*26
満天の星と月……そして、砂漠……
螢は疾走した。
やがて見えて来る赤い篝……湖族の幕営……
螢は躊躇せず突進した。
後を追って来た二騎は駒を止め、王子が湖鬼の陣門を潜ったのをしっかりと見届けた後、馬首を返して走り去った。
湖鬼神の幕舎では、またしても両脇を固める腹心たちの方が先に口を開いた。
「休戦か。それが真実なら──こちらとしてもありがたい話ではないか、湖鬼神?」
「全くだ! 我々とて兵力には限りがある。そろそろこの辺で部下たちにも休息を取らせたいところだった」
湖鬼神は股肱の二人にただ一言、言った。
「おまえたち、席を外してくれ」
瞬間、両脇の将領は驚いた様子だった。
「俺は螢と二人だけで話がある」
鵬と峰雀は互いに顔を見合わせたが、何も言わず退出した。
二人きりになってから湖鬼神は改めて顔を上げ、真っ直ぐに螢を見つめて口を開いた。
「螢、今日は俺は聞かねばならん。おまえの密告はこれで二度目だ。もはや〈恩返し〉ではない。おまえは自分のしていることの意味がわかっているのか?」
螢からは返答はなかった。
更に湖鬼神は質した。
「どうして俺たちの……湖族の味方をする?」
まだ、螢の答えはない。
「おまえのやっていることは生国・沙嘴への裏切りだ。おまえは……兄王を裏切るつもりなのか?」
「兄を裏切るつもりはない」
きっぱりと螢は答えた。
いったん口を開くと堰を切ったように言葉は流れ出す。
「俺はあなたに会って以来、ずっと考えてきた。そして遂に結論に達した。沙嘴国は帝国の下では幸福になれない。帝国より湖族につくほうが良い」
湖鬼の戦将を見つめる王子の双眸に迷いの影は微塵もなかった。
「俺はあなたたち湖族に、帝国軍に勝ってもらいたい。自分たち弱小の沙嘴国ではとても敵わないが──あなたたちに帝国軍を徹底的に打ち負かしてもらいたいんだ」
そのためになら、今後も協力を惜しまないつもりだと王子は言明した。
「征夷派遣軍が無様に敗走を繰り返し、遠い島帝国の力がここ沙海においては全く頼りにならないことを目の当たりにすれば、流石に沙嘴国としても湖族につかざるを得なくなる……」
「それでいいのか?」
少なからず驚いて湖鬼神。
「それだからこそいいんだ!」
若い王子は破顔した。
「所詮、単独ではやっていけない弱小国でもこっそりパートナーを選ぶ権利くらいあるさ!」
チラリと湖鬼神の顔を窺って、
「湖族連衡は俺たち沙嘴国を侵略などしないはずだ。同盟国として対等で平等な扱いをしてくれるだろう?」
鬼神は笑いを噛み殺した。
「帝国もそう言ってるぞ?」
「嘘だっ!」
火のような王子の激昂を湖鬼神は見た。
「帝国人はハッキリと言った! 俺たち沙嘴人は連中の〈奴隷〉なのだと! だが、湖族は……湖族なら俺たちを隷属などしないはずだ!」
「どうしてそう言い切れる?」
純粋過ぎる若者の上気した頬の色。
自身、まだ少壮ながら既に百戦錬磨の湖鬼の将は少々意地悪い思いに駆られて反駁してみた。王子の論理は清澄だが、あまりにも脆弱だ。
「帝国を斥け、湖族に与すると言うが──おまえが俺たち湖族をそうまで信じる根拠はどこにある? 帝国と同じくらい俺たち湖族だって未知だろう?」
王子はたった一言で言ってのけた。
「だって、湖族にはあなたがいるもの!」
「──……」
急所を突いたつもりが、突き返された……!
湖鬼神は目を瞠ったまま返す言葉がなかった。
「あなたは信じるに値する人間だ。そうして、あの姫将軍も」
湖鬼神の沈黙をよそに螢は朗々と思いの丈を語るのだ。
「俺は、今は亡き父王が大好きだった。母上のことも敬愛している。兄王はかけがえのない存在だし、結婚を誓った愛しい娘もいる。皆で幸福になりたいんだ!
贅沢言うなら、俺が産まれ育った国、丸ごとな!
だが、帝国の下ではオチオチしていられない気がする。いったんそう感じた以上──疑心を抱いた以上それについて口を噤んでいることこそ裏切り行為じゃないのか?」
王子の思考は至極単純明快だった。
「だから、俺はあなたに味方するんだ。あなたが帝国軍を撃破して、その後、直接、兄王に会ってもらうのが俺の望みだ。1対1で会えば俺の言わんとしていることを陽王も必ずや理解してくれるはずだ。何しろ陽王は、弟の俺が言うのも何だが、沙海一の賢明にして玲瓏な王だからな!」
漸く瑚鬼神が口を開いた。
「湖族を味方するのは自分が王となって沙嘴国を率いて来る、という意味ではないのか?」
「え?」
今度は螢が口を閉ざす番だった。
湖鬼神の言ったことが理解できない様子でしきりに瞬きしている。
湖鬼神は改めて訊いた。
「兄王を弑逆しようと言うのではないのか?」 ※弑逆=謀反を起こして殺す意
永劫とも思える時を経た後、螢の口を突いて出た言葉は短かった。
「何故?」
眉間に皺を寄せ、首を傾げて王子は訊いてきた。
「何故、俺が兄を殺す必要がある?」
「何故って、それは──」
自分をまっすぐに見つめている王子の晴眼。
「いや、いい」
湖鬼神は全身の力を抜いて膝を崩した。黒髪を掻き上げると明るい声で、
「よし、わかった! おまえの期待に沿うよう努力するとしよう。今後はおまえの画策が順調に成就するべく俺も一層気合を入れねばな?」
「湖鬼神!」
再び王子の顔にも笑みが戻った。
「そして、1対1でおまえの兄王に会うところまでこぎつけて──俺を気に入ってもらわねば」
そこまで言って湖鬼神は片笑窪を星のように燦めかせた。
いつもながら年下の王子をからかわずにはいられない。
「尤も、おまえがそうだったからって、おまえの兄が俺を好いてくれるかどうか。そこまでは俺も責任は持ちかねるぞ?」
(大丈夫さ!)
螢は心の中で独りごちた。あんたたちはきっと馬が合うさ!
口に出してはこう言った。
「じゃあ、俺はこれで」
幕舎を出た後で、例によって見送りがてら王子と並んで歩いていた折り、ふいに湖鬼神は訊いてみたくなった。
「なあ? 兄とは……どんなものだ?」
「え?」
「いや、つまり、陽王はおまえにとってどんな存在なのだ?」
常日頃『根を持たない』と自嘲する不敗の敵将の、胸深く宿る肉親への憧憬を垣間見た思いで螢は足を止めた。
あくまでもぞんざいな口調と素っ気ない素振りで夜風に吹かれている湖鬼神。
その心の翳りが目に滲みた。
螢は姿勢を正すと正直に答えた。
「兄王は優しくて、怖いよ」
殴られたことを思い出して無意識に手を頬にやる。
「羨ましい限りだな」
湖鬼神は目を細めて、
「弟同様、俺は兄も知らない……」
「あなたも殴られたい?」
「殴ってもみたいな!」
笑って、湖鬼神は螢の頬すれすれを打つ真似をした。
「チエッ、兄が二人もいたら末っ子は損なばかりだ」
愛馬に跨ってから螢は地上の瑚鬼神を見下ろして唐突に言った。
「なあ、湖鬼神。寂しいなら……あなたも家族を創ったらいい」
「何だと?」
「失ったものは仕方ないとして……でも、俺たちはこれから新しく創ることができるんだぜ」
螢は更に続けて、
「近い内に俺も家族を増やす予定なんだ。だから、あなたも例の──ほら、姫将軍と、どうだい?」
「よ、余計なお世話だ」
湖鬼神は顔を背けた。
「強がりは──」
螢は手綱を引いて拍車する。
「体に毒だぞ、鬼神の兄上! じゃ、またな!」
飛び出して行く優駿。
風に散らせた別れの言葉の、最後の部分を湖鬼神は噛み締めた。
(〝鬼神の兄上〟か……)
それに応えて自分も何か言いたかったのだが。既に王子は砂の彼方だ。
暗い地平を見遣りながら湖鬼神は微苦笑するほかなかった。
(全く。本当に螢みたいな奴だな?)
いつも夜の闇を超えてやって来ては、秘かな輝きを放って行く王子様だよ。
自分はあいつの清涼な光に照らされるととても安らかで懐かしい、妙に優しい気持ちになる。
俺の胸を穿つ深淵にも火が灯るせいか?
そして──それまで見えなかったもの、見落としていたものを見る。
頻迦の背丈……その澄んだ瞳……
それから、もっと遠い日の──
──遠い日の、これは何だ?
透明な水の雫……
その雫よりも細かい白い花が揺れる庭……
さんざめく笑い声……
俺を呼ぶ声?
『兄上ーっ! 兄上ーーーっ!』
違う。あれは、俺の声だ。
呼んでいるのは俺だ。
『兄上、お待ちください、兄上っ!』
『待たないよ! ここまで来てみろ……!』
『兄上ーーーっ!』




