*25
「どうやら、須臾、おまえはまだ今日の合戦の昂ぶりが収まっていないようだな?」
玉座から兄は弟に笑って言った。
「それとも、疲れて夢でも見たか?」
「夢でも幻でもない! これは現実だ! これ以上……あいつら帝国人を沙嘴国に留めおくべきではない!」
螢は烈日の気迫で奏上した。
「幸い今回の戦いで帝国派遣軍は消耗している。この機を逃さず奴等を城壁外へ追い出そう。湖族に打ち負かされて疲弊している今なら、沙嘴の兵力でもそれが可能だ。俺に任せてくれれば責任を持ってやり遂げてみせる! そして、時を移さず、父王が結んだ帝国との同盟を破棄するのだ!」
一段と声に力を込める。
「あいつらは本当に危険なんだから!」
「どこが?」
兄王は取り合わなかった。
玉座に肘を突いて、優美な手に頬を寄せる。
「連中のどこが危険だ? 今日の戦いを見た限りでは、なあ、須臾? やはり湖族の方が遥かに危ないと、私には思えるぞ?」
思わず螢は大きく息を吐いた。
露骨な落胆を見せる弟王子に優しい微笑をたたえて若い王は言うのだ。
「幸か不幸か、今のところ帝国軍は想像していたよりずっと力がないし、紂将軍はあれで中々礼儀をわきまえた武人だ」
(それは王である兄上の前でだけだ!)
螢は歯噛みした。
(クソッ、あいつが俺に……王の弟にどんな振る舞いをしていると思う?)
「どうした? それとも何か──おまえをこうまで憂慮させるそれ相応の根拠でもあるのか?」
「螢?」
傍らに立つジニーも訝しんで螢を振り仰いだ。
勿論、帝国征夷派遣軍総帥・紂燭が自分を誘惑しているなどと兄や恋人の前では口が裂けても言えるはずのない王子だった。
「そ、それは……」
〈王の間〉に連なる廷臣たちは先刻より息を潜めて王子の言動を見つめている。
実際、彼等からしてみれば、現在一番危険なのは、湖族でも、ましてや帝国軍でもなく、まさに眼前のこの末王子なのだ。
昨今の破天荒な行動はそのまま恐ろしい未来の予兆のように思えてならない。
そんな臣下の諸官たちの緊張を孕んだ息遣いを察してか、陽王は宥めるような口調で弟を諭した。
「今日の戦いにおけるおまえの働きを紂将軍も手放しで褒めていたぞ。王子は能く協力してくれたと。聞いていて私も誇らしかった」
螢は口の中で悪罵する。
(あの二枚舌め!)
「この調子で我々沙嘴国と帝国、互いに力を合わせてやって行くことこそ一番望ましいのだ。さあ」
陽王は鳳凰のように朱色の袖を振った。
「おまえも今日はもう下がってゆっくりと休むがいい。帝国軍からは休戦宣言も出たことだし、そう神経を尖らせずに当分はのんびりと──」
驚いて王を遮る王子だった。
「休戦宣言だと? それは何だ?」
陽王は眉を上げた。
「おや? 紂将軍はおまえにはまだ告げてなかったのか?」
王子のこれ以上の無作法は許せないとばかり、丞相が一歩前に進み出る。
「御存知の通り……帝国派遣軍は今回の敗戦で兵馬に多大な損失が生じた模様です。急遽本国へ補充部隊を要請したとのこと。それ故、次の兵馬が到着するまでの間、休戦状態を保つと紂将軍が言って来たのです」
「何だって? そんな話、俺には一言も──」
硬直して玉座の前に佇む螢。
やがて、砂漠の狼の如く、ニヤリと笑った。
深々と頭を下げて言う。
「お騒がせしました、兄上! 俺、やっぱり相当疲れていたみたいです」
さっきまでとは打って変わった明るい声で、
「ここは兄上のお言葉通り、自室に下がって休むことにします。行こう、ジニー!」
入って来た時同様、異郷の娘を引っ張って足早に〈王の間〉を出て行った。
これを廷臣一同、呆気にとられて見送るばかり。
間を置かず回廊から、当の王子の声が響いて来た。
「なあ? このまま貴方の部屋へ行ってもいいかい、ジニー?」
今日日の若者の奔放さときたら……!
一斉に顔を顰める廷臣たち。片や、王は堪えきれずに玉座で笑い崩れた。
「アハハハ……アレだ! 全く、須臾の奴……!」
なおも廊下で螢は〈王の間〉へ顔を向けたまま声を張り上げた。
「なあ、ジニー? 二人っきりで、のんびりしようぜ!」
「ちょっと」
ジニーは王子の腕を振り払った。
「どういうつもりよ、一体? 今日は本当に変よ、あなた。一人であれこれわけのわからないことばっかり……」
けれど、恋人の憤慨を無視して螢はジニーの手を取るとスタスタと歩き出した。
「なるほどね? また、そういうつもり?」
部屋に入るなり、螢が高窓へ駆け寄ったのを見てジニーは声を荒らげた。
(おおよその見当はついてたけど──)
ジニーは年下の恋人の腕を引っ張って自分の方へ向き直らせた。
「ねえ? 私、訊きたいんだけど、あなたってば、私のことダシに使ってるんじゃないの?」
「え?」
見る見るジニーの瞳が涙で溢れる。
「『愛してる』だの、『未来の妻』だのって調子のいいこと言って……あれはみんな騙し文句だったのね?」
螢は驚いて目を瞬いた。
「おい? ジニー?」
「だって、どう見たってそうじゃない!」
両手で顔を覆ってしゃくりあげ始めるジニー。
「違うよ。いつだって俺は本気で考えているんだ。貴方のことも、国のことも」
「国?」
埋めていた両手から顔を上げてジニーはまじまじと王子を見つめた。
「そうさ!」
王子は真剣な眼差しで言う。
「貴方だって、いつ乗っ取られるかわからない危なっかしい国に嫁ぎたくはないだろ?」
そっと肩に廻された腕から沙海の匂いがした。
王子は言うのだ。自分は愛する母国・沙嘴を最高の状態にして、そこに最愛の家族と住みたい。
それこそが自分の夢なのだ。
「家族って、この意味、わかるだろ、ジニー? 妻や兄や母や……それから、やがては子供たち……」
「子供たち……」
「畜生、時間がない!」
螢は急き込んで叫んだ。
「ジニー! 俺を信じてくれ! 信じてくれるね?」
素早く引き寄せてキスすると次の瞬間にはもう窓に飛び乗っていた。
振り向きもせず枝を伝って降りて行く。
「なっ、何よ!」
ジニーも窓へ突進した。
既にとっぷりと暮れた闇の中、辛うじて厩舎の方へ駆けて行く螢の後姿が見えた。
その背にジニーは叫ぶ。
「私はねえ……あくまであなたと一緒になりたいんであって……国に嫁入りしたいんじゃないわ! わかってんの?」
だが、もうほとんど見えない王子の白い彩羅。
今宵、月灯りの下では、沙嘴王城中院に咲きそろう梔子も百合もナギも烏瓜の花も……あの茉莉花さえ、皆、王子と同じ儚げな白い影だった。
「もうっ! そんなに急いで一体何処へ行くって言うのよ?」
高窓に取り付いたまま恨みがましくジニーは呟いた。
ふと螢が手に巻いていた黄色い巾を思い出す。
「やっぱり! 私はカムフラージュなんだ! 他にきっと女がいるのよ! 許せないっ!」
よし、そうとわかれば──
こっそり後をつけて行ってやる……!
しかし、窓には攀じ登ったものの、ジニーはすぐに諦めざるを得なかった。
乗馬が不得手だったせいだ。自分なんかでは到底あの深くて遠い夜の沙海を王子を追って行けっこない。
ジニーは歯噛みした。
(ああ、せめてここに単車があったら良かったのに……!)
その頃、螢は闇に乗じて厩舎から愛馬を引き出すと、いつかの夜同様、〈黒門〉を潜って城壁の外、沙海へと飛び出して行った。
その後に続いて、別の馬が二騎ばかり城壁外へ駆け出たのを螢は気づかなかった。
皮肉にもあれほど王子の後を追いたがって、暫く高窓に取り付いていたジニーからもそれは見えなかった。
よほど高い塔──例えば〈翠漣宮〉──を除いては王城内で起こる全てを俯瞰するのは不可能というものだ……
王子の湖族への憧憬は危険を招く…?




