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生物の授業が終わった。
今日は植物の細胞を顕微鏡で見た。
あと単細胞生物。
終わった後のシャーレとかプレパラートやらを分解して洗うのは日直の仕事だ。
で、今日の日直である私はシャーレをざくざく洗っている。
丁寧にやれ?
私に繊細さを求めてはいけない。
これでも、丁寧にやってるつもりなんだよお。
「洗い終わったら、準備室に運んでくださいね」
生物の教科担当の和泉雅先生が、顕微鏡を手に私に声をかけた。
和泉先生はほっそり優しげ、ある意味お姉さん的存在で男女共に人気がある。
男の人なんだけどね。
ほっそりったって痩せてるわけじゃない。
物腰が柔らかくて、おっとりしてるから、細いってイメージがあるんだと思う。
きっと、着痩せするタイプなんだろうなあ。
でもって、その雰囲気を後押しする、柔らかそうなちょっと癖のある水色の髪。
水色の髪!
よく考えたら、現実的じゃないよね。普通ならおかしいよね。びっくりだよね。
でも、不思議なことに、違和感、ないんだなあ。
火村先輩の紅い髪も、五十嵐先輩の藍色の髪も、全然全く違和感なし!
だから、和泉先生も、どんと来い。
ん?
使い方、違うか。
大体、水の守護者だもん。
水色の髪もある意味デフォだよね。
そう。
守護者には教師もいる。
メインは生徒なのだけど、そう毎年都合よく、生徒に守護者を揃えられるとは限らない。
生徒に守護を託せない場合を考慮して、サブと言う形で教師の中に守護者がいるわけね。
勿論、和泉先生は白月学園のOBだ。
何年か前は、和泉先生が学園を守って来たんだよね。
おっと、回想終了。
「はい」
シャーレを布巾替わりのタオルで拭いて、まとめて手に持って準備室に向かう。
棚にシャーレを置いて振り返ると、水槽が目に入った。
「?」
何も入ってないのかと思ったら、底の方に白い物体。
「カエル?」
白いカエルが沈んでいる。
オモチャなんだろうか。
先刻からぴくりとも動かないんだけど。
「どうかしましたか?」
準備室から出ていかない私を訝しく思ってか、和泉先生が様子を見に来る。
「これは本物ですか?」
「本物ですよ」
本物なんだ…
さっぱり動かないけど。
「ひっくり返ってますけど、生きてるんですか?」
水槽の側面を、指先でコツコツと叩いてみたけど動かない。
本当に生きてるの?
「ちゃんと生きてます。ちなみにひっくり返ってはいませんよ」
「え? これ背中ですか? 背中がちゃんと上向いているんですか?」
まじまじとカエルを見るのだけど、全身が白いので、非常に分かりにくい。
ああ、カエルのお腹は白いから、その印象だけで、白い背中をお腹だと認識したのか。
和泉先生が水槽を指で一度こつりと叩いたら、水面に小さな波紋ができた。
その波紋を感じてか、カエルがぴくりと動いた。
おー、やっぱり生きてるんだ。
尚も、カエルを凝視していたらようやく目がどこにあるのか判った。
目は上部にあるから、確かにこのカエルはひっくり返ってはいない。
「面白いですね」
「明宮さんは、カエルは嫌いではないのですね」
「特に好きでもありませんが、嫌いと言うほどでもありません」
小学生の頃、近所の男子たちとカエル捕まえに行ったなあ。
夏の風物詩だよね。
あと、セミ投げ。
木にとまっているセミを捕まえて容赦なくぶん投げて、どこまで飛ぶかを競争した。途中でセミが気がついて、自力で逃げ出した瞬間が計測地点。
はっきり言って、区別なんてほとんど解らないから、結局は自己申告で揉めに揉めると言う。
実にくだらないことをやっていた。
懐かしい。
一応、カエル投げはやらなかったよ。
うん、多分ね。
あ、やったかなあ? ちょっと記憶が曖昧。
「大抵の女性はカエルが嫌いだと思ってました」
「…普通はそうかもしれませんね…私は危害が加えられない限り、大丈夫です」
「ふふ…勇ましいですね」
「カエルですから」
毒ガエルでもない限り、怖くもなんともない。むしろ、黒光りするアレの方がよほど怖いよ。
アレが出たら、さすがに悲鳴をあげるよ。
でもって、全力で逃げるよ。
間近でカエルを見ようと、水槽の乗っている棚に右手を置いた瞬間、指先にちくりとした痛みを感じた。
「っ!」
咄嗟に右手を引く。
見ると、人差し指にガラス片が刺さっていた。
薄くて小さなガラス片…カバーガラスだ。
これ、薄いから識別しにくいんだよね。
誰、こんなところに、割れたガラス置いたの。
とりあえず、ガラス片を取ると、血がみるみる滲み出てきた。
絆創膏は…持ってないから…何で血を止めよう?
手っ取り早く、セロテープか…
セロテープはどこだろう?
探していると、
「見せてください」
和泉先生に右手を引かれる。先生は絆創膏を持ってるのかなと思い、されるがままに任せたら。
「!」
いいい、今、指先にキスされた!
マジ?
なんで?
どうして?
パニクってるうちに、右手が解放された。
慌てて、指先を見ると。
血が止まってる…それどころか傷口が消えている。
凄い!
水の守護者!
治癒の力が使えるんだあ。
なんて、便利。
そこまで考えて、はたと気づく。
え、これからどうしたらいい訳?
守護者のこと、私は知らないはずなんだよね。
凄いとか、感心してる場合じゃない。
場合じゃないけど、どんな反応返せばいいんだろう…
途方に暮れた私は思わず口走った。
「……和泉先生は…超能力が使えるんですか?」
うあ、超能力だって。
今、私、しょーもないこと言っちゃったよ。
言うに事欠いて、超能力!
ほかにないのか!
自分で言っておいて、アワアワする私に、和泉先生は一瞬きょとんとした後、柔らかく微笑んだ。
「そうですね…そう言うことにしておきましょうか…他の方には内緒ですよ」
乗っかってきたよ、この人。
いいけど。
ここで、守護者とは、なんて説明されるよりよほど助かります。
「解りました。今日のことはソッコー忘れます」
私も流れに乗っかった。そうするしかなかった。
「それでは失礼します」
「片付けありがとうございました」
頭を下げて、私は生物準備室から速やかなる撤退を図った。
やっぱりここは、三十六計逃げるっきゃない。
退避!
和泉先生はヤバい。
そんな気がする。
そもそも、和泉先生は学生の時に大切な人を失って、それから人と深く拘わることができなくなった。
柔らかい物腰は、和泉先生なりの人を寄せ付けないためのバリアだ。
一定以上、誰も自分の内には踏み込ませない。
だから、ヒロインは和泉先生の中にまずは一歩踏み込むことから始める。
その一歩が、結構大変なはずなんだけど。
なんかさっきは、距離なかったような?
解らない。
和泉先生が解らない〜。
私はプチパニックを起こしたまま、ひたすら教室を目指した。