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心の扉が開くとき

作者: 松宮

 「無理だって」のひと言は、いつもわたしの前に立ちふさがる。そうだよ、無理かもしれないよ。でも、昔の無理が今の可能になった例なんて、たくさんあるじゃないか。その切り替えレバーを握っているのがわたしじゃないとは限らない。

「神話を研究することで、当時の人々の心の原像を知りたいです」

 研究テーマをゼミの教授に訊かれたとき、わたしはこのように宣言した。その意志をへし折るべく登場したのが、「無理だって」のひと言だ。

「心になると、やっぱり難しいからねえ」

「ですよねえ」

 教授のお言葉に口では同意しながらも、「わかってるよ!」と毒づいた。そして、黒いことを考えた自分が少し怖くなった。この教授を嫌っているのかと思うと、そんな自分をもっと嫌いになりそうだった。

「とりあえず、神話の作られた時代について調べて、背景をしっかりさせることからはじめてみたら?」

「はい。ありがとうございました」

 お礼を言って、一応メモしておく。納得した、とは言えない。無駄だった、水を差された、とも思わない。ただ、なぜだろう――ほんの少し、嫌なものを感じた。


 1


 ゼミの時間がおわると、すぐ図書館へと向かった。このころには、頭の整理が大体できていた。

 わたしは、なんとしても心の研究がしたい。

 神話と心理学を混ぜたような本を探した。たくさんある。役に立ちそうなものはコピーし、そうではないものも、書名だけは控えておいた。



 2



 気づけば、時計の短い針が二周回っていた。夜八時になっている。この二時間で得たのは、膨大な知識の山だった。多くの文献を集めたわたしはその説を組み合わせ、大きな知の結晶を作り上げた。

 完璧だ。

 そう確信した瞬間、緊張の糸が切れた。せき止められた興奮が流れ込み、鳥肌が立つ。学者の喜びを、少しだけ分けてもらったみたいだ。

 思わずニヤけたわたしは、本棚の向こうから人が来たことに気づいて、慌てて眉間にしわを寄せた。

「ぶはははは」

 誰もいなくなった本棚の前で、わたしはひとり高笑いした。まだまだ足りない。さっきよりも声を大きくして、ひたすら笑い続ける。

「ぐふふふふ」

「すいません、図書館、もう閉めますので……」

 慌てて走って来た司書さんがおそるおそる近づいて、すぐに去っていった。



 3



「里見さん、最近成績いいね」

 ゼミの先生に褒められた。神話についての研究発表は大成功だった。先生の意見を踏まえたうえで作り上げたレジュメも、かなりの完成度だったらしい。

「Aだね。点数で言うと、90点」

 残りの10点を悔しがるよりも、実力を認められたことが嬉しかった。

 わたしの次の発表者が、不安そうにしている。ごめんね。性格悪いかなと思ったけれど、わたしはあなたの反応が嬉しいよ。

 ふふんと小さく笑って、教壇から降り、席に戻った。とっくに干涸びたように感じた満足感が、少しずつ元気になっていった。もしかすると、わたしは研究者に向いているのかもね。そんなことを思って、ないないと打ち消す。それでも振り切れない気持ちが、笑いを呼ぶ。

 気づけばまたニヤけていて、わたしはすぐに口の端を下げた。それでも、向上心と自尊心が高く上っていくことは止められず、止める気もさらさらないのだった。



 4



 ゼミがおわったあと、わたしはサークルボックスへと向かった。扉を開けた瞬間、わたしは重苦しいものを感じた。

 おかしい。何がおかしいのかはわからない。それでも、何かがおかしい。

 いつもより空気が重い気がする。ボックスにいるみんなの顔が暗いように見える。そして何より、扉を開けた瞬間に集中した目に、不安が宿っていたように感じられた。

 ワンテンポ遅れてやってきた、春のような温かい雰囲気は、無理に作ったものにしか思えなかった。

「お疲れさまです」

 あいさつしてから、親しい先輩の隣に座った。

 まわりは、適当な雑談をはじめた。どうやらわたしに対して、何か思うことがあったわけではないらしい。

「何か、あったんですか?」

 先輩は小さく笑う。

「ちょっとね、部長を怒らせちゃってさ」

 すぐに、なんとなくだけど事態が見えてきた。この先輩が、部長のカレシ――恋人で、最近うまく言っていないという情報が、送り火のようにわたしの推理を導いた。

 おそらく部長が怒ったのは、大したことじゃない。しかし、日ごろのイライラが一気に破裂したのかもしれない。

「あれは、部長が悪いと思うよ。コウジくん、気にしなくていいよ」

 別の先輩が言う。

「うん、ありがとう」

 先輩――コウジさんの顔色が、どんどん明るくなっていく。気づかなかったけれど、相当顔色が悪かったようだ。いつもクールな薄笑いを浮かべている人だけれど、内面はとても繊細なのだ。

 わたしは、そのことを見抜いている。

「わからない話してごめんな。あのね――」

 事態は把握できた。コウジさんが、ボックスを開けっ放しにしていたらしい。その理由は、第一志望の企業からの電話がかかって来て、地下のボックスでは電波が悪かったから。大切な情報が聞こえなくては困ると思って地上に飛び出したコウジさんは二、三分後、ボックスへと戻った。

 そこで、部長、そしてサークルメンバー数名とばったり会ってしまったらしい。サークルの規則を尊重する部長は、コウジさんに激しく怒りをぶつけた。



 5



「ごめんで済むことなのに、あんなに怒らなくてもね……」

「いやいや、俺にも責任はあるからね」

 素直に謝ったコウジさんに対して、部長は近くにあったティッシュの箱を投げつけ、出ていったらしい。

 部長はいい人なのだけれど、機嫌が悪くなると手が出てしまう。サークル内で密かに、<自分の子どもの友だちに、「お前の母ちゃん怖いな」って言われそうな女性ランキング>のトップを飾っている。

「これがそのときの跡」

 コウジさんは茶色に染めた前髪を指差したが、何も見えない。

「冗談だって」

 場の空気がほんの少し和んだ。あまり重い空気を好まない人だから、このような行動に出ることはわかっていた。

「なんで、あんなに怒ったんだろうね?」

 コウジさんが冗談っぽく言う。

「多分、自分のなかで許せない、と思っていることを、先輩がなさったからだと思います」

 ユング心理学で、確か「影」という、自分のなかの許せない部分のことを表す概念のことを思い出し、口にした。その許せない部分を他人がしているのを見ると、攻撃したくなる。他人に自分の嫌いなところを投影することで、自分の弱点を克服しようとしているのだ。

「神話にも似たような話があって、それはスサノヲとヤマタノヲロチの対決にも出ていて、あとそれはいじめの構造にも似通った部分があって――」

 コウジさんは、丁寧にうなずいてくれる。



 6



「――と思いますが……どうでしょうか?」

「うーん、多分そこまで複雑じゃないとは思うな」

 あれ? 間違いないと思っていたけれど、ポイントを外しただろうか?

「私は単に、部長の機嫌が悪かっただけだと思うよ。昨日、あの人が応援してる球団負けたし」

 さっき、コウジさんをかばった先輩が言う。まわりの人も、同意する。

「あいつ、たびたびキレるしな」

「沸点低いよねー」

 あれれ? なんでだろう。なんで、誰も同意してくれないんだろう?

 わたしはただ、部長もコウジさんも悪くない、って言いたかっただけなのに。なんで、部長の悪口に転がっちゃうんだろう?

 顔が一気に熱くなる。きっと、真っ赤になっているだろう。腋からの汗がとまらなくなり、そのにおいが立ち上ってくる。恥ずかしい。間違えたこと、そしてその発言を誰もが聞いて、同じように思っていたことが、とてつもなく恥ずかしい。

 汗が止まらない。涙が出ているわけでもないのに、視界がぶれている。

 気づけば、わたしの両足が視界に映っていた。無意識的に、うつむいていたらしい。顔を上げる。幸い、誰もわたしを見ていない。

「あ」

 腕時計を見て、わたしは声を上げた。意味はない。ただ、まわりは意味があるのだと思って、一瞬こっちを見る。それが目的だ。

「すいません、用事があるので帰ります」

 用事があることにして、立ち去る。理由もなく立ち去ると、恥ずかしくて逃げ帰るみたいで、そのほうがずっと恥ずかしい。だから、理由が必要なのだ。

「お疲れー」

 立ち上がり、扉の前で一礼して去る。階段を一段飛ばしで駆け上がり、ボックスのある建物から飛び出した。図書館へ走る。しかし、その目の前で足を止めた。

 帰ろう。

 なぜそう思ったかはわからない。ただ、はっきりとした敗北感だけが、わたしの心のなかに積もっていった。


 心の研究は、わたしの知の結晶は、実用的なところでは発揮できなかったのだ。



 7



 電車の席に座りながら、今日の出来事を思い返した。ゼミでの大成功、そしてボックスでの大恥。突然の暗転。

 なんであんな険悪なムードを作ったんだよ、とサークル仲間に対して理不尽な怒りを抱くこともあった。

 大きなため息をつき、頭を抱えて上体を倒した。そそっかしい足音が聞こえたと思ったら、それが遠くなった。顔を上げると、隣に座っていたはずの女の人がいなくなっていた。

 数日前の、急いで去っていった司書さんのことを思い出す。また、やってしまったらしい。

 上体を起こした。あまりにも勢いよく起こしたために、後頭部を窓にぶつけた。痛かったけれど、まとわりつく劣等感や屈辱感が、ほんの少し振り落とされた。音を立てないように、深呼吸。続いて、小声で「仕方ない」と呟いた。

 前に座っていた真っ白な髪をしたおばあさんが、明るい表情で首をかしげる。「なんでもないですよ」と小声で囁いた。



 8



 電車が止まる。どうやら、駅に着いたらしい。しかし、わたしの降りる駅ではない。前の席に座っていた、さっきのおばあさんが立ち上がった。わたしはそのとき、なんとなく開いた扉の向こうを見ていた。おばあさんの背中が扉から遠ざかる。

 そのとき、おばあさんが首をかしげた。何かがおかしい。そう感じた。

『扉が閉まります。ご注意ください』

 そのアナウンスと、わたしがおばあさんの座っていたところに残されていた日傘を見つけたのは同時だった。わたしは思わず日傘を手に取った。しかし、ドアが閉まるときの空気の漏れるような音は、予想よりもずっと早くに訪れた。

 振り返ったおばあさんの顔に、絶望の色が差す。わたしが日傘を突きだそうとしたときにはもう、電車は動こうとしていた。

 わたしは、一瞬、もう無理だと諦めた。でも、その考えはすぐに消えた。

 窓が見えたのだ。わたしは窓を下ろし、おばあさんに向かって日傘を投げた。

 おばあさんの手に、日傘が落ちる。驚いたおばあさんの口が動く。電車の音にかき消され、耳には届かない。構わない。冬の部屋に落ちたひだまりのようなその笑顔が、答えを教えてくれている。



 9



 おばあさんを助けることができた。そう考えると、心が温まる。人助けは気分がいいなあ。そう心のなかでつぶやいて、あれ? と思う。違うのだ。もう一度、同じことを呟く。違う。やっぱり、違う。少しは当たっている。でも、違う。

 出来事を思い返す。思い出すのは、おばあさんが首をかしげたこと、そして、あの笑顔――。

 暗闇に包まれた心のなかに、光が満ちた。わたしは思わず叫びそうになった。

 意思が通じた瞬間、相手の心と自分の心が繋がった瞬間――わたしはその瞬間に、なによりも満たされた気持ちになった。

 わたしはただ、誰かと気持ちを共有したかっただけなんだ。あなたが笑っているとき、わたしも嬉しい。あなたが泣いているとき、わたしも悲しい。

 それができるだけで、わたしはよかったんだ。心について知りたくて、本を開く。それは、人と繋がりたいという気持ちが引き起こした、ちょっとした勘違いだったのかもしれない。



 10



 扉を叩く。返事はない。

「こんにちは。今日は、面白い話をするね?」

 扉の向うにいるはずの少女は、返事をしない。少しは失望する。それでも、仕方ないよね、と納得する。

 わたしは、不登校の生徒を元気づけるボランティアをはじめた。一週間に二回、子どもの家に行ってコミュニケーションを取る。もっとも、一ヶ月経った今でも、わたしが一方的に話しかけているだけ、というのが現実だけれど。

 なぜこのボランティアをしているのか、正直自分でもわからない。ただ、心が通うことの喜びを、誰かにも知ってほしい。その気持ちで、今日もこの扉の前に立った。

 わたしのしていることは、ただの独りよがりかもしれない。そう思うこともある。それでもわたしは、この仕事を続けたいと思う。研修もしっかり受けた。きっと、わたしはまじめに努力している。青春のことを将来考えることがあったら、まず思い浮かぶのはこの出来事だろう。

 わたしは絶対に、正解の道を選んでいる。そう、信じている。

 一時期嫌ってしまった先生のことも、この仕事がきっかけで好きになった。彼は教授になる前は小学校の先生だったのだ。この仕事がうまくいかず、落ち込んでいたとき、そのことを知った。

 ――だったら、私の経験が役に立つんじゃないかね?

 そのひと言を言ったときの先生の顔は、あの日のおばあさんのものとそっくりだった。先生のアドバイスは、ちゃんと実行した。残念ながら、今のところ成果は出ていない。

 でも、いい。わたしの欲しかったものは、ちゃんと手に入ったんだから。

 コウジさんのことも、思い出す。結局彼と部長は、別れた。しかし、ときどきボックスでふたりにばったり会う。いつ起爆するかわかったものじゃないから、正直怖い。それでも、仲良く話しているのを見て安心するのがいつものパターンだ。そのたびに用事を思い出したふりをして消えるわたしだけど、そろそろ別の手を考えたほうがよさそうだ。

 人と人のつながりって、本当に面倒だ。でも、大丈夫。絡まっても、切れてしまっても、繋がるチャンスは――きっとある。わたしと先生、コウジさんと部長――みんな、信頼の糸を取り戻したのだ。

「――おしまい。じゃあ、今日は帰るね。今度でいいから、顔を見せてくれたら嬉しいな」

 最後に「バイバイ」とつけ足して、わたしは扉に背を向けた。

 今日もダメだったか。思わず吐きかけたため息を、深呼吸に変えた。「よし」と呟く。進展あり、そういうことにしておく。

 ――風が、耳を撫でた。

 おかしいな、窓なんてないのに。そう思って、振り返った。


 扉が、開いていた。

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