*3
鮮血を迸らせて兵の体は砂上に崩れた。
抱き起こす王子。
「しっかりしろ! こんな傷──」
しかし、兵の首はガックリと折れたままだった。
「……だめか」
王子は歯を食いしばると四方を見回した。
「馬は力尽きる。味方は全滅。クソッ、こんな砂漠のど真ん中で下手すりゃ俺も終わりだぞ」
重い甲冑を脱ぎ捨てると歩き出した。
沙海生まれだ。星の位置で母国の方角はわかる。夜明けがそう遠くないことも知っていた。とにかく歩き続けるまでだ。
小さな砂丘に差し掛かった時、足を取られてもんどり打って倒れてしまった。
起き上がらず、そのまま転がっていた。
「──?」
突然、砂を透かして微かな響きを聞いた。
果たして、遥か前方に人馬の列が見える。
「しめたっ! どうやら死なずにすんだぞ」
勢いよく立ち上がると王子は満身の力を込めて叫んだ。
「おーーい! こっちだ! 助かった……」
「……でもないか」
近づいて来た群れを見て王子の顔は一瞬の内に翳った。それは湖族の軍勢だったのだ。
泥色の騎馬兵団は王子を取り囲むと馬上から口々に囃し立てた。
「これは、これは!」
「こんな沙海の真ん中に?」
「馬もなくて?」
「おまけに血に汚れた大変酷いナリをしているなんて?」
「なんと可哀想な人だろう!」
ドッと湧き上がる嘲笑の声。
将領格と思しき見事な髭の男が一歩前に出た。
「ふん、その装束からして──昨夜、俺たち湖族の遊撃隊を深追いした馬鹿な沙嘴の残党だな?」
「そうとも!」
王子の顔は恥辱に紅潮した。
「剣を抜け! たとえ最後の一人になろうと我々沙嘴国人は堂々と戦うぞ!」
またしても甲高い笑い声が彼方此方で上がった。
「こいつは、ちょっと馬鹿だ」
兵たちの哄笑を背に髭の将もニヤニヤして、改めて王子に質した。
「剣か? 抜いても良いが──おまえは一体何で戦う? 何処で失くしたものやら、はて? 武器を持っていないようだが?」
すかさず入る揶揄の声。
「多方、怖気ずいて砂の中に落っことしたんだろうよ!」
怒りに震えながら王子は叫んだ。
「体がある! 見てわからないか?」
「こいつはかなり馬鹿だ。俺たち湖族相手に素手で戦うだと?」
湖族騎馬軍団の笑い声は今や耳を聾せんばかりだ。髭の将は吐き捨てた。
「ガキ一人、どうということはない。その根性に免じて見逃してやる。さあ、何処なりとも行くがいい……!」
王子は拳を握ってきっぱりと言い放った。
「俺の名は須臾王子。沙嘴国第三王子だ! さあ、これでも相手にしないか?」
泥色の群れは静まり返った。
不穏な沈黙の後、髭の将が叫ぶ。
「こいつは大馬鹿だ!」
もはや誰一人笑う者はいなかった。
「黙っていれば助かったものを。だが、よく言った! 第三王子ならば──王族!」
「これは俺の手柄だ!」
血気盛んな一騎、拍車して飛び出すと抜刀。
「その首、もらったぁ──!」
王子は目を見開いて迫る兵を凝視した。
両足に力を入れて最後の姿勢を整える。
足の裏の砂の感触は優しい。目は瞑るまい、とそれだけを心に決めた。
「よせ」
あくまでも静かな声だった。
だが、その一声でいきり立っていた群れは動きを止めた。
群れを割って、宛ら叢雲から月が出るように現れた一騎。
王子は吃驚して声の主を仰ぎ見た。馬上からその男も地上の、最期の姿勢を保ったままの王子を見た。
「何故、止めるんですか、湖鬼神?」
さっきの髭の将が訝しんで問う。
(……湖鬼神?)
片や、雷に撃たれたように王子は身を震わせた。せっかくの姿勢が崩れるがかまっちゃいられない。
(じゃあ、これが──)
これが、あの、〈沙海の常勝王〉と讃えられる湖鬼神か?
昨今、その勇名は嫌というほど聞いていた。
馬を駆ること風のごとく、刃の冴えは月光のごとし。一兵にして万の軍を震駭せしめる〈湖族の鬼神〉……〈漆黒の覇者〉……
(しかし、こんなに若かったとは!)
別種の感慨に撃たれて王子は目を細めた。
王子は勿論、湖鬼神を直に見るのはこれが初めてだった。
そもそも、敵兵がこの男を近くで見る時、それは紛れもなく死ぬ時だと恐れられている。しかも、その時でさえはっきりと己の姿を確認させるほど湖鬼神は時間をかけはしないとか。
髭の将は繰り返し質した。
「どうして止めたんです?」
「潔くない」
王子は声を上げそうになった。
(何だと? あの男は、今、何と言ったんだ?)
「馬もない、武器もない、傷ついた子供を討つのは潔くない」
「俺は子供じゃない!」
なんとか言えたのはそれだけ。王子に続いて湖族の兵たちも口々に騒ぎ出した。
「王子の言う通りだ!」
「しかも、こいつはただの子供じゃない、沙嘴の王子だぞ!」
「それをみすみす見逃すとは……!」
「勿体ない!」
「二度言わんぞ」
湖鬼神はまた一言で群れを鎮めた。
髭の側将は呆れ顔で首を振った。
「全く、あなたならではだ。湖鬼神、俺たちには毛頭理解できない。一体、どうして、そんな風変わりな命令を平気で口にできるのか……」
「そうか? 俺はいつも思ったままを口にしているまでだ」
「では、何をいつも思っているんです?」
とはいえ、髭の将の顔は微笑んでいて体は素直に従っていた。どれほど湖鬼神に心服しているかが窺える。抜刀した若い兵の方もとっくに剣を鞘に納めていた。地上の、相変わらず不動の王子に苦笑してみせる。
「運がいいな、王子様?」
髭の将、手綱を引いて馬首を改めると言った。
「では、虜囚として連れて行くことにします。これなら、文句はないでしょう?」
「帰り道がわからない?」
流石に陽王は吃驚して聞き返した。
一夜明けた沙嘴城内、〈王の間〉でのこと。
王同様、戸惑いを隠せずにいる廷臣たちの間に立ってジニーは両手を揉み絞って訴えた。
「だって、昨日は夜だったでしょ? 私はこの辺りは初めてなんだもの。それを暗い中、ただあなたたちにくっついてここまでやって来るなんて……軽率だったわ!」
廷臣たちは頭を寄せ合って何事か意見を交わし始めた。いち早く決断を下したのは、例によって若き沙嘴王だった。
「心配するには及びません」
思いのほか明るい声で王は言う。
「もう少ししたら護衛の兵をつけて道を探し、無事貴方のキャラバンまでお送りしましょう」
「もう少し?」
ジニーは眉間に皺を寄せて、
「今ではダメなの?」
この問いには臣下の中から鴻儒が進み出て説明してくれた。
「ご客人も昨夜、身を持ってご存知の通り、現在湖族どもが我が沙嘴国近辺に陣を張って隙あらば攻め立ててくる状態のため我々としても迂闊に城壁外へは出られないのです」
「もう少しすれば──」
王は厳かな声で言う。
「帝国から征夷派遣軍が到着することになっています。だから、どうでしょう? それまでここに滞在されては?」
「でも」
「何か不都合がおありですか?」
「私は全然構わないんだけど」
言葉を切ってジニーは心の中で呟いた。あーあ、フッカー博士たちはきっと今頃、大騒ぎしてるだろうな? キャンプ一日目にして身元不明の謎のアルバイター、早くも失踪、なんてね。それに──
ジニーは周囲に綾なす近臣たちをそっと窺った。
いかにも物事に拘らない、鷹揚で寛大な若い王とは違い、彼らは〝湖族ではない〟と一応了解したとはいえ、やはり〈異邦人〉である自分に心を許してはいない。邪魔者を見るようなよそよそしい態度をジニーも肌で感じていた。
その懸念を察したらしく王は近臣たちを眺め渡すと、
「さて、おまえたち。私の〈命の恩人〉であるこの旅のご客人を今暫く我が王城に留め置くことに異存はなかろうな?」
「異存ありません」
代表して丞相が答える。
「須臾王子がいなくなられた今、その分、城は寂しくなりましょうから……」
ジニーはハッとして息を飲んだ。王の瞳に翳が射す。
しかし、王はそれ以上何も言わず唇を引き結ぶと玉座を立って紗幕の向こうへ去った。
残された格好となったジニーと廷臣たち。
恐れを知らぬ至宝管理局育ちのジニーは昂然と顎を上げ彼らを非難した。
「何よ? それ、その言い方! あんたたち、まるでもうあの王子様が帰って来ないって言い草じゃない? あれじゃ王様が怒って当然だわ!」
「しかし……」
祐筆が汗を拭き拭き弁明する。
「沙海に湖族を深追いして帰って来た者は、未だかって一人もおりません」
「──!」
ジニーは身震いした。
近親たちの不吉な言葉ばかりではなく──今、妙な視線を感じた。
(誰?)
素早く周囲を見廻す。
誰かが自分を見つめている、そんな気配を強く感じる。
だが、勿論、視線の届く限り自分を見ているものなど存在しない。
〈王の間〉のモザイク模様の美しい壁が、差し込む陽の光を受けてあちらこちらでキラキラ揺れている他は。
では、とジニーは思い直した。壁に施された象嵌の一つ、あの毒々しいほどに愛らしい赤い石。蛇苺みたいなあれが人間の目に見えたのかな?




