*29
自分の名を呼ぶ声を聞いた気がして螢は埋めていた両腕から顔を上げた。
「……そこにいるの? 螢?」
「ジニーか?」
異郷の娘の声は掠れていてほとんど聞き取れなかった。やがて、軋んだ音とともに重い牢の扉が押し開けられた。
「ジニー……おまえ──」
万感、王子は飛び込んで来た恋人を力一杯抱きしめた。
驚天動地の沙嘴王城内にあって、誰一人としてこの異郷の客人の動向を顧みなかったことが幸いした。おまけに、久しく使われていない獄舎の、年老いた番人から鍵を盗み取ることはさほど難しくはなかった。
「急いで! 馬も用意してあるわ!」
「よし!」
頷く暇もあらばこそ、螢はジニーの腕を掴んで走り出した。
「貴方も来るんだ! 俺を逃がしたと知れたら、あの帝国人に何をされるかわかったもんじゃない」
「でも──一体どこへ行くの?」
ジニーの問いには答えず馬に跳び乗った王子はただ一言、訊いた。
「怖いか?」
勿論、ジニーは即座に頭を振った。
「ううん! あなたと一緒なら怖い場所なんて世界中の何処にもない……!」
螢はジニーを自分の鞍の後ろに引っ張り上げると駆け出した。
空は既に白み始めている。
二人が沙海を疾駆する間に空はますます明るくなっていった。
ほどなく、沙海育ちの王子は気づいた。
残紅色に染まる地平から引き返してくる兵の一群がある。
ジニーが目を細めて、
「あれは、帝国軍?」
「……のようだな」
「と言うことは── 螢?」
背中にしがみついているジニーには螢の表情は見えなかった。
「湖族がそう簡単に全滅を食うもんか! よし、こっちだ……!」
螢は帝国軍に見つからないよう砂丘を駆け下り、大きく迂回して方向を変えた。
(湖鬼神、姫将軍、どうか……どうか無事でいてくれ……!)
なお暫く、螢は砂を飛ばして疾走した。
砂とそれ以外のものを見極める沙海育ちの王子の目が再び効を奏したのは、太陽が南中する頃。
一面の砂の海に、中洲と見紛う泥色の集団を見つけた。
帝国軍の夜襲を逃れた湖族連衡の一軍だった。
躊躇せず螢は拍車して、一気に突進した。
その声は泥色の兵馬の間を漣のように拡がって行った。
「──王子だ!」
「沙嘴の王子だ!」
「王子が来たぞ──」
急造りの幕の陰でゆっくりと身を起こしたのは、右肩から胸にかけて血に染まった包帯姿の湖鬼神、その人だった。
馬を降りたとたんぐるりを湖族の兵に取り囲まれた螢からも、しかし、はっきりとその姿は確認できた。
いつかのように、また涙の方が早かった。
湖族の将士等が取り押さえるより先に螢は湖鬼神に駆け寄った。
「良かった! 湖鬼神、良かった! あなたに万一のことがあったら、俺は……俺……」
「螢?」
足元に身を投げ出して泣き崩れる王子。
これには逆に湖鬼神の方が驚いて、大いに戸惑っている風に見えた。
「よせ、螢。もういい」
とうとう鬼神は微苦笑して言った。
「これじゃあ、一体どっちが襲われたのかわからないぞ?」
髭の側将、鵬は大将より現実的だった。厳しい声で王子を質した。
「夜襲の件で弁解はないのか?」
「ない」
螢は頷いた。
「今回のことは、全て俺の責任だ」
「違う! この人が悪いんじゃないわ!」
堪りかねてジニーが叫んだ。
「螢は利用されたのよ、悪辣な帝国人に!」
その場にいた全員がここで初めてジニー・スーシャの存在に気づいた。
陣中の視線が一斉にこの赤い髪の少女に集中する、勿論、湖鬼神も。
不敗の名を昨夜を限りに返上した湖鬼の若き将は暫くじっとジニーを見つめていた。
「?」
その眼差しに晒されたとたん、ジニーは硬直した。
(何だろう? これ、この感覚……?)
至宝管理局以来の──懐かしい居心地の悪さとでも言おうか?
パズルが足りない? いや、多すぎる?
せっかく完成したはずのジグゾーの不備に気づくあの嫌なカンジ……
眼前の黒髪の青年の凝視にジニーは自分の体が掻き消えてしまうような不安感を抱いた。
自分だけではない。
漸く見つけた、自分の本当の居場所、この世界が足下から音を立てて崩れて行く……
そんな気がする──
これは何? 破壊のベクトル? 消却の規矩?
(……やめて!)
思わずジニーは喘いで目を閉じた。
一方、湖鬼神はというと──
ジニーを襲った不安や緊張など露ほども気づいていない様子だった。
「あれか?」
傷を負った半身を螢の方へ傾げて小声で尋ねる。
「あれが、おまえの言ってた〝新しい家族〟とやらか? なるほど、小馬みたいに可愛いじゃないか!」
その表情はあくまで優しかった。
「ああ、ジニーって言うんだ。あの娘ことは……あなたに特別に頼んどくよ。俺に万一のことがあったら……どうか、最後まで、面倒見てやってくれ」
「?」
螢は涙を拭うと立ち上がった。
鈍い音が響いた。
砂の上に螢の剣が投げ出されている。
「好きにしていい」
螢は周囲の湖族の兵を見回して言い放った。
「俺は自分の罪を償うために来たんだから」
改めて手負いの湖鬼神に視線を据えると、
「あなたの無事を確かめた上は、もう思い残すことはない」
「そんな、螢……」
ジニーは両手を口に当てて息を飲んだ。
泥色の軍勢も凍った沈黙の中、身動ぎもない。
この不穏な静寂を破ったのは、瑚鬼神の明るすぎる笑い声だった。
「罪だと?」
傷を庇いながらも心底、可笑しそうに〈沙海の覇者〉は笑うのだ。
「俺たちは何をやってるんだ? 戦だぞ?
俺だって帝国兵を殺す。おまえの国とやればその兵を殺してきた。元々やってることがやってることだ。他人を呪う権利などとっくに喪失してるさ!」
そんなことより、と湖鬼神は王子を振り仰いで言った。
「おまえ……よく戻ってきたな? 俺は、もう……二度と会えないかと思っていた……」
ジニーを震えさせた瑚鬼神の眼差し……その理由は何なのか?
そして、明かされる螢の出生の秘密……




