リフレイン
コウちゃんへ
私が転校してからもう二ヶ月になるね。私はとても元気です、新しい学校にも慣れ始めたよ!私は大丈夫だから心配しないでね。
今度の夏休みに家族みんなで畠中町に戻ります!コウちゃんに会いに行くよ!待っててねー!それじゃあちゃんとお返事ください。
橘 陽菜乃より
※
橘陽菜乃は僕の幼馴染みだ。僕は陽菜乃のことをヒナと呼び、陽菜乃は僕のことをコウちゃんと呼んでいた。親同士も仲が良くよく一緒に遊びに行ったりしたものだ。
陽菜乃は小学五年生の時に親の転勤で転校してしまった。僕に知らされたのは陽菜乃が転校する一週間前で唐突に聞かされたその話に驚きを隠せなかった。
驚き目を見開く僕を見て陽菜乃はゲラゲラと笑う。陽菜乃の様子はいつもと変わらなかった。
「コウちゃん変な顔~面白い」
僕は何故陽菜乃がこんなにもいつも通りなのか理解できなかった。だって僕は驚きで声も出せないほどなのに。
驚きの後で僕にやって来たのは仲の良い幼馴染みが遠くに行ってしまうことへの寂しさだった。
まだゲラゲラと笑っている陽菜乃に対して怒りも湧いてくる。歯が軋む音がした。
「そりゃ驚くよ、どうしてもっと早くに言ってくれなかったんだよ!」
僕の出した大声に陽菜乃はびくりと肩を震わせる、今度は陽菜乃が目を見開く番だった。目を見開いた後で陽菜乃は俯く、そんな陽菜乃を見ていると罪悪感が押し寄せてくる。
きっと陽菜乃は隠していたわけではないのだ、ただ言いづらかったのではないだろうか。
陽菜乃は顔を俯けたまま絞り出すように「ごめんね」と言った。陽菜乃の悲しさが痛いほど伝わる言葉だった。
「僕の方こそ……大声出してごめん」
「ううん、コウちゃんは悪くない」
「えっと、どこに行くんだ?」
「隣の県」
「そっか……」
当時の僕は自分の住んでいる町が世界の全てのように思っていたので陽菜乃が遥か遠くの国に行ってしまうような気になっていた。
「コウちゃんと離れたくない」
震える声で陽菜乃が呟く、小さな拳も震えていた。
陽菜乃が顔を上げる、大粒の涙が頬を伝っては地面に落ちていった。太陽の光が反射して陽菜乃の涙は輝く宝石のようだった。
僕は陽菜乃が泣いたことにただ狼狽えていた。涙を止める方法など知りはしない。
だから自分なりに考えた言葉を陽菜乃に伝えた。
「僕もヒナと離れなくない、ずっと友達でいたい。だから手紙を書くよ」
「……本当?」
僕の一言でようやく陽菜乃の涙は途切れる。僕は力強く頷いた。
「約束するよ」
「絶対だよ、破ったら針千本飲ましに行くから」
「破らないから」
陽菜乃は僕の言葉を聞いて安心したのかすぐに笑顔になった。
陽菜乃が笑うだけで周りが輝くような気がする。
そうして一週間後陽菜乃は僕の前から去って行った。約束通りすぐに陽菜乃から手紙が送られていて文通が始まった。しばらくは続いていたけれどそれは突然終わりを告げる、陽菜乃から返事がこなくなったのだ。
そして夏休みになっても陽菜乃は僕の前に現れなかった。
それから季節は巡り、僕たちは高校生になった。
僕が通うことになった高校は良くもなくかといって悪くもないいたって普通の高校だった。僕の出身の中学校から進学した人も多く、周りを見渡せば知っている顔が多く見られた。
入学式が終わり、最初のホームルームも終わった僕は中学の頃からの友達である唐沢伊織を待っていた。彼のクラスのホームルームはどうやら長引いているらしい。まだ唐沢がやって来る気配はない。
何とはなしに周りを見る。見知った顔もいれば知らない顔もいる。中学の時よりも生徒数はかなり多い。
新入生は皆これからの高校生活に胸を踊らせていることだろう。そんな会話が時々耳に入ってくる。
そんな中で聞き覚えのある声が聞こえた。僕にとっては久しぶりに聞く声、絶対に聞き間違えることのない声だ。
「……ヒナ?」
確かに陽菜乃の声が聞こえた。
僕は辺りに陽菜乃の姿がないかを見渡す、その場も離れて人混みを探し歩いた。
そしてついに僕は陽菜乃を見つけた。
陽菜乃は全く変わっていなかった、髪型も顔もあの日のままだった。ただ身長は伸びているし、少しだけ表情も大人っぽくなっている。
しかし陽菜乃は僕に気づくことなく素通りしていってしまった。
「ヒナ」
「え?」
陽菜乃がこちらを振り替える。やはり間違いなくそこにいるのは陽菜乃だった。
「久しぶりだな、元気だったか?」
陽菜乃は訝しげに僕を見ていた。もしかして僕のことを忘れてしまったのだろうか。
「どうかした?」
「あの、ごめんなさい。どちら様ですか?」
僕は耳を疑った。陽菜乃の言った言葉を間違いだと思いたかった。
「急いでるので、それじゃあ……」
陽菜乃は小走りにその場を去っていく。僕は何も言えず追いかけることもできずにただその後ろ姿を見ていた。
全身が凍りついたかのように動けなかった。
高校になって再会した陽菜乃は僕のことを覚えていなかった。
その事実は鉛のように重くのし掛かる。その後僕は待ち合わせをしていた唐沢との約束を破り一人で帰った。校内に咲き誇る桜も見ずにただ下を向いて歩いた、たぶん今いる新入生の中で一番暗いのは僕だろう。
誰もいない家に帰ると僕は自室で制服のままベッドにダイブした。制服がシワになってしまうがかまわなかった。
四年という歳月は幼馴染みの顔を見ても思い出せないほど長い時間だとは思えない。そう考えると陽菜乃なりの冗談だったのかもしれないとも思えたが陽菜乃はそんなたちの悪い冗談を言うやつではないことは知っている。では、僕の勘違いで他人の空似だったのだろうか。しかし、彼女はヒナという僕の呼び掛けに振り向いてくれた。
思考の渦に巻き込まれてしまった僕はぐるぐる考え続けた、その結果僕はあれは間違いなく陽菜乃であるという結論を出した。
しかし何故僕のことを覚えていないかは分からなかった。
翌日学校へ行くと僕の靴箱の前に唐沢が仁王立ちしていた。
「おはよう、唐沢」
「おお、おはようさん光一くん。昨日はどうして俺を置いて帰っちゃったのかなあ?」
「ちょっと用事があってな、悪かった」
「あっそう、まあいいけどさ」
昨日の入学式について話ながら教室へと向かっている途中「あの!」と言う声がした。
振り返るとそこには陽菜乃がいた。眉をハの字に下げて怖々と僕の方を見ている、何だか怯える小動物を目の当たりにしているようだ。
「昨日はごめんなさい、えっと私の知り合いでしょうか?」
「……僕のこと覚えてない?」
「……はい、ごめんなさい」
ああ、やっぱり。覚悟はしていたもののその事実はやはり受け入れがたい。僕と陽菜乃の会話に何かを察した唐沢は黙ってこの場を去っていった。ありがたいような居てほしかってような。
気まずい沈黙が流れる。沈黙を切り出したのは僕の方だった。
「えっと、ヒナ……じゃなくて橘さん」
「はい、なんでしょうか!」
陽菜乃の使う敬語が何だか面白く感じる反面寂しい。それを悟られないように僕は笑った、笑う僕を不思議そうに陽菜乃は見ている。
「何かおかしなこと言ったでしょうか?」
「ううん。敬語じゃなくていいから、同い年だし」
「そう?じゃあそうさせてもらうね!」
性格は変わっていないようだった。それは嬉しく思う。
「自己紹介したほうがいい?」
「してもらえたらありがたいな」
「片山光一、よろしくね」
陽菜乃は僕の名前を聞いてしばらく黙っていた、しかしすぐに笑顔に戻って「光一くん」と言った。
「光一くんか……じゃあコウちゃんだね!」
「……うん」
人懐っこさも変わっていない、すぐに友達になれるところもあだ名を付けるところも。
ただ僕を忘れていると言うだけで陽菜乃は何も変わっていない。
あまり良い反応をしていなかった僕を見て陽菜乃は心配そうに「やっぱり嫌?」と聞いてくる。僕は首を横に降る、嫌ではない、むしろよそよそしく名字などで呼ばれるよりは遥かにましだった。
「ぜんぜん、じゃあ僕もヒナって呼んでもいい?」
「もちろん!中学校の時もそう呼ばれてたし」
「そっか」
話している途中にチャイムが鳴った。
「もう行かなくちゃ、じゃあまたねコウちゃん」
「うん」
取り合えず分かったことは今の陽菜乃は僕とは初対面であること、そして昔と性格は変わらないことくらいだった。
何故、僕のことを忘れてしまっているのか。このときの僕は陽菜乃のことを何も知らなかったのだ。
昼休みに弁当を持った唐沢が僕のクラスにやって来た。唐沢はやはり今朝の出来事について聞いてきた。
「あの子と知り合いだったのか?」
「知り合いというか……幼馴染みだった、小五の時に転校したけど」
「で、忘れられちゃったわけか」
「そういうこと」
「でも、小五の時の幼馴染みを普通忘れるか?顔を見ても思い出してくれてないんだろ?」
「うん」
「……何かおかしくないか?」
「お前もそう思うよな」
そうなのだ。唐沢の言う通り普通だったらいくら忘れていても顔を見たり名前を聞けば思い出すはずだ。しかし陽菜乃はそれでも僕のことを思い出さなかった。
何かがおかしい、そうは思うけれどもなかなか本人に尋ねる勇気はない。
「勇気出して聞いてみろよ」
「その方がいいのかな?」
「いいに決まってるだろ、さっさと聞けよ」
「そうする」
「おう」
話が終わると僕も唐沢も弁当を食べ始めた。今日は放課後唐沢と部活動見学に行く予定だった。中学の時は僕らは二人ともテニス部に入っていたが高校に入ったら違う部活をしたいと考えていた。
何部に行くか話していると不意に肩を叩かれた。
「片山くん」
「どうした、中原」
肩を叩いたのは中原恵、僕と同じ小学校出身の女子だった。中原はなぜか暗い表情で俯きがちに「ちょっと今話いいかな?」と言った。
「いいけど、どうかしたのか?」
「あのさ、この高校に陽菜乃がいるの知ってた?」
「ああ」
「話した?」
「うん」
「……おかしくなかった?」
嫌な予感がした。恐る恐る中原に訊ねる。
「もしかして、中原も覚えられてなかった?」
こくりと中原は頷く。
やはり、僕の予感は当たってしまった。
「どうしてのかな、陽菜乃……何でなんだろう」
「今から聞いてくる」
「え?」
「どうせ聞くなら今からでもいい、いってくる」
僕は陽菜乃のいる三組に向かった。中原が何度も僕の名前を呼んでいたけれど気に止めなかった。
威勢よく出ていったはいいものの足取りは重くなかなか三組の教室へと足を踏み入れられなかった。近くにいる人に陽菜乃を呼んでもらった。
「あれ、コウちゃん何か用事?」
「ああ、ちょっと話があってな。今大丈夫か?」
「うん」
僕は人通りの少ない屋上へと続く階段へと陽菜乃を連れだって歩いた。陽菜乃も僕も何も言わず黙々と歩いた。
長らく使われていない屋上へと続く階段は埃っぽくて電気も点いていないため薄暗かった。
「あのさ、ヒナ……」
「コウちゃんの言いたいこと何となく分かるよ」
陽菜乃から笑顔が消えた。笑顔どころか一切の表情が消え失せた。
そしてまた昨日の様に言った。
「ごめんね、私……」
陽菜乃はじっと僕を見据えたまま口を開く。聞きたくなかったが耳を塞ぐことはできなかった。
「私、昔の記憶がないの」
告げられた言葉は心のどこかで予想していたものだった。
「私は中学生より前の記憶が全くないの。原因は事故で頭を強く打ったからってお医者さんは言ってた。家族でドライブの途中に……お父さんとお母さんは死んじゃった、けど私お父さんのこともお母さんのことも何も覚えてなかったから涙も出てこなかった。お医者さんは時が経てば記憶も戻るかもしれないって言ってたけど今のところ戻る気配はないの」
陽菜乃の母と父が死んだ。家族ぐるみで仲が良かったので陽菜乃の父と母ともよく会って話をした。優しい人たちだった、そんな二人が死んでいた。陽菜乃という一人娘を残して。
「だから、ごめんなさい。コウちゃんの知ってるヒナは私の中にはいないの」
「そうだったのか……」
陽菜乃は淡々と事実を語った。それはとても身近な人に対して起こった出来事のはずなのに僕にはどこか遠くで起きた出来事のように現実味を持っていなかった、テレビの中のニュースを聞いているかのように。
僕はこれからどういう風に陽菜乃と向き合えばいいのだろうか。
僕は思った。過去の陽菜乃のことは忘れた方がいいと、そして今の陽菜乃と向き合うべきだと。
「ヒナ、僕は過去の陽菜乃を忘れるよ」
「うん」
「今のヒナと友達になりたい」
そう伝えると陽菜乃は目を丸くした後、笑った。心から安心したように、そしてあの日約束を交わした時と同じ笑顔を見せた。
「もう一度、友達になってくれないか」
「うん!」
そう、僕らはもう一度最初からやり直すのだ。