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「逃げられた、だと? よく言うよ。ええ? 辺境の麗しき王様よ?」
島帝国征夷派遣軍総帥紂謖は皮肉を込めて笑った。
「どうせおまえが逃がしたんだろう? あまりにも見え透いてるぜ?」
これこそこの男の本性だったのだが。
居並ぶ沙嘴国廷臣たちは押しなべて蒼白、戦慄している。
唯一人、陽王だけが毅然として前を見つめている。
「誠に申し訳ありません。全て私の失態です」
「ったく。大した王様だよ! あの波旬王子を弟にしてこの兄王あり、か? ああ、そう言えば──あんたも半分はあっちの血だったっけか、湖鬼め」
陽王は僅かに目を伏せただけだった。
堪りかねた丞相が一歩前へ進み出た。
「御無体に過ぎますぞ、紂将軍。こ、これ以上、我等が王への叱責はお慎み下さい」
「うん?」
紂は太い首を巡らして老臣を睨めつけた。
「お、王子逃亡の件は……本当にに王は何も御存知なかったのです。かねてから王子と通じていた異郷の娘が勝手に牢を開けて──」
「よせ!」
王自ら丞相を制した。
「フン、せっかくあの可愛らしい砂漠の小狼を今度こそ存分に味見してやろうと楽しみにしていたのに。実際──」
紂はこれ見よがしに卑らしく言ってのけた。
「あいつは俺好みだったものなあ!」
陽王は伏せていた目を上げた。
若き沙嘴王の端正な顔が憤怒に震えるのを見届けてから紂謖将軍は大声で笑いながら部下を引き連れて〈王の間〉を出て行った。
「王!」
どっと玉座に駆け寄る丞相以下廷臣たち。
王は両の拳を握って怒りに耐えていた。
「帝国人めっ!」
ふと思い出して、呟く。
「……須臾があいつを嫌っていたわけだ」
それから、身を翻して玉座を離れた。
その後姿を追おうとした廷臣たちに一言。
「一人にしてくれ」
「……陽王!」
自室に引き上げた陽王は押さえつけていた激情を爆発させた。
象嵌の施された美しい壁に拳を力一杯叩きつける。鮮血が、壁に、同じ朱色の胸元に、袖に、散った。
王はそのまま床に膝を突いた。
苦悩に歪んだ顔。無論、手の痛みのせいではない。
「須臾……螢……何故だ?」
何故、待てなかったのだ? 私が扉を開けに行くまで……!
それほどこの兄が信用できなかったのか?
この私が弟のおまえをみすみすあんな下劣な帝国人に引き渡すと、よもや本気で思ったか?
「馬鹿野郎!」
陽王は帝都で習い憶えた汚い言葉で悪罵した。
実際、王は王子を最初から、異郷の許嫁共々逃がしてやるつもりだった。
後の始末は全て王自身が背負う所存だったのだ。それを──
「早まりおって! よりによって……」
この兄に別れの挨拶もせず、おまえは湖族の陣へ逃げ込んだのだな?
それほど向こうの血が恋しいか?
その湖鬼の血こそ、皇后をして容易に王を裏切らせたものなのだぞ!
そして、今──
過ぎし日、父がそうされたと同じように兄の私をおまえに裏切らせる……
「全てこれのせいか?」
王は拳から滴る血を見つめて歯を食いしばった。
父上、私はあなたを一番恨みます。何故、我等が母を愛したのです?
「あの女は淫売だ!」
王は口に出して罵った。
かつて若い父王がどんな風に出会い、どんな風に恋に堕ちたか、容易に想像できる。
濡れた唇、誘う瞳……
愛を囁く母はさぞや美しかったろう。抗し難いほどに……!
事実、陽王は身を持って知っているのだから。
悪夢のような長い帝都の囚人暮らしに別れを告げて懐かしい故郷、沙嘴へ還って来た日。
十数年ぶりに伺候した母は思い出の中の母より百倍美しく、千倍優しかった……!
新王になった息子に惜しげもなくあえかな微笑を降り注いで、そして、堰を切ったようにあれこれと法外な要求をした。
そのどれもが砂漠の貧しい国と民が支えきれる以上の贅沢であるのを悟った時、帰還したばかりのこの若き王はきっぱりと母の奢侈の悉くを拒絶したのだ。
母自らが息子の寝所を訪れたのはその夜だった。
惹苺皇太后は零れるような微笑で臥牀の新王を見下ろして言った。
── 陽王は本当に先王にそっくりだこと! 私が沙海で出会った頃の……
呪われた漆黒の闇の中にあって、蛇のように絡みつく白いしどけない腕を振り解く力を若き沙嘴王は持たなかった。
だが、それが最初で最後だった。
二度と王は皇太后を自分の周りに近づけさせなかったし、彼女の驕慢を微塵も許そうとはしなかった。
賢明さにおいても陽王はまた、先王似だったのである。
「?」
陽王は妙な音を聞いて血に染まった己の手から目を上げた。
音のした方、露台へと続く一画を透かし見て、ギョッとした。
未だ夕焼けの残照が蟠っているその部屋の隅──
そこに赤い髪の異郷の娘が蹲っている。
弟の短剣を握り締めたまま……?
「おまえ!?」
陽王は低い叫び声を上げた。
「ジニーか? いつの間に? 一体何処から入って来たんだ?」
ジニーは夕陽の眩しさにまだ目が慣れていない様子だった。頻りに瞬きをしている。
「……陽王? 陽王なのね?」
ああ! やった! 私はやったわ……!
王は流石に驚いて立ち上がった。それを素早く制してジニーが言う。
「人を呼ばないで! お願い、私は大切なことを伝えに来たのよ! 陽王、あなたにしか聞かせられないことを!」
一層驚く陽王。
「螢は? あの人はまだ城に戻ってないのね? そうでしょう?」
「須臾か?」
王は血の乾かない拳を握って頷いた。
「あいつは逃亡したのだからな。だが、あなたと一緒ではなかったのか? あなたが牢番を騙して牢の鍵を盗み取り、扉を開けたと──」
ジニーは首を振った。
「そのことは謝ります。でも、今はそんなことより大切な話があるんです。聞いてください」
心の中は喜びでいっぱいだった。
(ああ! 良かった! 私はまにあったんだ……!)
改めて、ジニーは王の前に進み出た。
裳裾を翻し螢の剣を再び裙子にたくしこむと両手を会わせて跪いた。
「王様にお伝えします! 螢は戻って来ます! あの人は今、こっちへ向かっているんです!」
陽王は困惑して眉を寄せた。
「戻って来るだと?」
「そうです! 誤解を解くために……そして、許しを乞うために、です。
螢は今日まで自分の出生の秘密を何も知らなかったんです。だから、彼が湖族に味方したのは自分の血のせいじゃなくて……ただ純粋に、母国と信じて愛しているここ沙嘴国の未来を思って……陽王や人民の幸福を彼なりに考えた末のことだったんです!」
ジニーは一心不乱に訴えた。
「螢は王が湖族の将・湖鬼神と会ってくれるよう願っているんです。その男が沙嘴国の安寧と平和を維持するために大きな力になると信じています。なにより、沙嘴王であるあなたのよき協力者になると予見しているんです」
これ以上何を言えばいいのかジニーにはわからなかった。
「ただそれだけなんです! 螢には他にどんな汚れた姦計も、野心も、欲望もないわ!
湖族とか、沙嘴とか、種族の血とかが問題なんじゃない! そんなのを超えて──」
ジニーの瞳から後から後から涙が溢れてきた。
「陽王! どうかわかってあげて! 螢の思いを! 彼はあなたを裏切ったわけではないわ!
その証拠に、殺されるのを覚悟で、それでも身の潔白を伝えるために、今戻って来ようとしているんです!」
「須臾……」
「彼を助けて、陽王! 私の螢を殺さないでっ!」




