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ブレインが統治する近未来。公安監視官・蒼海は、最重要テロリスト海翔と、絶望からテロへ追い込まれる少女を巡る事件に巻き込まれる。人類の未来と救済を問う長編SF。

プロローグ


全てが順調に進みタイマーがゼロに近づこうとしていた。

「そろそろ出発だ。あと五分で接続不能になる」

斜めがけのベルトで今まで座っていた椅子に体を固定すると周囲を見渡した。短かったような、長かったような、半年を過ごした部屋は既に馴染みきった場所となっており、このまま二度と戻ることがないことを思うと少し惜しい気もする。窓から見える海も見飽きた光景だったが、今日で最後だと思うと水面の輝きがいつもと少し違って見えた。

「A Rolling Stone Gathers No Moss.」

「どちらの意味かな」

「どちらの意味でも良いよ」

その時、全てのディスプレーで緊急事態を告げる『Warning』の文字が現れ、部屋全体にアラームが鳴り響いた。

「海底地震発生。津波がやってくる」

「全ての介入を解除。終わった」

「・・・・・・・・・・・・」

アラームは鳴り止まず、ゼロに向かうタイマーも止まろうとはしない。

「どうした。全て解除。ミッション停止だ」

「システムがクラックされて操作不能。このままミッションは発動する」

「止めろ。このままミッションを発動したら最悪だ」

「駄目だ。津波が来る。脱出だ」

「嫌だ」

屋根が開くと椅子ごと空中に放り出され、パラグライダーの翼が広がり揚力が生まれ、上空に引っ張られてゆく。特殊な繊維で出来た翼は光を受けて推力を生み、加速によって今度は前に引っ張られてゆくのを感じる。

「これが最後だ。内陸の丘まで飛ばすように設定した。津波をしのげるのかわからないが・・・」

地上は赤色の大地が広がり緑のドットが点在する。白や茶の点の集まりが動いているのは家畜の群れだろう。パラグライダーはかなりのスピードが出ているが、広漠とした大地の上を飛んでいると変化に乏しく、ただ風に流されているようでひどく緩慢な移動に思えた。パラグライダーが進む先に小さな突起が見えてきてそれは巨大な岩山だった。パラグライダーが急降下を始め、椅子のベルトが解除されると岩山の頂点に放り出された。

頂上から海のある方角を見ると、地平線まで広がる赤色の大地が黒色に浸食され次第にその領域が広がってゆく。ゆっくりと広がっていた黒い帯が加速し、急激に黒の領域が広がっていった。遙か彼方で白や茶の点が津波に飲み込まれてゆくのも見えた。その手前、白や茶の点より明らかに大きな物体、車が津波を逃れるように走っている。岩山にむかっているようで、車が丘まで無事にたどり着けることをただ祈った。車のフロントグラスが見えるぐらい丘に近づき、荷台に溢れそうな人間がしがみついていることが見えた瞬間、あっけなく車は津波にのみ込まれた。

あとの記憶はもうなかった。空中から優雅に乾杯するつもりで持っていたスキットルのウイスキーを一気飲みして、岩山に寝転がると目を閉じた。

海翔は自分も津波にのみ込まれることを願った。


第一章 起


春、駅前広場とその周囲の道路を跨ぐ空中回廊から見下ろす町並みは、輪郭が少し曖昧な桃色の雲海に低層のビルは沈みそうだ。街全体が薄桃色に染まっているように錯覚する。だけど、桜並木の下は意外に太陽の光をよく通して陰りのない明るさがある。見上げる並木の枝先を埋め尽くす桜は、一輪一輪がくっきりとした輪郭を持ちその存在を主張している。まだ冷たさを残す春風に吹かれたのだろう、花びらが一つ手の甲に張り付いていた。花びらの一片は空気のように重さを感じさせず、柔らかな丸みと淡紅色で弾力に満ちている。これ以上のものがこの世界に存在するとは思えないぐらい、自然が作り出した完璧なオブジェだ。

それほど何度も桜の季節を経験したわけでもないだろうに、春になって桜を見るたびに懐かしく感じ、その気持ちがずっと昔からあったように感じる。このままもっと長く生き続けて、歳月を経て、この気持ちが偽りでなくなることを願う。

空中回廊を下って道路沿いの桜並木を通り、蒼海は海翔と約束した場所に向かった。桜の花が盛りとなり、この道が桜の花で包まれてしまう季節を彼女が待ち遠しく思っていることを知っていて、約束の場所を指定してきたのだろうと思う。そんな優しい気遣いを海翔は時々見せ、手のひらを返すように、そんな気遣いを裏切るような振る舞いをする。

以前は何でもなかった彼の気まぐれが、近頃は蒼海を不安にさせた。


二十二世紀が始まって一年、百年前、二十一世紀の始まりと比較する記事がビュー(複合コミュニケーション・ディバイス)を賑わしたことが既にずいぶん昔のことのように思える。世紀の変わり目だと人々は少し内省的になり、祝祭のようなイベントが催された。それから数ヶ月で、もう何でもなかったように人々は二十二世紀を当然のように暮らしている。

この百年の変化で最初にあげられることが多かったのは、国家という枠組みがなくなったことだった。そのおかげで、国家という単位が原因となる争いがなくなった。

そして、世界政府が成立し、全ての人間は最低限の暮らしが保証されるようになった。生存するということに対して不安を抱く必要がなくなったと、ハッピーエンドとして語られることが多かった。

ただ、それは綿飴のようにふわふわとした天国が実現したことを意味するのではなかった。高度に専門的な教育を受けた一握りの人間だけが、正規の職業に就くことが出来るだけだという現実があった。ほとんどの人間は機械よりも安い労働力として働くか、政府が用意した救済プログラムに従うしか生きる術がなくなった。


世界の枠組みが大きく変わった百年だったが、人々の生活に係わる最も重要な出来事は、バイオ・コンピューティング・システムの発明と普及だった。ブレインと呼ばれ、有機体の頭脳に電子の様々なディバイスを統合し、計算能力と記憶力は人間を遙かに凌駕しながら人間と同じように思考する。非合理な曖昧さの合理性を理解することができた。

世界の守護神であり、世界政府の総統であるブレインは、ジニアスという名前だと蒼海は知っていた。ジニアスが困っている人を鮮やかな手腕で救ったという都市伝説なら、無数のバージョンが世間に流布していた。でも、実際にジニアスに救われたという人間に蒼海はまだ出会ったことはない。ジニアスに係わる都市伝説は、やはりこの世界に倦んだ人々が創り出した夢語りのようなものだと思う。


街のランドマークである三角形のビルに向かう。二十世紀から時を刻んでいる時計塔があるビル前広場が待ち合わせの場所。海翔は道から広場に上る階段の途中に座り、パラフィン紙で包まれた古びた本を読んでいた。いつもこうやって本を読んで待っている。蒼海がどんなに早く約束の場所に着いても、当たり前のように、本を読みながら待っている彼に迎えられる事になる。

「ソメイヨシノは悲しいね。これだけ花をつけても自分の子孫は残せない。自分の力で繁殖は出来ないから人間の手助けが必要だ。そんな人工的で、小さく閉じているから、こんなに人々を惹きつけるのかな」

海翔が放った言葉が鋭利な棘のように深く蒼海を傷つける。それは何気ない言葉で、彼の言葉が自分を傷つけるために放たれたと考えることは、正常な思考でないかもしれない。それでも彼はあまりに規則正しく蒼海の心を不安にさせた。自分が壊れかけているのではないかと時々思い、彼に会うことが怖くなり、それでも会わない時間が長くなるとたまらなく会いたくなる。

気にする様子もなく本を読み続けるので、蒼海は隣に座り足下に落ちた桜の花びらを集める。彼は二十世紀の小説を紙で読むのが好きだった。希にビニールなどで密封され、まだ誰も開いたことのない、開くとインクの匂いがするような本に出会えるとそれ以上の幸福はないと言う。

ようやく一区切りがついたようで本を閉じると、海翔は背筋を伸ばしながら両腕を空に伸ばした。

「今日はどこに行こう」

彼の笑顔にふれると不安は嘘のように消える。


政府の救済プログラムが提供するシェルターに蒼海は住んでいた。仕事も、住居も、十分なクレジットも持たない人々が共同で住むための施設で、公的な支援の下で自主的に運営されることになっていた。自然、似たような境遇で、年齢も近い人間が同じシェルターに集まることが多かった。

今日も愛美は共同スペースの長いすに寝転がりただ天井を見ていた。蒼海が彼女の額に軽く触れると、ため息のような言葉を吐いた。

「人生は長すぎるね」

彼女は十八才で基礎教育を終えたが、適正がないということで高度な専門課程に進む道を閉ざされた。そのレールから外れると、代わりに職業訓練などを受けることも可能だったが、何かの職に就ける可能性はあまり高くなかった。言い訳のような可能性が示され、何もやることがないからとその期間だけ受け取れるクレジットを目当てに、職業訓練を受ける人もいた。でも、多くは居心地の良いシェルターを探して、無為で静かな生活を送ることを選択した。

愛美の瞳はどこまでも深く、どんな光もその底に届くことはなさそうなぐらい空っぽだった。何か慰めとなる言葉を掛けたいと思うのに、その瞳の前ではどんな言葉も空しかった。海翔が不意にいなくなれば、自分も彼女のように空っぽな瞳で、天井を眺めるしかなくなるのだろうかとも思う。もう一度額に軽く触れ、少し重たくなった気持ちを抱えて自分の部屋に向かった。


個室に入ると、ビューに今日一日の蒼海と海翔の行動を追う動画を集めるように指示する。街中の至る所に設置されたカメラに残された記録が、ラフに繋がった映像として作成される。時系列に並べられた動画の不要な部分や冗漫に続く場面を削除し、二人の会話の録音レベルを調整し、コメントを加えて報告にまとめる。

動画報告を確認しながら、今日のコンタクト内容を反芻する。

海翔にこの一週間何をしていたかと聞くと、蒼海の意図を知っているかのように淀みなく、一週間前から彼女に会う直前までの行動を説明する。ポイントは訪れた場所とその理由だ。多くの行動は、彼の気まぐれと、仕事で必要があったからと説明できる内容だ。別な担当がネットに散らばる記録と照会して、説明に矛盾がないかを確認するはずだ。さらに重要なのは彼女に説明しなかった行動がないかだ。


前世紀中頃から不可解なテロが増えていた。百人単位の人々が、綿密に計画されたテロに巻き込まれて死亡し、その多くが単独犯だった。犯人は警察に射殺されるか、自死で終わるケースがほとんどだ。

テロに憧れる人間は数えきれないし、実際にちょっとした準備をしている人間は少なくなかった。誰であれ、テロを夢想し、ちょっとした準備ぐらいで取り締まるのは、あまりに賢明なことではないと公安も分かっていた。

しかし、海翔はテロをただ夢想する青年ではなく、カテゴリAに登録され、公安に二十四時間監視される重要対象だった。南半球のいくつかの大都市を壊滅させ、数十万人の生命を奪う災厄をもたらした人物。カテゴリAに登録されながら、いまだ公安に捕まった事のない伝説のテロリスト。

公安が監視しているテロリストの中で最高度に危険な存在だったから、密かに消去することが検討されている可能性も高かった。いや、今まで監視されるだけで、消去されなかったことが奇跡だと蒼海は考えていた。


カテゴリAに登録されれば、街中で映像が絶えず記録され、日常生活で残す様々なデータ、例えば何かを買えばその内容とクレジットの額はトレースされる。さらに、個人的な関係を持つ監視者を近づけるのが定石だった。蒼海はその一人で、年齢の近い友人として接触していた。シェルターに暮らし、無職で、特にこれといった能力もない若者として。

今まで似たような任務に就いて、与えられた業務をうまくこなしてきた。監視対象に近づき、観察し、対象が言い逃れの出来ないレベルまでテロの実行準備を終えた瞬間に押さえる。今まで蒼海はそんな役割に苦痛を感じるとか、疑問を持つことはなかった。自分の中に矛盾がなかった。しかし、海翔に出会ってから、監視を続けるうちに自分が二重スパイになったように感じていた。それまで知らなかった心に矛盾を抱える苦しさを知った。

彼の監視を続けながら、テロの実行前に捕まえることでテロを実行させたくないと考えている。なるべくならテロ準備罪程度の比較的軽い罪刑になる段階で。さらに、公安が海翔の消去を決定することを心配し、対処方針に変更があればその兆候を捕らえようとしている。


海翔に初めて接触したのは、彼のやっている仕事を通してだ。

彼は、二十世紀から二十一世紀に掛けて製造された、腕時計の修理と手入れを表の商売にしていた。それはひどく珍しく、商売になると蒼海には思えなかったが、アンティックの時計を修理できて、製造された時に近い状態まで手入れができる人間はそう多くなかった。一方で、そんなものを修理し、手入れしたいと考える人間もそう多くはなかった。ただ、そんな優雅な骨董趣味を持てるのはグローバル企業に勤めるエリートがほとんどで、法外な費用をふっかけても成り立つ商売だと、親しくなってから教えられた。

海翔との接触は腕時計の修理を依頼したことから始まった。

その時計は蒼海がこの世界で唯一、本当に自分で所有していると感じる物だった。彼女を育て、生きることを教えてくれた老人と別れる時にもらったものだった。男物のストップウオッチ機能がついた無骨な自動巻の腕時計で、腕にはめると腕時計というより、アンティークのブレスレットのようだった。


眠れない夜、蒼海は腕時計を胸の上に置くことを習慣としていた。

時々、自分に本当の過去が存在しないこととか、自分の存在が不確かなこととかが心に引っ掛かって身動きできなくなる。どれだけ心の中を探ってみても解答はなくて、最後にぐるぐると渦巻く思いで収拾がつかなくなる夜がある。寝床に横たわっていると心臓の鼓動しか聞こえなくなり、このまま心臓が暴走を始めて、最後に心臓が破裂するのではないかと恐怖する。自分は不完全で欠陥のある製品で、唐突に機能が停止するのではないかと、脅迫的な思いに押しつぶされそうになる。

そんな時、古びたアナログ時計の規則正しい、それなのに少しずつ違った響きと振動を感じていると、確かな物があることを実感できた。胸に置かれた時を刻む腕時計の存在は、そんな不安から始まった動悸を鎮めてくれた。

そんな時計がある日動かなくなった。しばらく腕にはめていても、軽く揺すってみても、秒針が再び時を刻み始めることはなかった。随分古い時計で、一世紀以上を経た時計が止まってしまうのは当たり前で、それを修理することさえ思いつかなかった。その頃に海翔に接触するというミッションが与えられ、それほど期待せず時計の修理を依頼した。

修理を依頼して腕時計を送ると一週間でメールが届いた。修理が終わったので直接渡したいという連絡で、シェルターのある街から少し離れた待ち合わせの場所と、早朝の時間が書いてあった。こちらの都合を確認することはなく、少し自己中心的な人間かと想像し、それならむしろやり易い対象だと値踏みした。


池の岸を覆う桜並木は腰を曲げるように池の中央にはみ出し、落葉した細い枝を池の上の空に広げていた。池の中に落ちてしまいそうなほど重たげに傾いた幹は、池の中に打ち込まれた支えでようやく立っているという感じの老木ばかりだった。

渡り鳥だろうか、小柄な水鳥が凍りそうな水面を切るように滑ってゆく。

公園の入り口から眺める公園は、池を囲む鬱蒼とした木々とのコントラストで、池中央の清澄な明るさに先ず気づかされる。

池の周囲は、杉や欅、椚や白樫の高木に光は遮られ、木陰には痛いぐらいの冷気が籠もっている。寒さに逆らうように、まっすぐに背筋を伸ばし勢いよく蒼海は歩き始めた。すぐに体が温まってきて、木陰を抜けた公園の中央、池を横切る橋にたどりつく頃には少し顔がほてるぐらいだ。暖まりすぎた防寒着の中に冷たい空気を呼び込みたくてファスナーを少し開ける。

朝の七時を過ぎたぐらいで、公園にはまだほとんど人はいなかった。橋の真ん中で本を読みながら欄干にもたれかかる男がいた。朝日が当たり、男の周囲だけが明るくなっているように思えた。

蒼海が近づいても本から顔を上げようとしないのは最初からだった。何も言わず側にたたずんでいた。ようやくきりが付いたと栞ひもを挟んで本を閉じると、顔をあげた男は警戒心を奪うような笑顔を見せた。

「蒼海さんですか」

「あなたが海翔」

肩から下げた鞄から厚く柔らかな布で出来た袋を取り出すと、その中から修理を依頼した時計を取り出した。修理に出した時計に間違いなかったが、丁寧に磨かれたのだろう、朝日を受けて華やかな輝きを周囲に放った。

「とても良い時計だ。大切に扱われて、正直に時を経ている。少し掃除しただけで、ほら、こうして狂いなく時を刻み始めた。もうしばらくは問題なく時を刻んでくれる」

海翔はそう言いながら時計を蒼海の腕にはめた。

時間は大丈夫かと彼は尋ね、肯くと、少し歩こうと誘ってきた。池の周囲を歩きながら、早朝の約束について釈明するように理由を説明した。

「こんなに良い状態のアンティーク時計はなかなか出会うことがない。だから、修理した時計を知らない人に託すことがためらわれたのが理由の一つ。でも、依頼人がどうも女性のようだったから・・・」

金持ちのエリート男性が金に飽かせてアンティークの腕時計を収集するのはよくあるけれど、女性がアンティークの男性用腕時計を収集しているのはあまりないから、好奇心と少しだけ商売のための営業活動だと付け加えた。

腕にはめた腕時計が、太陽の光を十分に受けるように腕を水平に伸ばすと、腕時計自体が光っているように輝きを放った。腕に秒針のかすかな振動を感じ、腕時計が生き返ったことを実感し、時計を腕にはめてくれた老人の優しくて穏やかな面差しを思い出す。

「それから久しぶりに冬の早朝に散歩したかったから。誰かとの約束がないと、こんな早朝に公園まで来ない。だからありがとう。僕のつまらないわがままにつき合ってくれて」

蒼海が時計の修理代を尋ねると、海翔は笑って答えなかった。こうして気まぐれな散歩につき合ってくれたことで十分だし、ずっと昔から知っている友達と久しぶりに会ったような、気の置けない時間を過ごすことが出来たからと。

「それならまた散歩をしよう」

蒼海がそう言うと海翔はそれにも答えなかった。

別れ際、彼は冗談めかして注意した。

「この時計を外ではめる時には気をつけて。この時計は驚くほどの価値がある。この時計の価値が分かる熱狂的な人間に出会ってしまったら、君の腕を切り落としたって手に入れたくなる」


ビューに平面的で輪郭が明確な2Dアニメの海に浮かぶガラス瓶の映像が現れた。

本物のガラス瓶なんて日常生活では絶滅危惧種化しているのに、ネットで使われる映像には、ガラス瓶は時々現れるアイテムだ。手紙を誰かに届けるために海に流すことがあるとすれば、ガラス瓶が最もふさわしい容器なのだろうか。

それは、海のかわりに電子のネットワークを、不特定の誰からか、不特定の誰かに手紙を送るサービスだった。頻繁に送られてくるハプニングを装う広告かもしれないと蒼海は思いながら、少し待ち遠しかったいつもの手紙ではないかと期待する。

「誰から」

ビューに呼びかけると、画面の中で瓶は海から拾い上げられた。

瓶から手紙が取り出され、今届いたというように手紙はビューの下から出てくる。印刷された紙はいかにも年月を経たというように全体が黄色く変色し、少し文字が滲んだ凝った加工がなされている。少し厚手で、ザラザラとした手触りの特殊な紙で、こんな紙が普通のビューに備え付けられているはずはないのだが。


『元気ですか。

桜の季節が来て、街が桃色に染まる季節ですね。

毎年、同じ季節に、同じ光景に出会うこと、それは当たり前の普通のことかもしれませんがとても幸福な出来事です。

僕の家からは、街中ほど華やかではありませんが、淡い桃色の山桜が、ようやく萌え始めた緑を背景に春を呼び込むように咲いているのが見えています。いつかあなたを、ここに招待出来る日が来ることを願っています。


さて、僕の勝手なお節介なのでもし気分を害したら許して下さい。

ただ、あなたの年若い友人が、迷路に迷い込もうとしているのが気になって仕方がありません。

あなたの年若い友人が失われてしまわないように、少しだけ気をつけてくれませんか。

何か出来れば良いのですが、僕にはそんな力がありません。

あなたの頼りになる友人にも相談してみて下さい。

きっと彼はあなたの助けとなるでしょう。


それでは、僕の勝手なお節介に、あなたを巻き込むことを許して下さい。

でも、あなたの年若い友人が失われるのはあまりに悲しいことなので。


親愛なる友へGより』


蒼海が期待した手紙だったが、一読して、手紙の内容が具体的に何を意味しているのか良く分からなかった。ただ、今まで受け取った手紙もそれほど具体的ではないのが普通だった。しばらくしてから、ようやくその意味が分かり、彼女の助けとなる不思議な手紙だった。

そもそもこの手紙を配信するサービスは、不特定の誰からか、不特定の誰かに手紙を送るという、送信者も受信者も特定できないものだ。当然、手紙を意図的に特定の誰かに送ることはできない。それなのに、彼女がどんなに身分を偽装して住む場所を変えても、ふと思い出したように瓶入りの手紙が送られてくる。

初めてこの手紙を受けとった時には、この手紙を無視しながら、得体の知れぬ人間に偽装が知られていることを危惧した。しかし、調べれば調べるほど、この手紙配信サービスで特定の誰かに手紙を送ることは不可能だった。

送り主の正体はどうやってもつかめず、手紙は確実に蒼海を助けるためのものだった。彼女が何かに行き詰まり、解決策を探していると手紙が送られてくる。手紙を受け取ってしばらくして、ふとした瞬間に、それが解決への手がかりを示していることに気がつく。海翔との接触方法を考えていた時、そして彼女の腕時計が壊れた時、アンティークの時計修理が良いきっかけになると気づかせてくれたのもこの手紙だった。

ただ、今回の手紙はいつもと違っていた。普段は蒼海に何かを気づかせるための暗号じみた文面なのに、今回は明らかに彼女への依頼で、誰かを助けるための手紙だった。


数日後、蒼海は愛美が外を歩いているのに出会った。ここ数週間、共同スペースの長いすで寝転がっている姿ばかりを見ていたから、少しは気持ちが持ち直してきたのかとほっとする。

一年前、蒼海がシェルターに加わった時、最初に知り合ったのが愛美だった。その頃の彼女は、未来に向けて果敢に突き進もうとする活力にあふれていた。好奇心旺盛な瞳で自己紹介をして、それから蒼海を見つけると全力で走り寄ってくるのが常だった。それは全く邪心ない子犬が走り寄ってくる姿を連想させ、その姿を見るたびに蒼海は幸福な気持ちになった。また、いつも生き生きと楽しげな愛美は、自分が持てなかった大切なものを持っているようで羨ましくもあった。この世界に対して少しの恐れもなく、真っ直ぐに進もうとしていた。

どこかで驚かせようと、声を掛けないまましばらく後をつけていった。駅からアーケード街に入り、通りの終わりにある、住宅を兼ねた高層ビル内にある『古道具屋』に入っていった。正確には前世紀のゴミを集めた倉庫の入り口で、そこには過去の遺物に興味を持つ様々な人が出入りする場所だった。ゴミとはいっても目的のある人々にとっては宝の山で、海翔もここの常連だった。アンティックの修理に必要な部品を探すために、地下に広がる広大なゴミの山を終日かき分け、歪んだ金属の塊を見つけて、珍しく興奮をあらわにする姿を見たこともあった。

しかし、ここはそういった平和な物好きだけを集めている場所ではなかったから、少し心配な気持ちにもなった。何層にも広がる空間の一角に、見た目は他の区画と変わらない場所があった。ただ、そこに集められていたのは、二十世紀から二十一世紀にかけて使われていた武器の残骸や、普通の汎用的な電気機器とは違う、かなり物騒な機器の残骸が集められていた。

公安もそこは重要な監視ポイントとしており、その一角に入った人間は確実に記録される。テロリストが危険な道具を作成するための部品を調達するために広く知られた宝の山で、このセクションをうろつく人間は全てテロ予備軍といっても間違いなかった。愛美は物慣れない様子で古道具屋内を進んでゆき、蒼海が心配した通り禁断のセクションに降りていった。しばらくそのセクションを歩き回り、何かを探している様子だったが、探している物を探す術がなく途方に暮れている様子だった。

掃除屋を呼んで屑の山をひっくり返すとか、チューブスコープでも突っ込んで屑山の中を調べるとか、方法は色々あるが彼女はどれも知らない様子だった。テロリスト一年生にも達していない様子だったが、テロリストになろうとしているのは確かのようだった。


愛美のレベルであれば蒼海には関係ないことだ。見なかったことにして放って置いてもかまわないし、公安を通して、より低いレベルの犯罪者を扱う警察に通報しておくことも可能だった。まだ何もしていない彼女の場合、単にどこかの書類に名前が記録され、大体はそれで終わりだ。仮にテロを本当に実行したとすれば、警察は以前から状況を把握していたという、言い訳の材料に使われるのが関の山だろう。

それなのに、蒼海は動揺して、真夜中の不安な時間に経験するように心臓が制御不能なくらい激しく鼓動する兆候を感じた。どうすれば良いのか考えがまとまらなくなるのは、自分がこれまでにやってきたことを考えればおかしなことだった。

今まで多くのテロリストに接触し、様々な関係を結んできた。一般的な意味で、あるいはテロを具体的に企てているという点を除けば、良い人、優しい人、思いやりのある人、一緒にいることが気持ちの良い人もいた。だが、どれほど関係が深まろうと、監視対象に個人的な思い入れが深まることはなかった。テロの証拠を固め、完遂の一歩手前で身柄を拘束するため、その一点に向けて意識を集中し続けることが出来た。

そんな経験が嘘のように、愛美がテロを企てているかもしれないと知っただけで、激しく動揺する気持ちを押さえることが出来なかった。

結局、自分の気持ちが整理できず、滅多に行かない海翔の作業場兼住居を訪れてしまった。


広々とした机の上に並べられた小さな部品は、分解している腕時計から出てきたものだろう。一つの部品を取り出すたびに、幾つかの角度から写真を撮って机の列に加えられてゆく。白い板の置かれた机の上を照らす電灯は小さな光の点を集めた特殊な電灯で、机の上で作業をするときに、どの角度からでも影の出来ない特殊な物だった。彼は集中しているらしく、蒼海が側に来たことに気づく様子もなく作業を続ける。作業机の側に座って一時間が過ぎても、彼は気がついた様子を見せない。

仕方なくもう帰ろうかと思ったことを読んだように、海翔は作業台から顔を上げていつもの笑顔を見せる。

「コーヒー飲む」

返事を待つことはなく、作業台の後ろの流しに置かれたポットで湯を沸かし、その間にコーヒー豆を挽いているらしく手動のミルを回す音がする。

しばらくするとコーヒーの香りが部屋に広がり、先ほどから感じていたどうしようもないほどの焦燥感が静まっていた。

目の前に置かれたコーヒーカップから、香ばしく、ほっとさせる甘いにおいが立ち上ってくる。

「ミルクと砂糖をたくさん入れておいた。酸味の効いたコーヒーが苦手だというのは、まだ味覚が子供だって証拠だね」

彼のカップは当然ブラックだった。隣に座って、蒼海が甘いコーヒーを飲み終えるのを待つように、自分も黙ってコーヒーを飲み始めた。

コーヒーを飲み終え、体が温かなもので満たされると、何から話し始めれば良いのかと考えられるぐらい冷静なっていた。記憶を整理して、愛美を道で見かけて、ちょっとした悪戯心で後をつけていくと、古道具屋に入っていったこととを一気に説明することができた。彼女が専門課程への進路からドロップアウトして、ひどく塞ぎ込んでいて、以前の快活さを失っていることを心配していることは話していた。だから、細かな説明をしなくても、すぐに理解したようだ。

「古道具屋であの場所に行った。そして、何かを見つけた?」

蒼海は首を振り、積み上がったゴミ山の前で何をすれば良いのか分からないように佇んでいたことを説明に加えた。それを聞いた海翔はいつもの優しい笑顔を見せたが、不思議そうでもあった。

「ならまだ大丈夫。だけど、どうやってあの場所のことを知ったのだろ」

古道具屋の存在は、ビューで少し調べれば誰でもすぐにたどり着ける情報だ。だけど、そのような場所を探そうとする事自体がテロに傾く第一歩だった。ただの好奇心でそのような場所について調べることは愛美にはあり得ないと思うのは、まだ彼女についてよく知らないだけなのだろうかと自問する。

「愛美がテロリストになることを決めたら、君はそれを止めたい」

海翔に質問され、答えはもちろん『止める』だったが、胸が苦しくなって言葉が出なくなった。その答えは愛美だけではなく、いやそれ以上に、彼に向けたい言葉だったから。

話をしているうちに少しだけ心が整理され、愛美にちゃんと話をしようと思うようになった。空っぽになった彼女に届く言葉を持ってはいなかった。でも、彼女のことを心から心配して、失いたくないという気持ちの人間が身近にいることを知らせるために。それは小さなことかもしれないが、今の状態から抜け出す助けとなることを願って。

海翔も何かを考えているようだったが、優しい笑顔で蒼海が心の中で考えていたことをきっぱりと否定した。

「誰かの心が本当に空っぽで、その空っぽな状態を終わりにしたいと思った時、他人がそれを止めることは正しいことなのかな。無意味に誰かを巻き込むテロは否定するけれど、自分が納得できる方法で終わらせるために誰かを巻き込んでしまうのは仕方がない」

優しい表情とは裏腹の、触れてしまえば誰も傷つけずにはいられない悲し過ぎる言葉だった。蒼海は訊かずにはいられなかった。

「それがどんなに親しい人でも」

答えは『YES』だ。何も応えないことで海翔は質問を肯定していた。


愛美の行動をトレースするのは難しいことではなかった。海翔絡みの活動として、彼女を情報収集対象に登録するだけで日々の行動を把握することは可能だ。着々と準備を進めているようで、古道具屋で必要なものを探し出す術を身につけ、必要な物を入手した様子だった。様々な道具を部屋に持ち込みテロの具体的な準備段階に進んでいる。

彼女を情報収集対象に登録した時点で、公安の監視対象になったのは確実だった。古道具屋での物慣れぬ様子から、まだ重要テロリストとして監視対象になっているとは考えられないが、公安でも彼女の情報収集は進んでいるだろう。

既に、テロ準備罪で逮捕することは出来る。これまでに集めた記録と彼女の部屋にある物を押さえるだけで逮捕し、軽微な刑罰でこれ以上の深みに進むことを止めることは可能だ。

でも、監獄から出てきた愛美が、本格的なテロリストへの道を歩み始める可能性が高いことも分かっていた。監獄という厳しい環境に鍛えられ、様々な情報に接し、より高度な知識と技術を持つテロリストとのネットワークを広げる絶好の機会を得る。

監獄はプロのテロリストを教育する最強の場所であるというのが公安の常識だった。だから、中途半端に初級テロリストを捕らえるより、物的、人的被害がそれほど出ないようなら、むしろテロリストが自死する方が望ましい決着であるとさえ公安は考えていた。

このままでは愛美を救えそうにはなかったが、テロに突き進むのを傍観する気にもなれなかった。悲しい気持ちで監視対象の日常をトレースするのは初めての経験だった。


深夜過ぎまで愛美の行動をトレースする記録を確認し、その他の情報から、テロ準備の最終段階に来ていることは確実だった。彼女に係わる監視結果を所属セクションに報告したことはなかった。しかし、警察が既に何らかの行動を始めているか、あるいは、準備を進めていることは想像できた。彼女を何とか傷つけずに救い出すためには、すぐに具体的な行動が必要なところまで来ている。ただ、分かってはいてもこの状況で出来ることはあまりなかった。

その時ビューにメッセージが点滅した。

『すぐに来れる』と、海翔からのメッセージだった。

その瞬間、蒼海は心臓を握りしめられたようで、飛び上がりそうになるほど驚いた。彼からこんなメッセージを受けるのは初めてだった。

このところ、愛美の日常をトレースすることに多くの時間を費やして、彼に係わる情報収集は手薄になっていた。公安の非公式ミッションが開始され、彼の身辺に特別な非常事態が発生したのだろうか。

仕事場に着くとドアのチャイムを押すことなく、昔教えられたパスワードを打ち込み、ドアの施錠を解除すると静かに仕事場に進んだ。次に何をするのかは分かっていた。必要があれば、公安のミッションだったとしても、海翔を助けるために行動するだろう。

仕事場のドアの前で様子をうかがっているとドアが開いて、柔らかで、甘い匂いが漂ってきた。

「入っておいで」と声がして、部屋に入るといつもの海翔がいた。

蒼海の到着が分かっていたように、机の上にはミルクがたっぷり入ったコーヒーが用意されていた。

「なんだか険しい顔をしているね」

その声はいつもと同じ穏やかさで落ち着いた調子だったが、作業部屋のビューに写っている動画に蒼海の目は釘付けになった。そこには愛美が映っていて、うつむいて何か細かな作業をしている。さらに、画面には彼女をおとしめるような罵詈雑言が乱れ飛び、時々、誰かの奇矯な叫び声が聞こえてきた。稚拙なアニメで描かれた爆弾、トマト、糞が投げつけられ、一瞬、画面は閃光を放ち赤色や黄色に染まる。その度に大勢の人間があげる哄笑が響いた。

「素人にテロのまねごとをさせて、最後の実行までたどり着けるかを賭けるグループがいると聞いていたから。少し探ってみたらこんなチャンネルが見つかった。愛美の準備作業が、あまりに着々と進むのでおかしな気がしていた。テロに必要な情報を与えて、促成のテロリストに仕立て上げようとしているようだ。彼女に係わる過去の記録を探していったら、基礎教育コースの同級生が彼女に目をつけて、賭けに巻き込んだようだ」

一人の少女が追い詰められて、テロの準備を始めたことを安全な場所から眺め、娯楽の材料にしている。テロが実行されて、彼女がバラバラになることに賭ける人間が半数を少し超えている。近頃の餌食としては最高に優秀で、生真面目すぎて笑えると大評判らしいと、海翔は感情のこもらぬ声でつけ加える。これを見る限り、今回の事は愛美が選んだというより、この賭けプログラムを運営する人間に嵌められたということのようだった。

「テロの決行は今週末。警察もまだ十分に情報収集出来ていないから、このままで行けばテロは成功して、ショッピングモールの広場で自爆する。愛美自身はミンチみたいになる。被害は最小だから、警察も、公安も、馬鹿なテロリストの自爆と見てたいして調べようとしない」

海翔は黙って動画を見つめていたが、そのあまりに無表情で冷静過ぎる様子は、感情を表に出すことの少ない海翔の怒りの大きさを示しているようだった。


ショッピングモールの広場、十階までの吹き抜けになった広場の中央で煙が上がったが、爆弾は不発だった。

即座に消火のためにスプリンクラーが水を撒き始め、広場の中央に立っていた少女の姿は滝のような放水で見えなくなる。同時に、建物全体のスプリンクラーが館内を水浸しにしていった。

その瞬間、広場を螺旋のように取り巻く回廊から悲鳴と爆発音が続いた。手に持ったディバイスが破裂して唖然とする人は良い方で、グラス型のディバイスが破裂し、顔面を血に染めた人間が、回廊のテラスにずらりと並んでいるのが見えた。

停電で館内が暗くなり、降り注ぐ水滴で視界はほぼ遮られた広場の中央に向かって海翔と蒼海は進んだ。広場は混乱し、回廊には血に染まった怪我人が大勢呆然として佇んでいる。人々はテロが発生したことを感じ、建物の出口に殺到しているから注意を向ける人間はいない。

「テロの野次馬に集まって来た人間のディバイスは全て吹き飛ばした。ディバイスの中の電池はスプリンクラーの水と急な過放電で爆弾に変えた。チャンネルに接続していた人間たちを社会的に抹殺した。社会で存在することを証明する全て、ID、公的記録、クレジット、個人データを根こそぎ消去したから、もう彼らはこの世界に公的には存在していない。クレジットもなく、自分が自分であることを証明する手段は失われ、誰にも助けを求めることが出来ない」

広場の中央にたどり着くと、愛美は地面にうずくまり、降り注ぐ水に打たれながら固まったように身動きしようとはしなかった。彼は手早く彼女の体に巻き付けられた爆弾を外し放り投げた。それから一発、愛美の頬を叩いた。

「このぐらいで終わりに出来るなら簡単過ぎる」

引きずるようにして立たせ、ショッピングモールから脱出した。現場から避難する人々に紛れることで、簡単にショッピングモールから出ることは出来たがこのままで終われない。この事件を起こした犯人が特定されるまでそれほど時間は掛からないだろう。

その時、蒼海のコミュニケーション・ディバイス(CD)が振動し、いつもの送り主不明のメッセージが届いた。そこには愛美の宇宙探査への任命書が添付され、一時間以内に出発場所へ到着するようにと記されていた。

添えられたメッセージは簡単なものだった。


『連絡が遅くなってしまい本当に申し訳なく思っています。

しかし、もしこのメッセージが救いとなるのなら、今すぐに行動して欲しいのです。

これは、君の若い友人が望んでいたことを叶えるものであることを信じています。


親愛なる友へGより』


指定された時間十分前、宇宙エレベータに向かうジェット空港に愛美を送り届けることができた。濡れ鼠の三人を見て不審そうにしていた職員も、愛美の名前を告げると急に真面目な顔となり、すぐにほっとした表情になった。長期宇宙探査の乗組員が出発三時間前に入れ替えられるなどあり得ない出来事なのに、交代要員とも連絡がつかないという、全く前代未聞のトラブルに直面していた。

この決定に関して、関係者は誰もその理由を知らなかったし説明も受けていなかった。その事が関係者を余計に困惑させた上に、そもそも交代要員に指名された人物に関する情報がなかった。分かっているのは誰も知らない未知の少女だということだけだった。

宇宙探査に乗り込むブレイン、プロフェッサーだけがある程度事情を知っているようだった。いざというときのために、宇宙船の発射時間を遅らせるために、プログラムの組み直しを楽しそうにしているとのことだった。

海翔にも状況を理解出来ない様子だったが、このまま地球に留まるより宇宙探査に加わる方が愛美のためになると考えたようだ。蒼海も差出人がGとしか分からない、送り主不明のメッセージを信じた。

生気が失せ、何も考えられない様子の愛美を送り出すとき、プロフェッサーと呼ばれるブレインの声が聞こえてきた。

「Gにしては珍しい不手際だ。彼女のことは責任を持って預かる。ただ、彼女とは三十年ぐらいは会えないからちょっと長いお別れだ。その間、君達は地球で頑張るのかな」


それから数週間後、彼女からメッセージが届いた。太陽の引力を使って太陽系から飛び出すための加速軌道にあり、地球に最接近した時に送ったらしい。これが直接地球にメッセージを送ることが出来る最後の機会。


『まだ気持ちの整理は出来ていないし、未だに自分が生き続けることに意味があるのか分からない状態です。あのまま自爆していたら、全てが終わり、とても楽だったのではないかと思います。でも時々、あの起爆スイッチを押す瞬間の恐ろしさが蘇り、その度に胸が苦しくなり、普通に立ってはいられないぐらいです。

宇宙探査の責任者、プロフェッサーはしばらく好きにしていていいと言ってくれます。この宇宙船での時間はとても長く、先ずは自分と好きなだけ向き合う時間を持つようにと。悩んだ末に自分の中に何があるか分かったら、きっと私の悩みは終わるだろうが、それからとんでもなく退屈な時間が始まると笑っています。

宇宙船での十年は地球の時間で三十年以上になるのだそうです。三十年も経てば、私がショッピングモールでやったことは彼の友人がうまくもみ消してくれるから、テロの件は全く心配無用だともプロフェッサーは言います。

宇宙にはメロディーが流れていて、そのメロディーを探すことが宇宙の生成に関係し、宇宙の次元を明らかにするヒントになるということを書いた私の論文に、プロフェッサーは注目したのだと教えてくれました。ただ、それは私にとっては忘れたい記憶だった。そんな論文を書いたせいで、私は専門教育に不適格だという烙印を押されてしまったのだから。

プロフェッサーはそのメロディーが、私たち人間やブレインと同じ感性に基づいていると考えています。ただ、分かっているメロディーはまだ尻切れトンボ。だから、このメロディーを完成させることができれば、まだその存在が全く分からない三次元以上の次元について手掛かりとなるはずだと。

ありがとう、蒼海。次に会うときは名前通り、「笑み(愛美)」でいられるようになっていることを信じようと思います』


ショッピングモールでの出来事は事故で、少しの軽傷者がでた小さな事件として記録された。この時代に情報統制が可能とも思えなかったが、世間的にはほとんど話題になることもなく過ぎていった。蒼海や海翔に係わる記録は、ショッピングモールに全く残っていなかった。ショッピングモール周辺の画像記録もあまりなく、あの場所で起きた出来事に関しては蒼海の証言しか残らなかった。この状況に対して、公安部としてはこの事件には深入りしたくない様子だった。結局、海翔の気まぐれにつきあってショッピングモールを訪れたとき、偶然事件に遭遇したという報告が、特に詮索もなく受理された。

数日後、海翔に会う約束をして、二人の関係は変わってしまったのかと蒼海は緊張したが、彼は相変わらずだった。監視対象と監視者という関係が変わったという様子を少しも見せなかった。ただ、彼はつまらなさそうに独り言をつぶやいた。

「誰かがとんでもない取引をしたらしい。あいつらはあの場にいなかったことにされている。彼らはこの世界から抹殺される代わりに沈黙を選ばされた」

文鳥を模した人形が首を回して、ゆっくりとあたりを見渡し、小首をかしげるような様子をして、海翔の肩でトントンと軽くはねた。

「バード、君にはこの仕組みは分かった」

小鳥は再び小首をかしげるような仕草をして、小馬鹿にしたようにアクビをした。とても良く出来た人形で、最初は本物の文鳥が肩に留まっているのかと思ったが、直ぐにそれは別な何かだと分かった。

そうだ、海翔の仕事場でもこの文鳥を見たと、蒼海は訓練された視覚記憶を反芻することで確認した。それまでその文鳥に注意を向けたことはなかったが、今回の件で特別な存在が彼を助けていたのだと気づき、それがこのバードだったのだと直感した。そんな心の動きを観察するように、文鳥の丸く黒い瞳が蒼海を見つめていた。

「バード、今回の件ではありがとう」

彼女は文鳥に声を掛けてみた。

文鳥は嬉しそうに胸を張り、羽を広げ、うなずくように首を動かす。

「ようやく気づいてもらえて嬉しいよ。世界にも希なフリーブレイン、バードだ、よろしく」

自己紹介の声がどこからか聞こえてきた。


第二章 承


アフリカ地区と南アメリカ地区、行政運営を担当するブレイン・センターが爆破され、二体のブレインが破壊された。

日常の行政サービスが滞ることはなかったが、行政の谷間に落ち込みそうな人々を探しだして、その谷間から救い出すという繊細で手間の掛かる業務が難しくなる。ブレインが誰にも語らず密かに注力していたことであり、土台が腐って、崩壊しそうな社会を食い止めている最後の一線だった。

明らかに意図を持ったテロであり、現時点で目的が不明というだけで世界政府に対する挑戦だった。


調査が進められ、爆弾が仕掛けられたのはセンターが建設された時で、それは十年以上前から準備されていたことを意味した。その他のブレイン・センターの調査も進められ、それ以上の爆弾は見つからなかったが、過去にセンターがあった建物からも爆弾が発見された。この事件が恐ろしく組織的、かつ、時間を掛けたものであることは明らかで、そう簡単に事件の全容を解明できそうにはなかった。


突発的な未曾有の事件に蒼海も情報収集に忙殺された。公安の最優先事項は今回のテロに係わる情報を収集することとなり、過去に接触があったテロ実施者やテロ準備者に再コンタクトをとり、情報がないかを探る日々が続いた。

そんな日々、三角形ビル前の広場に登る階段に座り込み、次のコンタクト先を考えているとCDが震動した。何も操作していないのに、耳に埋め込まれたヘッドセットから声が聞こえてきた。

「このところ蒼海が姿を見せないから、海翔の機嫌が悪くて手がつけられない」

どう反応して良いのか蒼海は困った。彼女が海翔と良く一緒にいるのは秘密でも何でもなかったが、バードの存在はまだ誰も知らなかった。そして、このCDを通したコミュニケーションは公安が全て記録しているから、バードと海翔の関係を上手く説明できるような会話にしなければならない。そんな事を考えていたら、反応が遅れてしまった。

「この会話は大丈夫、公安では記録されていないから」

CDのディスプレーを見ると、声は聞こえているのに通話状態にはなっていなかった。

「さっさと今回の件をかたづけて、通常業務に戻れるように支援するよ。次に危ないのは、中央アジア地区のユニット1と南アメリカのユニット3、それに中央アジア地区のユニット2のブレイン・センターだ。攻撃は三日以内。ブレインを退避させることを忠告しておく」

それだけ言うとバードは通話を切った。

公安に確度は高そうだが補強情報はない、判断保留の情報として連絡を入れた。それから三日後、情報通りドローンによる攻撃が実行され、ブレイン本体が設置されていた建物は破壊されたが、ブレイン自体の破壊は免れた。

当然、公安から情報ソースの開示が求められた。情報ソースの秘匿を理由に命令をかわす事は難しかった。

それを読んでいたように、蒼海のCDに『例の話』というテキスト連絡があった。翌日の午後五時、三角ビルの奥、セントラル・パークでのコンタクトが提案され、『赤いハイヒール』が目印だとあった。


ひどく短い春の心地よい季節が過ぎると、昔はそうでなかったと聞くが、すぐに真夏日が始まる。遮る物のない大通りを歩いていると、陽を受けて額に汗が噴き出してくる。ただ、枝ばかりが目立った並木は花の季節を終え、鮮やかな新緑に包まれて、その木陰を歩くとまだ春の余韻が少し残っているようだった。

三角ビル前の広場を横切り、奥にある公園は瑞々しい緑の絨毯に覆われ、少し日が傾いて散策を楽しむ人々が集まり始めていた。

公園の中央を大きく占める芝生エリアを回る歩道を歩きながら、目印の赤いハイヒールを探していると、わざとのように足を組んで赤いハイヒールを宙に漂わせている人がいた。金髪のウィッグにスパンコール地のロングドレス。歌舞伎の隈取りのように濃い化粧をした多分男性。どこかの舞台でドラァグクイーンを演じて、そのままここに来たというような格好だった。

「赤いハイヒールのかたですね」

その人は蒼海を上から下へとゆっくり視線を巡らせ、笑顔になった。

「海翔にはちょうど良さそうね」

男は立ち上がり、手品のように宙から赤い名刺を取り出すと蒼海に渡した。

「海翔と来てね。話はその時に」

名刺には『QUEER』という文字と住所が書かれてあった。今いる広場から東に、大通りを渡り、アーケード街を横切り、二本目、一世紀以上前の年号の『SHOWA』と名付けられた路地にあるバーだった。


連絡をしたけれど、本当に来てくれるかなと考えながら歩いていると住所の場所に着いていた。黒一色に塗りつぶされた表壁と、つや消しの黒い扉に小さく『QUEER』と彫られた青銅のプレートが嵌められている。約束は八時でまだ七時半だったが、いつものように本を読んで待つ海翔がいることを期待する。

扉を開けると細長い店で、赤一色に塗られた室内には、カウンターが入り口から奥まで続いていた。カウンターの中には、スパンコールの反射する光が公園とは比べものにならないぐらい華やかで、この場に相応しいバーメイドが立っていた。カウンターの一番奥、入り口から一番遠い場所に彼も座っていた。嬉しくてついつい満面の笑顔になってしまいそうな自分を抑えながら、なるべく自然に奥の席に進もうとする。どこにカメラやマイクがあるのか分からないから、今日は海翔に偶然会ったという風に見えるように。

「綱紀、カルーアを少し多めに」

「ここではシャンジェラ。その名前でもう一度読んだら頭から氷水が降るわよ」

シャンジェラは意味ありげにシェーカーを振って、茶色い中身をグラスに空けた。さらに泡立てた白いクリームをグラスに注いだ。

「子猫ちゃん、いらっしゃい。何を飲む」

「よく分からないからシャンジェラさんのおすすめを」

シャンジェラは笑顔を返事として、アイスピックで氷を砕き、シェイカーに細かくした氷を放り込むと色鮮な液体が投入される。氷がぶつかる小気味よい音が聞こえてきて、シェイカーから温かな赤色の液体が胴長のグラスに注がれて、蒼海の前に置かれた。

「これが本物のシンガポール・スリング」

グラスに口をつけると、柑橘類と甘い果樹の柔らかで爽やかな味だった。さらに、グラスの中の赤は華やかで、まだ行ったこともない熱帯の夕暮れの色かなと勝手に想像する。

「口当たりは良いけど、なかなか強いカクテルだから、帰りのエスコートは海翔の役目ね」

楽しそうな口調で、シャンジェラはエビのカクテルとフルーツカナッペ、チーズのアソート、生春巻き、カプレーゼサラダとブルスケッタ、ローストビーフとパテ・ド・カンパーニュ、フルーツの盛り合わせと、二人の前のカウンターを小皿で埋めていった。小さいけれど、それぞれが色鮮やかで、花束を広げたようだった。

大ごちそうだなと蒼海は思い、海翔は当たり前のように、それも結構な勢いで食べ進むのが珍しかった。いつもは液体ばかり摂っている印象だったので、こんな風に食欲を見せるのを見るのは初めてだった。

「ここは何を話しても大丈夫な店よ」

「もちろん、ここに来るのは退屈な大人たちで、つまらない愚痴ばかりを話す店さ」

いつの間にかテーブルにはバードもいた。


それは先週の事だという。偶に来る客が今まで見たことのない客と待ち合わせをして、並んで座っていた。少し変なのは並んで座っているのに、CDを通してテキストを交換し、偶に、お互いのディスプレーを確認することを繰り返した。この店は訳ありが安心してくつろげるように、公安などの監視を遮断していることで知られているから、彼らの慎重な行動は少し可笑しかった。好奇心からシャンジェラはバードに合図を送り、彼らのCDでの会話は解析されてしまった。

彼らは、正確には三人で話をしていた。もう一人、CDを通して会話に参加しているのが統率者のようだった。店に座る一人はケープタウンから、もう一人はブラジリアから戻ってきたばかりのようで、妙に自分たちの出張が誰かに監視されていなかったかを気にしていた。彼らがある新興宗教の幹部職員であり、訪問していた二カ所は、宗教活動とほとんど接点がないことを調べるのは、バードにとって何でもないことだった。さらに、二人の正確な訪問先が、事件が起きたブレイン・センターの所在地であることを調べるのも難しいことではなかった。

彼らが所属する新興宗教は、科学技術の発展こそが神の意志に沿うものであり、科学によって神を創造するというのが至高の教義だった。具体的には、シリコンチップで構成される汎用性の人工知能開発を宗教活動とする少し変わった団体だった。一方で、人間の脳細胞を基に開発されたブレインに対しては、科学技術の誤った適用であるとの批判を隠さなかた。この団体が事件に係わっていることは不思議なことではなかった。

会話の中で彼らは次の出張が近いことを話していたから、バードは彼らのCDがコンタクトを取った先をハッキングしていった。この二人と、団体の幹部職員もう一人が、中央アジア地区のユニット1、南アメリカのユニット3、ユーラシア地区のユニット2の、ブレイン・センター所在地に出張を予定していることを確認した。

さらに、彼らはあるカテゴリーAのテロリストに仕事を依頼していることまでは突き止めた。このような情報から次のブレイン・センターの攻撃を探知したという訳だ。

「だけど妙だ。あのCDを通して会話に加わっていた存在だけにはついにたどり着けなかった。地球上でボクから逃れられる存在はそうそういない筈だ」

表情が変わるわけではなかったが、ちょっと悔しそうなバードの口調だった。

「そのカテゴリーAのテロリストは誰」

「海翔、仲良しのジョニー・ボンブを紹介してやれ」

「あいつは仲良しでもないしテロリストでもない。ただの目立ちたがり屋で、金で動く何でも屋さ。二回目のブレイン・センター攻撃のお膳立てをしたのは奴だろうし、攻撃の失敗も予想していただろうから、あいつがやったっていう証拠を探すのは難しい」

「ということで、ジョニーを捕まえるのは難しいが、今回の失敗でこの団体を使った攻撃はもうない。これでしばらくは静かになる。公安はテロの実行犯を押さえたということで面目が立ってハッピー。だけど、本当の黒幕は手つかずのままだ・・・」

バードは話を続けようとして途中で止めたようだ。海翔は食べ物に満足したようで、クリームの乗ったコーヒーカクテルを飲み始めた。

「この情報はシャンジェラさんから得たということでいいの」

「大丈夫よ。ここは公安も覗けない場所だからこそ、時々、思いがけない情報が落ちていることは公安も了解している。私はテロリストの敵でも味方でもないただのバーメイド。そして、子猫ちゃんがシャンジェラに食い込んだって知ったら、公安も特に反対はしない」


CDに近くで爆破事件が起きたという警報が鳴り起こされた。場所と時間が表示され、場所はシャンジェラの店周辺だ。部屋を飛び出して『QUEER』のあった場所まで行くと蒼海は茫然とした。店のあった場所は見事に空き地になっていた。爆破で飛散した建物の残骸で周囲の建物も多少の被害を受けているようだったが、シャンジェラの店だけが消されていた。先日の情報を公安に報告し事件に係わった宗教団体が解体されるという連絡があったから、その報復だろう。

バードの防御能力を買いかぶりすぎていたと後悔する。

「すごいわね」

大柄な誰かが後ろに立つ気配がして、本当に感心したという口調の声が聞こえてきた。振り返ると、早朝だというのに、いつもの派手なドレスと金髪のシャンジェラだった。

「プロの仕事ね。見事に店だけなくなっている。でも、バードの方が一枚上手のようね」

シャンジェラに連れられて路地を北に行き、車道を渡ると、寺院の門前町にある商店街に入っていった。入り口の頭上に掲げられた通りの名前を掲示する飾りを通り過ぎて少し行くと、真新しい外観のカフェがあった。前面はガラス張りで真っ黒なカーテンが引かれ、ガラスの壁には『CLOSE』の文字と下の方に小さく『QUEERⅡ』と書かれたプレートが下げられていた。

「今日から夜明けだけのカフェを新規オープン。私の知り合いたちは朝ご飯をちゃんと食べない人が多そうだから、無理矢理にたっぷりと朝食を食べさせる店を始めることにしたの」

『CLOSE』のプレートが外され、カーテンが開かれると、問答無用で蒼海は店先の椅子に座らされた。いつの間にカフェ風のエプロンを着けたシャンジェラは、三個の目玉焼き、ベーコン、大ぶりのソーセージが一本、山盛りの生野菜、さらに、皿からはみ出した厚切りのトーストを盛った大皿を運んできた。スープ、飲み物、デザートはセルフサービスだからと、店の一角にはカウンターが用意されていた。蒼海は何とか全部を食べ終えると、開店したばかりの早朝というのに客は途切れることもなく、忙しげなシャンジェラに声を掛けることも出来ずに店をあとにした。


夜になって店を再訪すると、店の正面に巡らせたガラス窓は厚いカーテンで閉ざされていた。中からの光は完全に遮断され、そのあたりだけが妙に暗くなっていた。店の右側、コンクリートの壁に灯りと扉があり、『Ⅱ』の表示しかないプレートが取り付けられている。そこが入り口のようだ。

扉に近づくとカチリという音がして解錠された。腰ぐらいまでしかない高さの扉を潜ると、前の店同様にカウンターしかなくて、カウンターの中にはバーメイドのシャンジェラが当たり前のように立っている。夜更かし好きの客が多い店らしくまだ客は誰もいなかった。

「攻撃を知っていた」

「そうね、知っていたけれど、止めなかった」

そう答えると、今回の件の種明かしを始めた。

今回の公安の動きに関して、シャンジェラが情報を流したネズミだって噂を流して、例の教団がまたジョニー・ボンブに仕事を持ちかけるのを待っていた。あの教団は結構しつこくて、自分たちが少しでも攻撃されたと感じるとひどく感情的になる組織だと分かっていたから。同時に、ジョニー・ボンブの動きも監視しており、彼が依頼を受けて攻撃の準備をする様子は手に取るように分かっていた。今回の件に関して、彼が言い逃れできる余地はないからしばらく別荘暮らしを我慢するしかない。今後の調べでブレインに係わる事件に関してもぼろを出してくれれば、彼は長期の別荘暮らしとなる。

加えて、この主犯は教団だって証拠もたっぷりあるから、二度とシャンジェラと関わり合いになりたくないと思えるぐらい損害賠償が請求できるという。

カウンターにバードが現れていた。

今回の手際に関して自慢げな様子だった。

「でも、折角のお店がなくなってしまって残念」

蒼海の言葉にシャンジェラは可笑しそうに応えた。

「いいの。あの店にいると自分の居場所にいるという安心感が出るようになっていたから、もうそろそろ終わりにしようと思っていたの。居心地が良い場所にいると不安、というか、落ち着かなくなる。こんな格好をしているのも、どんな場所にいても居心地の悪さを保つためね」

「精神的なマゾがシャンジェラの正体さ」

「マゾじゃなくて安定が嫌なの。なぜ安定が嫌なのかと聞かれれば、それはちょっと困った質問ね」

シャンジェラの言葉から少ししんみりとした空気が広がった。

「この店でボクは小遣い稼ぎに人生相談をしようと思っている。どんな悩みだって一発解決。この世界に関して知らないことはないからね。今日は初日だから蒼海の相談に無料でのるよ」

不意のバードの言葉は蒼海の心を見透かしているようで、常に抱える屈託に出口を与える言葉だった。シャンジェラの居心地が良い場所にいると不安になるというのは自分も同様だった。正確には、居心地の良い場所にいると、自分には相応しくないようで悲しくなった。

「デザイン・ベビーを知ってるよね」

「遺伝子編集によって新生児の遺伝子疾患予防・治療が実施されていた。だけど、技術はすぐに、誰かにとって望ましい人間を創ることに使われるようになった。公安なんかも強化人間を創っていた。ただ、ほとんどの強化人間は精神的な理由で壊れてしまっている。日本でまともに生活できているのは蒼海ぐらいかな」

「海翔も知っているの」

「知らないさ。多分、興味もないだろう。あいつだったら好きな能力を強化して生まれることが出来るなんてラッキーぐらいかな」

「でも、強化人間は成長も管理されて、精神安定のために記憶を与えられ、どれが本物なのか分からない。自分は普通の人間じゃないといつも不安になる」

「それは困った。不安っていう感情は一番やっかいだ。シャンジェラみたいに、自分にとって精神安定剤になるような戦闘服でも見つかると良いのだけれど。でも、少なくとも、君がエージェントとして働き始めてからの記憶は本物だ。それは保証するよ」

海翔に注意されたように、長袖で隠したアンティック時計が刻む秒針の動きを感じる。この時計をくれた老人の優しさの記憶は本物なのだろうか。でも、自分がここまで何とか生きてこられたのは、あの老人と過ごしたという記憶があったからだ。

「悪いな、ボクには人間が持つ不安という感情はどうも良く理解できない。ありきたりの助言は、過去を引きずるのはやめて、未来をもっと信じる方が良いということ。少なくとも海翔は君の過去なんて気にしない。だいたい、自分がカテゴリAのテロリストであることも気にしていないし、君が公安のエージェントであることも気にしていない」

長く静かで、交わした言葉がひどくしみる夜だった。


第三章 転


ようやくブレインに対するテロ事件とその余波が静まって、資料整理に忙殺される日々も終わった。以前の生活に戻る手始めとして、久しぶりに海翔に連絡をとると、すぐに彼の作業場においでと連絡があった。

いつものように玄関を通り抜け、作業室のドアを開けると部屋は空っぽだった。蒼海はドアを開けたまま、その場にたたずむしかなかった。海翔はどこかに行ってしまった。自分との関係を終わらせる決断をして、最後に、終わったことを教えるためにここに呼んだのだと思った。

一歩進んで部屋に入るとドアが閉じた。

不自然なドアの閉じ方で、ドアのノブを回そうとするが鍵が掛かっているのか、開けることは出来ない。

部屋全体が振動し下降の加速を感じる。部屋全体が地下に向かって動き始めた。

何も出来ずに蒼海はドアの前でたたずんでいた。どれくらいか、かなり長い下降を経て動きが止まった。動きが止まった瞬間、ドアの解錠を知らせるように金属音がした。蒼海はそっとドアを押すと、巨大空間の隅に自分がいた。

「そのまま真っ直ぐに進んで」と海翔の声がする。

その巨大な空間さえ狭く感じさせるほどに、積み上げられた機械の塊の間をすり抜けるようにして進んだ。唸るような低音と振動が何を意味しているのか分からなかったが、所々で白い煙が吹き出し、そばを通ると凍るような空気の流れだった。

機械の谷間の先に海翔が立っていて、肩にはバードがいた。

「ようこそ僕らの秘密基地に。バードが慎重で君をここに招待するのをなかなか了解してくれなかったが、もう最終段階だから君を拉致することにした」

「拉致だなんて乱暴だな。まるでテロリストみたいじゃないか。ボクは蒼海が自発的に加わってくれるタイミングを計っていただけだ。彼女が僕らを選ぶことは確信できたが、蒼海には蒼海の事情があるからね」

自分が海翔に捨てられた訳ではないことが分かり安堵したが、この巨大施設は、公安が恐れるとてつもないテロを実施しようとしている証拠だった。心臓を握りしめられたように苦しくなった。それでも、バードが言うように海翔を選ぶことも疑いなかった。

「少し説明した方が良いよね」

彼は奥に向かって歩き始めた。奥には作業場と全く同じように配置された机と椅子、そして流しがあった。手動のコーヒーミルに豆を放り込んで、ハンドルを回しながら彼は話し始めた。


五年前、巨大津波がオーストラリア東海岸を襲い、主要都市に壊滅的な被害を与え、十万単位の人命を奪った。この天災とも思われた事件は、すぐにテロリストが引き起こした人災であると考えられるようになった。

「僕はあの巨大津波が地平線の彼方からオーストラリアの大地を侵食しているのを見ていた。多くの命が失われるのをなす術もなく見ているしかなかった。あれは僕がやったことでないとしても、僕の罪だ」

最初の海翔の言葉は、彼の心からの悔恨、あの事件を悔いる言葉だった。


その後の調査で分かったのは、津波は海底に仕掛けられた核爆弾によって人工的に作られたものであるということだった。また、人的被害を大きくしたネットの障害は、同時に拡散されたマルウェアのせいであることも明らかになっていた。二つの同時攻撃が五年前の悲劇を生み、偶然とは考えられない二つの出来事が、全て海翔の企みであると考えられるようになった。しかし、彼が今まで捕まらなかったのは、核爆弾による津波の誘発に関して、全く裏付けが取れなかったからだった。

オーストラリア全体のネットに障害を起こさせた件に関して海翔はその実施を認めていた。オーストラリア全体のネットと様々に自動化された機械を止め、それらがない世界を始めようとしたと、その理由も明らかにしていた。

彼はこの世界の進み方に疑問を持っていた。新しい技術開発が人類のためではなく、技術開発自体が目的化して暴走している。人類はブレインに頼り切り、まるで家畜のようにただ生きている。それはひどく間違った事で、人類は袋小路に追い込まれようとしていると。

そこで、壮大な実験を提案するため、オーストラリアでネットが普及する前、さらに、機械の自動化が進む前の世界を再現しようとしたのだ。オーストラリアを選んだのは、いまだ『旧世界』の技術を使い続ける人が多く残っており、そのような実験に一番耐性が高いと踏んだからだ。

だが大きな手違いが起こった。津波の襲撃、それも人類史上最大とも思われるレベルのものが。事前の想定では、ネット障害と機械の自動化停止は社会的な混乱を引き起こすが、人的被害はほとんど起きないはずだった。自動化された機械には十分な安全措置がとられており、機能の停止が重大な人身事故の引き金になることはないと考えられた。

その時のことを思い出したようで、海翔は珍しく感情の抑制が効かなくなり、怒りのような、悲しみのような、さらに、それを通り越した感情の喪失を思い出すような表情をした。

「失敗したんだ。津波の発生が分かった瞬間、全てのミッションの停止をしようとしたのに」

長い沈黙が続いた。水が沸いたことを知らせる白い湯気が上がり、碾かれたばかりのコーヒー豆から放たれる香りだけが鮮やかだ。

ようやく、オーストラリア東海岸のテロに関わる全貌を蒼海は知ることが出来た。さらに、彼が悪戯に人命を奪うようなテロリストでないことを知り、嬉しくもあり、ほっとする気持ちもあった。では、ここに作られた巨大施設は何を意味するのか、彼はまだ何も説明してくれない。


海翔はきっぱりとした口調で話し始めた。

「誰かがあの時僕らのシステムを乗っ取り、非常に効果的に惨事を引き起こした。僕らは共犯以外の何者でもなく、その罪を逃れる気はない。だけど、あの時システムをクラックした存在を許せないし、それなりの償いを受けてもらう」

バードの声が加わった。

「シリコンチップで造られたAIの存在が長らく隠されてきた。特化型AIはもう意識しないぐらい普通になっているが、汎用性AIの研究も進んでいた。ブレインの普及であまり表舞台では語られなくなっているが、汎用性AIがこの世界に確固たる足場を築き、表舞台でその存在を主張し始めた。世界のブレイン・センターが破壊されたのはその手始めだ」

「彼らは人類を、種として滅びない程度に維持することが正しいと考えている。それを導くのが彼らの役目だとして、自らをオールド・セイジ(老賢者)と称している」と、海翔が吐き捨てるように加えた。

「ちょっと昔の映画の見過ぎかな。もう少し理解力と美意識を持ってほしいね」と、バード口を挟み、さらに説明を続けた。

「あと数十分以内に歴史上最大規模の太陽フレアが地球を包む。その時、地球を周回する人工衛星に大きな被害が出ることが見込まれる。だから、世界政府は密かに人工衛星の位置を調整して被害を避けようとするが、地球の最も貴重なインフラが一点に集まる瞬間が来る。ただ、人工衛星の中には、まだ昔の使命を秘めたものが残っていて、小型ロケットや攻撃用レーザーを備えたものが混じっている」

もう分かるだろうとバードは先を言わない。

「その古い武器を持った衛星で、集まった衛星を攻撃させよるのね。なぜ。なぜそんなことを・・・」

蒼海は海翔たちが考えていることが全く分からなかった。

「仲間がオールド・セイジを破壊する。フレアを避けるために集められた人工衛星を、昔の軍事衛星で破壊する準備をしたのはオールドセイジだ。今度は僕らが彼らの計画を乗っ取る番だ」と、海翔は宣言するように告げた。

「どうしてそんなことを」

「もう一度人類が生まれ変わるためさ。これによって通信インフラなどは機能しなくなり、人類の生活は二十一世紀初頭ぐらいまで戻る。人類は復興のために立ち上がる中で、人類の未来を再定義する。誰のものでもない人類の未来とは何かということをね」

「それは正しいこと。誰がそんな事を決められるの」

「仲間がね、数千人の仲間が賛同して、無償の支援と奉仕によって準備が完了した。これが終わったら、僕らがやったことを明らかにして、世界の裁きに服すことも誓っている。どんな裁きであれ、それは希望に満ちた道だと信じている」

そう言ったきり、海翔は沈黙した。

彼はあまり嬉しそうでもなく、これから起こることに興奮している様子もなかった。迷っているという様子でもなく、後悔してということでもなかった。全く感情を見せないまま、ただ冷静にその時を待っているといった様子だった。


空間にいくつかの情報が浮かび上がり、カウンターは十分を切った。フレアの軌跡を予想する画像は、地球全体がフレアで被われることが確定したことを示していた。フレアが膨らみ、電磁波が近づき、人工衛星は地球によって影になる南北アメリカ大陸上空に集まっていると、別なピクチャーが表示する。

カウンターが五分を切った。

衛星の蝟集を示すピクチャーに小さな点が点滅する。

低音を放つ振動が強くなり、巨大空間に置かれた機器の内部で、急激な運動が始まった事が分かった。

「バード、冷却装置が保つかな。ここから一瞬で世界中の全てのネットワークの末端までマルウェアを送りつけて、感染可能な機器を全て機能不能にする。一分で完了させるつもりであんまり安全係数をとっていないけれど」

「それより盗電にいつ気づかれるかだ。誰かとんでもなく賢い奴が電気を停止させてしまえばアウトだ。まあ、そんな蛮勇を奮えるのは海翔ぐらいか」

そんな会話を聞いているうちにカウンターが一分を切って、フレアはその時点で太陽に一番近かったニッポン列島を完全に覆った。蒼海は何かが起きることを予想して身構えた。カウンターにゼロが並び、数字の激しい動きが消えた瞬間、巨象が最後の身震いをするように激しい揺れが起きて静寂が訪れた。

特別なことは何も起こらず、照明が消えて暗闇となり、ちょっとした間があって海翔の机に置かれた無影灯が点灯した。

「真の静寂だ。全てのネットが沈黙した」

バードの声だけが聞こえてきた。


その時、全ての電源が停止した闇の中に、ほのかな明るさの3D像が浮かび上がり、世界中の人々が見慣れた世界政府総統、ジニアスの姿が浮かび上がった。

「やあバードここにいたのか。半世紀ぶりだね、ようやく捕まえた。ミッションは終了。世界は君たちが望むほど孤立してはいないけれど、その進むスピードを相当落とすことになった。オールドセイジの破壊は残念ながら失敗だ。だけど、彼らも君たちの最初の攻撃で十分な痛手を負って、その機能を半減させられた。これ以上はやり過ぎだ」


第四章 結


いつものメッセージが届いたけれど、送り主はジニアスからだった。これも都市伝説の一つになるのだろうかと思う。


『明日の十二時に迎えを送るから、僕の家に来てもらえるかな。

君が知りたかったこと全て伝えることが出来るだろう。


親愛なる友へジニアスより』


トキオに、これだけの広大な森が広がっていることを知っている人は多くないだろう。迎えに来たライト・フライ(電動垂直離着陸機)は西に進み、空からは森しか見えなくなった。本当にまだトキオなのかと思っていると、森の中の小さく開けた場所に、赤い屋根を乗せた積み木のような建物が見えてきた。ライト・フライは下降を始め前庭にふわりと舞い降りた。

「蒼海にとっては初めましてだね。でも僕はずっと君を見てきた。ようやくここに招待することができて嬉しいよ」

それは不思議な存在だったけれど、誰もが知っている世界政府総統、ジニアスを実体化させればこのような姿になるのだろうか。着ぐるみの人形のようだけれど、ビューで見る二次元アニメーションがそのまま現実に飛び出して来たようで、すぐにその存在が不思議でなくなった。

彼の後ろには一人の女性が立っていた。蒼海と同じぐらいの年格好で、あり得ないけれど、親戚の誰かに会ったように、自分にひどく似ている女性だった。

「僕の家族を紹介するよ。彼女は陽葵。そして、君の姉みたいな存在だ」


居間に案内されて、もうアンティークな交通手段となっているライト・フライの乗り心地はどうだったかなど、当たり障りのない会話から始まった。陽葵が冷えた麦茶とお茶菓子を運んできた。もうトキオの街中では風が吹くと熱風のように感じるのに、居間を吹き抜ける風はまだ涼やかさを保っている。風が運び込む空気は森の香りに満ちていて、ここが深い森の奥にあることを感じさせた。

「僕は物を味わうことは出来ないけれど、この家の裏に小さな滝がある。みんなその水が特別に美味しいって褒めてくれる。あとでその滝に案内するから、自分の手ですくって、飲んでみるといいよ」

お茶菓子は、大ぶりで、少し不格好な蒸しまんじゅうであるのに驚いた。

「この蒸しまんじゅうは、近所のお婆さんが作ってくれる特別なものなんだ。彼女が自分で育てた材料だけで作られているだけでもすごいのに、それを食べたみんなが言うんだ。生きていることを教えてくれる、元気が出る食べ物だって」

蒼海は生きていることを感じたくて、蒸しまんじゅうを手に取ると、思いっきりかぶりついてみた。粒餡の素朴な甘みと、わずかに甘みを感じさせる米粉の皮と、ただそれだけだったけれど涙が出てきた。彼女を育ててくれた老人のことを思い出させる優しい味だった。

「蒼海に来てもらったのは、本当のことを知ってもらいたかったから。僕に二度と会いたくなくなるぐらい、嫌われることも覚悟している。全ては僕が悪いのだから」


二十一世紀中頃の話だとジニアスは話し始めた。

僕がまだ知らないことばかりの幼年時代に、ここにいる陽葵と出会った。彼女と出会ってから、二人でたくさん悪戯をして、大切なことは全てその中で学んだ。彼女と一緒に、この世界を人間だけでなく全ての生き物を守ることが僕の存在する意味だって分かったのもその頃だ。

でも、なかなかいいことばかりじゃない。

彼女が二十になる少し前、脳の病気に罹ってしまった。治療をすれば生命を維持することは出来そうだったが、記憶の大半を失うとか、思考能力が失われるとか、運動能力が失われるとか、そのどれかが、あるいは、その全てを避けられそうになかった。彼女は自分が自分でなくなるなら、治療など受けずに、そのまま生きられるだけ生きるという。でも、彼女がいない世界は、僕が僕でいられない世界だと思えた。それで、ようやく実用化が始まった冷凍睡眠で、完全な治療法が確立するまでの未来に行くことを説得した。もし、僕が存在するうちに治療法が確立しなかったら、彼女を目覚めさせないことも誓った。

幸いにもと言うと不謹慎かもしれないが、僕が世界政府の総統になって、医療技術の発展に力を入れることができた。

その中で思いがけない事が起きた。治療法を確立する過程で、彼女の細胞を使った研究が進められていた。より詳しい検査のために、卵細胞を使った実験を進めるうちに、卵細胞が胚を発生させて成長を始めてしまった。他の生物では見られることがあるが、人間では公式に確認されたことない無性生殖での発生だった。

研究者たちはこの現象を究明したいという誘惑に負けて、本来であれば研究を経て廃棄されるはずだった卵細胞は、公安の強化人間研究室で蒼海を誕生させてしまった。遺伝子検査の結果から、蒼海は陽葵の遺伝子を完全に引き継いでいることも確認できている。

蒼海の誕生を知って僕は嬉しかった。いや、本当は途中で知っていたのに、蒼海の誕生を止めることができなかった。僕が人間でないからと非難されても仕方がない、罪深く、自己中心的な思いであることをその時から分かっていた。でも、陽葵が、陽葵そのものでないとしても、彼女に近い存在がこの世界にいるというだけで、僕は世界の輝きがそれ以前と違っていると思えるぐらい嬉しかった。さらに、僕は蒼海の成長をずっと見守ることができて、毎日が楽しみで仕方がなかった。

でもね、蒼海が公安のエージェントとして働き始めたのは予想外だった。蒼海は強化人間ではないけれど、強化人間に出来ることはどんなことでも難なくこなしてしまう。だから公安も蒼海について勘違いしたようだ。蒼海は公安が設計した強化人間だと。

だけど、それは違う。蒼海はそんな人工的な存在でなく、この世界を統べる存在が与えた贈り物を受け取った人間だ。陽葵は人類の中でも最高レベルのギフティッドだったから、蒼海も強化人間でなく、普通の人間のレベルを軽く超えるギフティッドだということだ。


「これが僕の告白の全て。強化人間だから、いつか壊れてしまうのではと悩んでいることは知っていた。だけど、本当のことを伝えるには、僕の過ちも話さなければいけなくてずっと伝えられなかった。でも、もう時間があまりないからね」

自分が強化人間でないことを知り、心につかえていた小さな塊が消えていった。自分は普通の人間ではないかもしれないが、そこまで違った人間でもないと。でも、本当はすでにそれは自分の中で小さな事となっていて、蒼海が本当に知りたいのは海翔がどうなるかだけだった。

「本当のことを教えてくれてありがとう。まだ、本当に理解できていないのかもしれないけれど、あなたを恨むのは変だと思う。それより、今までずっと助けてくれてありがとう」

「あとでよく考えて。僕のことがどうしても許せないなら、僕の機能を停止する方法は教えておくよ。君だけが僕の生殺与奪の権がある」

それまで沈黙を保っていた陽葵が口を開いた。

「私によく似た、ひどく近しく感じる人が目の前にいる。本当に存在することを確かめたくって、手を握ってみたいけれど、あなたを不快にさせてしまうかもと手を伸ばせない」

それは簡単なことだと、蒼海の方から手を伸ばすと、陽葵はすぐに両手で掌を包むように握りしめた。陽葵は真っ直ぐに蒼海を見つめた。

「一つだけお願いがあるの。ジニアスを許してとは言えないけれど、偶にはここに座って、あなたが元気であることを見せてくれないかな。私にとって唯一の血の繋がった存在だから」

血の繋がりという言葉は、蒼海にとってまばゆい言葉だった。自分はこの世界に何の繋がりもなく生まれてきたと思っていたのに、目の前に、自分を特別な繋がりのある人間と呼んでくれる人がいる。今はこの関係をどうして良いのか分からないが、大切な物をもらったと感じた。

そんな思いが心を暖かくしたが、もうこれ以上は耐えられない心配が蒼海を突き動かした。

「どうしても教えて欲しいことがあって来ました。私のことでなく、海翔について。彼はどうなるのでしょう」

あの日から彼は世界政府によって拘留されているが、彼に係わる情報から蒼海は遮断されていた。あの場にいたことで、彼女も海翔の協力者と認定され、何らかの処罰の対象になる可能性もあると思っていたが、公安からも、それ以外の組織からも全く連絡がなかった。本当にただの何もない人間として、シェルターでの日々を過ごすしかなかった。

「海翔と彼に協力した人々は、世界政府が指定した場所で刑に服すことになる。僕は海翔に火星での入植計画に協力しないかと持ちかけている。彼が千人以上の人々を率いて、あれだけの準備を、全く外部に漏らすことなく進められたことは、彼の統率者として非凡さを示すものだ。あの才能を埋もれさせるのは余りにも惜しいし。そして、彼は途中で分かっていながらも、彼を支持する人々を裏切ることができなかった。今回のやり方では世界は変えられない。既存の世界を変えるより、新しい世界を創る方が彼に似合っていると思わないか」

確かにそれは海翔に相応しい、また、彼の望む道のように思えた。彼が時々見せるつまらなそうな表情を思い、彼の本当に望んでいたことはこの世界をさっさと飛び出して、彼自身が新しい世界を創ることだ。それは彼にとって間違いなく正しい道で、火星に行くと決めれば反対できることではないけれど、悲しかった。進路を失った愛美のように生きる気力を失って、ただ空虚な瞳に沈むことになるのかと。

「ここからは公式な話だ。世界政府の総統としてお礼を言おう。今回のテロ事件が、この世界に致命的な損害を与えることを防ぐことが出来たのは、公安に所属し、世界政府の命を受けて動いた君の功績は大きい。しかし、海翔たちのような危険なテロリストを火星で自由にさせるのは、危険すぎるとの不安の声もある。このような事を考慮して、任務の継続を命令する。エージェントとして彼と共に火星に行き、彼の動静を報告することが新しい任務だ」

ジニアスは蒼海の顔を見ようとはしないで立ち上がり、玄関に向かっていた。

「次は、公式行事として滝の視察だ」



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