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燦光伝  作者: sanpo
7/63

*6

     



 一夜明けて。

 敢えて城の中院(にわ)深く、公孫樹の仄暗い葉陰で丞相は切り出した。

須臾(しゅゆ)王子の乗って帰られた馬をご覧になりましたか、王よ?」

 (あけひ)王は訝しんで、

「いや」

「あれは龍馬と讃えられる湖族の馬です」

「何が言いたい?」

「私は貴方様の御身を案じております。そして、この国の安泰を」

 丞相は深く額づきながらもきっぱりと言った。

「今まで一人として無事帰ったことがない沙海深奥から須臾王子だけ、しかも馬まで与えられて戻って来た。このことの意味をよくお考えください」

 唇を一文字に引き結んだまま陽王は樹下の闇を見つめている。

「少しばかり妙だとはお思いになりませんか?」

 なお王は口を開かない。

「では、私が申しましょう。これの意味する処は、即ち、王子が湖鬼に通じた(・・・)──」

 丞相は最後まで言えなかった。凄まじい王の憤怒の形相に震え上がった。

「あれが私を裏切って湖族と通じたと言いたいのか?」

 震えながらも丞相、

「はい。須臾王子は何分お生まれがお生まれでございます。血は争えないかと」

 陽王の火のような一喝。

「言葉を慎めっ!」

「ヒッ……」

「あれは私の弟だぞ! そして、父王も認めた沙嘴国第三王子だ! 今後城内で……私の前でそういった言い方は二度とするな!」

 丞相は恐縮しつつもなお言葉を継ごうとした。だが、この時、当の王子が近づいて来るのを王と丞相、二人ながら同時に気づいた。

 潮時を悟って丞相は叩頭の後、王の傍を離れた。

 摺れ違いざま王子にも深々と頭を下げる。だが、老臣の纏った剣呑な空気に王子は眉を潜めた。

 兄王はあらぬ方向を見つめている。

「どうかしたかい? 丞相と言い争いでも?」

「別に何でもない。それより──」

 振り返った兄は平生の声。笑いを含んだ優しい眼差しを弟王子に向けて、

「ゆっくり休めたのか? 昨日の今日だ。もっと寝ていてもいいんだぞ?」

 即座に王子も笑い返した。

「大丈夫だよ! 別に怪我をしたわけでもなし」

「そうか。ならば──どうだった? 昨夜、久々に拝謁した母上のご様子は?」

「うん、それが……」

 母の住む楼閣の方をチラリと振り仰いで王子は口籠る。

「何て言うか……いつもと違っていたな」

 尤も何を指していつも(・・・)と言うのか? ほとんど相塗れたこともなしに? ここで兄弟して目配せをし合った。二人だけに通じる、血を分けた兄弟ならではの暗合。

 その後で、流石に兄らしく王は母を擁護したが。

「まあ、無理もあるまい。腹を痛めた息子が沙海で行方知れずになったのだ。いくら日頃麗容なる皇太后と(いえど)も冷静ではいられまい。それで、無事生還と知って喜びのあまり舞い上がってしまったんだろうよ。この私同様(・・)、な?」

 母の時と違って兄の祝福は素直に受け入れられる。周囲に誰もいない水入らずの今ならば、特に。

 昨夜の〈王の間〉とは反対に今度は王子の方が兄に飛びついた。

「兄上!」

 一頻り抱擁した後、破顔のそれを引き締めて王子は改めて兄王と向かい合った。

「ところで、兄上、大切な話がある。聞いてもらえるだろうか?」


 


 二人は王の自室、美しい螺鈿の小卓の前に向かい合って座っている。

 王と王子と言うより、兄と弟の図だ。

 とはいえ、それぞれの前に置かれた茶の馥郁(ふくいく)たる香りをよそに先刻よりなにやら(わだかま)った空気が部屋に満ちつつあった。

「それは、つまり──湖族に付けと言うことか?」

「ああ。俺は今回、身を持って感じ取ったんだ。湖族には」

「ならぬ!」

 王が卓を叩いて立ち上がった。

 王子は仰天した。これほど激昂した兄を見たことがない。

 だが、(ひる)んではいられなかった。卓を離れて高窓を抜け、露台へと出て行く兄の背に王子は言葉を投げる。

「聞いてくれ、兄上。遠くて気心の知れない帝国より、俺たちにとっては近くて、過去にも深い繋がりのある湖族の方が遥かに信用できるはずだろ?」

 露台の王は王子の言葉が引っ掛かった。

 肩越しに振り返って王子の顔を凝視する。陽光眩しい屋外に比べて部屋の中は暗く王子の表情は判然としない。どことなく猛禽じみてさえ見える。

(今、須臾は何と言った? 〝過去に深い繋がりがある〟だと?)

 兄の不安をよそに弟は熱っぽく語り続けている。

「そして何より、湖族には素晴らしい人間がいる! 俺は会った! 湖鬼神だ。あの将は凄いぞ!」

 王子の脳裏に今また月下の湖鬼神の姿がまざまざと蘇った。チラリと見た、片笑窪(かたえくぼ)を彫ったあの微笑……

 一方、王は先刻の丞相の進言を思い起こさずにはいられなかった。

 ── 貴方様の御身を案じております。王よ……

 庭の木陰よりも濃い王の胸の暗闇の内で、現実には口にすることを決して許さなかった部分まで語り尽くす丞相の幻。

 ── 貴方を操って湖族につかせる姦計を王子が抱いたとしても不思議ではありません。

    何しろ、王子の御身体を巡っている血の全て(・・)はあちらのソレなのですから……

    王子御自身、既にそのことはご存知なのでは?

    とすれば、貴方様を躍らせて湖族と手を組ませ、

    行く行くは御自身が王となってこの沙嘴国もろとも湖鬼に帰する……

    どうです? 王子にとってこれ以上魅力的な雄図(ゆうと)はありますまい?

(まさか! 須臾に限って!)

 だが、須臾自身も今はっきりと言ったぞ? 私たち(・・・)にとって〝湖族は他人ではない〟と。

「聞いているのか、兄上?」

 陽王は我に返った。

「ならぬっ! だめだと言ったら、だめだっ!」

「兄上?」

 卓の前に戻った王は拳を打ち降って弟を恫喝した。

「沙嘴の現王は私だ! その私から言っておく。須臾、湖鬼と手を組みたいなどという戯言は二度と口にするな! そんな(たわ)けた話、私は金輪際、聞きたくはない!」

 王子は目を瞠った。

「陽王らしくもない。どうしたんだ? 常に冷静沈着、どんな物事にも正しい判断のできる兄上が何をわけのわからないことを言い出す? 今日の陽王はおかしいぞ?」

「それは私の言葉だ。須臾、おまえこそおかしい。沙海から戻って来てからのおまえは」

 会話が途切れた。

 兄と弟は互いを見つめ合ったまま身動ぎもなかった。

 幾許(いくばく)かの後、双眸は王子を見据えたまま王が唐突に質した。

「須臾、おまえの母国は何処だ?」

 その問いに王子はひどく面食らって、

「何を今更?」

 だが、兄王は問うのをやめなかった。

「おまえの敬愛する国は何処だ? その命に変えても護り通すべき王国は何処だ?」

「愚問だ! そんなの決まっているだろ?」

「私が聞いているのだ! 私は聞きたいのだ! 答えよ、須臾!」

「ここだ! この沙嘴国だ! それ以外にはないっ!」

「……ならばいい」

 王は諒解した。

「そのとおり。おまえの故郷はここ(・・)だ。それを忘れてくれるな」

 それだけ言って、王は背を向けた。

(この前、こんな風に兄上の背中を見たのはいつだったろう?)

 椅子に深く腰を落としたまま王子は、再び露台に出た王の肩の辺りに目をやった。

 開け放された高窓の向こう、遥か連なる砂漠の稜線──

 何か(・・)を思い出しそうになった。

(何だろう? 何か、とても大切なことだ……)

 だが、その不思議な感覚は月が出て、すぐまた群雲に隠れるように、一瞬の内に王子の胸から掻き消えてしまった。

 



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