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とうに燭の火も燃え尽きた〈王の間〉で陽王は死霊のように蒼褪めた面を上げた。
天を厚く塞いでいた群雲が割れ、月が出たのを知る。
満月だ。
「……月か?」
一人呟いた後、ゆっくりと扉の方へ頭を巡らせた。
誰かがこの血塗られた室へ入った来た気配がした。
「誰だ? そこにいるのは?」
扉の前の影が答えた。
「俺の名は、湖鬼神……」
陽王は玉座で暫く目を瞬いていた。
「そうか? では、おまえが──」
須臾の心酔していた男……
なるほど。弟王子の言っていた通り、長身で精悍な湖鬼と見て取れた。
月を背負った逆光の中ではその表情までは窺い知れなかったが。
「……何をしに来た?」
「決まってるだろ?」
王の問いに黒髪の湖鬼は不敵に笑って答えた。
「あいつ──俺の大切な弟分、螢の亡骸を貰い受けに、だ」
「何だと?」
王の驚きに頓着せず、傲然として湖鬼神は言ってのけた。
「螢はこの俺の手で湖族の地……沙海の果ての湖に葬ってやる。あれは勇猛な湖族の男だった。その亡骸は勇士に相応しく丁重に扱われるべきだ。
さあ、王よ。螢をこちらへ渡せ!」
「な……何を……言っている?」
王の温雅な声が震えた。
「あれの故郷はここだ。王子は沙嘴の地で、父や私とともに永遠に眠るのだ。
いかに──生前、王子がおまえと嘉を結んだとはいえ、今に至っては王子は渡せない」
玉座を掴む王の手に力が籠った。
「あれは私の血を分けたたった一人の弟なのだから……!」
陽王は言い直した。
「いや、違う。二人目の弟だ。
湖鬼よ、おまえも湖族なら知っていよう? 私のもう一人の弟は既におまえたちの手によって、おまえたちの国に眠っている。
その上? 今また、連れて行こうと言うのか?」
須臾までも……!
陽王は屹立する湖鬼を真っ直ぐに見据えて叫んだ。
「いくら須臾が心を許した男の頼みでも、おまえに王子を引き渡すわけにはいかない!」
闇の片隅で男が大きく息を吐いたのが聞こえた。
それは、笑い声だった。
湖鬼は笑ったのだ。
「俺は頼みにきた覚えはないぞ、陽王? 勘違いされては困る。言ったはずだ。『螢を貰い受けに来た』と。更にもう一つ──」
湖鬼神は抜刀した。
「おまえの命も貰い受けよう……!」
「!?」
湖鬼神は玉座に飛びかかった。
「よくも──螢を殺したな! 鬼畜め! 何が、血を分けた弟だ! おまえに兄を名乗る資格はないっ!」
白刃を燦めかせす湖鬼の顔貌。今こそ陽王にも間近にはっきりと見て取れた。
乱れた黒髪の下で双眸を炎のように燃え立たせた男は、まさしく鬼に見えた。
その鬼が咆吼した。
「何故!? 螢の話をもっとよく聞いてやらなかった!? おまえを信頼して……誰よりも慕っていた……それ故、戻って来た弟を……よくもその手で殺せたものだな!?」
鬼は王を罵倒した。
「あいつは心からこの沙嘴国を……兄王のおまえを……愛していたのに!」
怒りに悶える刃が平生の鋭さを濁したか?
一刀、虚しく空を斬る──
すんでで陽王は身を躱すことができた。
「クッ!……おまえは螢の兄などではない! 俺の手で……あいつの無念を晴らしてやる!」
玉座から飛び退いた王を追って、なおも湖鬼の刃が燦めく。
「俺たち湖族は……その名の通り〈湖鬼〉と恐れられる血に汚れた修羅の一族だが……だが、情は重んじる! 俺たち湖鬼にも劣る畜生め!」
また一刀! 王の耳元を掠って唸る刃風……
「帝国人にそれほど諂いたいか? 下種野郎! 実の弟をその手にかけてまで……奴等の機嫌をとりたいか?」
「何だと?」
王の形相が変わった。
ここに至って、王自身も腰の佩刀を抜いた。
「何も知らない外道のくせに──言うことはそれまでか!?」
抜刀した王を見て、一瞬、湖鬼神は動きを止めた。
それから、片笑窪を彫って冴え冴えと笑った。
「面白い。上等だ! 心置きなく相手になってやる……!」




