星の子
その日。
見上げた空には星が流れていた、いくつもいくつも。
その場に留まる星などないかのように、とんでもない数の星が地に落ちてゆく。手を伸ばす。ひとつでいい、この手に落ちてこないだろうか。私の手は夜闇の中を舞ったが、それは星々への合図とはならず、こちらに流れるものはなかった。――ないと思っていた…。
ふと視線を感じ、そちらを見た。
そこには、少年が立っていた。
色あせたTシャツに短パン。髪はうっとうしく伸び、風に揺れる様は旗のようだった。大きな瞳をさらに大きく見開き私の方に向けている。
「……だれ?」
高い、声。それは彼の幼さに見合ったものだった。
「だれ?」
思わず私も同じ言葉を返す。少年は瞬きを繰り返しただけで答えなかった。
ザンッ
ひと際強い風があたりの草木を揺らし、大きな音をたてた。少年は怯えたように自分の腕を抱いた。首周りが伸びきったTシャツだけでは寒いのかもしれない。私は身につけていたショールを取り、彼に差し出した。彼はますます瞳を大きく見開いた。
「……借りていいの?」
戸惑ったような声。頷いてみせたが、少年はなかなか手を伸ばさなかった。
私は座り込んで彼と目の高さを同じにした。そうしてから、ショールを広げる。パタパタと風にはためくのを押さえながら、彼の細い肩から首に巻きつける。
「……温かい…」
「温かい?」
つぶやきを鸚鵡返しにすると、少年は頷き「ありがとう」と言った。戸惑ったような、小さな声だった。
彼が誰なのか、どこから来たのか、どうしてひとりなのか。尋ねたいことはいろいろあった。けれど少年の細い体や古ぼけた衣服がその質問を拒む。それは誰かに愛されている者の体つきでも、身につけるものでもなかった。
私は背後を振り返った。流れる星のために辺りはいつもより明るいが、鬱蒼とした森がこの先にあることがわかる程度だった。しばらくすると薄らぼんやりとした灯りが点き、森の手前に古ぼけた私の家が浮かび上がった。玄関灯が切れかけていたんだろう。
少年は瞳を輝かせて小さな家を見つめていた。私は彼の肩に手を置きながら立ち上がった。左手で小さな右手を握り締める。ぴくりと震えが伝わってきた。それでも払い除けない。「家においで」そんな気持ちを込めて、私の腿にトントンと当てた。彼は私を見上げた。
「いいの?」
頷く。少年は力を込めて私の手を握り締めた。
「温かい…」
私が呟くと彼は繋いだ手を少し持ち上げ「手?」と尋ねてきた。
「温かい、手」
――私は誰かと手を繋いだことがなかった。
パタンパタンと戸棚を開いていく。どこかに、すぐに食べれるようなものはなかっただろうか。あらかたの戸を開けてしまったが、なにも見つからない。きっとお腹を空かしているだろうから急いで食べ物をあげたいと思ったのに。
食卓のテーブルについた少年をちらりと見る。彼は自分の膝頭を見つめ俯いていた。その顔は本当に汚れていて、頬にはどこでつけたのかみみず腫れの赤い筋が走っていた。長い髪の毛はところどころベタついて固まった部分があり、肩に掛けた私のショールから覗く首筋は垢じみていた。こんな姿でお腹が減っていないわけがない。早く探さなきゃ、とまだ開いていない水場の上の戸棚を開こうと手を伸ばしたとき、間近のレンジの上の鍋に気づいた。
蓋を開けるとクリームシチューが入っていた。……残ってたっけ。苦笑いしながら熱すぎない程度に温め、彼の前に置いた。
「食べてもいいの」
この状態で食べるなと言うわけもないのに確認してくる。ゴクリと生唾を飲み込むと、まだ喉仏のない首筋か大きく動いた。
「食べて」
彼はスプーンを取りあげた。おそるおそるといった態でシチューを掬いあげ、口をつける。
「……美味しい」
驚いたようにそういうと続けて掬う。もどかしくなったのか、お皿に直接口をつけた。スプーンをカッカッと動かし流し込んでいく。あっという間に空になったお皿を取り、私はお代わり注いだ。
三杯目を注いでからお風呂の準備をし、四杯目を注いで着替えを探した。
キッチンに戻ると、四杯目を食べ終えたところだった。まだ食べるだろうとお皿に手を伸ばすと、少年は「ごちそうさま」と手をあわせた。
「美味しかった?」
尋ねると少年は頷いた。そして私を見つめると、何度も「ありがとう」と言った。礼儀正しい子だ。
私は椅子に座る彼の傍らに立った。汚れた彼の顔に掌をあてる。痩せこけた頬の、赤いみみず腫れに指を走らせる。どこでつけたものだろうか。体のいたるところに同様の傷があるように思われ、身震いした。
この子はどこから来たのだろうか。……名前すら分からないけれど、このまま元の場所には返せない。彼の細い体を、私は自分の白い腕の中に抱いた。
少年の体は温かかった。
彼を風呂場に案内した。中には一人で入ってもらったものの、なんとなく離れられない。廊下に立っていると呻くような声がした。
なにかあったんだろうか。私は慌てて中に入った。驚いて振り返る少年と目が合う、
彼は湯船に浸かろうとしているところだった。背を向けたその体に、予想通りの無数の傷。痛くてお湯につけるのを躊躇しているところだったんだろうと、容易に推測できた。
「……大丈夫、だから」
彼は小さな声でそう言うと、ゆっくりと湯船の中に入った。痛みを堪えるように眉根が寄せられる。私も彼と一緒に眉間に皺を入れてしまう。彼は湯に全身浸ると私を見て薄く微笑んだ。
「痛くないから」
「痛くない?」
それは嘘だろう。湯の中で小さく動くたびに表情が堪えるものになる。大人のような。
近付き、湯船の傍らに跪く。右手を湯に浸してから彼の頬に触れた。痛々しい、赤い傷。その周りの汚れがすうっと流れていく。汚れの下の肌は、存外に白い。
「痛くない?」
もう一度、傷に触れながら尋ねる。彼が頷くの確認した瞬間、パシンっというショート音とともに天井の灯りが消え、風呂場は真っ暗になった。驚いて彼の頬から手を離した。
廊下の電気はどうなんだろうか、手探りで出入り口に向かいながら、急な停電に驚いてるだろう少年に声をかける。
「だいじょ……」
大丈夫だから。そう言うつもりで彼の方に顔を向け……私の言葉は尻切れトンボになった。
――そこには、小さな明かりがあった。
少年の、あの傷ついた頬が光っている。きらきらと。それは彼の傷の上で、砂粒くらいの小さな光が無数に寄り集まってできたものだった。目を見開き、少年は自らの頬をゆっくりと擦った。光が、掌に移っていく。
私は導かれるようにふらふらと彼の傍に戻り、湯船の縁に手を掛け座りこんだ。彼は掌を私に向け、見やすいようにしてくれた。私よりも小さな手の上で、その光は瞬いていた。夜空の、星のように。
ふっと手を伸ばしてくる。湯船の縁にのせた私の手に触れる。手の甲の、彼に触れられた部分が光り出す。明るく、強く。
私は目を瞠る。手を中空にかざす。そうすると、そこに宇宙が広がっていく。甲の上で無数の星が光る。軽く手を振る。光が落ちていく、流星のように。
「きれい…」
少年が呟く。
「綺麗ね」
私が応えると、彼は小さく頷いた。
ふっと彼の顔を見る。私はまた驚くことになった……傷がない。あの頬のみみず腫れがまったく消え去っていた。思わず星の瞬く手を、傷のあった部分に伸ばす。彼の頬に親指を擦りつける。けれどそこには微かな起伏すらなかった。
わけがわからず、彼の肉のない鎖骨の下に指を走らせる。そこには誰かに切りつけられたとしか思えない、赤黒い傷が見えていた。私の手の動きに合わせて光は指先に移り、さらにその先の鎖骨の下の傷跡に移動していく。光が増す、彼のか細い体の上で。
そうして。
その痛々しい傷を、私の指から放たれた光が取り囲む。ゆっくりと明るくなっていく。よく見ると粒子ひとつづつの明るさは変わっていくことはない。数が、光の数が増えていった。
その光の下で、少年の傷の色が変わっていく。赤黒い跡がゆっくりと、穏やかなオレンジ色に変わり黄色になり、そして元の肌の色に変わっていく――傷跡が消えていく……。
光の粒は意志を持った存在のように増え、動く。次の傷を求め、胸と腕とに分かれて移動し出した。脇近くの擦り傷に一群が留まる。傷の形に添い、光を強くする。もう一群は湯の中に入っていく。少し光を弱めゆらゆらと揺れながら蠢き、新しく見つけた傷の上で強くなった。
少年の体が光に包まれる。それを私はただ見つめるだけだった。なんの言葉も出せず、なんの音もせず。ただ光は生まれ、彼の薄い体は癒されていく。
どれほどの時間が経ったのか、徐々に光は消えていった。彼は私を見つめていた。大きな瞳からは涙が零れていた。
私は彼の方へ両手を伸ばした。指先は、男の子にしては長い髪の毛を掠めていく。頭を引き寄せ、私の肩に埋めさせる。
「……僕、ここにいてもいい?」
「ここにいて」
「ずっと、いてもいい?」
「ずっといて」
抱きしめる腕に力を込めた。
今の光がなんだったのかは分からない。彼が何者なのかもわからない。それでも構わない……きっとこの子は、私の手の中に落ちてきた星の――。
それから。
いくつもの季節を彼とふたりで過ごした。森の手前の、小さな古ぼけた私の家には誰も来ることはなく、私たちはお互いだけをみつめて暮らした。
穏やかな日々の中、変化は彼と私の目線の高さだけ。見降ろして話していたのが同じになり、やがて見降ろされるようになる頃、彼は少年ではなくなっていた。手を繋いで見ていた星は、彼に背後から抱きしめられて眺めるようになった。
そうして、今日もふたりで夜空を見つめる。星が流れていく。いくつもいくつも。出会った日と同じように、流星群が訪れていた。
胸元に回された腕にそっと指を走らせる。
――流星に願いを叶える力は、本当にあるんだろうか。もし本当ならば。
お願い、ずっと彼と一緒にいさせて。
私の願いはそれだけ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
腕の中で彼女が小さく身動ぎをした。流れる星を追いかけ、頭を巡らせている。
思わず抱きしめる腕に力を込めてしまう。星を追いかけ、このまま僕の腕から飛び出してしまうんではないだろうか。そして、そのまま帰ってこない――。
そんなことはなく、彼女は僕の方に顔を向けた。視線が合う。垂れた、可愛らしい瞳。小さな唇には優しい微笑みが刷られている。夜闇の中に透けるような白い肌と細い腕……彼女はあの日と変わらない。初めて出会った日と、なにも……。
あの日、僕は逃げた。
流星群が見れるからと、他の子供たちは職員と一緒に施設の外にいた。僕だけが取り残されていた。
殴られた頬に手をやる。ピリッとした痛み。指で辿ると微かな起伏が分かった。爪が当たったのか、みみず腫れになっているんだろう。
こんな傷、たいしたことない。この前は背中を定規で叩かれた。数えられないくらいの回数だったので、しばらくの間は仰向けで眠れなかった。その前は偶然を装い、ペーパーナイフで鎖骨の下を切られた。
どうして自分ばかりそんな目にあうのか分からない。ただ、自分に暴力をふるう職員はひとりだけだ。他の職員は気の毒そうに見ているだけ。助けてはくれないが手を出してくることは決してなかったし、傷の手当てはしてくれた。
宛がわれた部屋は暗い。高い位置に小さな窓があった。その窓の先に広がる世界も、部屋の中と同じように暗い。視線を逸らそうとした瞬間、明るい光が走った。ひとつ……そして、またひとつ。
遠くで歓声がした。他の子たちが、流れる星に喜びの声を上げているんだろう。
視線の先で、また星が落ちる。子供たちの歓声、子供たちの笑い声、笑い声、笑い声……。
逃げよう。
不意に思った。
皆、夢中で星を眺めている今なら誰にも気づかれない。今だ、今だ。今、逃げなければ。
僕はそっと外にで、夜闇に紛れた。
走って走って。施設の裏山を駆け登り、いつもならば渡ることのない隣の峰に続くつり橋を渡り、また走る。暗いことなんて気にならなかった。足元が見えない。でも谷に落ちたところで、獣に襲われたところでどうということはないと思った。生きながら死んでいくような、今の状態に比べれば。……けれど、どこまで逃げればいいんだろう。
助けて、誰か助けて。でも、その誰かはどこにいる? ……お願い、誰か助けて。
ザンッ
不意に視界が開ける。鬱蒼とした森は突然終わり、風が縦横無尽に駆ける草原に出た。
そこに、彼女がいた。
彼女の体はほのかに白く光って見えた。細い腕は、夜空に伸ばされている。落ちてくる星を受け止めようとするかのように。
きれいだと思った。こんなきれいな人を、僕は見た事がなかった。
「誰?」
この人は誰だろうか。こんな人気のない場所でなにをしているんだろう……流れ星を見ていたことはわかる。けれど、こんな人里離れた場所でたったひとりで?
彼女は僕を見やると、僕の問いかけが分からないかのように数度瞬いてから「誰?」と鸚鵡返しにした。高く澄んだ声だった。
ザンッ
また風が強く吹いた。寒い……それで現実に引き戻された。
逃げなければ。彼女は大人だ、こんな時間にひとりでいてもたいして不思議はないのかもしれない。けれど子供の僕がひとりでいるのはおかしなことに思えるだろう。施設に連絡されるかもしれない。
身を翻して逃げようとしたとき、彼女は身につけていたショールを取ると差し出してきた。
……掛けろってことなのかな……? それを手に取ろうか、それとも逃げようかと迷っていると彼女は跪いて、羽織らせてくれた。
「温かい……」
ふんわりと柔らかな布は、とても心地がよかった。「……温かい」彼女は僕を見つめながらまた鸚鵡返しに言った。どうしてこの人は、僕が寒いことに気づいたんだろうか。
不意に彼女が後ろを向く。長い髪が鼻先を掠めた。僕は体を引きながら彼女の視線を追った。なにを見ているんだろうか。その先には暗い森しかない。
――森の手前にぼんやりとした光が生まれる。
……なんで……。今の今まで何もなかった場所に灯りが生まれ、背後に小さな家を照らし出していく。なにもなかったはずの、森の手前に。
暗いけれど、家があったかなかったかくらいは分かる。なにもなかったんだ、確かに!
彼女は立ち上がると僕の手を握った。彼女の手はひんやりと冷たかったが、すべすべして柔らかかった。トントンと腿に当てられた。ハッとして彼女を見ると、優しく微笑んでいた。
突然生まれた灯り、その後ろに突然現れた家。けれど、彼女の笑みは優しい。……なにを怖がる必要があるんだろうか。こんなに優しく、僕に笑いかけてくれる人は今までいなかったというのに。
「……いいの?」
家に入っていいのかと尋ねると、彼女は一層優しく笑いかけてくれた。僕たちは手をつないで家の中に入った。
家の中に入ると、彼女は戸棚を開け閉めしだした。それは彼女自身、この家に慣れていないので物の置き場所を確認しているように見えた。
僕は食卓の前の椅子に座り、家の中をゆっくりと眺めまわした。ごく普通の家に見える。まるでテレビドラマで見るような、普通。目の前の台所は綺麗に片付いていて、汚れなんてひとつもない。洗い物もなく、レンジの上も綺麗に片付いていた。
こんなところに僕がいていいんだろうか。薄汚れた服を着た、薄汚れた僕が。そう思うと自然と体が前に傾ぎ出す。身の置き所がなく、小さく小さくなっていった。
カチカチという音がした。視線を上げると彼女がレンジで鍋に火をつけていた。あんな鍋、置いてあったっけ? さっき見たときは、レンジの上にはまったくなにもなかったのに……。彼女はおたまを手にしており、鍋の中をかき混ぜながら後ろを振り返って僕の方を見ていた。嬉しそうに目元を緩め、朗らかに笑いかけてくれている。
一体、どんな魔法なんだろうか。
腹ぺこな僕の前に、温かなシチューが差し出される。さっきまでは影も形もなかった鍋から、彼女が何杯でも注いでくれる。
この家もそう。
寒いと思ったら、現れた。
彼女も。
助けてと願っていたら、現れた。
――これは一体、どんな魔法なんだろうか。
そして、魔法はまだあった。
僕の傷に彼女の白い指先が触れる。そこから、キラキラとした光が生まれる。
細かな光は増え続け、意志を持ったもののように僕の傷の上を這い、治していく。癒されていく、彼女の放つ光の中で。
彼女の細い腕は僕を包み込み、抱きしめてくれた。
「……僕、ここにいてもいい?」
僕はもう気づいていた。
彼女の綺麗な声は、僕の言ったことを繰り返すことしかしていない。彼女は言葉を知らない。ただ僕の言葉を鸚鵡返しにするだけ。だから、彼女が次になにを言うかは分かっていた。
「ここにいて」
僕はずるい。
「ずっと、いてもいい?」
「ずっといて」
彼女は腕に力を込め、僕を抱きしめてくれる。
彼女が何者なのかわからない。それでも構わない……この人は、流れる星が与えてくれた、星の――。
そうして。
長い時間を僕たちは共に過ごした。僕だけが変わっていく、時間。子供だった僕は大人になる。彼女と繋いでいた手は、彼女を抱きしめる腕に変わった。
彼女は変わらない、なにひとつ。白い指先も、細い腕も、柔らかな頬も、優しい微笑みも。その変わらなさは僕が望んだものなのかもしれない。
彼女を背から抱きしめ、同じ夜空を見つめる。星が流れていく。いくつもいくつも。出会った日と同じように、今日は流星群が訪れている。
彼女の指が、僕の腕に触れてゆく。小さな光が指先から生まれ、落ちていく。
星よ、星。流れてゆく、数多の星。どうか、僕の願いを叶えて。
彼女と一緒にいさせて。僕の願いはただそれだけ……。