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それは陽王子が七歳、月王子が六歳の年のこと。
茉莉花の匂う六月、城の中院に面した柱廊は碧血に染まった。
王子たちは互いに鋒鋩燦めかせ、囂囂咆吼して斬り合った。
どちらも熱くなっていて、本気だった。衛士が気づいて体を張って止めなければどちらかがどちらかを殺していたに違いない。もはや、兄弟喧嘩とは形容し難い、それほど凄まじい諍いだった。
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「ゾッとするだろう?」
絶句する王子の顔を見て兄王は訊いた。
「で、でも」
冷たい汗をかいて王子が質す。
「何ともなかったんだろ?」
「何ともなくはなかった。時に、月は」
「え?」
「私はあれに酷い怪我を負わせた。胸から脇腹にかけて一太刀。あの血の色が未だに……」
拭いきれないのだ、と言うように陽王は膝の上の両手を見つめた。
「その上、私はとうとうあいつに謝っていないんだ……」
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月王子は傷のせいで高熱を出して三日三晩意識が戻らなかった。
怪我をさせた張本人であった陽王子はその間、弟王子から遠ざけられていた。
陽王子もまた斬り傷を朱い雨のごとく体中に刻んでいたが、幸いこちらは軽傷で大事には至らなかった。
そして──
凶事には凶事が重なる。
沙嘴国の幼い王子たちの刃傷騒動で混乱の極みにあったその時、突如、島帝国が軍を遣わして、長い間先延ばしにされてきた〈王子人質〉の承諾を強硬に王に迫ったのだ。
これは事実上の侵攻に他ならなかった。城壁の四方を帝国軍に包囲された中、沙嘴王にこれを跳ね除ける力はなかった。結果、第一王子・陽は帝国軍と共に島帝国へ出立した。
鮮血を浴びた中院の茉莉花が未だ散りもせず風に揺れている七月初旬のことだった。
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「それっきり」
王はため息をつく。
「つまり、喧嘩で月と斬り合った日があれと一緒にいた最後の日となった。帝国行きは天罰だと私は思ったものだ。弟にあんな真似をして。だから、その弟自身が、まだ充分に傷も癒えない内に、今度は湖族に連れて行かれたと言う報告を遠い帝都で聞き知った時は衝撃だった」
同じ衝撃でも、第三王子誕生の知らせを聞いた時は、嬉しいそれだった、と王。
「勿論、今度こそ、喧嘩なんか絶対にせずにうんと可愛がってやろうと心に誓った」
気づくと兄の手は優しく弟の髪に置かれていた。
陽王は思い出に微笑む。
「つけられたおまえの名を知って少々胸にこたえたのも事実だが……」
「何故?」
「父王の思いが痛いほどわかったからな」
予々先王・旻は後悔していた。王子たちの仲が悪いのは自分のつけた名前のせいだと責任を感じていたのだ。
「言われてみれば──」
陽王は苦笑して朱色の袖を組む。
「陽と月ではあまりに対照的で引き合わないものな? おまけに人間からは遠過ぎる。王子たちは共に連れ去られる運命だったのだと父王は嘆いたそうだ。だからこそ、父上は今度こそはと悲願にも似た希望を込めて第三王子──おまえ──の名を選んだ。
螢……美しい光ではあっても、地上に留まる、それ。手の中に掴み取れ、何処へも行かず、毎夏必ず戻って来る光……」
「そうだったのか!」
(俺の名前の本当の意味はそれだったのか……!)
「父王の願い通りになっただろ?」
兄は弟を覗き込んで笑った。
「ほら? 先王は息を引き取るまで、その末王子と共に在れたのだものな?」
陽王はなお確かめるように、
「父王は心からおまえを愛していただろう? 片時も傍から離さず慈しんだそうじゃないか?」
王子は眉間に皺を寄せて首を振った。
「甘やかし過ぎだよ!」
「何だと?」
「おかげで俺はこの歳になるまで──」
頬を染めて王子は言う。
「打たれたことがなかったんだからな!」
「須臾……?」
「だから、今後も悪いところがあったら大いに殴ってくれて構わないぜ、兄上」
異郷の娘、ジニー・スーシャの言葉じゃないが、と王子はつくづく思った。血を分けた兄弟ってやつは、やっぱりいいものだ!
「兄弟喧嘩もたまには悪くない。尤も──剣は俺も遠慮するけどさ!」
「こいつ……!」
低い茂みの縁で、半ば諦めつつ、それでもジニーは待っていた。
王子とは、城下を案内してくれると予め約束を交わしていたが。
先刻の〈王の間〉での様子を目の当たりにして、今夜は無理なのではないか、すっぽかされるのではないかと覚悟していた。
だが──
柱廊から勢いよく中院に飛び降りてこっちへ向かって駆けて来る王子の白い彩羅が、夜目にもはっきり見て取れた。
「ごめん、遅くなってしまって」
息を弾ませて詫びる螢王子。
「ついつい陽王と話し込んでたもので──」
「仲直りができたみたいね?」
顔を見ればわかる。王子は満面の笑顔で頷いた。
「そりゃ、もう、バッチリさ!」
本当に。この王子さま相手なら読心能力なんていらない。いつも心がストレートに瞳に映るから。
ところが、間を置かず、その王子の美しい瞳が翳った。
ジニーは吃驚して尋ねた。
「どうしたの?」
「うん。別種の心配事を思い出した。なあ? 貴方はいつここを出て行くんだ?」
「え?」
「だって、ほら、帝国の派遣軍が来たろ? そうしたら、貴方は仲間の処へ帰るんだろ?」
「それよ。どうしようかな……」
フッカー博士の今回の発掘調査期間はおよそ六ヶ月と聞いている。とはいえ、沙嘴王の親切にそういつまでも甘えていられないし──
現実的な諸問題に思いを巡らせあらぬ方向を見つめるジニー。ゆっくりと王子の手が肩へ伸びた。
引き寄せると口づけをする。
「──?」
星月夜、城の中院。
夜風に甘く揺れる花が、あの日、兄王子たちの血を浴びた茉莉花だということまでは螢は気づかなかった。
若い王子には、今、眼前の可愛い恋人しか目に入らない。
「ここにいろよ、ジニー?」
いったん唇を離して王子は囁いた。
「なあ? あと、もう少し……」
ちょっと悪戯っぽくジニーが訊く。
「もう少しって、どのくらい?」
「貴方が欲しがっているものを手に入れるまで、さ」
(欲しがってるもの? そんなもの、あったっけ?)
甘いキスの後にもかかわらず、ジニーは現実に引き戻された。
一方、傍らの王子は自信たっぷりに言い切る。
「それを、俺はあげられると思う」
ジニーは王子の肩越しに、闇に浮かぶ城影を見上げつつ考えた。
(この王宮の何処かに眠る宝物? 宝石とか? 嫌だ、私、冗談にしろ何か欲しがったっけ?)
戸惑うジニーの耳元でもどかしげに王子が囁いた。
「……家族だよ!」
「!」
ほとんど息が止まりかけたジニー・スーシャに沙嘴国第三王子・螢は笑いかけるのだ。
「貴方、欲しいと言ったじゃないか! だから、俺が貴方の家族になる。つまり──結婚しよう……!」




