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燦光伝  作者: sanpo
5/63

*4

     


 砂漠は夕焼けの中で燃えていた。

 湖族連衡(れんこう)の沙海遠征軍陣内。

 中央に設置された(かがり)にも既に夕陽と同じ色の炎が踊っている。

 そこからかなり離れた陣の端、狭くて貧相な幕舎に須臾(しゅゆ)王子はいた。

 元来、湖族は虜囚を捕る習慣がないと見え繋がれているのは王子一人だ。

 粗悪な幕の裂け目からこっそり外を窺い、自分の幕舎の入口に見張りが一名立っているのと、遠い紅蓮の篝とを交互に見やって王子は舌打ちした。

「チエッ、夜の酒宴の準備か? 湖鬼連中め、いい気なもんだぜ」

 湖族の一軍に引っ立てられてこの幕営に連れて来られた。予想以上に沙嘴国から近いのに驚いている。

(俺たち、沙嘴人も舐められたものだ!)

 常々噂には聞いていた、湖族の豪放磊落さにも舌を巻くが。

 陣は、幕舎を幾つか固めて張っただけで周囲に防御のための柵や塁壁すらない。その身軽さ、形式に因われない豪胆さは囚われの身の王子にも心地良いほどだ。

 これが兇賊の雄・湖鬼神をして言わしめたあの感覚か?

(潔い……)

 一つ息を吐いて王子は(むしろ)を敷いた床に腰を下ろした。

「で? これからどうなるんだ? やっぱり湖鬼どもの牙城、沙海深奥の都・湧とやらに送られるんだろうか?」

 突風が吹いて幕舎を揺すって去った。

 兄王は怒っているだろうな? 言うことを聞かず、一時(いっとき)の血気に(はや)って浅はかな振る舞いをしてしまった……

(それとも、心配しているかな?)

 沙嘴王城の庭にある公孫樹の木立ち。その緑の葉が織り成す涼しげな影に似て、憂いを秘めた兄王の顔を思い出した。いつも少し悲しげな瞳で弟王子の名を呼ぶのだ──


「王子? 須臾(しゅゆ)王子……!」

 王子は揺すられて目を開けた。いつの間にか眠っていたらしい。

「うん?」

 目の前にいたのは湖鬼神だった。

「あ?」

「静かに。音を立てずに着いて来い」

 幕舎の入口には見張りの兵が伸びていた。

 外は夜の(とばり)が降りている。

 風に乗って湖族の兵たちの笑い声や歌声が流れて来た。遠く篝の炎を迂回しながら湖鬼神は無言で王子を導いて行く。

 やがて、二頭の馬を繋いだ処へ出た。

「これは?」

 王子が聞くとそっけなく湖鬼神、

「乗れ。俺が沙嘴国城壁近くまで連れていってやる。早くしろ」

「どういうことなんだ? 貴方、まさか──」

 王子は息を飲みこんだ。

「──俺を逃がしてくれるのか?」

 鬼神はぞんざいに繰り返すだけだった。

「早くしろ」


 昨夜は隠れていた月が今夜は出ていた。

 月光の降る砂漠を疾走する二頭の優駿。

(これまた話には聞いていたが、湖族の馬の素晴らしさはどうだ! 風に乗っているみたいだ!)

 とうとう王子は堪えきれなくなって笑い出してしまった。

 月明かりのせいで王子の微笑は併走する湖鬼神にもはっきりと見て取れた。

 やや手綱を緩めて湖鬼神が問う。

「どうした?」

「貴方の兵はみすみす身分を明かした俺を()馬鹿だと言ったが。それを知って命を助けた挙句に──逃がして、送ってやろうという貴方こそ俺の上を行く大大大(・・・)馬鹿だな?」

 湖鬼神はこれには答えず別のことを言った。

須臾(しゅゆ)王子と言ったな? 変わった名だ。一体それは本名か?」

沙嘴(くに)では今じゃ誰もが俺をこの名で呼ぶ。俺もこっちの名の方が好きだ。何故って? 俺の本当の名は──」

 王子はいったん言葉を切った。

 そのまま幾つか砂丘を越える。幾つか目を超えた時、促すように湖鬼神が首を傾げて王子を見た。優しい目だと王子は吃驚した。

(気のせいか? それとも、月の光のせいだろうか?)

「……俺は自分の名が嫌いなんだ」

 今度こそはっきりと王子は言った。

「俺の兄の名は、知ってるよな? 現沙嘴王の名は(あけひ)と言う。それから、もう一人、俺には兄がいた。今はもういないその兄の名は(やみひ)だ。俺が生まれた時、二人の兄は既に人質としてあっちの大帝国と、そしてあんたたち湖族連衡に連れ去られた後だった。だから、生まれた俺を抱いて父王は嘆き悲しんだと言う。『陽も月も、両の光は私から奪い取られてここにはない。天空もまたその二つの光を除いた後は闇ばかりだ……』

 俺の名とするものは、光は、もはや何処にもなかった。残ってなかったんだ。父王は仕方なく、やっとの思いで俺の名をつけた。それは天空の光ではなく唯一の地上の光だ。

 でも、そんなもの、天空の永遠の光に比べたらあまりにも須臾だ。須臾過ぎる……!」

「何と言うのだ? おまえの本当の名は?」

「俺の名は、(ちのひ)

 夜空の深い処で星が一つ流れた。


「この名で呼ばれるたびに──」

 と言って、王子は唇を噛んだ。

「わかるか? 俺は自分が嫌になる。兄たちに比べてなんてちっぽけなことか。それに父王がその程度にしか俺を見ていなかったのも悔しい!」

(ちのひ)……こっちの名の方がいい」

「え?」

 唐突な言葉に王子は驚いて数歩先を駆ける男の背中を見遣った。湖鬼神のもう一つの異名〈闇の化現〉の由来となった漆黒の髪が踊る背中を。

(噂は真実だったな! 湖鬼神は夜の髪を有している……)

「天空の光が永遠だとおまえは言うが」

 湖鬼神は言う。

(ちのひ)、俺は今まで(ホタル)を見なかった年はないぞ」

「何と言った?」

何だって(・・・・)?)

「人間が螢を見なかった年はない。螢もまた、俺たちが生まれる遥か以前から地上に在って光って来たではないか。どうして永遠じゃないなどと言う? 毎年、ちゃんと光り続けるじゃないか」

 暫く王子は無言だった。

「……そんなこと言ったのは貴方が初めてだ。俺……そうか?」

 実際、そんな風に考えたことはなかった。だが──

 胸に蘇る螢の群れ。その燦燦たる美しい明滅を今一度、瞼の裏に映してみる。

 そんな王子に湖鬼神は再び声をかけた。

(ちのひ)

 いつしか轡を並べて疾駆している。

「ところで、おまえも〈永遠〉を至上のものと思うのか?」

 奇異な問いかけに王子も我に返った。

「え? そりゃ、そうだろ? 誰だってパッと消えてしまうよりズーッと在り続けるものの方がいいさ。違うかい?」

「そうか」

 湖鬼神の声が曇った気がして王子は逆に訊き返した。

「じゃ、貴方は〈永遠〉が気に食わないのか?」

 いや、と瑚鬼神は即座に否定した。

「ただ俺にはどっちにしたところで同じに見える。〈永遠〉にしろ〈須臾〉にしろ、その時点では結局

同じ〈一瞬〉でしかないからな。第一、〈永遠〉なんてのはその全てを見届けなきゃそれと言えないじゃないか。俺たち人間はどう頑張ったって〈永遠〉を見届けられない。人間だけじゃない。草も木も、山や湖、海でさえ──見届けられない。〈永遠〉は独り〈永遠〉だけが知る、だ。だが、草や木や、山や湖や海はそんなこと気にかけはしない。何だって人間は一瞬より永遠を求めるんだろう? どうしてそれほど永遠に惹かれるんだ?」

 今や王子はまじまじと湖鬼神の横顔を眺めていた。

 それを知ってか知らずか湖鬼神は独り言のように呟く。

「生きて、動いている、今この一瞬だけが俺にとっては確かなものだ。だから〈永遠〉も〈須臾〉も俺にとっちゃ同じことなのさ。俺が死んだ時、俺はそこで終わる。それでいい。その他は──関係ない」

「貴方は」

 率直に王子は疑問を口にした。

「月や砂漠の中でいつもそんなことを考えているのか?」

『あなたは何を考えているんです?』と質した湖族の髭の将を思い出す。

 湖鬼神は笑って聞き返してきた。

「おまえは考えないかい? そら、太陽や砂漠の中で?」

「俺も兄王も」

 と、王子。

「小国がどうやって平和で安逸にやって行けるか、そればかり考えている。だから、貴方もきっと帝国に勝つことだけを考えていると思っていた」

 やや間を置いてから悪戯っぽく付け加えた。

「貴方の配下の将兵たちが言っていた通りだ。本当、貴方は変わったことを考えてるなあ!」

 ニヤリと月下で湖鬼神が笑う。

「秘訣を明かそうか?」

「え?」

「それはな、俺には()がないからさ!」

 王子には皆目意味がわからなかった。

「?」

「俺は実際のところ、あんたたちが羨ましいよ。根があるってのはいいな? 自分の親、自分の家族、自分の国。真剣に考えるべき具体的な対象を持っているのはいい。俺には抽象的にしか考えるものがないんだ」

「どういう意味だ? 俺にはわからない──」

「俺は捨て子出身なのさ。湖族の有能な将軍に拾われて鍛え上げてもらうまでは沙海を飛ぶ砂粒よりも酷い暮らしをしていた」

「──」

「そらっ! ここまで来ればもう平気だな? 俺は戻るぞ」

 気づくと地平に懐かしい沙嘴の城壁が浮かび上がっていた。

 手綱を引き絞って湖鬼神は明るく笑うのだ。

「おっと、言っておくが、もう二度と無茶はしないようにな? 具体的な心配事を五万と抱えた由緒正しき王子様! 少しはご自分の命についても思慮深くあれよ!」

「ま、待てよ、湖鬼神!」

 走り去ろうとする闇に溶けかけた黒髪に向かって王子は慌てて呼びかけた。

「断っとくぞ、俺は沙嘴国人として湖鬼からの〝同情〟や〝憐れみ〟など一切受け入れるつもりはないからな!」

 湖鬼神は怪訝そうに駒を止めた。

「うん?」

「だが、〝恩〟はありがたく受け入れよう。それなら返す(・・)ことができるから。湖鬼神、逃がしてくれたこの恩は絶対忘れない! ありがとう!」

「……忘れても構わんさ」

 湖鬼神は今度こそクルリと背を向けて走り出した。

「忘れるものかよ──!」

 月の中に消えて行く湖族の将を目を凝らして見つめ続けながら王子は声を限りに叫んだ。

「忘れないからな──!」


 ほどなく砂漠は静寂に帰した。

 聞こえるのは月の光の降る音ばかりと言う静けさの中、王子は自身も馬首を改めると沙嘴国城壁目指して一気に砂丘を駆け下りた。

「須臾王子は、もうやめ、だ……!」



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