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王子の帰還を知った陽王の喜びは一入だった。
玉座から駆け降りるや朱色の彩羅が汚れるのも構わず砂塵塗れの弟王子を幾度も抱きしめてその五体の無事を確かめた。
「本当に! よく帰ってきたな、須臾……!」
これには王子の方が困ってしまった。
「やめてくれよ」
気恥かしげに含羞んで言う。
「迷子の子供じゃあるまいし。これでも俺は兵馬隊長だぞ。湖鬼ごときにそう簡単にやられるものか!」
兄王の抱擁を逃れようと身を捩った時、居並ぶ廷臣の列に一人、見慣れない異邦人を発見した。
「あれ?」
弟の視線に気づいた兄王、
「ああ、ジニー・スーシャ殿だ。憶えているだろう? あの夜、私の窮地を救ってくださった旅のお方。今は我が沙嘴城の御客人……」
「勿論、憶えているとも!」
王子は真っ直ぐにジニーの前に歩み寄った。
「この間は挨拶もせずに失礼しました」
深々と頭を下げる。
「私はここ沙嘴国の第三王子、螢です。どうぞよろしく!」
「わ、私こそ、よろしく、螢王子様?」
砂塗れなのに、とジニーはこっそり吐息を漏らした。なんて素敵な男の子かしら? こんなコ、中央の管理局にだっていないわよ。
一方、王と近臣たちも別の意味で少なからず驚いていた。さっき王子は確かに自分のことを螢と名乗った。そう呼ばれるのをあんなに嫌っていたのに?
実は、帝国から帰還してほどなく、陽王は「螢」と呼ぶたび幼い弟王子の機嫌が露骨に悪くなることに気づいた。そこで賢明な兄王は戯れに、螢の光から連想して「須臾」と呼んでみたところ、これがアッと言う間に廷臣たちにも浸透した。
この事実から見ても城内の者が皆、王子を呼ぶのに窮していたことを窺い知った王であった。
以来、沙嘴城内で螢の名を口にする者はいなかったのだ。
「滞在の予定はどのくらいなんですか、ジニー殿? ゆっくりできるといいのですが」
「それがね、私の仲間のキャンプ地への道がわからなくなっちゃって。帝国の派遣軍が来るまで厄介になることにしたの。ドジでしょ?」
派遣軍という言葉に王子の表情が変わった。砂を飛ばして兄王を振り返る。
「それだ、帝国の軍……兄上、その件で俺は話がある。実は俺──」
「その前に」
王は笑って遮った。指を二本立てて、おまえには先にやるべきことがあるぞ、と優しく諭す。
一つは湯に浸かってさっぱりすること。そうして装束を整えたら、二つ目は、急ぎ翠漣宮へ赴くこと。
「母上がおまえを待っておられる」
「ええっ?」
王子の尋常でない驚き方に間近にいたジニーも吃驚した。それから、遅まきながらジニー自身も驚いて声を張り上げる。
「母上って、太后様? ここに、この王城内にいらっしゃるの? 知らなかった! だって、私、まだお会いしたことがないんですもの……」
玉座で微苦笑する王だった。
「それを言うなら、私たちだって、そうしよっちゅうはお会いしたことがない……だよ。なあ、須臾王子?」
「──」
王子は兄の言葉も聞こえないくらい茫然自失といった風情で佇んでいる。
翠漣宮は沙嘴王城内で最も高い楼閣である。
砂漠の蒼穹を突く塔の深窓に先王の后・惹苺は蟄居していた。
数人の侍女に身の回りの世話をさせ自身は塔の外に出ることはほとんどなかった。
「須臾、貴方が無事帰ってくることをこの母は確信していましたよ。さあ、もっとこちらに来て、よく顔を見せてちょうだい」
面伏せたまま王子は堅帳の前まで進み出た。
鼻腔を擽る麝香の香り。衣擦れの音がして母が嘆息した。
「大きくおなりだこと!」
「この前、私に会ってくださったのは、兄王が帝国から帰還された時。もう四年も前ですから」
四年も経てば、と王子は心の中で思う。そういつまでも俺も子供じゃないさ。
含まれた皮肉には一向に気づかぬ体で惹苺は明るい声で笑った。
「まあ、よく憶えていること!」
「それにしても、母上、何故、急に私に会ってくださる気になられたのです?」
惹苺はあえかな眉を上げて、
「これは妙なことを言う。母が子に会いたいと思うのは当たり前のことでしょう?」
「でも、貴方は私たち息子にそうしょっちゅうは会いたがらない……」
末子の俺ですら抱いてもらった記憶もない。
母の好む色の床を見据えたまま王子は心の奥底を浚って、母と子の甘やかな思い出をその断片なりとも見つけ出そうと試みた。
(さあ、思い出せ。)
中院の鞦韆を揺すってくれたのは? 色とりどりの硝子のおはじきを数えてくれたのは? 噴水の水が雨のように降る池で水遊びをさせてくれたのは? 崩れかけた猫門に群がる猫たち……その中の俺の一番のお気に入り斑に一緒に餌をやったのは?
誰だった?
(──どれもこの母ではない。)
いつの日も美しく冷たかった母、惹苺は翡翠色の楼閣の中、堅帳の影に在している。
その母の、冴えた玻璃のような声に王子は我に返った。
「おまえこそ、須臾、この母と会うのがお嫌なの?」
「え? いえ、まさか!」
慌てて王子は首を振る。
「私も兄王も心から母上を敬愛しています」
満足の笑みを浮かべて頷く惹苺だった。
「須臾王子、私は貴方を誰よりも愛しているのです。時に──湖族は貴方に何の危害も加えなかったのね?」
初めて王子は顔を上げて堅帳の後ろの母を見た。
「?」
「だからこそ、貴方は一人無事帰還した?」
「ええ、その通りです」
惹苺は怪しい微笑を揺らめかせて繰り返すのだった。
「知っているでしょう? 憶えておいてね? 私は誰よりも貴方が愛おしい。一番愛しているのですよ」
こんな直截な、慈愛に満ちた母の言葉を王子は初めて聞いた。
無論、悪い気のするはずはない。嬉しくて頬が火照った。
「その湖族に関してですが──」
「え?」
「実は今回、湖族と近しく接して、私は、沙嘴国は湖族連衡に与した方が良いと確信したのです」
王子の大胆な言葉に惹苺はことさら驚いた様子も見せず微笑み続けている。
「湖族の方が信用できる。あっちについた方が沙嘴の国も、民も、幸福になれると悟ったのです」
翠玉を凝らした母の部屋で、今、王子の脳裏に蘇るのは砂を飛ばしてともに駆けた瑚鬼神の姿だった。
あの将、〈沙海の常勝王〉〈闇の化現〉は噂以上の凄い男だ! あの男の傍なら沙嘴国の平和は揺るがない。遠くて得体の知れない島帝国なんかより遥かに信頼できる……!
「それを陽王に話しましたか?」
「いえ、まだです」
鶸の羽の扇で口元を覆って太后はため息をついた。
「きっとあの子は反対するわ」
「そうかも知れない。でも、俺は奏上するつもりだ。そして、絶対、兄王もわからせてみせる!」
「ホホ、よっぽど湖鬼に惚れたみたいね?」
可笑しそうに惹苺は笑って、
「いっそのこと貴方が 王になればことは簡単に運ぶわねぇ?」
「何てこと言うんだ、母上!」
刹那、王子は声を荒らげた。
「俺はそんなつもりで言ってるんじゃない! 亡き父王や、今現在は兄王が、日夜心を砕いて案じているこの国──沙嘴の未来について王族の一人として俺も俺なりに真剣に考えればこそ」
「いずれにせよ──」
麝香の香りが微妙に揺れた。扇を仰ぎながら惹苺、
「がんばりなさい、須臾。母はいつも貴方の味方です。そして、誰よりも愛していてよ」
「嬉しいです、母上。初めてですね? そういう風に言ってくださるのは」
こんな時、子は他に何と言葉を返したら良いのだろう?
逡巡の後、王子はただ、緑青色の床を見つめながら深々と頭を垂れた。