を意に介さず、白い頬に朱をのぼせ、仙月は頑として自分の望みを主張し続けた。かたくなな娘に父親は困じ果て、ついには折れて彼女の望みを叶えてやった。
それからさらに一月後、今度は黒塗りの地味な輿が宮城の後門に消えていった。
「そちが崔子温の娘か」
后妃達の住まう掖庭宮の一角、鳳凰の彫刻も優雅な宝座の前で、宮女姿の若い女が拝跪していた。
さようでございます、と面を伏せたまま答えた宮女に、後宮の主人である武后は冷たい笑みを浮かべた。凄惨な宮中の闘争を制して皇后の位に上り、いまは病勝ちである夫に代わって政治を切り回す彼女の全身からは、間断なく権力の香りが立ち上り、仙月はそれに当てられ頭がくらくらした。
「さきごろ入宮した崔才人の妹でもあるな。…哀れなことよ、父母を同じくする姉妹とはいえ、片や後宮で一殿を構え聖上のご寵愛を待つ身、片や一介の宮女とはのう。これで私ではなく聖上のお付きともなれば、お目にも留まり、寵愛を得ることも難しくはないであろうが」
「いいえ、私はかねてより皇后様の盛名を仰ぎ見、鴻徳をお慕いしてまいりました。晴れて御許でお仕えできますれば、過分な幸せにございます」
さらに頭を低くした新入りの宮女を武后は一瞥した。深い紅の唇から、鞭のようにぴしりとした声が飛び出す。
「巧言令色とは、よく言うたものだ。……わざわざ我が殿への出仕を望んだ理由を私が知らぬと思うか。そなたの性情を私が何一つ知らぬとでも思うか……ここへとんだ女狐がやってきたものだ」
言いしな、相手を威嚇するかのように、武后は立ち上がった。さすがの仙月も顔を青ざめさせ、背に汗をかいた。彼女の頭上に、甲高い笑声が響き渡る。
「は!よろしい!ここで狐を飼ってみるのも一興。崔子温の娘とやら、我がもとで仕えるを許す。聖上と私、そして帝室の名を汚さぬよう、いささかも懈怠なく努めよ」
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甘やかされた深閨の令嬢である仙月にとって、むろん宮女の生活は楽ではなかった。重い羽扇や香炉を持って長い時間貴人の背後に立たねばならず、夜は足の浮腫みがひどく眠れぬほどであった。
また、後宮では軽率な言動一つで自分の身が危なくなるため、同輩であっても気を許すことはできなかった。だが、彼女は薄氷の上を歩くかのような緊張に耐えた。耐えて時機を掴むまでの辛抱と思えば――。
仙月の同輩といえば、その一人に薛弐娘という、胡人のように虹彩の薄い瞳と、広い額を持つ宮女がいた。
彼女はぼうっとした表情をしているのが常で、しかも人より動作が一拍遅れ、そして一緒に務めを行ったり宿直をしたりすることの多い仙月にとって、苛立ちの原因ともなっている。弐娘は他の女性よりも身長は一つ抜きんでているだけに、余計に粗相も目立つのだ。
たった今も――よりによって武后の眼前で夜光杯を割ってしまい、周囲を慌てさせたところである。
「とんだ不調法を…どうも…申し訳ありませぬ…」
口のなかでもぐもぐと詫びを唱え、床に散らばった破片をのろい動きで拾い集める弐娘を目で追いながら、さすがに仙月も色を失った。
初夏の風爽やかな夜、殿の女主人がほろ酔い気分となっていただけに反動の怒りが恐ろしく、弐娘は冷宮送りとなって幽閉となるか、悪くすれば死か―。
しかし武后は特に関心を払った様子もなく、代わりの杯を持って来させただけであり、仙月も拍子抜けした。武后は個々の宮女について普段は目に入らぬかのように振る舞い、したがって好悪の情も見せたことがないが、仙月の眼には、武后は弐娘に対していささか甘いように映った。
「…不満かや?」
仙月の思いを見抜いたかのように、武后がくくくっと笑った。
「いえ!滅相もございませぬ」
仙月は慌てて打消して眼を逸らし、飾り棚に置かれている紫檀の阮咸を眺めた。武后の御物のなかでも仙月が特に気に入っているもので、こちらを向いている弦の面はいささか地味だが、裏には飾り紐を咥えて飛ぶ二羽の瑞鳥が螺鈿細工で描かれ、仙月は清掃のときはいつも、棚を拭くふりをしてそっと阮咸を裏返し、虹色の小宇宙を飽かず楽しむのであった。そして、時おり武后が気まぐれにつま弾く、さやけき音色を心待ちにするのだった。
いつか私もこの鳥達のように、天上の世界に遊ぶかのごとく、天下を飛び回ってみせる――。
「不満がないなどと、仙月は嘘をつくのが下手じゃな。気をつけるがよい。もしこの先、私を裏切るようなことがあれば、私に気取られぬようにせよ。のう、蓬莱宮の狐どの」
仙月は武后の言葉に驚き、床に膝をつき何度も頭を打ち付けた。
「恐れながら、狐と言われるのは心外にござります!私は、皇后様のご命令であれば泥水を這い回る狗にでもなりまする!」
「狐は嫌か、狗ならば良し――か」
狗の主人は、今度は呵々大笑して新しい杯に手を伸ばした。
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「…では、皇后様はまた御気色悪しくていらっしゃるの?原因は?」
仙月に問われた同輩の雪梅は、答える代わりに彼方のほうを扇で指した。
眼を向けた先には、黄色の袍を着た中年の男性と、桃色の裳と深紅の上着も鮮やかな若い女性が、柳の下で戯れているところだった。黄色の蝶が、桃色の牡丹の周りをひらひらと飛んでいるかのような眺めである。
前者は聖上、そして後者は武后の姪に当たる魏国夫人賀蘭氏であった。
武后の姉は韓国夫人といい、もとは賀蘭越石に嫁いで一男一女をなし、未亡人となったあと聖上の後宮に迎えられた女性である。
韓国夫人は今わの際に、決して自分の娘を後宮に納れてくれるなと聖上に頼んでいたが、聖上はその約束を反故にしてあっさりと娘を手に入れ、母親同様に寵愛しているというわけだった。
しかも賀蘭氏も賀蘭氏で、母親譲りの美貌と帝寵をかさに日を追って驕慢となり、叔母の武后何するものぞという勢いである。
賀蘭氏の嬌声が太掖池の蓮をなぎ倒し、水面を這ってこちらにも届く。仙月が眉をひそめて振り返ると、武后のおわす殿舎は全体がひっそりと静まり返っている。
「魏国夫人も少しはこちらに遠慮すべきでは?」
半ば上の空で雪梅の言葉に頷いた仙月は、大切なことを思い出した。
――そうだ、皇后様に茶菓を進める時刻だわ。
急ぎ足で女主人の居室に入ると、武后は眼をつむり、脇息に身をもたせかけていた。
「…仙月か」
物憂くこちらを見た武后は唇の端を上げた。彼女の手元には、錦にくるまれた包みがあった。
「先日、武惟良――我が従兄弟達が泰山封禅の帰途に入京した。食材などを幾たりか聖上に献じて参ったが、なかに極上の塩漬け肉があったので、賀蘭氏にも賜ろうかと思う。確かあれの好物だったはずゆえ……そなた、彼女のもとに使いとして行ってくれぬか?」
「かしこまりました」
一礼して、何気に武后の手を見た仙月はぞっとした。皇后の、脇息の縁をつかんだ右手の先が固くこわばり、血の色を失っている。追い打ちをかけるように、武后の低い声が仙月の耳朶を冷たくした。
「塩漬けは美味なものだが、食べ過ぎると身体に毒だ。……のう、そうは思わぬか?」
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三日後、賀蘭氏は急逝した。突然に口や鼻から血を吹き出し、もだえ苦しみながらの死であったという。
聖上の嘆きようは一方ならず、死因は毒殺説がささやかれ、また宮中の人間は誰もが指示した人物を正確に思い浮かべることができたが、むろん噂や憶測は速やかに葬られていった。
このように宮中が口をつぐんで平静を装ったのは、魏国夫人を毒殺したとして、罪をなすりつけられた武惟良ら武后の親族――実は、彼等は武后とは悪しき因縁があり、対立していた――が誅殺されたためであった。
「何をしているの?」
棘のある仙月の声に、相手が振り返った。
太掖池のほとり、貴婦人のごとくすらりと枝を伸ばした柳は、かつて聖上と、彼の愛した女人の語らいの場であり、その根元には桔梗の束が置かれていた。
問いに答えずうつむいたままの弐娘の脇を通り抜け、柳の根元まで来た仙月は、足を挙げて桔梗を踏み散らした。こんなもの、こんなもの……長いまつ毛に縁どられた彼女の眼は瞋りに燃え、口からはどす黒い血のような言葉がこぼれ出る。
「魏国夫人は、死んで当然だったのよ。聖上の御威光を盾に、皇后様をないがしろにして…」
弐娘は青みがかったその瞳に哀を宿らせて、同輩を見やった。そして、おそらくありったけの勇気を振り絞ったのだろう、彼女の口からもとぎれとぎれに言葉が転がり出る。
「…日輪の上を飛べるのは、告天子だけよ。天上の世界を飛べるのは、天上の鳥だけよ。他の鳥では墜落してしまうわ」
「何のことか、さっぱりわからないけど?」
馬鹿じゃないの――弐娘への憤怒が頂点に達した仙月は吐き捨てるように言い、相手を突き飛ばして背を向けた。
――皇后様のごとき鳳凰の翼には比べられぬけれども、所詮この宮中において、高く上がれぬ鳥は惨めに射落とされて死ぬだけよ。
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あの桔梗が散ってからどれだけの時が経ったのか、武后が皇族や臣下を粛清するたび、常に一人の宮女の影がちらついていた。
その女性は、ある時は肩で風を切って宮中を歩き回り、ある時は臣僚の邸宅に密使として乗り込み、またある時は下らぬ理由で宮女をきつく折檻した。彼女にはより上級である尚宮の位も用意されたが、本人は全く関心を示さなかった。ただの宮女のほうが、身軽に動けるのである。
宮中の誰もが彼女を畏怖、あるいは嫌悪の眼で眺めたが、ただ一人、弐娘だけは悲しげな視線を送っていた。仙月はそんな弐娘を無視していたが、実際、陰謀と闘争に明け暮れ、仕合う闘犬のように相手にかみつく日々を送っていた彼女にとって、冴えない一人の宮女のことなどどうでも良かったのである。
武后は、そんな仙月に褒美として少しずつ権限を与えていったが、それこそが狗に対する骨であり、また肉でもあった。
今も仙月は太掖池を望む回廊を足早に行き、宮女や宦官に囲まれながら次々と指示を出しているところだった。
「あら?…」
仙月は足を止めた。あの時と同じ嬌声、同じ光景を眼にしたのである。ただ、少しばかり絵面が違う。黄色の龍袍の男性は前の通り、しかし女性はむろん賀蘭氏ではない。水色の裳、藤色の上着、遠目にも領巾がひらり、ひらりと翻るのが見えた。――女性は後宮のいずれの御殿の女性なのか――よくよく目を凝らした仙月は声をあげた。
「仙花…」
自分と同じ白い肌、自分とよく似た大きな瞳、そして自分とは違う、花を置いたかのような頬。以前の賀蘭氏の場所に座っているのが、よりによって自分の姉だとは!
むろん仙花と仙月は宮中で何度も顔を合わせる機会はあったが、かたや才人かたや宮女の身分であり、特に仙花は仙月をことさらに無視した。しかしいま、彼女は目隠しをした聖上と手を打って互いに笑いながら、こちらに近づいてくる。
そして、陛下を引き離した仙花は妹に気が付くと、身にまとっていた領巾を池の水面に放り投げた。ふんわりと飛んだ布が岸辺の水面に落ち、蓮の葉にひっかかっている。
自分にまつわりついていた周囲の者を先に行かせ、嫌々ながらも拝礼した仙月に対し、仙花は蔑むような眼を向けた。
「――かたじけなくも陛下から賜った、西域からの羅が落ちてしまったわ。お前、拾ってくれないこと?」
仙月は眼を伏せたまま「はい」と答え、沓を脱いで池に脹脛まで浸かり、羅の領巾を拾い上げ、膝まづいて渡そうとした。だが、姉はそこでふん、と鼻を鳴らした。
「汚れてしまったのね、もういらないわ」
そしてくるりと背を向けると、まだ自分を探している陛下のところに戻っていった。仙月は領巾を握りしめた。ぼたぼたと滴った水が、磚の床にいくつも染みを作る。
そもそも、皇后の威勢をかりて裏から後宮を操る身となっても、宮中のほとんどの者が自分に賄賂を贈りへつらってくるのに、仙花は無礼なことに、金一銖、翡翠の指輪ひとつ寄越すでもない。
聖上が崔氏の位を上げ、貴妃となさるおつもりらしい――。
そんな噂を数日前に聞き、まさかあのお気弱な聖上が、皇后様の怒りを招くような大胆なことを……と打ち消しそうになった仙月は、あることを思い出して愕然とした。
――かつて聖上は、女道士として修行していた父帝の後宮の女性を、還俗させてご自分の後宮にお納れになったではないか。その御方こそ、我が主人、我が皇后様なのだから。もし聖上がこの度も大胆な一面をお出しになり、本当に仙花を貴妃となされば、当然のことながら皇后様のお怒りは天を衝くほどになり、私にも矛先が向けられるやもしれぬ。
賀蘭氏の哀れな末路――口と鼻から血を吹き出し、白目を剥いて悶絶したであろうかつての寵姫を想像すると、仙月はいてもたってもいられなくなり、脇の宮女からひったくるように菓子の盛られた銀の鉢を取り上げ、作り笑いをしながら武后の居室の敷居をまたいだ。
「皇后様、おひとつ甘いもので政務のお疲れをお癒しなさいませ」
武后は、ゆっくりと書机から顔をあげた。眦の切れ上がった両眼には、険しさが宿っている。
「そうじゃ。何しろ聖上から日々政務のご相談に預かって忙しく、池の様子を見る暇もろくになかったが――。そうそう、近頃、蝶はまとわりつく花を変えたようであるな」
女主人は、宮女のぴくつく肩先を見て表情を和らげた。
「いつぞや――狐と言われるのは心外だ、私のためであれば泥水を這い回る狗にもなってみせる、そなたは豪語したな?その言葉は偽りか?」
仙月は慌てて跪いた。
「いえ!偽りではありません。私はこの身が奈落の底に落ちようと、千本の槍で串刺しになろうと、皇后様の狗となって敵の肉を食いちぎり、骨をしゃぶり尽くしてご覧にいれましょう」
「そなたの望みを私が知らぬとでも思うか――私は初めて会うたとき、言ったはずだ」
「皇后様の知らぬことは、この宮城にはございませぬ」
武后は一笑して立ち上がり、若い宮女を見下ろした。
「私から聖上にお願いをして、そなたも妃に封じてとらそうか」
さすがの仙月もその言葉に全身が強張った。
「正直なことよの。だが、貴妃の座は、今のところは姉のもの。いくら私とてむやみに妃は増やせぬ。姉が生きているかぎり、そなたは永久に妃とはなれぬ。この道理は、わかるな……」
仙月ははじかれたように主人を見上げ、そしてゆっくりと口の端を釣り上げた。
「お心、つつしんで承りました――」
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丹の柱も鮮やかな高殿で、仙花は宝座にぬくぬくと納まり、宮女に王勃の詩を朗詠させ、自身は昼間だというのに酒肴に箸を伸ばしている。
床には、酒令で散々罰杯を飲まされた別の宮女が頬を染め、膝を崩してへたり込んでいた。
そこへ、宮女と宦官がどやどやと踏み込んできた。幾たりかは長槍や縄を携え、物騒ないでたちをしている。酔っているのは酒のせいか、それとも馥郁たる梅の香りのせいか、力なく誰何する仙花はとろんとした眼を上げた。
「無礼千万であろう、何事というのか」
しかし、酔いは次の瞬間に醒めた。
「…仙月、なぜ――」
人の群れの中央にいる妹は、いまは軽侮の眼差しをもって、身分が上の筈の姉を傲然と見下ろしていた。
「崔才人、全ては明らかになっております!先ほど皇后様の御膳に毒を持ったという女が捕縛され、取り調べの結果、崔才人の命により罪を犯した、と申しております。また宮外の、恐れ多くも皇后様を弑しまつらんとする官人どもと、あなた様が密かに通じているとも。さあ、才人にもご事情をお聞きせねばなりませぬゆえ、疾く席をお立ちくださいますよう」
驚愕に眼を見開いた仙花は、後苑の紅梅よりもなお顔を赤くした。
「いやしくも、聖上の寵愛を受ける私に対し、宮女ずれが何を申すか!聖上に…」
仙月は姉の繰り言をぴしゃりと遮った。
「これは皇后様の御命令です!」
仙花はわななきながら妹を見やった。彼女はすでに宦官達の手により宝座から引きずり降ろされ、宮女達の手により金の歩揺や翡翠の腕輪、上着や裳さえも引きはがされてしまった。みな恐るべき手際の良さであった。
「そなたは私を陥れ、殺すつもりか……それはまさしく皇后の意か」
妹は平然と姉を見返した。
「殺す?とんでもない。……もはや私が手を下さずともよいのです」
仙月はつかつかと空の宝座に歩み寄り、いとおしそうにその手すりを撫でた。
「皇后様は、謀反の企てに決して容赦することはありませぬ。かつて長孫無忌や上官儀らを破滅に追い込み、また返す刀で姪の賀蘭氏や、ご一族の武惟良をも葬り去った。大官や外戚といえども逃れられなかった運命を、たかだか一人の成り上がり者が、お目こぼしで救われることなどありましょうか?」
指一本動かすことなく、あなたがやすやすと手に入れたその地位を今度は私が手に入れる。わかりましたか?泥沼を這いずり回り、犬どもと互いに牙を立て、血を流してきた私が褒美の骨としていただくのですよ――。
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その夜、仙月は歩廊を逍遥しながら天空の半月を愛でていた。
連れ去られる姉の凄まじい絶叫が、まだ残滓となって鼓膜にこびりついている。
あのときは「してやったり」という高揚感しかなかったが、全てが終わった今となっては、何となくすっきりしない。元からさして仲が良くなかったとはいえ、とうとう血を分けた姉まで破滅の淵に追いやった後味の悪さは、どうにも拭えないのだ。
――しっかりしなさい。皇后様は、かつてご自分の幼い公主を手にかけ、その罪を王皇后になすりつけて追い落としたではないか。自分が姉一人で弱気になってどうするの。……そうだ、皇后様は今頃とうに、湯浴みもお食事も済まされているはず。すっかり遅くなったが、姉のことをご報告せねば、それもこれも、あんなことでくよくよと考えていたせいだ。
仙月は腹立たしくなり、足早に皇后の居殿に向かった。すると、廊の曲がり角で若い宦官に通行を止められてしまった。聞けば、武后が一刻前から厳重に人払いをしているという。
私を誰だと思っているの、緊急のご報告があるのよ――宦官を一蹴して通り抜けたものの、それでも気になった仙月は忍び足を使い、皇后の居室の前に来た。
室外から自分が来たことを知らせようとする直前になって、部屋のなかから声がする。武后のものだった。
――お願いします、私をお見捨てにならないでください。
仙月は耳を疑った。一体皇后様はどなたとお話しなさっているのだろう。このへりくだった様子だと、相手は聖上?しかし、それにしては様子が変だ。
また声が聞こえる。
――菩薩様、慈悲深い弥勒菩薩様。私は罪を犯しました。自分の娘を殺して王皇后を誣告し、処刑させてしまいました。蕭淑妃も私が惨いやり方で殺しました。長孫無忌、上官儀、武惟良……数多の人々を一族もろとも滅ぼしてしまいました。ああ、私は地獄に落ちるでしょうか。これからも、数多の人々を手にかけるのでしょうか…。
仙月はわずかに開いていた戸口の隙間から、そっと中を窺った。香でも焚いているのか、一瞬、鼻腔を刺激の強い匂いが満たし、しかしそれはすぐに夜風に流れて消えた。
むろん室内は薄暗いが、それでも皇后の居室は燭台がどの殿よりも多く据え付けられ、中で起こっていることは仙月の眼にもよく見えた。
武后は素服を身にまとい、誰かの前に平服していた。
その「誰か」も白い衣を身につけ、その布の襞が美しく裾まで流れている。髪を結い宝冠を被り、肩からは瓔珞がなまめかしく下がる。
武后は相手の衣の裾に縋り付き、しとどに泣きぬれ、しゃくりあげながら詫び言を延々と述べていた。
「誰か」を見定めようと、眼を細めた仙月は次の瞬間、声をあげそうになった。
――弐娘!
弥勒菩薩に扮しているのは、まぎれもなく仙月の同輩である。すらりと背が高く、右手に鞭、左手に水瓶を持ち、半眼で武后を見下ろしている。口はわずかに開き、恍惚の表情とも、哀れみを湛えた表情とも、跪く武后を嘲る表情とも取れた。
――ああ、弐娘。あの娘、私の娘がもし生きていれば、そなたときっと瓜二つであったろう。広い額、薄茶色の瞳、愛らしいその唇…。
じっと彫像のように動かなかった弐娘が、その時初めて動いた。右手の鞭をゆっくりと振り上げ、武后の肩口をぴしりと打ったのである。打たれた皇后は、耐えられずに泣き崩れた。
――私は自分の娘を愛していた!それに、姉を愛していた!だから、姉の娘も愛したかったのに!ああ、姉上、お許しください。私はあなたの娘までも…。
恐ろしいものを見てしまったように、仙月はそっと足音を忍ばせて戸口を離れた。音を立てずに一歩、また一歩…。心臓が早鐘を打ち、頭が混乱して何から考えたら良いのかもわからない。
――私の見たものは事実?それとも夢?
仙月はやっとのことで自室に辿り着くと、明かりもつけずに座り込み、闇のなかでいま見たものを反芻した。この天の下、何事も意のままに動かしてきたはずの皇后が、あれほど惨めに震え、少女のように縮こまって泣いているとは。
確かに武后は、「牝鶏ノ晨」とあるがごとく女子の政治関与を戒める孔孟の教えよりも、御仏のみ教えに心を砕き、寺院や御仏をまつるための儀礼に費えを惜しまなかった。
その御仏への傾倒を政治的な意図ととらえ、密かに眉をしかめる者もいたが、仙月は武后の傍らに侍してつぶさに見聞し、彼女の御仏への傾倒はただに我欲のみならず、真情から出づるものでもあることを知っていた。
だがそれにしても、先ほど見たあの光景は異常の一言に尽きた。
――そして、あれが事実なら、皇后様に対して私の「切り札」となるのだろうか?
しかし、仙月は一瞬わきあがった、その魅惑的だが恐ろしく、禍々しい考えを抑えつけた。万一、髪一筋ほどにもあの武后に対し脅迫めいたことを発すれば、一体どうなるか――。
「…まあ、いいわ」
自分を優しく包む暗闇に身を委ね、仙月はひとりごちた。
いずれにせよ、この度自分が立てた手柄は大きい。これで、宮外の反皇后派の勢力も打撃を受けるからだ。遠からず姉は死ぬであろうが、大義のためなら親子きょうだいの情も捨てる――「大義滅親」とはまさにこのことではないか?
――そう、主人を守ることこそが私の大義なのだから。皇后様も、姉に噛みつき致命傷を与えたこの小さな狗に、ささやかな褒美を下さるだろう。
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次の日、仙月は姉の一件につき経過を武后に報告した。武后は昨夜の乱心を全く身体にとどめず、いつものように冷静さを保っている。武后の宝座の背後には、これまた弐娘が慎ましく、香炉を手に侍立していた。
眼前の二人に対し、仙月は突然、えも言われぬ疎外感に襲われた。自分は最も近く武后に仕え、武后の眼となり耳となり、また武后の全てを知っていると思っていた。だが、事実はそうではなかった。
――「鳳」の字を分解すると、「凡鳥」になる。
よく知られた言葉遊びが、脳裏をよぎった。自分が「鳳凰」とも仰ぎ見る女主人と、もっぱら軽侮と苛立ちの対象にしてきた「凡鳥」たる女は、まるで共犯者の関係のように、秘密を共有している。
そして、宮女のなりをした忠犬は、内心に生じた焦りと嫉妬を消すため咳払いをすると、おもむろに切り出した。
「…どうか皇后様のお力をお借りいたしたく」
「望みは何じゃ?と聞くも愚かであろうな」
「この宮中において、皇后様のお望みが叶わぬことはございませぬ。無窮たる『弥勒菩薩様の御加護を賜った』御方ならば、私の望みなど哀れに思し召すほどささやかなものにございます」
一息に言ってのけた仙月は息を詰めたが、武后はほう、と眼を細めたきりだった。わずかな間、沈黙が主従の間に落ちる。仙月は、自分の仕掛けた「賭け」の結果をかたずをのんで待った。
「…よくもまあ、簡単に申すな。本当のところ、いかに私の力をもってしても、宮女が一足飛びに妃になることは容易いことではない。……が、約束は約束、聞き届けてやろう。姉の代わりに貴妃となれば満足かや?」
「恐縮の極みに存じます」
仙月は、娘達の栄達を望んでいた父と、おそらくは冷宮に送られたであろう姉の呆然とした顔を想像すると、笑みがとまらなかった。
「…では一度出宮して宅へ帰り、我が使者を待つが良い。必ずや果報となるであろうから」
「出宮できるのですか?」
それは思ってもみなかった命令であった。いちど入宮したからには自分は籠の鳥同然で、自邸に帰るなど夢のまた夢と思っていたのである。
「不満を申すか?」
「いいえ、聖恩に感謝いたします」
仙月は、心持ち拝礼の呼吸が速くなった。
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自邸に戻った仙月は何をするでもなく、ひたすら武后からの新たな命令を待った。蓬莱宮での緊張と退廃と享楽に比べれば、ここは涙が出るほど退屈だった。
仙花の一件で父母はやつれ、すっかり老け込んでいたが、まさか妹が姉を陥れた張本人だとは両親とも知らない。しかも、仙花が栄耀の座から転落してその後の消息もわからぬというのに、父親はもう一人の娘に望みをかけ、武后の「配慮」に期待をつないでいた。
だが新緑の季節になっても音沙汰がなく、さすがに仙月も焦りを覚え始めたころ、やっと宮中からの使者が麗々しい行列を組み、崔の門前に到着した。
「太常卿崔子温のむすめ仙月、聖上の厚恩により貴妃に封じ、冊と宝、そして礼服を賜う。また別して、忝くも皇后様より下賜品がある。謹んで受けよ。なお、入宮の期日は追って知らせる」
自邸の正堂で南面した使者を前に、官服に威儀を正した父に合わせ、仙月はこれ以上ないほどの優雅さで拝礼する。
ついで、赤漆で塗られた貴妃の冊と宝璽の盆、同じく平たい礼服の箱と、つぎに一尺四方になる、黒漆で塗られた皇后下賜の箱が仙月の手から傍らの侍女に渡り、それぞれ脇の書案の上に落ち着いた。後者の箱は、見た目の割にずっしりと重かった。
箱の蓋には、向かい合わせになった螺鈿の鳥が、飾り紐を咥えている。あの阮咸と全く同じ、仙月の気に入りの紋様である。彼女は天にも昇る心地となった。
――ああ、皇后様は、やはり私のことをよくご存じでいらっしゃる。
虹色に輝く鳥たちはまるで、御仏のおわす極楽の讃頌を歌っているかのようだった。
使者達が父に導かれて退出するのを見送り、彼等が廊の向こうに消えるのも待つのももどかしく、彼女は書案に駆け寄った。まず礼服の箱を検分し、満足の吐息を漏らした。
さらなる期待に胸を膨らませ、黒い箱の蓋を取りその中を覗き込む。そして――。
魂を凍らせる悲鳴が崔家を揺るがした。
異変を知り表門からとって返した子温が正堂に入ると、部屋の隅で震えている侍女と、書案の脚のもとでうずくまる仙月がいた。娘の瞳孔は限界まで開き、口元を両手で覆っている。かつて宮中の栄華と暗黒を映したその両眼、いまはただ狂気のみを映す。
父親は見た。黒塗りの箱より、同じく黒いものの束があふれ出ているのを。彼は娘と同じようにして覗き込んだ。そしてまた、恐ろしい悲鳴が崔家に響き渡る。
箱からあふれ出しているのは豊かな毛髪、箱のなかに収まっているのは塩漬けの首――かつて子温が盲目的に愛した、そして仙月が憎み蔑んだ、もうひとりの娘の双瞳、鼻筋、唇。そのすべてが一尺四方の空間に収まっていた。
大唐は長安の月輪の下、さる高官の邸宅の門前には、血と臭気のこびりついた黒塗りの箱が放り出されていた。邸内の惨劇をよそにみて、螺鈿の鳥は無音の歌を囀っている。
〈 了 〉
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。