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燦光伝  作者: sanpo
9/63

*8

     


「何てこった! 首はダメだとしても、虜囚として、と思ったのに……!」

 髭の将は声を荒らげて吠え立てること頻り。

 沙海は、湖族連衡(こぞくれんこう)遠征軍陣内。その幕舎の一つ。

「わかってますよ! あなたがやったんだ!」

 この幕舎の主、湖鬼神は涼しい顔で(うそぶ)いた。

「俺は知らん。勝手に逃げたんだろ? となれば、それは見張りの責任だ」

「またあんなことを。しらばっくれてもダメです。そもそも、その見張りをあれほど見事に失神させたのはあなた以外の誰でもない!」

 後ろに見張りの兵も証人として引き連れて来ている。しかし、湖鬼神は一向に取り合わなかった。

「失神させるのに個性が出るのか? 馬鹿馬鹿しい……」

 ここで幕舎入口の堅帳が揺れて、入って来たのは甲冑姿も美々しい姫将軍。今回の遠征軍総隊長・玄頻迦(げんびんか)その人である。

「入るぞ、湖鬼神。……何の騒ぎだ?」

 美髯の側将・鵬は飛び上がって喜んだ。

「これは良い所へ、頻迦の君! あなた様の未来のご夫君を叱ってやってください!」

 先刻までの余裕は何処へやら、一転して憮然とした顔になる湖鬼神だった。片や、姫将軍は仄かに頬を紅潮させて、

「湖鬼神が、また何か悪さをしたのか?」

「よくぞ聞いてくださった!」

「おい、よせ」

 制す湖鬼神を無視して鵬は朗々と語り始める。

「例のわけのわからない気紛れを起こして、せっかく捕らえた虜囚の命を助けたばかりか、まんまと逃がしてしまったのです。ご丁寧に馬まで付けて……!」

 頻迦はせせら笑った。

「フフン。そんなのは今に始まったことではないわ。この〈月下の常勝王〉は時々発作を起こすのさ。私の父もそれには手を焼いたんだからな。何年仕込んでも未だにこればかりは直せない」

 湖鬼神はいよいよ苦虫を噛み潰した態で押し黙っている。それを横目に、待てよ、と頻迦は声を一段上げた。

「ちょっと興味が湧くぞ。なあ、鵬、逃した兵は女か? どんな容貌だった?」

「は?」

「戦いにしか血を燃やさない〈沙海の覇者〉が特別の情けを掛けるなんて、これはひょっとして……?」

「からかうのはやめろ、頻迦!」

 とうとう湖鬼神も真っ赤になって口を開いた。居合わせた者は皆──頭に瘤を拵えた見張りまで含めて──ドッと笑った。

「おお、そう言えば中々の尤物(ゆうもつ)だったな、あの王子様!」

 たまらず湖鬼神、怒鳴り散らして、

「おまえ等、とっとと持ち場へ帰れ! 俺は忙しいんだ! 戯言の相手などしてられるか!」

 一方、頻迦は真顔になっていた。鵬を見つめて、

「王子だと? 何処の?」

「まだ言っているのか? いい加減、俺をおちょくるのはやめろ!」

 怒る湖鬼神を尻目に鵬は答える。

「確か、沙嘴国の第三王子とか言っておりました」

 頻迦の顔に軽い衝撃が走った。

「ひょっとして(ちのひ)という名ではなかったか?」

 今度ハッとしたのは湖鬼神だった。配下の将はそれには気づかずただ実直に遠征軍総隊長に答えて、

「いいえ、違います。そう言う名ではなかった。ええと、何とかと言っていたが──」

 見張りが一歩前に出た。

須臾(しゅゆ)王子です!」

「それだ、須臾王子!」

 頻迦は明らかにがっかりしたように見えた。

「……そうか」


 側将たちが引き上げた後、湖鬼神は改めて頻迦に向き直った。

「おい、頻迦、何処から聞いた? さっきの……螢って名。そいつを知っているのか?」

 頻迦は一瞬、躊躇した。

「いや、何でもない。ちょっと昔、な」

 言葉を濁した後で、怪訝そうな顔で自分を凝視している湖鬼神に向かって笑ってみせる。

 (さなが)ら、大輪の牡丹が咲き零れるような微笑。

「忘れてくれて結構だ、湖鬼神。私たち古い老いぼれ階級には胡散臭い昔話が、それこそ枯れ蔦よろしく幾重にも絡みついているものなのさ」

 湖鬼神は了解した。

「なるほど。身寄りのない、この身一つの俺なんかには縁のない話、か」

 頬に彫られた片笑窪。それを見て頻迦は責めずにはいられなかった。

「その気楽な身分に執着しているのは、誰あろう、おまえ自身だろう?」

 黒髪の将から笑顔が消えた。

「我が父は今でも諦めきれずに待っているのだぞ。おまえが翻意して『養子になる』と言ってくれるのを」

 頻迦は言い添えた。

「私の『婿になる』と言ってくれるのを」

「その件はとっくにケリがついたはずだ。何度も言うが、俺には分不相応だ」

 堅帳を跳ね上げて湖鬼神は外へ出て行った。闇を背負っているようにも見える漆黒の髪が揺れるその背を頻迦の嘆く声が追う。

「これだものな! 少しは思いやったらどうだ? おまえを愛してやまない憐れな老将軍のことを!」

 続けて、こっそりと胸の内で呟いた。

(もっと憐れな……この姫将軍のことを……?)

 玄頻迦は湖鬼神を愛していた。ずっと愛して来た。

 その昔、父が連れて来た、砂に汚れた狼のような少年を自邸の庭先で一目見た日以来、恋に堕ちたのだ。

(私たち父娘(おやこ)の〈愛〉は永遠に報われることはないのだな……?)

 嘆息する姫将軍を一人置き去りにして、幕舎を出た湖鬼神の元へ早駆けの兵が突っ込んで来た。

 騎乗のまま兵は叫んだ。

「伝令! 沙嘴国に、たった今、帝国の派遣軍が到着しましたっ……!」





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