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島帝国・征夷派遣軍総帥・紂謖将軍は沙嘴国〈王の間〉で跪拝を省いて挨拶した。
「鵬程幾万里……我ら帝国軍がこうして遥々赴いたからには、夷狄どもなど、もはや恐れるには及びません、若き王よ!」
赭顔、巨躯。酷薄そのものの細い目が軍鶏を思わせる。
「今後はこの紂が軍事顧問として貴国の兵馬全権を責任を持ってお預かりいたします」
玉座の右下で王子は露骨に顔を顰めた。
(好きになれないな、こいつ……)
陽王は八面玲瓏、礼を尽くして相対している。
「よろしくお願いします、紂謖将軍。今まで兵馬の長は須臾王子が務めていたのですが、何分若い故……」
「ほう!」
紂は興味深げに王子の傍らへ歩を進めた。
「では、こちらがあの……?」
何やら含みのある言葉に王子もキッと顎を上げて睨み返す。
「何だ? 私を知っているのか?」
陽王も、玉座左下に居並ぶ丞相以下廷臣たちも、一斉に顔色を変えた。
その気配を察したのかどうか、紂将軍は巧みに声音を整えて、
「あの獰猛な湖鬼の陣から一人生還を果たすとは……! お若いながら大した腕をお持ちだとこの宿将も敬服している次第です」
それが鼻白む阿諛だというのは声に含まれた嘲笑の響きでわかる。
王子の頬は屈辱に紅潮した。
この時、ジニーは廷臣たちの列の一番後ろにいたのだが、怒りに震える王子の胸の鼓動が聞こえる気がした。
紂将軍が退出するや否や、王子は玉座に駆け寄った。
「夷狄だと! 聞いただろ、兄上?」
「須臾王子……」
「言うに事欠いて……愚弄するにもほどがある! 帝国の連中は皆、ああなんだ!」
「よせ、須臾」
「俺たち沙嘴国人だって奴らにとってはその夷狄なんだぜ! あいつは他ならぬ俺たちに向けてあの侮蔑の言葉を使ったんだ!」
「須臾」
「何が大帝国だ! たかが派遣軍隊長の分際で、玉座の前でのあの尊大な態度は何だ!」
微かな衣擦れの音、としか聞こえなかった。が──
忽ち王子の片頬に朱が射す。
廷臣たちは一同相揃って驚愕の声を漏らした。ジニーも息を飲んだ。
だが、一番驚いたのは、王子自身だった。
陽王が王子の頬を打ったのだ。
「いいか、須臾?」
王は弟の瞳を見据えてきっぱりと申し渡した。
「今後、帝国及びその派遣軍将兵に対して礼を欠いた態度で接してはならない。紂謖将軍への言葉遣いにも充分気をつけるように。わかったな?」
唇を噛んで王子は面伏せた。それでも、すぐにしっかりとした声で答えた。
「諾!」
それから、踵を返すと双眸は激しいままで〈王の間〉から出て行った。
流石のジニー・スーシャもこの時ばかりは声をかけることができなかった。
「須臾?」
自分を呼ぶ声に暗闇の中で王子は片肘を突いてそっと体を起こした。
自室で不貞寝していたのだ。
が、見るといつの間にか戸口に兄王の長身の影。王は自ら銀の燭台を掲げて立っていた。
「さっきは悪かった……」
入って来た王は弟王子が伏す臥牀に静かに腰を下ろした。
傍らの卓に燭を置くと両手を膝の上に揃える。
「近臣たちのいる前で殴ったりして、私はどうかしていた。いや、おまえ同様、あの派遣軍隊長に腹を立てていたせいだ」
「兄上?」
「誰だって自分の家を他人に好き勝手に踏み荒らされるのは面白くない。だから、その鬱憤をおまえに向けてしまった。許してくれ」
王は王子に深々と頭を下げた。
面食らったのは王子の方だ。慌てて起き上がると、
「い、嫌だぜ、兄上? そこまで畏まられると俺が困るじゃないか。俺こそ──」
今度こそ本当に謝らなければならない。兄王が胸中の怒りを懸命に抑えていたのも気づかずに一人無様に癇癪を起こしてしまうなんて……
ここに至って王子は心から先刻の〈王の間〉での行動を恥じた。上に立つ者は、やはり兄王のようにいついかなる場合も泰然としていなくてはならないのだ。それを──
「俺、陽王は平気なんだと思っていた」
王子はずっと心の中で思っていたことを口に出した。
「兄上はほとんど帝国育ちのようなものだ。だから……帝国人が好きなんだと。帝国人が何をしようと気にしないんだと」
「馬鹿な」
微苦笑する若き王。
「誰が好きなものか。私はあっちで育ったからこそ帝国人が大嫌いだ」
脳裏に刻まれた島帝国での生活をこれ以上鮮明に思い出したくないというように王は首を振った。できることなら抹消したいとさえ思える日々──
陽王はあの緑滴る帝都を美しいと思ったことなど一度もなかった。砂しかない沙嘴国の方が遥かに美しい。
「夷狄、か」
炎の揺れる燭台へ目を逸らして、
「おまえの言う通りだ、須臾。帝国人にあらざる者は人にあらず。奴らにとって辺境の我々小国人は皆、夷狄だ。あいつ等は自分たちの国が世界の中心だと思っている。そして、自由や平和や幸福はそこに暮らす自分たちだけの所有物だと信じ込んでいるのさ」
「そんなに……そんなに嫌っているのなら、何故──」
思わず王子は叫んだ。だが、弟王子の思いを察したのか王は口早に言い切った。
「だが、湖族もだめだぞ、須臾!」
「兄上?」
「私は帝国人を嫌っているが、湖族は」
虚空を睨んで王はきっぱりと言った。
「湖族は憎んでいる。私にとって、湖族は具体的な憎しみそのものなのだ……!」
「それは、つまり、月王子のことを言ってるんだね?」
弟王子の問いに陽王は暫く黙っていた。
幾許かの後、頷いた。
「そうだ」
切れ長の涼しい目を戦がせて、よく似た弟の双眸に据えると心の中で付け足した。
(それもある……)
「教えてくれ!」
兄王の横にきちんと座り直すと王子は懇願した。
「月王子はどんな弟だったんだ?」
末子の王子はずっと想像して来た。陽王にとって、多分、誰よりも大切でかけがえのない弟。永遠の、真実の弟。月王子……
「俺なんかと違って歳も近くて一緒に育ったんだから、さぞかし仲が良かったんだろ?」
(こんな風にぶん殴ることもないくらいにな?)
無意識に王子はさっき兄に打たれた頬に手をやった。
一方、王はちょっと驚いた顔をした。
「仲が良かった、だと?」
目を細めてつくづくと末王子を眺めやる。
「何も聞いていないのか、おまえは? 私と月のことについて?」
「聞いてるもんか!」
王子は唇を尖らせた。幼い末王子の前で不幸に死んだ第二王子の話など、父王始め王城内では誰一人、口にする者はいなかった。
「帝国で立派に育つ貴方の話ならよく聞かされたけど」
「そうか」
頷くと陽王は笑いを含んだ声で言った。
「では、改めて私が教えてやろう。月は、それは酷い弟だった。歳は一つ違い。気性が激しくて、乱暴で、しょっちゅう取っ組み合いの喧嘩をした。まあ、気性が激しいって点では私も負けてなかったが。いや──」
ここで、目を瞠って聞き入っている王子をチラと見て、
「どうやら私たち兄弟全員共通の性格のようだな?」
王子は紅くなって口篭った。
「俺はともかく、兄上はそうは見えないぜ。いつも聡明で優しくて、温厚そのものだ」
「それは違う。その証拠に──さっき、ものの見事に手が出ただろう?」
玉座に座しながら弟王子を殴った自分を見て、近臣たちはさぞや昔の、月王子と遣り合っていた当時の面影を呼び覚まして戦慄したことだろう。それを思うと陽王は可笑しかった。
「まあ、上辺はどんなにでも取り繕える。それに、私は帝国へ行ってかなり矯正されたから……」
しかし昔はこうじゃなかった、と王は遠い目をして言うのだ。
「月と私は日夜、凄まじい喧嘩をした。今にして思うとその理由もわからないでもない。寂しかったせいだ。私も月も小さな子供が最も必要とするものに恵まれていなかった。私たちには欠けているものがあった。それこそ──母の愛だ。こればっかりは父王や乳母や廷臣では補えない」
天上の光を名に持つ沙嘴の幼い王子たちは共に母の愛に飢えていたのだ。
「おまえは末っ子だから、少し事情が異なるかな?」
「いや、似たようなもんだと思うよ」
母に構って欲しくて、デモンストレーションの意味合いも兼ねて、私たちは始終衝突し、喧嘩をした、と王。
「一番酷かったのは、武器を使った時だ」
流石にギョッとして、聞き間違いかと思って王子は兄を振り仰いだ。
「武器だって?」
「ああ。嫌な思い出だが──一番よく思い出す鮮明な思い出でもある……」




