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「ジニー、どうかしたかい?」
特殊活動用陸上移動車、通称〈長虫〉の中でジニー・スーシャは身震いした。
「眠っていたのか? 悪かったね、起こしてしまって」
低くて優しい声。
「あ、いえ、そうじゃありません」
慌てて目の焦点を声のする方に合わせる。
(いやだ、私ったら、何ボウッとしてたのかしら?)
発掘用の遺物収納容器が所狭しと積み上げられた車両内。屈み込んで心配そうに自分を見つめているのは──
「フッカー博士?」
「そろそろ今回の発掘調査予定地へ着くからな。それを知らせに来たんだ。よろしく頼むよ、ジニー」
「こちらこそ! 何でも言いつけてくださいね、博士。私みたいなズブの素人、雇ってくれただけでも感謝感激なんですもの!」
「仕方あるまい? こんな未開の物騒な地で、若い女の子の一人旅を平気で見過ごすほど世間ズレした専門馬鹿にはなっていないつもりだよ」
博士は片目を瞑って付け足した。
「いかに古代文明狂の私とはいえ……」
ビル・フッカーと言えば現在五本に指に入る超古代学の権威である。
「その高名な博士の遺跡調査隊に加えてもらえて、私、本当に幸せです! バイト料はそこそこでいいから、遺跡での記念写真とサインは絶対ちょうだいねっ!」
フッカー博士は苦笑しつつ車両の揺れと一緒に巨体を揺すって去って行った。
「やれやれ、近頃の若い娘と来たら……」
とはいえ、彼はこのあかげのバックパッカーを好いていた。
宙港の乗り換えターミナルの待合室のベンチにポツンと座っている姿を一目見た時から、なぜか気になって仕方がない。
不思議な娘だった。開けっぴろげな笑顔の似合う、春の花畑のような女の子。
ジニー・スーシャは閉まり行く扉の向こうで蝶々のようにひらひら手を振っている。
だが、扉が閉まった途端、彼女の眉間には深い皺が刻まれた。
つい今しがた博士に見せた陽気で無頓着な表情は偽りの仮面だ。車両の窓、強化硝子に映る自分の影にチラと目をやってジニーは思う。
(本当はこっちの、歪んで陰気な顔こそが私自身なんだわ……)
私は生まれてから一度だって陽気な娘だったことなどない。何故って、一度も幸福だったことがないから。それにしても──
ジニーは気を取り直して考えた。
何だったのかしら? さっき私を襲った、獏とした不安は? まさか、追っ手が迫ってるんじゃないわよね? いくらしぶとい、高給取りの管理局員でも、よもやこんな地の果てまで追って来るはずないと思うけど?
車が緩やかにカーブを曲がったらしくジニーの体は心持ち右に傾いだ。赤い髪が肩を打つ。
「あああああ!」
ジニーは声に出して叫んだ。
「今度という今度は自分能力を恨むわ! 自分でも皆目わからない、捉えどころのない半端な力よりも、もっと小回りが利いて使い勝手のある──透視力とか、読心力とか、瞬間移動なんかを持ってたら良かった!」
それなら、おっての心理を完璧に把握して、煩瑣な情報を迅速に処理し、現状を的確に認識して──要するにもっと上手に逃亡できるはずなのだ!
ジニーはため息をつくと小窓を開けて外の風を入れた。ついでに風景も眺める。
狭くて薄暗い車内とは対照的に窓の外には勇壮な景色が広がっていた。
乾いた砂の世界。
人はそれを砂漠と呼ぶ。
地平線の手前、ほのかに揺らめく影は、目指す古代の城壁跡だろうか?
それ以外はどこまでも青い空。
何もないのに、と一瞬ジニーは訝しんだ。それなのに、なんて人を惹き込む魅力的な風景なのだろう?
じっと見入っていると、突然、耳に奇妙な音が響いた。
「何?」
窓から顔を出し左右に視線を走らせる。さっき聞こえた、いや、聞こえたと思った〝音〟の出処を探す。
「今のは何? 凄く異質な音だったわよ? 例えて言うなら──そう、何十騎もの馬の蹄の音?」
咄嗟にそう思ったから──
それだからジニーはそれを見たように錯覚したのかも知れない。
自分の乗っている〈長虫〉と並走して騎馬隊が駆け去って行った。
先頭の一人が首に巻いているスカーフの、なんという鮮烈な黄色……!
勿論、目を瞬くと、全て幻だとすぐわかった。
乾いて荒涼とした砂漠にその黄はあまりにも鮮やか過ぎる。
目的地に着いた発掘隊一行はすぐに基地造りを開始した。
〈長虫〉が見る見る長期滞在用住居へと変貌を遂げて行く。
学術資料の書籍やディスクの箱を開けたり、発掘用重機を下ろしたり、生活物資の荷物とそのリストを確認したり……揃いのTシャツを着た総勢48名の隊員がきびきびと動き回る中、フロクス・キニアン女史は露骨に顔を顰めた。
「本当によろしいんですか、博士?」
「何が?」
無頓着に答えるフッカー博士。ちょうど自分用居住の窓にお気に入りの草色のカーテンを取り付けていたところだ。
「何処の馬の骨とも知れない女の子を拾ったりして」
「ああ、そのことか」
博士は逆に吃驚して聞き返した。
「別に構わんじゃないか。雑用は山ほどあるし。何が心配なんだ?」
キニアン女史は長年博士の助手を務めてきた。今回の遺跡発掘調査でも副隊長を任されている。そんな彼女が言うのだ。こんな処を一人でうろついているのは家出娘と相場が決まっている。家族から捜索依頼が治安警察に出されているような問題児……
「私は博士が要らぬ厄介に巻き込まれるのを危惧しているんです。せっかくのフィールドワークだというのに」
「はははは……」
困ったような誤魔化しのような、どっちつかずの笑い声を上げて博士は手近にあった箱の中から古色蒼然たる書物を取り出す作業を始めた。が、すぐその手が止まった。
佇んだままのフロクス・キニアンの様子がおかしい。
「君?」
女史は泣いていた。
「ど、どうした?」
「すみません。ただ、私、ショックだったんです」
「家出娘を拾ったことが、か?」
「そうじゃありません。博士が未だに奥様をお忘れになっていらっしゃらないことが、です。当たり前のことですのにね?」
女史はほっそりした手の甲で涙を拭いながら必死に微笑もうとしている。
「博士にとって愛する人は永遠に奥様お一人なのに。私ったら、自分の勝手な解釈で博士はもうとうに奥様を思い出の彼方に押しやってしまったと思っていたんです」
「私はとっくにそうしてしまったつもりだがね」
博士は静かな声で言う。
「あれが亡くなってもう──二十年になるんだ」
「そんなことはありませんわ。私今度ばかりはハッキリと思い知らされました。だって──」
女史は開け放したドアの前で肩越しに振り返って、今しも向こうの炊事用コンテナから出て来た遠い人影を見つめた。ジニー・スーシャが踊るような足取りで近づいて来る。
「赤い髪、緑の瞳。博士が心をお開きになる人は皆、そうですのね? あの娘は奥様にそっくり……!」
驚いてビル・フッカーもそっちを見た。
(奥様……妻だって?)
博士の脳裏に一瞬、若いままの妻、ヴィオリータの姿が蘇る。なるほど、そう言われて見れば……
(だが、違う。)
フッカーはきっぱりと首を振った。
(私があの娘に重ねているのは妻の面影ではない。私が感じているのは、むしろ──)
「博士!」
ジニーが明るく屈託のない声を上げてコンテナの中に飛び込んで来た。入れ替わりに女史は身を翻すとドアを摺り抜ける。
「あれ? キニアン女史、どうかしたんですか?」
「いや、何でもない」
平常の声でフッカー博士は答えた。
「何かお手伝いしましょうか?」
相変わらず春風のようなジニー。
「今のところ何処へ行ってもおイタをする子供みたいに邪魔者扱いなのよ、私」
「ははは、じゃ、これを移すのを手伝ってもらおうかな」
さっきからずっと手の中に持っていた本のことを博士はやっと思い出した。
「全部こっちのキャビネットへしまってくれ」
「了解!」
ジニーは本の詰まった箱の前に膝を突いた。が、すぐに弾けるようにして立ち上がる。取り付けたばかりのカーテン越しに遠い砂の地平を凝視する少女の引き攣った顔──
「何だね?」
「あ、いえ、ごめんなさい。だめねえ、私。こんなところに慣れてないせいで……どうしても気になってしまう……」
「何が?」
「だから、これ、地鳴りです」
「何だって?」
「こんな場所ではよくあるんですか? ほら、さっきから頻繁に聞こえてくるでしょう? 今も。この音、〝地鳴り〟とかって言う自然現象ですよね?」
「何も聞こえんぞ」
「え?」
博士は今や目を見開いてまじまじと少女を見つめていた。
「おいおい、そりゃ自然現象と言うより、むしろ医学用語で言う〝耳鳴り〟じゃないのかね。具合が悪いのか、ジニー?」
「いえ、大丈夫です。体はこの通りピンピンしてます。変ねえ?」
フッカー博士はジニーの手から本を取り上げるときっぱりと申し渡した。
「手伝いはいいから、少し横になって休みたまえ。きっと慣れないキャラバン旅行で疲れたんだろう。なんなら医療部へ行って診てもらったらいい。ドクター・トレウは若いが有能な医師だぞ」
博士の言葉に素直に従って、ジニーは自分に割り当てられたコンテナのベッドへ潜り込んだ。
隊長であるビル・フッカーと副隊長のフロクス・キニアン、それから専属医師のクリス・J・トレウ以外の遺跡発掘隊スタッフの居住スペースはコンテナ一個につき四人という配分だ。
行く宛もない逃亡中のジニー・スーシャにとって広さの件で文句のあろうはずはなかった。取り敢えず寝る場所を確保できただけで御の字なのだから。
同室の他の人たちは皆それぞれ仕事があって忙しいと見え、今コンテナにいるのはジニー一人だけ。これも彼女にはちっとも苦にならない。一人ぽっちというのは慣れている。嫌というほど、身に滲みて。
(そもそも一人ぽっちでなかったことなどなかったもの……)
暫くジニーはベッドの中から殺風景な天井を眺めていた。
(耳鳴りなんかじゃないと思うけどな。でも、耳鳴りでないとしたら、この音は何だろう?)
急に不安になった。
(半年に及ぶ逃亡生活の精神的疲労が生んだ幻聴ってとこかしら?)
だが、どんなことがあってもトレウ医師のところへは行くまいと決心した。どこでどんな検査をされて自分の正体がバレないとも限らない。今回の脱走劇に際して至宝管理局は治安警察は元より各医療施設や開業医に詳細なテーターを送りつけているに決まっている。〈逃亡至宝〉はおちおち病気にもなれないのだ。
(〈至宝〉などと持て囃されながら、私って自分で考えていたよりずっと脆いんだなぁ……)
ジニーはつくづく思った。いっそ管理局へ帰っちゃおうか? 追われ続けるんなら外の世界も想像したほど自由でもないし楽しくもない。結局、変わりない、一人ぽっちで寂しいだけ。
ふと、一人の管理局員の顔が脳裏を掠めた。
いつも自分にピッタリと張り付いていた煩い男。
いや、正確には彼は煩くはなかった。むしろ静かだった。口煩いのは他の局員だ。あの男はただじっと私を監視し続けていただけ。片時も傍を離れず、モルモットか何かのように。
何処にいてもこっちを見つめていた凍える瞳。
その凝視に合うとジニーの体は硬直した。ひどく落ち着かなくて、居心地が悪くて、じっとしていられなくなる。
ひょっとして、とジニーは思う。私が管理局を逃げ出してしまったのは、あいつのあの冷徹な眼差しのせいかも知れない。
「口に出して叱咤激励してくれた方がまだマシよ! そうよ、あいつ以外の管理局員が始終そうだったみたいにハッキリ口に出して言えばいいじゃない?」
本気を出せ! 真実の能力を示せ! 技を磨け! おまえだけが有している〈宝〉を眠らせるな……!
いつしかジニーは深い眠りに堕ちて行った──
どのくらい経っただろうか?
突然、ジニーはパッと目を開けた。
(聞こえる、ほら?)
間違いじゃないわ。これはやっぱり、蹄の音よ!
「幻聴なんかじゃないっ!」
ジニーは叫ぶとベッドから跳び降りた。引き千切るようにしてコンテナのドアを開け外に飛び出す。
外は夜だった。
砂漠の夜……漆黒の闇と降るような星星……
音はハッキリと、耳に痛いほどハッキリと聞こえる。
ジニーは音のする方向へ真っ直ぐに走った。
(こっちよ!)
音はどんどん大きくなって来る。
(ほら! もうすぐ……こんなに近い……)
刹那、ジニー・スーシャは息を飲んだ。
眼前に飛び込んできた光景。
世界は一変していた。
そこでは──