止まった町と止まった想い
『処刑人部』と《鳥頭獣型悪魔》が対面し、彼らは戦いを挑むも、返り討ちにあってしまいます。しかし晶は絶対に奴を倒すと決意を固めます。そして晶と杏樹は互いに寂しい過去を持っていて、相手と自分を重ねて――。
日曜日。『処刑人部』のメンバーは学園の近所の公園へとやってきた。目的は、依頼人、樹川杏樹の話を訊き、現場の調査などを行うためだ。
「皆さん、あたしなんかのために有難うございます。何か出来ることがあればなんなりと言ってください」
少々控えめな態度をとる杏樹だが、何処か心の枷が外れたような顔をしている。それだけ安心しているのだろう。
「じゃあ、まずは最初にその超常現象を見たという場所に連れて行ってくださいまし。現場に行けば、案外簡単に情報は手に入るものですわ」
乃述加が部を代表して言う。
これが、晶にとって『処刑人』としての初めての仕事だった。
だが、隣に居た那雫夜が相変わらずあまり感情の籠っていない声で耳打ちしてきた。
「今回の相手である《鳥頭獣型悪魔》は、かつてあの最強の『処刑人』である『処刑人二号』が手を焼いたという強力な《悪魔》なのん。もしも死にそうになったら、貴方は逃げても構わないわん」
「そうもいきませんよ。僕は皆さんのように格好よくなりたいんです。こんなもので逃げてなんかいられません」
すると、那雫夜の口調が少しだけ重みを増した。
「馬鹿? 格好いいの云々じゃないのねん! そんな自ら命を絶とうなんて感じの台詞吐いたらわたしが貴方をぶっ殺すわよん」
顔を見ると、表情も強ばっている。それほどの存在なのだろうか《鳥頭獣型悪魔》とは。
杏樹の方は、今は利里と乃述加が話を訊いている。彼女の表情も、明るいような暗いような、複雑だった。
「あたしもネットで都市伝説を捜してみたんですけど、そのアクマって奴についてはどうやってもヒットしないんです。貴女方のことは何とか探し当てたんですけど――」
「そう。じゃあ、その《悪魔》について、何か他に特徴はありませんでしたか? 体色だとか、体にある刺青みたいな模様とか」
「あ、そう言えばありました」
「本当なのネ⁉」
「は、はい……。一つだけですが、思い出したことが――」
「早く! 早く教えてなのネ!」
杏樹の言葉に利里が異常なくらいの勢いで食らいつく。
「鳥の頭に、獣の体で、人間の輪郭って感じなんですけど。背中に羽があったんですよ。でも、あるのは右翼だけで左翼があるだろう場所には何だか傷みたいなのが――」
「それこそ、奴が地獄から舞い戻って来た証拠ネ」
うんうん、と利里が数回頷く。やはり相手が相手なのだろう。既に処刑されたはずの《悪魔》。その存在が彼女にとってどのような者なのか、晶は知らなかったが、何か普段の彼女とは違った雰囲気を感じる。
だが、那雫夜は。
「怪しいわねん……」
「え? 何がですか?」
「あの杏樹って娘、情景をはっきりと捉えすぎている」
「別にそんなこと、よく相手を観察すれば分かることじゃ?」
「馬鹿なのん、晶? 彼女はその時自分の身の回りで起きていることが夢か現か分からない状態だったはずねん。もし仮にそれが現実だと受け止めることが出来たとしても、そんなに別世界の怪物を観察するなんてこと出来るはずがないのねん」
……。そう言われてみればそうだ。晶だって最初から利里達『処刑人部』を受け入れた訳ではない。最初は現実を拒絶した。こんなことがあるわけないと思った。だが、衝きつけられた現実に心を惹かれて、自身もこの世界の住人になる決心をしたのだ。
そんな唐突に起きた出来事を全て鵜呑みにして夢現を理解できる、そんな杏樹はすごかった。というよりも異常だった。
「杏樹さんは後からネットで都市伝説を調べて『処刑人』のことを知ったはずなのに、既にその時《鳥頭獣型悪魔》の存在を事実だと判断出来ていた――? そんなに簡単に受け入れられるものでしょうか?」
「普通に生きてきた人間には、まず無理だわん」
那雫夜はそう断言した。
「彼女はおそらく、まだ何か隠している。わたし達にそれを伝えないでいる? 何故、何のために?」
「わざわざ難しく考えないでください。まずは杏樹さんを信じましょうよ」
「それもそうねん……。でもねぇ」
晶の言葉に、那雫夜は唇を噛んで難しい顔をする。だがやがて、彼女も考えるのが面倒になったようだ。すぐに表情を緩めた。
「分かったわん。でも晶、危険になってきたらすぐに逃げるのよん」
「はい。分かってますよ」
二人の話が終わったところで、利里と乃述加も話を訊き終えたようだ。
「これから皆さんでその現場を見に行きましょう。そこで、引き続き調査を行いましょう」
乃述加の言葉に、全員がこくりと頷く。
歩き出した『処刑人部』の後ろ。最後尾を付いて行った杏樹は、ひっそりと呟いた。
「ふん。お人好しも、過ぎればただの馬鹿に成りうるものじゃの」
☥☥☥
「ここで、間違いありませんわね?」
「はい。この大通りで――あそこの交差点です」
一行は、問題の通りにやって来た。
場所は扇ノ宮中央駅の前にある大通り。日曜日なので、何処を見ても人ばかりだった。
「こんなに賑やかな場所で、突然全ての音が止んだ……。そんなことあり得るの?」
利里が顎に手を当てて独り言を言う。
だが、そこは確かに人で溢れかえっていて、三百六十度全方向から何らかの話し声が聞こえてくる。これら全てが一斉に消えるなんて、信じられない。
「でも、本当なんです! 信じてくれませんか……?」
杏樹が半分涙目になって訴えかけてくる。
「誰も嘘だとは言ってないのネ。でも、そんなことが本当にありうるのかなぁ、と思って」
うーん、と全員が頭を抱えて俯く。
「とりあえず、皆さんで話し合ってみましょう」
そう、乃述加の言葉を合図に、全員が顔を見合わせた。
すると――次の瞬間。
………………………―――――――――。
辺りの音が、止んだ。否、消えた。今まで音を発生させていた人間や車、それら事態が消え去っていた。
「なに、これ? わたし達以外のモノが、全てなくなっている?」
「どうやら、そうらしいのネ」
驚いて、碌な反応もすることが出来ない。だが、刹那。
ブワァッ。と、擬音がしそうな動作で何者かが近くに降り立った。
それは人間の輪郭をもっていた。
それは猛禽類のような頭をしていた。
それの背には、傷だらけの右翼が付いていた。
「貴様らは、『処刑人』の連中か?」
それは『処刑人』という語を知っていた。
「――ッ! グリ・・・フォ、ン」
利里の反応は明らかだった。奥歯をぎりぎりと噛み締め、前歯を軽く剥いて威嚇する。
「グリフォン―――――――――ッ!!!!!!!!」
ついに件の《悪魔》、《鳥頭獣型悪魔》はその姿を現した。
☥☥☥
「穢れし魂を撲滅せよ! 清き世界への介入を許さん! 『処刑人五号』の名において、貴様に死刑を執行する!」
ダッ! と地面を蹴って利里は《鳥頭獣型悪魔》に向かって行った。彼女の身体を白い光が包み込む。
わずか五秒ほどで、彼女の姿は神々しい女騎士になっていた。
「うっ、ああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「如何かしたのか、か弱い人間の小娘よ」
刹那、《鳥頭獣型悪魔》が大きく右腕を振るった。
すると、轟! と音が響き、空気を振動させる。その攻撃の波動は晶達の所までやってきた。
ビリビリッ、と嫌な感覚が体中を襲う。
だが、彼らはまだいい方だ。攻撃を間近で受けた利里は――。
「この程度か、小娘」
全身が煤を被っているように黒く汚れ、その色白の肢体を穢している。彼女はあの攻撃に耐えきれなかったのか、《鳥頭獣型悪魔》の数メートル前の地点で地面に転がっていた。
「――ッ! こんな、ところで・・・・・・」
「ふん、無様だな。人間とは、これほどに弱き生き物だったか?」
その言葉に、利里の堪忍袋は爆発した。
「だっまれェェェェェェ! 誰があんたなんかに、やられるもんですかぁぁぁぁ!」
彼女は頼りない足取りをしながら立ち上がり、再び《鳥頭獣型悪魔》へ向かって行く。だが、その行為は無駄だった。やはり敵いはしない。獅子に勝負を挑む猫。今の利里と《鳥頭獣型悪魔》はそのような関係にあった。
利里は細剣を振って立ち向かっていく。だが《鳥頭獣型悪魔》にはあっさりと躱されその切っ先は虚しくヒュウ、と空を切った。
「くっそ! 避けんな」
「馬鹿か貴様は。攻撃を自ら受けるような輩がいるとでも思っていたのか?」
今度は《鳥頭獣型悪魔》の攻撃だった。その逞しい腕の先端に長く伸びている爪を振う。辛うじて利里はそれを躱すが、少しだけ当たったのだろう。左の頬がスパッと切れた。攻撃はまだやまない。両腕を大きく振り回して相手を殺そうと仕掛けてくる。
「愚かな人の子よ。身の程知らずにも限度というものが存在しようが」
そう言うと《鳥頭獣型悪魔》は、利里の鳩尾の辺りに拳を叩き込んだ。
「――グッ、ハッッッ……?」
口内にどろっとした鉄の味が広がった。
何が起きたのか分からない、そんな顔を彼女はしていた。実際、晶達もそうだった。『処刑人
五号』の名を持つ者が、ここまで簡単に敗北するとは思ってもみなかった。
ドボォッと、彼女の口内に溜まったそれが流れ出た。内臓にまで深刻なダメージを受けたらしい。
それに一番反応したのは、乃述加だった。
「那奈夜、晶さん。杏樹さんを守ってあげてください。あたくしは、今から少々暴れ回りますので」
次の瞬間だった。
「嘆きし者に慈悲の心を! 全ての生命に平等に愛を! 『処刑人三号』の名において、貴様に死刑を執行する!」
乃述加の首の辺りから光がこぼれる。おそらく、そこに『執行十字』があるのだろう。彼女の光の色は、深い海のような、藍色だった。その眩い閃光が彼女の体を包み込み、その姿を変えてゆく。
「『執行』完了――! 『処刑人三号=傭兵戦士』!」
幼い風貌に似合わない、迷彩色の戦闘服。黒いバンダナ。そして背中にある一メートル程のバズーカ砲。傭兵そのものの姿だった。
明らかに体が重くなっているはずなのに、乃述加は揺らぎもしない。大地に両足を強く踏みしめて、仁王立ちする。
「利里から離れなさい! この《悪魔》!」
そう言って彼女は、腰の辺りから何かを抜いた。黒光りする、三十センチ弱の大きさの物体。それは――ハンドガンだった。
カチャリ、カチャリ、と音がする。後ろからなので晶には分からなかったが、如何やら弾丸をつめているようだった。
「早くそこから離れなければ、あたくしは貴方の頭をこれで打ち抜きます」
装填が終わったのか、ハンドガンの銃口を《鳥頭獣型悪魔》へ向ける。
だが、そんなことをしても彼は余裕げな雰囲気だった。
「ほう、貴様は少しは出来そうか? 久々にこっちへ出て来たんだ。もっともっと楽しませてくれよ?」
「ふざけていられるのも、今の内ですわ!」
ダダン、バン、ガンキンダンドンビュン!!!
一瞬にして銃のなかにつまっている弾丸を放った。重々しい音が鳴り響く。火薬のにおいも空気に混じり、流れ出していく。
さらに加えて、背負っているバズーカ砲までも取り出した。先端には既に直径二十センチぐらいはある砲弾がセットされている。
そして乃述加は、それを撃った。
「死っっっっっっっねぇぇぇぇぇ!」
ここまですれば確実に相手を倒せると、彼女は思ったのだろう。
しかし、神はここで物語を完結させてくれるほど、優しくはなかった。
「この程度か。期待した私が馬鹿だった」
《鳥頭獣型悪魔》は、まだそこに居た。あれほどの攻撃を食らっても、全く苦い表情を浮かべない。それほどの相手だったのだ、あの《悪魔》は。
「貴様、『処刑人三号』とか言っていたな。それにこの小娘も。『五号』だったか? 五本の指に入る実力のはずの貴様らがこの程度とはな。つまらないにも程がある」
そう儚げに呟いたかと思うと、突如として勢いよく地面と平行に雨が降ってきた。否、雨ではない。 《鳥頭獣型悪魔》がその右翼を広げてそこについている羽を弾丸のように発射しているのだった。
「キャアアアアアアアア!!!」
その攻撃をまともに受け、乃述加の小さな体は地面へと転がった。装甲が破れ、傷を負って血が流れる。
その存在に、晶はゾッとした。以前の戦いではあれ程圧倒的な強さで敵を倒した利里が、こうもあっさり地面に伏してしまうとは。さらにその上の強さを持つ乃述加の攻撃が、微塵も効いていないとは。
「不味いわん、晶。杏樹さんを連れて逃げるのよ!」
「でも、千瀧先輩!」
「伊達に二人とも戦ってきたわけではないわん! あの程度じゃあ死なない、それより、今はわたしが貴方達を守らなくちゃ――」
那雫夜が晶と杏樹の手を引いて逃げようとする。だが、その行為は失敗に終わった。
「次は、私が挨拶する番であるか?」
《鳥頭獣型悪魔》の無慈悲な声が、背後から聞こえてきた。ぞっとして三人は足が止まってしまった。声だけでも恐怖心が体を満たしてくるような相手だ。実際に奴が暴れまわったらどうなるのだろう?
答えは――簡単だった。
―――――――――――――――――――――――!!!!!!!!!
音として表現できない力が、辺りを吹き飛ばした。
例えるなら、そう。核兵器だ。奴は生きている殺戮兵器だった。
地面に敷かれているアスファルトも捲り返り、ビルも崩壊している。
ここにいた五人全員が、その力に吹き飛ばされて地面に転がっている。
「なんなのねん、この力は。生物の出せるエネルギーの限界を超えているわん……」
息も絶え絶えに那雫夜が言う。
それは確かなことだった。これほどの破壊力が街を歩き回っていては、一つの県が崩壊する。周りに居る人々は全て死んでしまう。
…………ん? 何かおかしい。と、晶は思った。
何故死人が出ていない? それ以前に、何故街に人が居ないのだ?
まるで命も音も、全て居なくなってしまったような、ただその場所を写真に収めてその中に自分が入り込んでしまったような、摩訶不思議な場所に彼らは居るのだ。
「ここは――、一体何処なんです……?」
独り言のつもりで、晶は呟いた。
するとその言葉に、
「ここは《魔道世界》。我ら《悪魔》と呼ばれる者どもが住まう、我らだけの世界よ」
返事を返す者が居た。
その声の主は言うまでもない――、《鳥頭獣型悪魔》だった。
「《魔道世界》――?」
「その通り。ここは貴様らが住まう《人道世界》と並行に位置する世界である」
平行に位置する、世界? 俗に言う平行世界なるものだろうか。
分からないが、何か危険な響きを持ったものだということは何となく掴める。
「世界はこの二つ以外にも、神々が住まう《神道世界》と天使どもが居る《天道世界》と、四つ存在しておる。これらは本来ならば決して交わることはない。だが一部、例外がある」
「例外、ですか?」
平行世界に介入できる、例外。それは一体何なのか。
「それは私や貴様らのように特別な力を持った者だ」
特別な力、とは? 晶には既に聞き返す気力も残っていなかった。意識が朦朧とし始める。
半分夢の中に居るような感覚で、晶は彼の話を訊いていた。
「そう。人間で他の世界に介入が出来るのは、『処刑人』のみだ。それに関しては例外はない。確か、今は、十八人、だったか? と……ず、き……五人は、しょ……」
途中からは、全く聞こえなくなった。
意識が途絶えたのだ。
次に目覚めたときは、全員病院のベッドの上だった。
☥☥☥
時計を見ると、時刻は深夜の一時だった。病室のカーテンの隙間から、淡い月明かりが零れている。
上半身を起こして、辺りの様子を確認する。周りのベッドには、利里、乃述加、那雫夜の三人が居た。三人ともスースーと吐息を立て眠っているようだ。
「皆……、無事だったんですね」
だが晶は、そこまで呟いてハッと気付いた。
杏樹が居ない。
改めて病室の中を見渡したが、その姿は確認出来なかった。
「杏樹さん? 杏樹さん!」
今いる場所が病院だということも忘れて、晶は声を張り上げた。
すると――、
「どうかしたかえ?」
すぐ近くで、声が聞こえた。すぐにその音源の方向へと視線を移動させる。すると、晶のベッドの傍ら、椅子に座って船を漕いでいる杏樹が居た。
「良かった。怪我はなかったんですね」
話し掛けると少しは目が覚めたのか、しっかりとした答えが返って来た。
「ええ。でも、あたしを庇った那雫夜さんが……」
そう言って彼女の視線は那雫夜に向けられた。シーツで隠れていて分からないが、体には傷があるのだろう。
こんな時に、何も出来ずにただ足を引っ張っている自分が恨めしかった。少しでも早く、力が欲しい。そう思った。誰も傷つかなくて済むような力が。
そんな気持ちを薄っすらと察したのか、杏樹が声を掛けてきた。
「大丈夫かや? 表情がかなり深刻ですけど、傷とか痛みます?」
そんな彼女の問いかけに、晶は取って付けたような弱々しい笑顔で答えた。
「大丈夫です。傷とか、そういう問題ではありませんよ……」
最後の方を濁したのだが、そこから彼女は何かを感じ取ったようだ。
「もっと深い、心、魂の問題かえ?」
その言葉に、晶は驚いた。あっさりと悩みを見破られてしまい、思わず目が泳ぐ。
「それは身体の傷よりも深刻じゃぞ? 汝の心が痛めば、他の者等もそれを気に掛けて心を痛めるやもしれん。心の傷は他者に伝染するモノなのじゃぞ?」
「杏樹さん……」
凄く深い、難しい話を聞かされたようで、いまいち頭が働かない。
だが晶には、一つ気になることがあった。
「その喋り方、何なんですか?」
「!」
言ってみると、彼女は慌てて両手で口を押えた。
「い、いやあのその! 違うんですこれはその、あれですよ。この間読んだ小説のキャラクターがこんな台詞を言っていたので、それを真似して言ってみただけですよ!」
下手な誤魔化し方だった。
そのようなものではないことは、何となくは分かった。
「まあ、口調については別に良いですけど……。今はそれより皆のことですね」
改めて、病室を見渡す。部屋の間取り的には、入口があって、最初にあるのは晶のベッド。そしてその左隣では、那雫夜が寝ている。晶の向かいには乃述加が、その隣に利里が。といった感じの構図だった。
そこで新たに、頭に疑問が浮かんだ。
「一体誰が、僕たちを病院に連れてきてくれたのでしょうか。杏樹さん、知っています?」
すると、その返答は簡単なことが返って来た。
「あ、あたしが救急車呼びました」
「そうでしたか。有難うございます」
ぺこり、と頭を下げる。彼女は命の恩人なのだろう。彼女なしであの場所へ行っていたら、今頃誰にも気付かれずに死んで行っていたかもしれない。本当に――感謝だ。
「お医者さんが言うには、三人は、命に別状はないそうです」
だが突然、不穏な言葉が杏樹の口から流れ出た。
「三人――だけ?」
「ええ。肉体的に一番ダメージの大きかった利里さんは、助かる確率は三十%くらいだって」
「そんな…………」
さらに不幸な話は続けられる。
「さらに、もしも体の方が回復したとしても、恐怖で精神的ダメージもかなり受けているようだから、人間社会に復帰出来るかは分からないそうだって」
晶は言葉を失った。
利里が死ぬかもしれない? そんなことがあってたまるのだろうか? 何故彼女があそこまで《鳥頭獣型悪魔》を憎んでいたかは分からないが、何か理由があったのだろう。
だが、今まで追ってきた相手に返り討ちにされ、さらには生死の境を漂うようなこと、あってはならない。
「僕、やってみせます」
「? 何を?」
「《鳥頭獣型悪魔》の処刑です」
「なっ何を馬鹿なことを! 見たじゃない、あの化け物を! もう止めてよ、貴方達がこんなことになったのはあたしのせいでもあるけど、でも自ら死地に向かうような言い方は止めて下さい!」
ガタン、と椅子を倒して、彼女は立ち上がった。必死に訴えて来るその口が震え、ガタガタと歯が音をたてる。
彼女も怖かったのだろう。当然だ、あのような化け物は本来人間の生活の中に踏み込んで来てはいけない、と晶は思う。
だが、仲間を傷付けられて黙ってもいられない。
誰かが行動しなければならないのだ。
「百波先輩があれだけ必死になっていたんです。僕だって『処刑人』になったんです。誰かを助けたい、傷付いてほしくない、泣いてほしくないって思うのは間違っていないと思います!」
すると、隣の方から声が聞こえた。
「戯言も大概にするのねん。『十八号』の最弱が、馬鹿な台詞を言うんじゃねえのよん」
「千瀧先輩……」
声のした方を向くと、隣のベッドから上半身を起こしている那雫夜が居た。
「一年生の甘ちゃんが格好つけてんじゃないのん。ここまで来てはもう無理ねん。『五号』の利里や『三号』の先生ですら這い蹲ってしまうほどの強敵なのよん? それを『十一号』のわたし
や『十八号』のアンタが如何にか出来ると思う? 犬死にするだけよん」
「――。でも……」
「でも、じゃない!」
そこで珍しく、那雫夜が声を張り上げた。
「はっきり言うとわたしだって怖いのよ! あんな怪物と戦うのなんて。それ以上に、アンタがアレに殺されちゃうのがもっと怖いのよ!」
「先輩……」
彼女の目には、薄っすらと涙が浮かんでいる。晶はそれに心を打たれた。那雫夜の想いの重さが、心に打撃を与えたのだ。
「わたしだって思うわ。如何したら誰も傷付かなくて良いんだろう、皆仲良くやっていくには如何すれば良いんだろう、ってねん」
その通りだ、と晶は思う。誰かに傷付いてほしい、嘆いてほしいなどと思う人間はまずいないだろう。
でも、力が無ければ何も出来ない。
「わたし達は『処刑人』の中では落ちこぼれの部類なのよ。本当の強者は一桁の番号を名乗る者だけ。遠く高い、手の届かない場所に居るのよ、彼らは。わたしにはあんな化け物を倒す力はない。強者の利里や先生をこんな風にする相手に立ち向かったって、無駄なのよん」
那彼女も、全く同じようなことを考えていたのだ。
彼女はキッと唇を噛み、そこから真紅の液体が流れ出す。
だが晶は、そんな言葉で丸め込まれるほど賢くはなかった。
「だったら、次にあいつに会うまでに、今よりもっと強くなればいいじゃないですか。こんなところで諦めていたら、何も出来ませんよ」
「そう言われても、簡単なことじゃないのん。わたしは、アンタみたいに強い心を持ってはいない。弱虫泣き虫塵虫の三段活用なのねん……。せめて、あの伝説の『処刑人二号』がいてくれたらなぁ」
「『処刑人二号』って、昔《鳥頭獣型悪魔》を倒したっていう人ですか?」
「ええ。何処にいるのか全く分からない謎の存在だけどねん」
その時だった。
晶はふと、耳鳴りに似た症状を覚えた。
驚いて、咄嗟に両耳を手で押さえる。だが、謎の音は止んでくれない。それどころか、さらにはっきりしたノイズが、直接頭の中に流れ込んでくるようだった。
「うっ、うぇぇ?」
「如何かしたかや、晶?」
「何があったのん?」
杏樹と那雫夜が口々に言うが、そんなものは聞こえない。
代わりに誰か、男の声が聞こえた。
『これは、ロシュフォール。お前には見せたくはなかったのだがな、私の「仕事」については』
「ロシュ、フォール?」
幻聴の中で聞こえてきた言葉を反芻する。不思議と、懐かしい響きがした。
「僕は、何を見たのですか?」
徐々に意識が遠のく。ああ、また自分は眠るのか。せめて夢の中では、素敵な光景を目にしたい。そう思った。
だが、最後にこの一言は言っておかなければならない気がした。
「父……さん……――」
月明かりが、僅かに室内を照らしている。
☥☥☥
朝の陽ざしの眩しさに、目を覚ました。
閉まっていたカーテンは誰かが開けたようで、そこから日の光が室内に流れ込んでくる。
「お目覚めになりましたか?」
不意に晶は誰かに声を掛けられた。
そちらを見てみると、そこには既に普段着(Tシャツにミニスカ)に着替えた乃述加が居た。
彼女は特に弱っている素振りを見せず、ベッドに腰掛け読書なんかしている。
「先生、身体の方は大丈夫なんですか?」
「大丈夫よん。これでも、二十九歳。身体は貴方方より丈夫に出来ているつもりですわ」
こんな華奢な身体で言われても。見た目は幼女なのに実年齢は三十路よりわずか前だなんて、いまいち実感が湧かない。
「先生。下手な嘘は止めて下さいねん」
すると今度は横から、那雫夜が割って入って来た。
「身体が丈夫なのではなくて貴女の武器が凄かったのでしょう?」
「ばれたか。まあ、そういうことですわ」
「……? どういうことです?」
突然そんな風に言われても、よく意味が分からない
「先生の『執行』時の衣装は防弾性とかで、衝撃を受けてもあまり使用者の方にはダメージが通らないような作りになっているのねん。だからここまで元気な訳」
「貴女だって。傷の割には元気いっぱいですわね」
乃述加がやや皮肉っぽく言う。何故だろうか。
「でも利里の方は本格的にやばそうですのん。この際です、晶に打ち明けてみては如何ですか?」
「そうですわね……。本人に聞かないで話すのもなんですけど、やはり教えておくべきですわね」
「何のことですか?」
尋ねると、乃述加はやや躊躇っているような表情をして言った。
「利里の、生い立ちについてですわ」
「先輩の、生い立ち――?」
コクリ、と彼女は頷く。
「ええ、あまり無暗に語って良いような内容ではないのですが、同じ『処刑人部』の貴方には知っておいて欲しいのですわ」
そこまで前置きして、彼女は語り出した。
「利里は十年前――、六歳の時に両親を失いましたわ。世間的には事故として処理されているけれど、実際は違う。あの娘の両親は《悪魔》に殺害されましたの」
「《悪魔》に――?」
「ええ。その《悪魔》こそ、あの《鳥頭獣型悪魔》。奴に復讐することが、彼女の祈願なのですわ」
「それで先輩は《鳥頭獣型悪魔》を――。そうして、どうなったのですか?」
「後に《鳥頭獣型悪魔》は、『処刑人二号』に『処刑』されたと聞きましたわ。ですが今回の事件で、奴がまだ生きていることが分かった。それで利里は暴走し、このような事態になってしまったのですわ――」
そう寂しそうに呟くと、彼女は視線を隣のベッドに向ける。そこには、未だに眠ったままである百波利里が居た。
その顔は綺麗ではあるが、白くなっており、まるで死に化粧をした屍体のようだった。
「まだ動けるわね、那雫夜、晶さん。今度こそ、あたくし達があいつを『処刑』するのですわ」
「ちょっ、先生。正気の沙汰ですか⁉ あのような化け物に今立ち向かっても無意味です、犬死にするだけですよ!」
彼女の言葉に、那雫夜は反論した。
「『三号』の名を持つ先生ですらこのザマです。わたし達だけで戦えるはずがありません。それに、晶はまだ『執行』することすら不可能なんです、実質二人で立ち向かうことになるのねん!」
「それでも――倒さなければならない敵、ということですわ」
乃述加は静かに、重い声のトーンで言った。
「今までも奴には何人もの人間が殺害されているのですわ。今回は我々が謎の空間へ入り込んで戦っていたおかげで被害はありませんでしたが、今後は如何なるか分かりません。早く処刑しなければ、さらに犠牲者が生まれるかもしれないのですわ」
その言葉の一ヶ所に晶は反応した。
「先生――《魔道世界》って分かります?」
「マドウセカイ? 何のことなのん?」
「……、少しだけ、耳にしたことがありますわ」
乃述加は頷いて、薄っすらと記憶にあるものを引き出しながら言った。
「《魔道世界》は、《悪魔》の連中が住まう世界と聞きましたわ。本来そこには我々人間は干渉不可能で、ですが例外的に世界を渡れる存在と言うのが『処刑人』らしいのですわ。このことは、詳しくは巫狐に聞いた方が良いのではないかしら? 彼女は現在は『裏世界の情報屋』として名を轟かせていますわ。多分そういう情報も持っていますよ」
そんなに――凄い人物なのだろうか、巫狐は。晶は彼女の恍けているようなところしか見たことがないので、いまいち乃述加の言うものとはイメージが離れている。
「兎に角――、今は回復に専念するのねん。早く退院して、実戦に備えましょう」
先程まで反発的だった那雫夜も諦めたのか、考えを改めたのか、そんな意見を述べて来た。
晶と乃述加は同時に、うん、と頷き、ベッドに潜り込んだ。
☥☥☥
それから約一週間。
三人は退院した。利里は峠は越えたようだが――まだ意識が戻らない。そのため、一度三人で行動することになった。
「あ、皆さん。お久しぶりです」
病院の正面玄関を出ると、そこには私服のワンピース姿の杏樹が居た。如何やら彼女は今日三人が退院すると聞きつけて、やって来たらしい。
「杏樹さん、来てくれたんですか。ありがとうございます」
ぺこり、と晶は頭を下げる。
「いえいえ、あたしは何も出来なかったので、せめてお迎えぐらいはと……」
そう言って彼女は、フフ、と笑った。それにつられて晶も笑う。
「杏樹さん。あたくし達が入院している間には、何か変わったことはありませんでしたか?」
「はい。特に大丈夫ですよ」
乃述加問い掛け、その返答に安心したようだった。
「それでは皆さん。一度学校へ、部室へ行きましょう。そこで、再び今後の相談をしますわ」
「了解よん」
「分かりました」
二人が返事をして、全員が歩き出そうとした、その時だった。
「駄目ですよ、百波さん! 貴女は今歩ける、それ以前に起き上れるような状態じゃないんです! 早く病室に戻ってください!」
何やら不穏な香りのする言葉が、玄関の方から聞こえてきた。
背筋に鳥肌が立つのを感じながら、振り向くと、そこには何処から持ってきたのか――障害者用の杖を突きながらよろよろと歩いてくる利里の姿と、それを制止する看護婦だった。
「煩いのネ……」
利里が誰にも聞き取れないような小声で言った。
「私はこんなところで寝てる訳にはいかない。――早く、早くあいつを処刑しないと……」
そんな光景を見て、最初に行動したのは那雫夜だった。
彼女は走って玄関のところへ向かい、声を張り上げた。
「利里、あんたはまだ来なくてもいいのねん。大丈夫、全部わたし達が終わらせる。約束するのん」
「煩い――、《鳥頭獣型悪魔》は私が処刑する。アンタ達は引っ込んでるのネ」
すると那雫夜は、諦めたように溜息を吐いた。そして――、
「だったら無理矢理眠らせるしかないわねん」
ズドム! と、利里の鳩尾にボディブロウをねじ込んだ。
「――――――ッ……!」
驚いたように顔を上げ、そのまま失神した。
「⁉ 千瀧先輩! 何をしているんですか!」
晶は彼女の行動に、怒りを覚えた。
「あんなぼろぼろの百波先輩をぶん殴るだなんて! これで症状が悪化したら如何するつもりなんですか!」
「こうでもしなければ、利里はわたし達に付いて来て、あの塵屑みたいな身体で戦おうとするわん。仕方ないけれど、こうしか出来なかったのよ……」
そう言って那雫夜は、悔しそうに唇を噛み締める。彼女も、不本意だったのだろう。親友を殴り、失神させ、目的を奪うことは。
本当ならば、利里には彼女自身の力で《鳥頭獣型悪魔》を倒してほしかったのだろう。だが、今の利里には何も出来ない。だから――強引にでも彼女を眠らせた。その身を守るために。
「悪いわねん、利里……」
数名の看護師に運ばれて、再び病室へと向かう利里の背中を見送りながら、那雫夜は言った。
「……。皆さん。利里のためにも、この戦い負けられませんわ」
乃述加の言葉に、三人は力強く頷いた――。
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場所は、扇ノ宮高校へと移動した。
半地下にある部室である。
教室内に並んでいる机を寝台のようにして、横になっている那雫夜。
教卓の回転椅子に腰かけ、何やらパソコンで調べ物をしている乃述加。
そして、教室の端の方――居場所がないかのように突っ立っている晶と杏樹。
これが、現在の部室内の様子だった。
「うーん。特に謎の生物の目撃情報などの掲示板やスレはありませんわね――。はあ、手掛かり全くゼロですわ」
「……まずは十分な睡眠をとって、それから戦いに備えるのん――」
「…………僕達は、何をしたらよいでしょうか?」
恐る恐る、晶は尋ねてみたが、返事がない。二人とも自身の作業(那雫夜のは作業ではないと思うが)に熱中して、聞こえていないようだ。
これではまるで、自分が必要とされていないのでは? と思い、少し胸が苦しくなった。自分は、ただ足を引っ張って、彼女達の仕事を遅れさせているだけではないのだろうか?
考えていると、つぅと、頬に雫が伝っていった。
すると――その手を、横からとってくれる人が居た。
「大丈夫だよ。皆、そんな風には考えていない。今は、自分の出来ることをやるべきなんだよ――」
少し驚いて、そちらを見ると、穏やかな顔をした杏樹がこちらを見ていた。
彼女の曙色の髪が風もない室内なのに、さらさらと揺れたような気がした。
「うん。ありがとうございます。二回目ですね、杏樹さんに励まされるの」
「礼など、別にいいぞえ。妾も独りは怖いのでな。せめて誰かと話し合っていたいのじゃ」
そこまで言うと、うっ、と彼女は口を噤んだ。
「すまぬのぅ、今日はこれで引き取らせてもらうぞや!」
「えっ、ちょっ、杏樹さーん?」
慌てて引き留めようとしたが、彼女は電光石火の動きで廊下を駆け抜けて行ってしまった。
「ど、如何しましょう……」
そう言った瞬間だった。
「晶、彼女の言う通りよん」
目を瞑っていた那雫夜が、パチリと目を開け、上体を起こしながら言ってきた。
「今何が出来るか、それを考えるだけで人は強くなれるものよん。――なんだからしくないこと語っちゃったわん」
すると、また睡眠に戻った。
だが、晶の顔つきは先程までとは変わっていた。
「分かりました――。僕、何か行動してみます」
そう宣言すると、彼は部室の扉を開いて、歩き出した。
その後ろ姿を見ていた乃述加は、綺麗な微笑みを浮かべて呟いた。
「生徒も、じっくりと成長してくれていますわね。教師として、これほど嬉しいことはありませんわね」
外から他の部活動の生徒の声が聞こえてくる中、彼女は独り、作業に打ち込み始めた。
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数日後。晶はしばらく部室には通っていなかった。早く家に帰って、ネットで調べ物をしたり、巫狐の手を借りて情報を収集したりと、自分なりに動いてみた。
「(まだ全然手掛かりになるようなものは発見出来ませんね……。今日は、町で聞き込みでもしてみましょうか――)」
ぼぅっと考え事をしていると、突然晶は怒鳴りつけられた。
「おい、凍野! てめぇの番だ、早くしやがれ!」
「は、はい! 今やります!」
驚いて咄嗟に反応する。相手は、一年生の体育の授業を担当している、金守という教師だ。晶はこの頃授業もそっちのけで考え事をしていることが多かった。しかも今は体育の授業。下手に考え事をしていると、この鬼教師に目を付けられてしまう。
「さっさとしろ!」
「は、はい!」
返事をして、校庭に描かれている白線の横を走り出す。今日の授業は体力づくりの基礎練らしく、クラス全員で長距離走をやらされている。皆この授業が嫌いなのだろう。あまり気合が入っていない。
「はあ、はあはあはあはあはあ………………」
始めてから百メートル程の地点で、早くも息が切れてきた。他の皆は、嫌々だがしっかり走れていて凄いなぁ、我ながら情けないなぁ、と思う。
こんなでは目を付けられてしまうかも――。
「何だぁ、そのヘボい走りは!」
案の定、怒鳴りつけられた。
「なってねぇぞ、凍野! そんなんじゃあいつまで経っても先輩には追いつけねぇぞ! それどころか、下の学年の奴にも差をつけられちまうぞ!」
ひー、と涙目になりながらも走る。先輩に追い付けないって、あの人達の運動神経とかは常人離れしすぎなんですよぉ。そう言いたかったが、言ったら余計面倒臭くなりそうなので止めておいた。
結局、他の生徒が走り終えても、晶は一人だけ完走しきれずに居残りさせられた。
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「まさか、こんな身近におろうとはの。灯台下暗しとはこのことかえ?」
扇ノ宮高校の屋上。そこからグラウンドを見下ろしている少女が一人いた。
時刻はもう下校時刻を過ぎており、日が傾き始めていた。
彼女の特徴は、まずこの夕日の中でも輝く、血色をした長い髪だった。他にも、獲物を見つけた肉食獣のような獰猛な目つき。首にかけてある、真紅の石の嵌められた十字架。そこに存在しているだけで周りに恐怖を与えられそうな雰囲気をしていた。
「我が師の仇。もう討てる準備は出来ておる。残るは――」
彼女はそこまで言って、あることに気が付いた。グラウンドで一人の少年が走っている。彼女が今まで注目していた人物はまた別の人物だった。だが、今意識はそちらの少年に向いている。
「やはりあの男子――。似ておるな」
その瞳に、一瞬だが人間味が現れた。
「フン。まあよい。じゃが、やはり気になるな――。あちらで、探ってみるかの?」
少女は扉を開き、校舎内に入る階段を下りて行く。そして、少年に接触するために、彼が帰るのを待っていた。
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「ううううう……。脚が、もうフラフラです……」
疲れた、しんどい、もう嫌だ。その三段活用だった。棒になったどころか、もうないんじゃないかと疑うくらい力の入らない脚を引きずって、晶は学校の正門を出た。放課後も居残りで走らされていたので、時刻は既に下校時間の五時を三十分ほど過ぎていた。学校に居残っているのはもう部活動のある生徒だけであろう。
当然、都合よく一緒に走らされていて残っていた生徒は居ないので、晶は独りで家に帰ろうとした。
すると歩く道の先――見覚えのある後ろ姿を見つけた。
夕日と同じような色をした、赤毛の少女。間違いなく彼女だろう、と思って話し掛けた。
「こんにちは、杏樹さん」
「わ、吃驚した。こんにちは晶くん」
やはり人違いではなかったようで、相手は樹川杏樹だった。
「杏樹さん。帰りが遅いようですけど、如何かしたんですか?」
「い、いや。ちょっと、ワークの提出が間に合いそうになくてね。今日中に出すために頑張って、この時間になっちゃった」
そう言って彼女は、照れくさそうに微笑んで、舌をペロっと出してみせた。
なんだかその可愛らしい仕草に、ちょっとドキドキしてしまう。
「晶くんは如何かしたの? こんな遅くまで」
「僕は、体育の居残りで。はは、疲れて、脚が動かないくらいですよ」
「そうなんだ。でも、しっかり動いているじゃん」
「はは、そうですね」
茜に照らされながら、二人で住宅街を歩いて行く。
すると突然、空に黒雲が現れた。間もなく、ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。
「わぁっ、どうしましょう。僕、傘なんて持ってきてません!」
「あたしの家、すぐ近くだから、少し寄っていく? 傘ぐらいなら貸せるけど――」
「有難うございます! お言葉に甘えさせて頂きますね」
そうして二人は、雨の中を五分ほど走り、彼女の自宅に着いた。
家の中に入った途端、晶の脚はぶっ壊れて倒れ伏した。
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ずぶ濡れになったため、タオルを借りて体を拭く。
杏樹の方はブレザーを脱いで、それを干しているのだが、ワイシャツだけになると何処かいやらしい雰囲気が漂っていた。雨のせいで思いっきり透けている。
「有難うございます。僕の家、まだ十分くらいかかるので助かりました」
「なに、別に良い。妾もどうせ一人暮らしじゃ。たまには客人を招くのもよいと思うてな」
また彼女の話し方がおかしくなっていた。いい加減に気になるので、尋ねてみる。
「杏樹さん。なんで貴女そんな喋り方するんですか?」
「うっ。それは――まあ、一種の病のようなものかの?」
「病気――ですか?」
「う、うむ。そうじゃ」
彼女こそ、本物の厨二病患者なのかなぁ、と晶は考えた。
「昔からの、この喋り方なのでな。学校では薄気味悪がられて友人の一人もおらんのだったのでな。妾と普通に話してくれる者など、汝等が初めてじゃ……」
「そうだったんですか――。杏樹さん、そのことをご両親は如何思われていたんですか?」
晶の何気ない質問に、杏樹の表情は一気に暗くなった。
「両親は――おぬのじゃ」
「……え? 貴女も――?」
「妾は捨て子での。拾われ、とある施設で育ったのじゃ。まさか汝もそうなのかや?」
「はい。僕も両親とはほとんど面識がなくて。一応、姉代わりのお手伝いさんが家には居ますけど」
「そうか。汝は愛されておるのじゃな。じゃが、妾には今は誰もおらぬよ」
「そんな――杏樹さん……」
彼女の話を聞いた晶は、可哀そうだと思う反面、何処かほっとしていた。自分と似たような境遇にある人がいて安心したのだ。彼の父親は十年前に他界しており、母親も海外で仕事をしているのでほとんど会えずじまい。正直二人の顔など憶えてはいない。幼少期から自分を育ててくれたのは、姉代わりの巫狐だった。
だが、自分には『家族』と呼べる人がいた。しかし、彼女はほとんど愛情を受けずに育ってきたらしい。
そんなことを考えて、ふと杏樹の方を見ると、彼女の目には涙が浮かんでいた。
「妾は辛いのじゃ、苦しいのじゃ。誰も妾のことを支えてはくれぬ。誰も寄り添ってくれぬのが怖いのじゃ。今日まで独りで生きてきたが、心の闇が自分を覆い尽くしそうで怖い。以前汝に偉そうに語っておったが、もしかしたらあれは自分自身に語りかけていたのかもしれぬな――」
「……杏樹さん」
すると晶は、ひし……、と杏樹を抱きしめた。
「っ? 何をするのじゃ?」
「辛いんだったら、立ち止まっても良いんじゃないですか? 苦しくなったら、深呼吸してまた満たされれば良いんじゃないですか? 誰も強制しませんよ」
抱きしめる強さをさらに強めて、晶は続けた。
「僕には何も出来ないかもしれません。でも、傍で見ていてあげることは出来ます。何も出来ないけど――傍に居ますよ」
ポロリ、と杏樹の目尻から涙が流れる。綺麗な、澄んだ色の液体が、彼女の頬を濡らしていく。
「そうであるか――。では、妾に何かあったら、汝が止めてくりゃえ。頼んだぞえ……」
「はい。約束します。僕が貴女を、助けてあげますよ」
この時交わした約束が――後に巨大な災禍を撒き散らすとは、二人は微塵も考えていなかった。
閲覧ありがとうございました。
次回は晶とその父親、さらには『処刑人』と《悪魔》の関係が書かれる予定です。
ラストまでもう少し、よろしくお願いします