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螢はなおも手綱を緩めることなく爆走した。
幸いにも、沙嘴国の城壁に着く頃には、あれほど猛り狂っていた夕焼けは燃え尽きて四方は闇に塞がれた。
〈黒門〉を目指して最後の鞭を当てる。と、まさにその瞬間、眼前の門から飛び出して来た四、五騎。
あっという間に取り囲まれた。
「クソッ、もう、か?」
螢は唇を噛んだ。
「こんな処でもう捕らえられるとは──」
だが、逃げ場は何処にもなかった。
「須臾王子、我々と一緒に来てもらおう……!」
「俺は命乞いはしない! だが、どうしても兄上に……今一度、陽王に会いたい! 頼む──」
螢は訴えたが、有無を言わさず馬から引き摺り下ろされた。
抗って、なおも言葉を継ごうとする王子の口に一人が素早く猿轡を咬ませた。両腕を後ろへ縛り上げ、袋が被せられる──
帝国征夷派遣軍将軍・紂謖は離宮〈蒼落堂〉で例によって陽が落ちるとすぐ配下の将たちと酒を酌み交わしていた。
堂の周囲で警護に当たっていた番卒の一人は眉を顰めて足を止めた。
中院の向こうを四、五人の影が過ぎったからだ。
何か──荷物を担いでいる……?
風が吹いて、公孫樹の枝が鳴った。
堂の中からは妓女の嬌声と将領たちの笑い声が響いて来る。
若い番卒は先刻の影の行方をそれ以上追うことなく別の方向へ視線を転じた。
漆黒の闇の中にポッカリと浮かぶ楼閣〈翠漣宮〉の明かりが鬼灯のようだ。
螢は丁重に床に下ろされた。
清浄な空気と眩い光──
袋が取り払われたとたん、螢は仰天した。
目の前にいたのは紂将軍ならぬ兄王だった。
「何だって? ここは……?」
そこは陽王の自室だった。
螺鈿の小卓、螺鈿の椅子。兄が愛する草花模様を彫った精緻な調度品、銀細工の獣たち。
どれもこれも見覚えがあって、目に心地好かった。
幾度、昼となく夜となく、ここで兄と過ごしたことか。
他愛ない話をしたり、碁や双六に打ち興じたり……
露台から吹き抜ける風さえ、こんなに懐かしい。
「危ないところだった。だが、上手く行ったようだな?」
陽王の声に螢は目を瞬いた。
「兄上? では、兄上が帝国兵を欺いて俺を城内に入れるために……こんな真似を?」
まだ茫然とした面持ちで頭を振る。
「しかし……よく……待ってたみたいに俺の帰還が読めたな? まるで全てを知っていたようだ」
「知っていたのさ!」
兄王は笑った。
その傍らに佇む一人を見て、再度、螢は仰天した。
「……ジニー!?」
暫く螢は口がきけなかった。
「な、何故……あなたがこんな処に? しかも……いつの間に?」
「昔から〝恋する乙女は天翔ける翼を持っている〟というからな」
陽王の言葉にジニーは恥ずかしそうに頬を染めた。
「そ、そんなことより、螢、私はあなたとの約束を果たしたわよ! ほら、私たちはまた会えたわ!」
「ジニー……!」
まだ少々当惑しながらも螢はしっかりとジニーをその腕に抱きしめた。
そうしてから、やおら兄に向き直った。
「兄上、俺は──」
兄は弟を遮った。
「何も言うな。もうよい。全てこのジニーから聞いた」
自分は怒ってなどいない、と王は言った。
王子の行為の全て──命の危険も厭わずこうして戻って来てくれたことも含めて──心から嬉しく、誇りに思うと。
「おまえは真実、この沙嘴のこと、そして、王である私のことを考えていてくれたのだな?」
陽王は長身を正して深々と頭を垂れた。
「許してくれ。私の方こそおまえの深い思いやりを顧みることをしないで上辺だけの瑣末な体裁にばかり心を奪われて振り回されていた。それを思うと、王として、兄として本当に情けない」
「兄上!」
兄弟は抱き合った。後は言葉にならなかった。
朱色と白の力強い融合。それを見るジニーも胸がいっぱいになった。
やったわ!
歴史は変えられないですって?
フッカー博士、それから、キニアン女史にも見せてやりたい。
私はやり遂げたのよ!
これで螢は生き延びられる! もちろん、陽王も!
何が、同じ日に死ぬよ? 王子は王に殺されるよ?
それこそ後世のデッチあげ……フイクションもいいとこだわ!
現実の陽王や螢王子は史書に記されたような(修羅の兄弟〉なんかじゃない……
「さあ、時間がない。もう行くがいい、須臾」
陽王は今一度、沙海の砂にまみれた弟王子の髪を愛しげに撫で上げると、言った。
「逃げ道は用意してある。馬も。おまえは、やはりひとまず湖族の陣営へ戻るがいい」
「ええ。兄上がお許しくださるなら」
螢は力強く頷いた。
「俺は向こうに戻って、そして、湖族と共に必ずここを開放しに来ます、あの悪辣な帝国人どもの手から! それまで、兄上も大変でしょうが……頑張ってくれよ!」
「まあ、連中と過ごすのは私は慣れているからな。安心しろ」
それから陽王らしくなく──いや、まさに陽王らしく、か?──露骨に毒づいた。
「あの帝国の青蛙どもめ……!」
これには、いつになく畏まっていた螢も思わず声を上げて笑い崩れた。
「アハハハ……兄上も湖鬼神みたいなことを言う……!」
陽は悪戯っぽい目で弟を見やった。
「そいつだな? おまえがイレ上げている湖鬼の将とは?」
「ああ。早く兄上に会わせたい。素晴らしい男なんだ。兄上同様、俺が〈兄〉と仰ぐこの世で二人目の人だ」
陽王は目を細めて心から微笑した。
「それは楽しみだ!」
それから、王自ら先立って戸口へと向かった。
「さあ、須臾、そして、ジニーも、急げ!」
螢はジニーの腕を取った。
二人は見つめ合い、微笑を交わしたまま陽王に続いた。
だが──
扉を開いた王がそのまま立ち止まっている。
螢とジニーは怪訝そうに陽王の朱色の背中の向こうに目をやった。
そして、息を飲んだ。




