第82話 作られた熱狂とスケープゴート
アメリカ合衆国バージニア州マクリーン。
ポトマック川を見下ろす高級住宅街の一角に、ひっそりと佇む瀟洒な邸宅があった。
夜の闇に紛れるように停まった黒塗りのSUVから、コートの襟を立てた一人の男が降り立つ。
彼は周囲を警戒しながら邸宅の裏口へと向かい、三回の短いノックを鳴らした。
扉が開き、男を迎え入れたのは、アメリカ最大の軍産複合体『タイタン・グループ』の次期総帥、ノア・マクドウェルであった。
「……遅かったですね、カーター記者」
ノアは薄暗い書斎のソファに腰を下ろしながら、冷ややかな微笑を浮かべて言った。
招き入れられた男——ワシントン政界に強いパイプを持つ大手主要紙のベテラン調査報道記者ジョン・カーターは、額の汗をハンカチで拭いながら、目の前の若き怪物に畏敬の念を抱きつつ着席した。
「申し訳ありません、マクドウェル氏。
尾行を撒くのに少し手間取りまして。
……それで、今夜私を呼び出した理由とは?
タイタン・グループが直接、一介の記者にリークしたい『情報』とは、一体何なのですか?」
カーターの目には、ジャーナリストとしての野心と、罠ではないかという疑心暗鬼が交錯していた。
ノアは傍らに立つCIA長官エレノア・バーンズに視線で合図を送った。
彼女は無言のまま、テーブルの上に分厚い茶封筒を滑らせた。
「開けてみてください」
カーターが封筒を開け、中の書類に目を通した瞬間、彼の息が止まった。
「こ、これは……」
「ええ。
最近、巷を賑わせている『メドベッド』という荒唐無稽な陰謀論。
……あれに対する、我々アメリカ政府内部からの『回答』です」
ノアはブランデーの入ったグラスを優雅に揺らしながら、語り始めた。
「結論から言えば、不老不死の医療ポッドなどというオカルトじみたものは存在しません。
……ですが、火のない所に煙は立たない。
陰謀論者たちが嗅ぎつけていた『特権階級だけが享受している奇跡の治療』という部分は、悲しいことに事実だったのです」
「……軍の極秘プロジェクトで開発された『強力な治験薬』……」
カーターは書類に印字された文字を、震える声で読み上げた。
「その通りです。
国防総省のダーパ(DARPA:国防高等研究計画局)と、一部の巨大製薬企業が極秘裏に開発していた、細胞の超回復を促す未承認のナノ・ペプチド製剤。
本来であれば、戦場で負傷した兵士の命を救うためだけに使用されるべき、国家の最高機密とも言える治験薬です」
エレノアが氷のような声で説明を引き継ぐ。
「それがどういうわけか……軍の管理をすり抜け、一部の腐敗した官僚や政財界のVIPたちの間で、『若返りの秘薬』『万能薬』としてもてはやされ、不正に横流しされていたのです。
……書類には、その薬を不正に受け取り、病を克服したとされる数名の大物たちの名前と、資金の流れが記されています」
カーターはリストを見て、さらに驚愕した。
そこには、引退間近の有力上院議員や、すでに第一線を退いたウォール街のフィクサーたちの名前が並んでいた。
いずれも最近になって「奇跡的に難病から回復した」と噂されていた人物たちだ。
「これを……私に記事にしろと?」
「ええ。
これは、アメリカの民主主義を根底から揺るがす重大な腐敗です。
我がタイタン・グループとしても、国防のための技術が一部の特権階級の私欲のために使われている現状は看過できません。
……真の愛国者である貴方のペンで、この不正を白日の下に晒していただきたいのです」
ノアは、まるで正義の使徒であるかのような澄み切った瞳で、カーターを見つめた。
もちろん、全ては完璧に計算された「大嘘」である。
薬の出処は軍の研究所などではなく極東の島国であるし、横流しを主導したのは他ならぬウォーレン大統領と、目の前にいるノアとエレノア自身である。
リストに載っている「腐敗した官僚やVIP」たちは、今回のスキャンダルのために用意されたトカゲの尻尾に過ぎない。
彼らが法的に罪に問えるかといえば、未承認薬の個人的な使用というグレーゾーンであり、非常に微妙なラインだ。
だが、「特権階級が自分たちだけ助かる薬を隠し持っていた」という道義的責任で世論を炎上させるには、十分すぎる「悪役」であった。
「……分かりました。
これはピュリッツァー賞もののスクープだ。
明日の朝刊のトップでぶち抜かせていただきます」
カーターは興奮を隠しきれない様子で封筒を抱え込み、逃げるように邸宅を後にした。
扉が閉まった後、ノアとエレノアは静かにグラスを合わせた。
「見事な脚本ね、ノア」
「大衆というのは、常に怒りをぶつける対象を探しているものです。
実体のない『メドベッド』という幽霊を追いかけさせるより、実在する『腐敗したエリート』という分かりやすい標的を与えてやった方が、彼らははるかに熱狂する。
……これで日本の『医療用ナノマシン』という真実は、軍の汚職スキャンダルの陰に完全に埋もれます」
ノアの青白い瞳が、夜の闇の中で冷酷に光った。
真実を隠すための最も効果的な嘘。
それは、「真実によく似たスケールの小さな事実」を差し出すことだ。
こうして、アメリカ大統領選挙を決定づける巨大な情報操作の歯車が、静かに回り始めた。
◇
翌朝。
アメリカ合衆国は、かつてない規模のメディアの爆発によって目を覚ました。
『独占スクープ:軍の極秘治験薬、特権階級へ不正流出!』
『メドベッドの正体はこれか? エリートたちが隠し持っていた“奇跡の薬”』
『兵士のための技術を奪った、強欲なVIPたちを告発する』
主要紙が一斉にこのスキャンダルを報じ、ニュース専門チャンネルは24時間体制で特番を組んだ。
キャスターたちが興奮気味に、リークされた書類のフリップを指し示す。
「視聴者の皆さん、これはまさに現代のウォーターゲート事件です!
これまでSNSを中心に囁かれていた『ディープステートが不老不死の技術を隠している』という陰謀論……。
我々はそれを荒唐無稽だと笑ってきましたが、彼らはある意味で正しかったのです!」
「その通りです。
SF映画のようなカプセル(ベッド)は存在しませんでしたが、軍の税金を使って開発された『超回復を促す未承認薬』が存在し、それが一部の権力者たちの間だけで莫大な裏金と引き換えに取引されていた。
これは明確な権力の濫用であり、国民への裏切りです!」
SNS上のタイムラインは、怒りと熱狂の渦に巻き込まれた。
これまでメドベッドの存在を声高に叫んでいた陰謀論者たちは、「ほら見ろ! 俺たちの言っていたことは正しかったんだ! エリートどもは俺たちを見殺しにして、自分たちだけ助かろうとしていたんだ!」と狂喜乱舞し、一般の有権者たちも「税金で作られた薬を独占するとは何事だ」と激しい怒りを燃え上がらせた。
法的に明確な罪に問えるか(横領罪や薬事法違反が立証できるか)は、専門家の間でも意見が分かれていた。
「単なる未承認薬の自己責任での使用であり、立件は難しいのではないか」という冷静な声もあったが、そんなものは火のついた大衆の感情の前では何の消火剤にもならなかった。
国民が求めているのは法的な厳密さではない。
「自分たちを差し置いて美味しい思いをしている特権階級を引きずり下ろすこと」なのだ。
そして、この怒りのマグマが最高潮に達した時、最も完璧なタイミングで一人の女性がステージに上がった。
◇
激戦州の一つ、ペンシルベニア州フィラデルフィア。
巨大なコンベンションセンターを埋め尽くした数万人の大群衆が、地鳴りのような歓声を上げていた。
星条旗のカラーである赤白青の紙吹雪が舞う中、演壇に姿を現したのは、次期大統領の最有力候補キャサリン・ヘイズ上院議員であった。
彼女は元連邦検事としての厳格さと、大衆を惹きつけるカリスマ性を併せ持つ50代の精悍な女性だ。
仕立ての良い濃紺のスーツに身を包み、鋭い眼差しで群衆を見渡すと、会場の熱気はさらに一段階跳ね上がった。
「ペンシルベニアの皆さん!
アメリカを愛する誇り高き市民の皆さん!」
ヘイズ候補の声が、強力なスピーカーを通じて会場の隅々にまで響き渡る。
彼女の演説のトーンは、これまでの選挙戦で見せてきた政策論争とは打って変わって、極めて攻撃的で、そして情熱的だった。
「今朝のニュースを皆さんもご覧になったことでしょう。
……私は深い悲しみと、それ以上の激しい怒りを禁じ得ません!」
ワーーーッ!!という同調の歓声が上がる。
「我が国の勇敢なる兵士たち。
戦場で血を流し、手足を失い、国のために命を懸けている若者たち。
彼らを救うために皆様の血税を使って開発されたはずの『極秘の治療薬』が……あろうことか、一部の腐敗したエリートたち、特権階級のVIPたちの私欲を満たすために、裏取引で横流しされていたのです!!」
「恥を知れ(Shame on them)!!」「泥棒どもめ!!」
群衆から怒りに満ちた叫び声が、次々と上がる。
「皆さんが怒るのも当然です!
これは単なる横領ではありません。
アメリカの魂に対する冒涜です!
彼らは自分たちだけが健康を享受し、自分たちだけが長生きし、残りの99パーセントの国民を見下しながら、密室でワイングラスを傾けていたのです。
彼らは法律を逃れられると思っているかもしれない。
高価な弁護士を雇い、法の抜け穴を使って、今回も無傷で逃げおおせると高をくくっているかもしれない!」
ヘイズ候補は演台を力強く叩き、テレビカメラの向こう側にいる全てのアメリカ国民に向かって鋭い指を突きつけた。
「だが、私は許さない!!
私が大統領に就任した暁には、この『特権階級による医療の独占』という前代未聞のスキャンダルを、徹底的に追及することをここに約束します!!」
ワアアアアアアアアアアアアッ!!!!
地鳴りのような歓声が、会場の屋根を吹き飛ばさんばかりに響き渡る。
「独立した特別検察官を直ちに任命し、この不正に関与した全ての官僚、製薬会社の役員、そして甘い汁を吸ったVIPたちを、残らず白日の下に引きずり出します!
証拠が不十分? 法的なグレーゾーン?
関係ありません!
私がかつて連邦検事としてマフィアのボスたちを刑務所に送り込んだように、彼らが隠し持つすべての資産と通信記録を洗い出し、必ずや法の裁きを受けさせます!」
「キャサリン!」「キャサリン!」「キャサリン!」
群衆は完全に彼女の言葉に魅了され、熱狂的なコール(合唱)が始まった。
「そして、その『奇跡の薬』は、正当な持ち主である傷ついた兵士たち、そして本当にそれを必要としているアメリカ国民の手に取り戻します!
一部のエリートのためのアメリカは今日で終わる!
我々は、透明で公正で、全ての人に平等なチャンスが与えられる、真のアメリカを取り戻すのです!!
共に戦いましょう! 共にこの国を浄化しましょう!! ゴッド・ブレス・アメリカ!!」
ヘイズ候補が両手を高々と掲げると、会場は爆発的な熱狂のルツボと化した。
その映像は全米のニュースネットワークで生中継され、SNSで瞬く間に拡散されていった。
この瞬間、キャサリン・ヘイズの支持率は、対立候補を完全にダブルスコアで突き放すほどの垂直上昇を記録した。
「不正を許さない正義の検事」という彼女のキャラクターが、大衆の怒りを見事に吸収し、大統領選挙の勝敗は、事実上この日、完全に決したと言ってよかった。
◇
ワシントンD.C.、ホワイトハウス。
オーバル・オフィスの巨大なモニターで、キャサリン・ヘイズの熱狂的な演説をリアルタイムで見守っていたウォーレン大統領は、満足げに深く頷いた。
「……見事な演説だ。
民衆の心を鷲掴みにしている。
これで彼女の勝利は揺るぎないものになったな」
ウォーレンは手元のバーボンを一口啜った。
「彼女自身は、自分が『正義』を遂行していると本気で信じているのだろう。
自分が振り上げている拳が、我々が用意した『作られた悪党』に向けられた、ただのガス抜きのショーだとは夢にも思わずに」
「それが彼女の最大の強みであり、我々にとっての最大の利用価値です」
ソファに座るノア・マクドウェルが、冷ややかに微笑んだ。
「大衆は、自分たちの怒りを代弁し、悪党を叩きのめしてくれる『ヒーロー』を求めています。
ヘイズ候補は、その役割を完璧に演じてくれている。
彼女が大統領になり、あのリストに載っているトカゲの尻尾たちを数人刑務所に送り込めば、世論は『正義は勝った』と満足し、溜飲を下げるでしょう。
そして……誰も『その薬がどこから来たのか』『誰が本当の製造元なのか』という、最も危険な真実(日本)には永遠にたどり着くことはありません」
ノアの言う通りだった。
陰謀論という名のコントロール不可能なノイズは、ディープステートによって「軍の汚職」という分かりやすい政治スキャンダルへと変換され、見事に消費された。
これで日本のナノマシン技術は、「軍が開発した未承認薬」というカバーストーリーの陰に完全に隠蔽されたのだ。
「エレノア。
ヘイズが就任した後、彼女が本当に『特別検察官』を任命して、軍の深層まで探りを入れてきたら、どうするつもりだ?」
ウォーレンが尋ねると、CIA長官のエレノアは涼しい顔で答えた。
「問題ありません、大統領。
ヘイズ新大統領には、我々が用意した『偽の研究施設』と『それらしい研究データ』を提示し、納得させます。
『確かに開発はしていましたが、成分が不安定で量産は不可能。今回の横流し分で在庫は尽きました』とでも報告させれば、彼女もそれ以上は追求のしようがありません」
エレノアは冷徹な視線で、モニターのヘイズ候補を見つめた。
「彼女は、表の顔としてクリーンなアメリカを象徴する、素晴らしい大統領になるでしょう。
ですが真の力——日本とのホットライン、ナノマシンの管理、そして世界を監視するレーダー網の運用——は、我々情報機関とタイタン・グループが影から完璧にコントロールし続けます。
彼女には綺麗な部分だけを見せておけばいいのです」
「……恐ろしいシステムを作ったものだ、我々は」
ウォーレンは自嘲気味に笑った。
民主主義の頂点に立つ大統領すらも、情報統制によって「踊らされる役者」でしかない。
だが、この狂った世界でアメリカの覇権を維持するためには、この歪な二重構造を機能させるしかないのだ。
「これでアメリカ国内の火種は完全に消火された。
我々は盤石の体制で、次のステージへと進むことができるな」
ウォーレンはモニターを切り、執務室の窓から外を眺めた。
星条旗が風にはためいている。
その旗が象徴する「自由と正義」は、今や分厚い偽装のベールに守られた、脆くも美しい虚像に過ぎなかった。
◇
一方、地球の裏側。
東京都千代田区首相官邸地下5階『特別情報分析室』。
内閣官房参事官の日下部は、壁面のスクリーンに映し出されたアメリカ大統領選挙の速報データと、CIAから送られてきた「事後報告」の暗号レポートを交互に見比べながら、いつものように胃薬を水で流し込んでいた。
「……キャサリン・ヘイズ候補、当確の見込み。
支持率急上昇ですか」
日下部は深い溜め息を吐き出した。
「アメリカの『影の政府』は、本当に優秀ですね。
厄介な陰謀論の火種を、自らの陣営のスケープゴートを燃やすことで、完璧な『エンターテインメント』に昇華させ、ついでに次期大統領のカリスマ性まで作り上げてしまった。
……彼らの情報操作能力と、冷酷なまでのトカゲの尻尾切りには、素直に感服しますよ」
隣に控える鬼塚ゲンが、腕を組みながらモニターを睨んだ。
「これでアメリカの政情は安定する。
ヘイズ新大統領は正義の執行者として国民の支持を集め、その裏でノアやエレノアたちが引き続き我々日本との『泥にまみれた共犯関係』を維持する。
……というわけですか」
「ええ。
我々にとっては最も望ましい結果です」
日下部はタブレットの画面をオフにした。
「もしアメリカ国内が陰謀論で分裂し、コントロールを失っていれば、我々が提供している技術の秘密も暴かれかねなかった。
アメリカの体制が安定し、彼らが『強力な同盟国』として機能し続けてくれる限り、中国やロシアへの強烈な牽制も機能し続けます。
我々は安心して、テラ・ノヴァの『工場』を回し続けることができる」
日下部は薄暗い官邸地下の天井を見上げた。
アメリカの大統領が誰になろうと、世界がどれほど正義や民主主義を叫ぼうと、このゲームの根底にあるルールは変わらない。
世界の命運を握る「魔法の薬」と「神の眼」を供給しているのは、日本なのだ。
「次のアメリカ大統領がどれほどクリーンであろうと、彼女の首には見えない首輪が嵌められています。
そして、その首輪のリードを握っているのはホワイトハウスの地下にいる彼らであり……その彼らに『餌』を与え続けているのは、我々なのですから」
日下部の声には、官僚としての底知れぬ矜持と、世界を裏から操っているという冷徹な自負が込められていた。
アメリカの選挙戦が熱狂に包まれ、新たなリーダーの誕生に世界が湧き上がる中。
日本政府は誰にも知られることなく、静かにその「支配の鎖」を強固なものにしていた。
全ては、次元の彼方で工藤創一が無邪気に広げ続ける「工場」を守るため。
嘘と陰謀で塗り固められた地球の平和は、今日もまた辛うじてその均衡を保ち続けているのだった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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