*28
「ここを開けろ! 俺を出せっ!」
城内の牢獄で螢は狂ったように扉を叩き続けた。
「クソッ、帝国の腹黒い姦雄め! ……おい! 誰もいないのか? 兄上……!誰か……!」
「須臾」
麝香の香り……
螢は牢の扉にわずかに穿たれた明かり採りの窓に顔を寄せた。
暗い回廊に裳裾を引いて皇太后惹苺が立っていた。
「母上か?」
記憶している限り母が一人で城内を歩き廻っているのを見るのはこれが初めてだった。
四方に翡翠色の壁のない母の姿は曰く言い難い違和感を末王子に与えた。例えば、絵が額の中から抜け出たような。
が、それも一瞬のこと。今はそんな仔細に拘ってはいられない。
「母上! 助かった! 俺を……早くここから出してください!」
「王子よ」
母は慈愛に満ちた声で言う。
「王を討つしかありませんよ。今こそあなたが王となる時です」
「え?」
「あなたが新王となりますか?」
螢は扉の小窓に嵌った鉄柵を握り締めた。
「そ、そんなことじゃないっ!」
「いえ。これが肝心なことなのです。はっきりさせておかねばなりません。王を討つ気はおありか?」
「あなたの長子だぞ! そして、俺の兄で、現王だ! 俺は王になどなるつもりはないし、第一、俺は王の器量は持っていない。そんな戯言より、早くここを開けて──」
皇太后の顔は忽ち曇った。
「そう。そうなの? あなたもこの母の願いを聞き届けてはくれないのね?」
「母上? 今は一刻の猶予もないんだ! 俺は行かなければ──」
白魚のような指を似合いの華奢な顎に当てて惹苺はつくづく嘆息した。
「またしてもダメ。どうして私はこうも男運に恵まれないのだろう? 夫といい、息子たちといい、役に立たない愚鈍な臆病者ばかり……」
衣擦れの音が遠のいて行く。
鉄柵の隙間から指を伸ばして螢は絶叫した。
「は、母上? 何処へ行くんだ? 俺を助けに来てくれたのだはないのか? 母上っ!」
獄舎は再び静寂に帰した。
仄かな香りだけを残して惹苺皇太后は行ってしまった。
扉に背を預けたままズルズルと螢は崩折れた。
「何てこった……こうしてる間にも……」
何度打ち消しても湖鬼神や姫将軍の姿が脳裏を過ぎる。
半地下の湿った牢獄の中にあって、ジリジリと火に焼かれる思いがして螢はきつく唇を噛んだ。
湖鬼神は一晩中、夢を見ていた。
悪夢に魘されていたような気がする。
決まって、最初は頻迦の瞳から始まる──
彫刻のある豪奢な柱の影から覗いている、自分より長身の少女の姿。
その瞳を見て、砂漠の泉よりも透き通っているな、と思って感動する。
すると、透明な瞳は幾千の雫となって身辺に降り注ぐのだ。
キラキラ……キラキラ……
揺れているのは雫ばかりではない。
白い、細かい花たちの……庭?
これは、いつか遠い日、自分が実際に見た光景かも知れない。
傍らに自分なのか自分でないのか、分かち難い誰かがいる。
同じ年頃、同じ背丈。
分身のようなその誰かの後を必死に追いかけて行く自分……
『お待ちください、兄上……!』
『待たないよ! 来たかったら勝手について来い!』
やがて、先行する影は美しい泉に至った。
『ほら! 見てごらん!』
夏の陽射しは眩しくて、水面を滑る光の反射が目に痛かった。
それでも身を屈めて覗くと、指差している朱色の袖の先、緑燦めく水底に、月の光を凝らしたような刀剣が見えた……
「──?」
湖鬼神は目を開けた。
風が焦げる匂いがする。激波の如き馬たちの嘶き。
幕舎の堅帳が跳ね上がって誰かが叫んだ。
「夜襲だ! 湖鬼神! 帝国軍が来たっ!」
「夜襲だーーー!」
「帝国軍だ、姫将軍……!」
「まさか?」
姫将軍・玄頻迦も驚愕して幕舎より飛び出した。
湖族連衡沙海遠征軍幕営は騒然となった。
射掛けられる矢! 火矢!
炬火も投げ込まれ出した。
時を移さず一気に陣内に雪崩込んで来た紫の帝国騎馬の群れ。
「馬に乗れっ!」
湖鬼の怒号が飛び交う。
「馬を追い散らせ!」
帝国軍将領の咆哮が重なる。
「馬に乗せるな! 乗る前にブチ殺せっ!」
「湖鬼どもは馬がなければ手足を捥ぎ取られたも同然……何もできぬ!」
「馬を確保しろ! 慌てるな、馬だ!」
早くも湖鬼神は抜刀して帝国兵を撃攘しつつ馬上より指示した。
馬を寄せ、いつになく青ざめた顔で問うのは峰雀。
「湖鬼神、奴は──王子は我々を欺いたのだろうか?」
「螢か?」
瞬間、湖鬼神の眼は現実を離れ、自身の暗い胸中に向いた。
「いや。あいつは……あいつに限って──」
峰雀が絶叫で遮る。
「危ないっ……湖鬼神!」
「──え?」
眼前で閃いた白刃は夢で見た水底のそれと全く区別がつかなかった。
(では、やはり?)
湖鬼神は思った。
あれは予知夢だったのだ。
俺が昨夜見た夢の、意味するところは、これか?
白濁する意識の中で、今一度、瑚鬼神が不思議に思ったのは、沙嘴の王子への疑心などではなかった。
千千に零れる雫のこと。
夢の庭で飛散していた雫はどれも透明だったぞ?
それなのに、今、この身に降りかかる飛沫がちっとも透き通っていないのは何故だ?
無論、それは──
泉の雫ではなくて、己の血飛沫だからだ……!




