*7
「王様と喧嘩したんでしょう?」
王子は驚いて顔を上げた。
噴水が零れる池の畔は王子の、王城内で一番のお気に入りの場所だ。
ここは亡き父王のその生涯で唯一と言っていい浪費の産物でもあった。
城の中院に造られたこの池こそ父から母への結婚の贈り物だったと聞いている。潤沢に色石を張り巡らした人工の池は日夜砂に侵食され疲弊する砂漠の小国にとってはとてつもない奢侈の象徴なのだ。にもかかわらず──
母はこの贈り物が気に入らなかったとか。理由なら容易に推測できる。色のせいだろう。
(色石の琅玕は渋すぎて母上の好みじゃないものな……)
だが、母がどうであれ王子自身はここが大好きだった。心が塞ぐとやって来ては、縁に腰掛けて水底にたゆたうモザイクをぼんやりと見つめながら噴水の冷たい飛沫を慈雨のように浴びるのだ。
それで、今もそうしていたところ、飛沫よりも真っ直ぐに飛んで来たのは異郷の娘の声だった。
「フフ、今更、隠してもダメよ、王子様?」
「チエッ」
王子は含羞んだ風に頭を掻いた。
「やれやれ、よりによってご客人にみっともないとこ見られたかな?」
では、やはり? 陽王と派手にやりあう声が王城内に響き渡ったのだ。
慌てて、王子は言い足した。
「言い訳するんじゃないけど、こんなことは初めてなんだぞ」
沙嘴国の王兄弟がしょっちゅういがみ合ってると旅人に誤解されては心外だ。
「今まで一度だって兄王はあんな物言いしたことはなかった。いつも優しくて、寛大で、さっきみたいに人を頭ごなしに怒鳴りつけたりはしない。それを、湖族のこととなると──」
ここまで言って王子は言葉を切った。
(湖族? ……そうか!)
「しまった、俺、忘れてた!」
「何?」
娘が首を傾げる傍らで王子は独り言のように呟く。
「いや、俺たちのさっきの喧嘩の原因。そうだった! 陽王には月王子の思い出があるんだ……」
共に育ったすぐ下の弟を殺された陽王の、湖族に対する憎しみは生半可なものではないはず。そのことを今に至って悟る王子だった。先刻の兄の尋常ならざる怒り方も容易に理解できるというものだ。
「月王子……ああ、私も聞いたわ。あなたのもう一人のお兄様でしょう? お気の毒な話ね、それ?」
別に平気さ、と王子は即座に答えた。兄と言ったって全然知らないんだから。
無論それが客人を気遣っての言葉だとジニーにはすぐわかった。このさり気ない心遣いにジニーはますます王子に好感を持った。
そもそも、ジニー・スーシャは何事であれ他人の問題に強引に首を突っ込む性質の人間ではない。明らかに傷心の体で一人座している人に声をかけるなど、いつもなら絶対にしないはずだ。
にもかかわらず、水際に王子の姿が目に入った途端、フラフラと近づいてしまった。傍に行きたかった。その思いを押し止められなかった。
それなのに、とジニーは内心歯噛みした。『喧嘩したんでしょう?』はない。もっと他に声のかけ方もあったろうに。これじゃあ好奇心丸出しの厚顔無礼な旅人と思われても仕方ないわ。
だが、当の王子は不快な顔をするどころかどこまでも澱みなく真摯な態度で接してくれている。
改めて、こっそりと、ジニーは目の前の王子を観察した。
沙嘴国第三王子・螢は、砂漠から帰り着いた昨夜とは違って、さっぱりと湯浴みして兄王と同型の彩羅を纏っていた。白は王子の色。よく似合う。
(これじゃあ見蕩れるなと言う方が無理だわ……)
朝の沐浴後のまだ乾かない──それとも、これは噴水の雫のせい?──濡れた髪がキラキラと陽に反射して精悍な面差しを縁っている。尤も、砂漠帰りの際も、降った砂塵は王子が纏うと金粉みたいだった……
「月王子のことは本当に何も知らないんだ。何しろ俺が生まれる前のことだから」
ジニーの視線をよそに王子は篤実に話し続ける。
「実際のところ、四年前、父王が亡くなって王位を継ぐために陽王が帝国から戻って来るまで、その陽王とだって俺は会ったことがなかったんだから」
「まあ、そうなの?」
これには少なからず驚いてジニーも現実に戻って来た。
「ああ。だから、俺はずっと末子というより一人っ子みたいな気分だった」
「でも、それはそれでご両親の愛情を独占できて良かったじゃない?」
何気ない言葉だったのだが。途端に王子の顔が曇った。翳った瞳を水面に向けて、
「そうだな。父王は無茶苦茶、俺を可愛がってくれたものな。母上はともかく」
どうも王子には〈母〉は鬼門のようだ。ジニーはさり気なく話題を変えた。
「あ、先王様ってどんなお方だったの? きっと素晴らしい王様だったんでしょうね? お会いしたかったわ、私」
王子の顔がパッと明るくなった。
「陽王を見ればいいよ。兄王は父上にそっくりなんだ!」
瞳に戻った美しい輝きを消すことなく王子は言うのだ。四年前、十三の歳に自分は兄と初めて会ったのだけれどすぐ打ち解けることができた。遠く離れて別々に育ったのに違和感がまるでなかった。
「ああ、本当に……兄上が父王に似てて良かったよ!」
「血のせいよ」
思わずジニーの口をついて出た言葉。
「顔が似てるとか、そういう問題じゃないわ。何年離れていようと、肉親って一瞬でわかり合える……愛し合える……そういうものよ。憧れるなあ、私」
「え?」
「私って天涯孤独だから」
吃驚して王子は聞き返した。
「貴方には兄弟はいないのか?」
「家族もいないわ。私、捨て子だったの」
王子は目を瞠った。ゆっくりと体を異郷の娘の方へ向ける。
「私、慈善施設で育てられて……それから、私の特殊な才能に目をつけたちょっとした機関に引き取られて、そこで大きくなったんだけど。だめね」
つい最近、似たような話を聞いたな、と思いながら王子は尋ねた。
「だめって、何が?」
「うん。今まで一度だって心から満たされた気になれないってこと」
ジニー・スーシャは白状した。
「どんなに行き届いた環境で、良い待遇を受けて、何不自由なく暮らせても……どこか落ち着かないのよ。心の中に空虚な部分があって、穴が塞がらない。パズルがパチンと嵌らない。何処へ行っても自分だけ宙ブラリンで、他人と違うって感じてしまう居心地の悪さ」
それは勿論、自分が〈至宝〉だからというのとはまた別の問題だった。
「ごめんなさい。上手く説明できないわ」
俯いたジニーに王子が質した。
「〝根がない〟って感じか?」
パッと娘は顔を上げる。
「そう、その通り! そんな感じよ!」
王子は湖鬼神を思い出した。
『俺には根がないからさ』と笑っていたっけ。それからこうも言っていた。『沙海を飛ぶ砂粒より酷い……』
「同じだ」
「え?」
「俺、貴方みたいな人、他にもう一人知ってるよ。なあ? そういうのって、寂しいか?」
「勿論よ」
「そうか」
(では、あいつも寂しいのか。そして──だから、か?)
王子はじっとジニーの瞳を覗き込んだ。砂色の髪が揺れてジニーの額に零れる。その柔らかな感触。
頬を染めながらジニーも王子の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
王子が囁いた。
「根がない、と言う貴方たちはとてもよく似た目をしているな?」
(寂しいと人はこんな目を持つのだろうか?)
「それってどんな風?」
ジニーは聞かずにはいられなかった。
「哀しい目?」
「いや」
王子は頭を振った。ジニーの額で砂色の髪が漣のように揺れた。
「優しい目……」
二人は見つめ合ったまま動かない。
恋の始まりだった。




