*30
一命は取り留めたものの湖鬼神の傷は思いのほか深いようだった。
幕の陰にその身を横たえて眠ったのを見届けて出て来た峰雀が螢に教えてくれた。
「背後から特攻してきた帝国兵の刃にかかった……」
従来の湖鬼神からは考えられない一瞬の気の緩みが仇となった、という言葉を若い准将は飲み込んだ。
実際、あの刹那、鬼神は鬼神ではなかった。
(唯の人間だった……)
鬼神の心が不在だったのを、一番間近にいた峰雀は気づいていた。以来ずっと、湖鬼神を鬼神たらしめていたものは何だったのかとこの若武者は考えていたのだが。
「気になっていたんだ。こういうことになるんじゃないかと。このところの湖鬼神には〈闇の化現〉と恐れられていた頃の〝凄味〟が全くない……」
螢を見つめて少々意地悪く峰雀は付け足した。
「やっぱり、あの時、月下の沙漠で、俺がおまえの首を斬っておくべきだったな?」
眠る湖鬼神の幕より少し離れた幕内で並んで腰を下ろすや否や、今度はジニーが螢に食ってかかった。
「もう! こんなことなら沙嘴城の牢獄に閉じ込めておくんだったわ! だって、そっちの方が遥かに安全なんだもの……!」
「え?」
「えって、呆れた! じゃあ、あなた、本当にこれっぽっちも考えなかったの? 多少なりとも〝恐ろしい〟とか思わなかったわけ?」
弁解さえ待たずに湖族は王子を裏切り者として斬り殺したかも知れない。それを思うと今更ながらジニーは鳥肌が立った。
(冷静に考えれば、その可能性の方がずっと高かったんだもの。おまけに──)
剣を砂上に投げ捨てるとは……!
あんなシーン、二度と見たくない。全く、悪夢以外の何物でもなかった。
「本当に、さっき真顔で『首を斬っておけば良かった』と言い放った湖族の兵といい……どうしてこうあんたたち沙海の住人は血の気が多いのかしら? 私はついていけないわ! こんな生き方ゴメンだわ! 潔すぎるわよ!」
「あ、それ、湖鬼神の好む言葉だ!」
恋人の憤慨など何処吹く風とばかり螢は笑い声を上げた。
「〝潔い〟か。美しい言葉だよなあ!」
「とんでもない! アブナイ言葉だわ!」
ジニーの赤い髪に手を伸ばして砂を払ってやる王子だった。
そうしながら、静かに言う。
「なあ、ジニー? 湖鬼神と会って、あなたはどう思った?」
「どう思うって──」
一瞬、ジニーは躊躇した。
先の邂逅の際、自分を襲った不安を思い出したせいだ。
だが、それを言葉にして説明するのは難しい。自分でもあれが何だったのかよくわからないのだ。
そんな恋人の困惑には全く気づかず螢は続けた。
「俺は、湖鬼神にだけは軽蔑されたくなかったんだ。彼にだけは、絶対、俺が姦計を企むあの帝国の将と同種の醜い人間だなんて思われたくはなかった……」
「それだけのために? あなたはあんなに馬を飛ばしたの?」
一陣の風が舞って、また砂を巻き上げる。
払っても、払っても……
恋人の髪は気にかけるのに沙海育ちの王子は己の身に降る砂など微塵も気に留める様子がない。
膝を抱いて遠くを見つめるその眼差しに、ジニーは気づいた。
(ひょっとして……さっき湖鬼神を見て感じた不安の一因はこれかも知れない)
あの時、私は沙海で戦い続けてきたあの湖鬼の将の、身に染み付いた〝危険の匂い〟に過敏に反応してしまったのかも? それで、あんなに震えたのだ。
それだけじゃない。
全てを無にするような破壊の〝危険な因子〟を有しているのは一人あの黒髪の湖鬼だけではない。
「どうしたのか? 急に黙り込んで?」
「あのね」
ジニーは渋々認めた。
「何て言うか……あなたたち似てるわ」
「湖鬼神と、俺が、か?」
それはジニーなりの、胸に巣食う不安への警鐘だったのだが。
鬼神に心酔しきっている王子は賞賛と受け取った。
「煽てるなよ、ジニー! そういうの〝惚れた弱み〟って言うんだぜ?」
「まあ!」
心底、ジニーは呆れてしまった。
「ちょっと! 私は心配して言ってるのよ。湖鬼の将と似てるってのは褒め言葉じゃないわ。わかってるの? つまり、あなたも同類だってことよ! 危険な生き方をしてしまう傾向が──」
螢は最後まで言わせなかった。
優しく抱き寄せながら唇で唇を塞ぐ。
「気をつけろよ? 今、一番危険なのは俺じゃなくて──あなただぜ?」
こんな危険なら、すべての女の子は大歓迎なのだった!
久しぶりの王子のキスは、やっぱり少し砂の味がした。




