*11
手を繋いだまま二人は夜の沙嘴国城下を徘徊した。
第三王子御自らの案内にもかかわらず、ジニーは求婚の言葉を聞いたせいで何処が何処なのやらさっぱり頭に入らなかった。
何処までも、いつまでも、夢の中を彷徨っているような心地がする。
「ここ沙嘴の城壁はほとんど角を取らず楕円に近い形をしているんだ。門は東西南北にそれぞれ緑門、白門、赤門、黒門。わかりやすいだろ?」
陽王は二言目には『小さな国』と謙遜して言うが。王がこの小国の存続に尽力する理由が、城に招かれた後、ジニーにも容易に理解できるようになった。
沙嘴国は確かに砂に塞がれた小国だが、他に例を見ない宝国だった。
金剛石の絢爛さではなく、凄艶な一滴、砂漠の真珠にも似て──
「縦横七つの通りが交差していて、ほぼ均等に九つの共同井戸が配されている。この井戸は〈九星〉と呼ばれていて……」
沙嘴では井戸を星の単位で数えるのだ。
その井戸の周りに猫が多いのにジニーは驚かされた。その昔、王宮の鼠退治に他国から連れて来たのが城下に増えていったのだ、と王子。一年を通じて決して潤沢とは言えない穀物の、その貯蔵倉の守り手として大切にされている。
「だから、ここ沙嘴国じゃあこいつら猫のことを別名〈王族〉と呼ぶんだ。俺と同列ってわけさ!」
井戸は集会所も兼ねた憩いの場所でもあった。
次の井戸から次の井戸へ、星座を旅するように経巡る。
整然と軒を連ねた家々の戸口は風を通すために日中は開け放たれている。扉の代わりに掛けられた簾の様々な色が瑞雲のように棚引くのだ。今は既に陽が落ちているので簾は屋内の灯火を映して、昼間とはまた異なった風情だった。二人は、あの色がいい、いや、こっち、と指差しあった。
急激に気温の下がる砂漠地帯のこと。深夜には扉を下ろすのが習いとみえて二人が漫ろ歩く内にも通りはどんどん暗くなって行った。
それはそれで恋人たちには好都合だ。思う存分、口づけを交わせるから。
実際、そうするために二人は幾度も立ち止まった。
「なあ? いい加減、焦らすのはやめて答えてくれよ?」
王子が催促したのは、その幾度目かの口づけの後のこと。
「俺の求婚に即答できない理由は何なんだ?」
理由なら──何千とある!
八星井戸の階段に腰を下ろしてジニーは指を折って見せた。
「そうね、まず、あなたは私より年下よね?」
「たった二歳だけ」
「それに、私、民俗学の授業サボッてたからなあ……」
「それはどういう意味?」
「私、あなたの国の風習、文化、伝統、まるで知らないわ。後で泣くのは嫌よ」
「?」
「つまりね、こんな異郷の旅の娘に、いとも簡単にプロポーズしたと思ったら──実はあなたたち一夫多妻制だったりして」
王子は真顔で憤慨した。
「貴方の育った国の掟がどうかは俺も知らないが、ここ沙嘴国では永遠に妻は一人だ! 疑うんなら父王や兄王を見てみろ!」
確かに。沙嘴王城内には後宮や采女の類は存在しなかった。
「俺たち沙嘴人は一度契ったら一生添い遂げるのを至福と信じている。だから、逆に言えば──よほどの決心がない限りそうそう簡単に求婚などするものか!」
凄い剣幕で断言する王子だった。
その後で王子は、陽王が、丞相どもが気を揉んでせっつくにもかかわらず未だに后を娶らないのも、真実愛していると思う娘にまだ出会ってないせいだ、と付け加えた。
「だが、俺は貴方と出会えた! 俺は本気だ! 貴方を愛している!」
「……何故よ?」
これこそが、夢のような王子の求婚に即答できない何千の中の第一番目の理由だとジニー・スーシャは知っていた。
「ねえ? 私はあなたにとってただの──通りすがりの旅人に過ぎない。他所者なのよ?」
「そんなこと……構うもんか!」
そう言ったきり王子は黙り込んでしまった。拳を頬につけて何事か考えている風。
ジニーは空を仰いで月を見た。だんだんに満ちて行く美しい月だった。
「なんて言ったらいいのかな? 俺は──懐かしいんだ」
ジニーは月から螢に視線を戻した。
「え?」
「貴方は前に俺が兄上と初めて会った日の話をした際、言ったろ? どんなに遠く離れて育っても、会えば一瞬にして愛し合える、それが肉親だと」
親子……兄弟……姉妹……
「だとしたら、夫婦はどうなんだ?」
王子は問う。
「夫婦は一番強く固い絆のはず。俺たちは会ったばかりだけど、俺はとてもそんな風には思えない。俺は貴方をずっと知っていたような気がする。いや、俺は知っていたんだよ、きっと。そして、待っていたんだ。だって、貴方は俺の最も近しい家族だから!」
一旦言葉を切って、王子はジニーの顔を覗き込んだ。
「貴方は俺の〈未来の妻〉だったんだ!」
ジニーから返事はなかった。
「……貴方はどうなんだ?」
心乱れて若い王子は異郷の娘に詰め寄る。間に屯していた猫たちを蹴散らしながら、
「俺ではダメか? 俺では感じないかい?」
前世の糸……運命の絆……
他に何と言おう? 何と呼べばいい? この胸に滾る熱い思い……
「そう、時を超えた予感を?」
ジニーはやはり答えなかった。
答えられなかったのだ。溢れる涙のせいで喉が詰まって。
それで、首を振ると言葉の代わりに王子に飛びついた。
夜更けとはいえ、天下の往来ではあるし、共同井戸の周りを行き交う人もいないわけではなかったが。
若い恋人たちは他人の目など知ったことかとばかり、そのままいつまでも抱き合っていた。
尻尾の生えた〈王族〉たちが二人を無視し続けたのは言うまでもない。
王子との結婚に際して、もう一つ難関が存在していることにジニーが思い至ったのは城への帰り道だった。
「でも、陽王様が許さないんじゃない?」
恐る恐るジニーは訊いてみた。
「大切な弟王子が、何処の馬の骨とも知れない捨て子出身の他所者と結婚したいって言ったら、きっと王様卒倒しちゃうわよ!」
「兄王を見縊るなよ」
ジニーの不安を王子は一笑に付した。
「陽王は俺の兄だぞ。あいつアレで……見た目よりも遥かに……」
弟は思い出してニヤリとした。
「破天荒のワルなんだ!」
「?」
恋人の怪訝そうな顔。その赤い髪に唇を寄せる。
「まあ、それはともかく──兄上が反対するもんか! 考えても見ろよ、貴方は兄王にとって〈命の恩人〉でもあるんだぞ」
ここで二人の幸福な会話は途切れた。皮膚を粟立たせる悲鳴が夜空を裂いて響き渡った。
「キヤーーーー……!」
悲鳴に続く、怒声、嘲罵、哄笑の波──
物が激しくぶつかり合って壊れる音──
喧騒は一星井戸の向こうの街路から聞こえて来る。闇に沈んだ他の通りとは対照的にその辺りは夕陽の残照が凝ったかのように仄明るかった。
その一角が紅燈街であることを王子はすぐ悟った。恋人を伴って足を踏み入れるべき領域ではない。
しかし、一瞬の逡巡の後、ジニーの手を握ると王子は走り出した。
一軒の酒楼の前に遠巻きに人の輪ができていた。その人垣の隙間から覗く。
酒楼の内は凄惨を極めていた。
盃、瓶、壺……形ある物という物は全て滅茶滅茶に破壊され、店主と思しき男が引き攣った顔で隅の壁に凭れている。卓も椅子も墩さえ無残に毀たれた店の中で若い娘たちに群がって蠢くのは紫の軍服──帝国派遣軍兵士たちだ。
「──」
沙嘴国人たちは皆、軒燈の灯の届かない影の部分に固まって、酔った帝国兵の繰り広げる痴態を茫然と見つめるばかりだった。
そうこうする間にも、抗う娘たちを引きずって別の兵の群れが雪崩込んで来た。
「どうした? ここはこれでも遊里か?」
「予想はしてたがシケた砂の街だな?」
「天下の帝国軍様のもてなし方も知らんのか!」
「酒だ! 酒だ!」
「せめて酒ぐらいどんどん持って来い!」
目を転じると、狼藉の態はこの酒楼一軒に限ったことではなかった。紅燈街一帯──酒楼も青楼も妓楼も──溢れる帝国軍兵の、筆舌に尽くし難い猥雑な狂騒に蹂躙されていた。
「螢?」
王子は口を引き結ぶと踵を返した。
「……城に戻ろう」
ジニーの手をきつく握ったまま、険しい目で足早に歩き出す。
王子は漆黒の闇を睨んだきり一言も口をきかなかった。




