*14
「お呼びですか、兄上?」
〈王の間〉に入って来た螢は玉座の前に紂将軍が立っているのに気づいた。
「須臾、おまえ、将軍に少しも協力しなかったそうだが?」
兄王の言葉に螢はチラと将軍を窺った。
「まさか未だに例の戯言に囚われているのではあるまいな?」
流石に帝国驍将の前で、弟王子が湖族と同盟を結びたがっているなどと言葉にするのを避けはしたが、陽王は念を押すように螢の瞳を見据えて言った。
「将軍には戦略があるらしい。今後はおまえも能く協力するように」
紂将軍の後について柱廊を歩きながらその広い背に螢は吐き捨てた。
「俺が? 将軍、いつ協力を惜しんだ? 人聞きの悪いことを言ってくれるぜ」
紂はフッと笑っただけで何も言わなかった。
「で、作戦とは何だ?」
これにも答えない。柱廊から玉砂利の道に降り〈蒼落堂〉へ向かう。
堂の扉を将僕の兵が押し開けるのを待って紂は振り返ると、王子に顎で中に入るよう促した。
(こいつ、相変わらず横柄な態度じゃないか……!)
だが、螢は黙って従った。
堂内の卓の前、紂謖から〈作戦〉について一通り聴き終えた螢は皮肉の笑いを抑えるのに苦労した。
「落とし穴だと? そいつぁ、また──」
多大の侮蔑を込めて蒼穹の天井を仰ぎ見る。
「──大した姦計だな!」
「砂漠の狼どもには似合いの策じゃないかね? 所詮、あいつらごときに正攻法はいらぬわ」
(よく言うよ!)
王子の双眸に映った嘲笑を将軍は無視した。
「これは前回の湖鬼どもの戦い方を見て、冷静に導き出した戦略なのだ」
(見てだと? 嫌というほど身を持って味わってだろうが、将軍?)
王子の端正な顔が可笑しそうに歪む。
紂は目を逸らした。
「あいつらは必ず中央を馬で突っ切って抜ける。全く単純極まりない戦法の繰り返しだ。我々百戦錬磨の帝国軍は、逆に湖鬼どもの、このあまりに愚鈍で稚拙な戦い方に戸惑って……翻弄されてしまった。全く、今時、辺境以外ではあんな野蛮な戦法──」
「わかりました!」
講釈はたくさんだ、と螢は手を振った。
「で? 沙嘴の兵は何をして協力すればいいんだ? その〝落とし穴〟造りとやらか? 沙嘴人は生涯で一度もそんなもの造ったことがないから帝国人に教えてもらまねばならないが。あ、でも大丈夫。協力は惜しみません。責任を持って習得させます」
「ご安心を。それはこちらでやります」
落ち着き払って紂、
「何、〝落とし穴〟と言うから聞こえが悪いが、要は〝塹壕〟ですよ。あくまで正当な軍事活動だ。逆に、沙嘴軍は塹壕を掘った経験もないとは驚きだな!」
将軍の嫌味に腹は立たなかった。むしろ賛辞に聞こえた。螢は湖族の陣を思い出していたから。
周囲に塁壁すら造っていなかったあいつらなら──
俺たち沙嘴人同様あいつらも塹壕など掘ったことはないんだろうな?
「深さなどそう必要じゃない。連中の馬が自由を失う程度で充分なのだ。おわかりか、王子?」
馬失くしては湖族は赤子も同然。我々帝国軍の敵ではない、と紂は豪語した。
「さて、そこで王子と沙嘴軍には湖族の兵を誘き寄せる囮となって、文字通り奔走していただきたい。貴殿が湖鬼同様沙海に慣れ親しんでいる利点を大いに生かして、です。我々は拠点を動かず待つことにします」
螢は腕を組んでじっと将軍を見つめた。
「本当に? それだけでいいのか?」
「囮役は危険な任務ですよ。責任を持ってやっていただけますか?」
力強く頷く螢だった。
「諾!」
答えてから即座に腰を上げた。
すると、将軍の腕がいつかの夜のように伸びて王子を椅子に押し留めた。
(こいつ? また何か……?)
身構える螢に間髪入れず従卒が酒瓶と盃の盆を恭しく捧げ持って進み出た。
紂はいつになく柔和な声で言うのだ。
「この間の詫びを言いたくてな」
「ほう? 何かしたのか?」
「こいつぁ、痛い!」
紂は大袈裟に己の額を打ってみせた。
「いやあ、あの晩は私もかなり酔っておりまして……王子に何かとご無礼を働いてしまった! その件については深く悔いているのだ。この通りだ。すまなかった!」
帝国征夷派遣軍総帥は畏まって頭を下げた。
「──」
「さあ! ここはお互い嫌な事は水に流して仲直りと行こうじゃないですか!」
紂は今回は自ら酒瓶を掴むと王子に酌をした。
そうまでされては──
螢も渋々盃を持った。将軍の酌を受けて盃に口を付ける。
飲み干した時、さっきからずっと自分に注がれている紂の視線に気づいた。
盃を卓に返してもまだ将軍は螢の顔を意味深に見つめていた。
「……俺の顔がどうかしたのか?」
「いや、何、どちらに似ておいでなのかな、と思いまして。王子は、先王似と言われる兄王殿ともまたちょっと違ったお顔立ちですなあ?」
紂は猪のように太い首を僅かに傾げて、
「となれば、やはり御母上似か?」
母の名をこんな男に口にされて螢は少なからずゾッとした。
「私は未だに拝謁が叶わないのだが……」
(当たり前だ!)
心の中で螢は嘲罵した。
(おまえなんかにあの気位の高い母上が会うものかよ……!)
だが、口に出してはこう言った。
「母上は人見知りする質だから。未亡人となってからは特にその傾向が激しくなって〈翠漣宮〉の奥に引き籠って密やかに暮らしている。一部の近しい従者以外とはめったに会われないんだよ」
「それはそれは! やんごとなき麗人にふさわしい!」
螢は奥歯をキリリと噛んだ。
何か含みを感じる。イチイチ癪に障る野郎だな?
「ところで、御母上はどちらのご出身でしたかな?」
「母のことなど、どうだって──」
螢は凍りついた。
(信じられない……!?)
紂将軍が無躾にも顎を掴んで顔を覗き込んできたのだ──
「なっ?」
「王子は変わっていますな?」
顎をガッチリと固定したまま紂謖は問う。
「目も、髪も。ご自分で感じたことがございませんか?」
凄い力だった。身動ぎもできないまま、
「何のことだ?」
「沙嘴国人というよりは、むしろ、湖鬼っぽい……」
「そんなことか!」
やっと螢は将軍の手を払いのけることができた。
「別に今更、珍しくもない! お、おまえだって知ってるはずだ!」
将軍の小さな目に妙な光が奔る。
「ほう、何を?」
「俺たち沙嘴人は湖族も一緒だ! つまり、湖族の血が多分に混じっている民族だ!」
厳密に何処で線を引くかなど誰にできる? 帝国人から見れば沙海の民は、所詮、一把一絡げの〈夷狄〉に過ぎないくせに。
それを今更ながらわざとらしく当て擦りやがって、と螢は思った。
「だ、だから、俺が湖族と似た顔貌をしていても仕方ないだろう? 悪かったな!」
「別に悪いとは言っていない」
紂は何とも形容し難い笑い方をした。蛇の笑い。
「実に魅力的だ。私は好きだな」
紂の手が今度は王子の白い彩羅の腰に廻された。
「私の好みですよ?」
「──」
理解して、全てを悟った螢は石化した。
辺境の小国の王族など大帝国征夷派遣軍総帥にとってはハナから目ではない。平伏して当然とばかり紂謖は沙嘴国王子を胸に引き寄せた。
未だかつて味わったことのない恥辱と憤怒に螢の全身は総毛立った。
(この野郎──)
恋人の危機!
その時ジニーは…? 待て、次回です。




