*27
懐かしい沙嘴王城中院に帰りついた瞬間、螢は肌で殺気を感じ取った。
「!」
果たして──
暁闇の内、さらに濃い邪悪の影が待ち構えていた。
「お帰りなさいませ、須臾王子!」
「……紂将軍?」
忽ち、どっと湧いて出た帝国兵に愛馬から引き摺り下ろされる。
「放せ! 無礼だぞ! これは何の真似だ?」
「フン、では、あなたのは何の真似だ?」
両腕を拘束されて引っ立てられた王子を帝国軍驍将は蛇のような目で睨めつけた。
「この、沙海の波旬め! 貴様、大したタマだな? よりによって湖鬼と通じていたとは……」 ※波旬=悪魔
螢は察した。
(しまった! では、そうか? つけられた……)
紂謖は王子の首に巻かれていた黄巾を毟り取った。
「私につれないはずだ。王子は近親婚がお好みか? あの黒髪の湖鬼とおデキになっているとはねぇ!」
螢は燃える目で卑俗な帝国人を睨み返した。
「紂将軍!」
引き攣った声──
廷臣たちを引き連れて、まさに今、中院へ走り出て来た陽王だった。
紂はもはや何ら憚ることなく王子の顎へ手をかけたまま沙嘴王一行を出迎えた。
「これはこれは、兄王殿!」
「兄上……俺は……」
「言うな、この馬鹿者! 最前、私があれほど……あれほど言い聞かせたというのに……!」
血相を変えて飛び出して来た王が、まず最初にしたのは、派遣軍総帥の腕に手を置いて弟王子から引き離すことだった。
その後で、深々と頭を下げた。
「紂将軍、代わって私が如何ようにも謝罪いたします。弟はまだ浅はかで未熟な子供なのだ。
今後は、誓って二度と、このような愚かな振る舞いはさせません。ですから、どうか、どうか、寛大なご処置を……!」
「私の兵がこいつのせいでどれだけ犠牲になったかわかっているんでしょうな?」
再び紂はこれ見よがしに王子の髪を掴んだ。
刹那、陽王の瞳に鋭い光が走った。
一見、平身低頭して許しを乞うているのだが、弟王子に手をかけた将軍の不埒な行為に、激憤が双眸より迸った。
その形相の凄まじさに、さしもの総帥も思わずたじろいだ。
それほど、日頃の寛容で温雅な佇いからは想像できない王の豹変ぶりだった。
「う、うむ……まあ──」
渋々、紂は頷いた。
「今回は王に免じて目を瞑りましょう。それに、ある意味王子のおかげで仕返しができるわけでもあるし」
紂は鷲掴みにしていた王子の髪から手を離すと、
「よろしい。命は助けましょう。但し、このまま放って置くわけにもいきません」
受けて陽王、沙嘴国の衛士たちに向かって命じる。
「王子を幽閉しろ!」
「結構!」
満足の体で首肯する将軍だった。
「兄上! 俺はこの場で斬り殺されたって構わない! だから、お願いだ、俺の言うことを聞いてくれ! こいつらはダメだ! 帝国人ではダメなんだっ!」
果敢にも王子は叫んだ。
「こんな帝国人どもより湖族の方が信じるに値する! ずっと、ずっと……頼れるんだ!」
王子の絶叫を紂はひどくおもしろがった。
せせら笑って言う。
「ほほう! その頼れる湖族どもが朝までに何人残っているか……」
「え?」
息を飲んだ王子に構わず、紂謖は頭を巡らして配下の将領に怒鳴った。
「無駄な時間を取ってしまった。さあ、すぐ出発だ!」
時ここに至って、初めて螢は心底震えあがった。
「ど、どう言う意味だ? あれは、兄上?」
兄からの返答はない。
陽王は口を固く引き結んだまま、中院の地面に今たっても将軍が投げ捨てた黄色い巾を見つめている。
この夜半、武具万端整えて立つ帝国派遣軍総帥に視線を戻して、螢は自ら悟った。
「……夜襲!?」
「左様」
肩越しに振り返った将軍の剣呑な微笑。
「あなたのご親切な密告のおかげで湖鬼どもは今頃、さぞやぐっすりとお休みでしょうからな?」
(謀られたっ!)
螢は呻いて膝を折った。
休戦宣言だと? あれは初めから俺を誑しこむ罠だったのか……!
蒼白の王子の脇を通りしな、今一度足を止めて紂は言うのだった。
「あっちの掃除が終わったら、次はおまえの番だからな、湖鬼め。せいぜいおとなしく待っていることだ」
それだけではまだ足りなかったと見えて再び顎に手を伸ばした。
宛ら、自邸の庭の白梅に触れる、それと同じ動作で、抗う王子の顔を強引に己の方へ向けさせる。
「私の約束を憶えておいでか、王子? 奴隷の作法をたっぷりと叩き込んでやる。楽しみだな? アーハハハハ……」
紂謖は哄笑しながら去って行った。
「クッ、畜生! ブッ殺してやる……!」
狂ったように暴れだす螢。
それを慌てて取り押さえ、引き戻す衛士たち。
丞相以下廷臣たちも震えが止まらない。
「お、王子を……は、早く、牢へ連れて行け……!」
陽王は王子からも近臣たちからも目を逸らして、沈痛な声で衛士に命じた。
少し離れた噴水の陰からジニー・スーシャはこれら一部始終を目撃した。
王子絶対絶命? さあ、どうするジニー…




