*15
離宮〈蒼落堂〉内部。
慄然とする螢の背後には従卒が二名、こんなことは帝都では日常茶飯なのか顔色一つ変えず控えている。
螢は目の端で彼等──扉の前に立つ──の位置を確認した。
「私は王子が気に入ってるんですよ。親睦を深めてくださるなら悪いようにはしませんよ」
耳元で帝国の将軍が囁いた言葉に再び螢は衝撃を受けた。
「王子はまだ都をご覧になったことがないのでしょう?」
「え?」
「私はお連れすることもできるんだがなあ! こんな砂に閉ざされた辺鄙な処とは違ってあそこは素晴らしいですぞ! 美味いものや楽しいこと……この世のものとは思えない夢のような至宝に満ちている!」
紂謖は舌舐りをした。
「あそここそ人間の世界だ。いや、神に近しい人間の住む楽園だ……!」
「──」
王子は瞬くのも忘れて将軍を見つめている。
見開かれた瞳、濃い睫毛の翳、噛み締めた唇……
その清冽さに将軍は帝都の自邸の庭に咲く白梅を思わずにはいられなかった。ああいう新しくて貴重な花木は砂漠の地にはないものと諦めていたのだが。
昨今、都では件の花樹の栽培・育成が粋人の間ではちょっとした流行なのだ。
「どうです? 行きたいとは思いませんか?」
「俺を?」
漸く王子が声を漏らした。
「おまえは……俺を……帝都へ連れて行こうと言うのか?」
「勿論。王子さえその気がおありなら!」
強張っていた王子の肢体からフッと力が抜ける。それを潮に紂は締め付けていた腕の力を幾分緩めた。
「……信じられない」
頭を振って王子が呟く。その顔に仄かに浮かんだ微笑。紂は逸る心で言い添えた。
「王子なら私の副官として優遇しますよ!」
一際鮮明に微笑する王子。
紂将軍は引き込まれて顔を寄せた──
刹那、悪罵して仰け反った。顔面にまともに唾を掛けられたのだ。
「早合点するなよ、将軍!」
顔を歪めて戦慄いている帝国人に螢は叫んだ。
「俺が笑ったのは……信じられないと言ったのは、おまえのその貧弱な発想だ。よりによって〝都〟で? この俺を誘えるとよもや本気でお考えとはな!」
王子の砂色の髪が鬣のように逆立っている。
「〝楽園〟だと? その〝至宝〟だと? 見くびるな! そんなもので俺がお前のような下種の言いなりになるはずないじゃないか! これだから帝国人はオメデタイって言うんだ。本当、そら、瑚鬼神の言った通りだぜ」
── 一陣の風も吹かぬ腐った水と饐えた匂いの汚水桶の中の蛙ども……!
「……おまえは?」
紂は一瞬我が目を疑った。
眼前、雲のモザイクの床に屹立する王子に重なって、今、確かに湖鬼のあの黒髪の将が見えた──
「クッ……この──」
我に返った紂、激昂して叫ぶ。
「井戸の蛙とはおまえの方だ! たかがド田舎のクズ国人の分際で我々帝国人を侮蔑するとは……! 何が王子だ。少しは遠慮して下手に出ていればつけ上がりおって」
紂は王子に跳びつくと容赦なく顔面を殴りつけた。
「俺が蛙なら、結構! ならばおまえ等はその蛙に食われるために生きている虫ケラだ!」
殴打の手は止めず、怒鳴った。
「おまえ等……非帝国人は全員、我々帝国人の奴隷なんだ! そのことを……よおく叩きこんでやる!」
紂は王子を引き立てると壁に押し付けた。
壁は雲と天の境目。限りなく蒼穹に近い青に王子を凭れさせて、そのまま己の荒い息を整える。
「……都を見たこともない……それ故、世間知らずの王子様よ? あんたの兄貴はあれで少しはマシだ。モノを知っているようだぜ。都で鍛えられたそうだからな。だが、おまえときたら……この辺境の小狼めっ……!」
「畜生!」
「おまえはもっと……文明人の作法を憶えねばならないようだな? ふん、いいとも」
「離せ!」
「この私が、みっちりと仕込んでやる」
「離さないと──」
堪りかねて螢が叫んだ。
「人を呼ぶぞ! いいのか?」
「人を呼ぶ?」
紂は打擲の手を止めた。そうして、勝ち誇って北叟笑む。
「俺は構わんぞ。だが、王子、おまえこそいいのか? 沙嘴国第三王子様が早くもこの帝国派遣軍隊長の情人だと王城中に知れ渡っても?」
「!」
帝国人の腹黒さを今更のように思い知った螢だった。
「アハハハハ……!」
悦に入って笑う将軍。
従卒たちも、平生の習慣かその哄笑に和して体を揺すった。
それが幸いした。
この一瞬の隙を突いて螢は紂の横面を張り倒すと腕を摺り抜け扉へ突進した。
「──クッ、しまった、押さえつけろ! 外へ出すなっ!」
慌てて追い縋った従兵もろとも、重なり合って螢は玉砂利の道へ転がり落ちた。
その先の草叢に立っている人がいた。
頭を持ち上げて、螢はその人を見た。
ジニーだった。
けれど──
いつもと少し感じが違う……
(……幻だろうか?)
一瞬、螢が混乱したのも無理はない。
ジニー・スーシャはいつもの異国のそれではなく、沙嘴の衣装を身に纏っていたのだ。
その夢のような清らかさ……懐かしさ……
馨しい風が吹き寄せて来るようだ。
螢は暫く起き上がれなかった。ただ貪るように魅入っていた。
こんな処に……おまえ……ジニー……?
「……嘘だろう?」
一方、ジニーは突如足元へ転がり出て来た恋人を嬉しそうに──しかし、幾分驚いて──見下ろした。
螢と折り重なって倒れている帝国兵。続いて飛び出して来た紂謖将軍。
紫の帝国兵たちは揃ってジニーの姿にド肝を抜かれた様子だった。
「だ、誰だ? そこにいるのは?」
紂は血相を変えて誰何した。まだ他に誰かいるのかと焦って四方を見回す。
「王宮の女官か? こ、こんな処で何をしている?」
帝国人たちのあまりの驚愕と狼狽に、逆にジニーの方が吃驚してしまった。
「え? 私? 私は……」
螢は従兵たちの間から滑り出ると草を払って立ち上がった。
この時、王子は不思議な力に満ちていた。
邪気のない輝く笑顔を扉の前の紂謖へ向ける。
「この人がここで何をしているかって? 決まってるだろ。俺を迎えに来てくれたのさ!」
ジニーの傍らへ寄って恭しくその腕を取った。
「紹介するよ、帝国派遣軍総帥殿。こちらがジニー……俺の許嫁だ……!」
ジニーは頬を染めて面伏せた。
「まあ、嫌だわ、螢。許嫁だなんて!」
愕然としている将軍に螢は言った。
「これでわかったか? 〝至宝〟は都にだけあるんじゃないってこと。こっちで俺はもう、ちゃんと持っているんだ!」
螢はジニーの肩を抱き寄せると優しく促した。
「行こう」
「螢?」
恐る恐るジニー、
「あの、私、何か邪魔したんじゃないわよね? ここ立ち入り禁止区域なの? でも、あなたの声がしたように思えて。それで──ついこっちへ来ちゃったのよ。ねえ? あなた、私を呼んだ?」
「ああ!」
螢は力強く頷いた。
「呼んだとも!」
「──王子」
去ろうとする螢に紂が声をかける。その顔には困惑の色が滲んでいた。
「わかっている、将軍」
振り返らず背を向けたまま螢は答えた。
「例の〈作戦〉の件は協力する。陽王の命令だからな。安心しろ、たとえどんなことがあっても、俺たち沙嘴国人はいったん約束したことはきちんと果たすさ」




