*39
「ジニー?」
真っ先にジニーの様子の変化を感じ取ったのは赤穴局員だった。
ジニーは腕の中の書物を全て床に放り出すと叫んだ。
「こんなの全部ウソっぱちよ!」
フッカー博士が眉を寄せる。
「ジニー?」
「何てことを!」
非難の声を上げたのはキニアン女史だ。
だが、ジニーは怯まなかった。赤い髪を振って、取り巻いている3人に敢然と言い放った。
「みんなデタラメだわ! だって、螢は死なないもの! 私が守ってみせる!」
「あのね、いくらあなたが〈至宝〉でも歴史は変えられないわ」
床から本を拾い集めながら女史は首を振った。
「既に決定している過去の事実を人間が変えられるもんですか」
博士も頷いた。
「その通りだ。不可能だよ、ジニー。辛いだろうが、沙嘴の王子とのことはうたた寝の美しくて儚い夢とでも思って諦めなさい。そうするのが一番いい。それに、考えようによっちゃあ素晴らしい体験をしたわけだし。今回のことは君だけの大切な思い出として心にしまっておきなさい」
だが、ジニーは博士の言葉など聞いていなかった。夢とか体験とか思い出とか、その種の耳障りの良い過去の話に興味はない。今自分が見つめているのは未来なのだ。
「歴史は変えられない? 本当にそうかしら?」
ジニーは顎を上げて周囲の大人たちを見回すと、言った。
「だって、それは私の前に誰もそういうことを試した人がいないってことでしょ? 挑めた人がいなかったってだけじゃない? でも、私はやるわ! やってみせるわ!」
でなけりゃ、何のための〈至宝〉よ?
恋人の──未来の、いえ、過去の? 〈夫〉の命一つ守れないで?
ここで、ジニーの肘を掴んだ者があった。
まるで小鳥が飛び立つのを恐れるように、そうっと腕を伸ばして繋ぎ止めたのは──
「赤穴局員?」
吃驚してジニーは長身の男を仰ぎ見た。
「そこまで言うなら本当のことを教えてやる」
身を屈め苦悩に満ちた声で赤穴は囁いた。
「あのな、君と同じ能力を持っていた〈至宝〉が過去一人いたことはいたんだ。中央管理局の公式記録によれば、彼女もまた一人の男の命を救うために〈超時間瞬間移動〉を試みている。しかも、当時の管理局員の目の前で」
ジニーは期待と不安に満ちた目で赤穴を見上げた。
「それで? どうなったの?」
博士と女史も思わず局員へ顔を向けた。
赤穴はゆっくりと答えた。
「彼女は成功した」
「ほらね! ご覧なさい!」
ジニーは歓声を上げて手を叩いた。
「だったら、この私だって──」
「だが、よく聞け」
掴んでいた赤穴の腕に力が篭る。
「そいつの場合、時間差は一分にも満たなかった。事故の爆発の中から恋人を救い出したんだが──時間的ロスは一瞬だった。だが、君の場合はどうだ?」
問い質す赤穴洸の声は地の底から響いてくる様に重く凍えていた。
「何しろ、君の言うその王子様の〈死〉は歴史書に載ってるくらい遠くて、長くて、確定している。
膨大に堆積された時間の紡ぐ魔の糸……それをたった一人でどうかできると考えるほど君は愚かではないはずだ。そんな真似をしたら、君自身の体が……存在がどうかなってしまうに違いない」
何千、何万、何億もの〈時〉の糸に絡み取られ、〈歴史〉の濁流に飲み込まれる……
赤穴は声を荒らげた。
「それがわかっていて、みすみす俺がおまえを行かせられるものか……!」
「理想的な〈至宝〉管理局員ね、あなたって!」
ジニーは皮肉っぽく笑った。
いつもそうだったけど……!
眼前の男、赤穴はいつも何処でも理想的で完璧な監視人だった。
ジニーはその事実を突然思い出した。そして、それがどれだけ嫌だったか。どれほどこの男の眼差しを恐れていたか、も。
「でも、もうゴメンだわ! 今こそハッキリ言ってやる。私はあなたの至宝じゃない! 管理局の至宝じゃないわ! 私は……螢だけの……宝なの!」
ジニーは剣を抜いた。
砂漠で気を失う前、咄嗟に薄墨色の裙子にたくし込んだ一振りの短剣──
それこそ、馬で駆け去る王子の腰から引きちぎった──恋人の守り刀だった。
局員も、博士も、女史も、燦めく鋒に凍りついた。
「そ、そんな物……いつの間に?」
「待て、おい、それは──沙嘴国の? 時を経ていない現役の遺物か!?」
博士の昂ぶった声に、女史も目を輝かせて、
「まあ! 何て美しい……! ジニー、もっとよく見せてちょうだい……」
「馬鹿言わないでよ!」
興奮して躙り寄ってくる古代学の下僕たちをジニーは剣を振って一喝した。
そして、そのままゆっくりとドアの方へ後退る。
「博士、安心して! もう砂上車を貸せなんて言わないから。だって、私にはそんな物必要ないってわかったもの。この局員さんのおかげでね」
チラとジニーは赤穴を一瞥した。
宝剣の燦きに我を忘れた学者たちとは違い〈至宝〉管理局員はさっきから一歩も動かず立ち尽くしている。その瞳を見て一瞬ジニーはたじろいだ。
男の目に宿っているものが予想に反して〝怒り〟ではなかったからだ。
「?」
あれは何だろう?
それは──〝悲しみ〟だった。
不安の因子……ピッタリと嵌らないパズルの欠片がここにもある……
だが、今はあれこれ考えている時間はない。
ジニーは高らかに宣言した。
「私は螢より早く城に着けるわ!」
空間的に飛べなくても、時間的に飛べばいいのだ。
螢の着く前の沙嘴城へ……!
「そうなんでしょう?」
フッカー博士に確認する。
「今、躍起になって掘り起こしているこの遺跡は……あそこなのね?」
沙海の真珠、宝都・沙嘴国……!
それで何もかもはっきりする。
私は、あの日から何処かへ行ったわけじゃなかった。
ずっとここにいたんだ……!
「だとしたら──」
「ジニー!」
博士と女史は同時に叫んでジニーを止めようとした。
「──このまま跳べばいいんだ! 帰ればいいのよ!」
ジニーは剣を握ったままドアから飛び出した。
外は既に夜の帳が降り始めていた。
一目散に発掘作業中の現場へ走る。奥へ、できる限り奥へ……
埋もれた城の遺跡は砂の一部に見える。
だが、そんなことは構わない。あの日──初めて陽王に誘われてここを訪れた時ですら、ジニーの目には沙嘴国は砂の化身に見えたから。
ただ自分の勘だけを頼りに憑かれたように走って、走って、走って、足を止めると、ジニーは剣を胸に抱き寄せた。
一心に祈った。
(螢の剣よ。おまえだけが頼りよ?)
私を導いて!
おまえをの所属する時代へ……!
おまえを元の場所に返してあげる。
だから……迷わずに私も連れてって……!
ジニーを取り巻く闇に継ぎ目はなかった。
何処から何処までが現在で、何処から何処までが過去なのか、境目が見えない──
体を折り曲げ、己を支える杖のようにただひたすらジニーは王子の剣を握り締めた。
すると、闇は一層濃さを増して行った。




