第78話 星条旗の黄昏と影の継承者
アメリカ合衆国ワシントンD.C.。
ホワイトハウスの西棟に位置する大統領執務室——オーバル・オフィス。
ポトマック川から吹き込む冷たい風が、防弾ガラスの窓を微かに震わせている。
分厚いカーテンの隙間から差し込む夕暮れの赤々とした光が、歴代の大統領たちが使用してきたレゾリュート・デスクを血のような色に染め上げていた。
外の世界では、今まさに、この国を真っ二つに分断し、同時に熱狂の渦へと巻き込む巨大な祝祭が幕を開けようとしていた。
アメリカ合衆国大統領選挙の季節である。
通りには各陣営の支持者たちがプラカードを掲げて練り歩き、ニュース専門チャンネルは24時間体制で候補者たちの一挙手一投足を報じ、世論調査のパーセンテージに一喜一憂している。
民主主義の巨大な見世物であり、世界で最も権力のある座を巡る泥沼の闘争だ。
だが、現職の第47代大統領ロバート・“ボブ”・ウォーレンは、その熱狂の只中にありながら、どこか遠くの出来事のようにそれを眺めていた。
憲法の規定により、彼の二期目の任期は確実にその終わりへと近づいている。
三選は禁止されており、彼はもう次期大統領選の舞台にプレイヤーとして立つことはできない。
彼が成し遂げてきた数々の業績も、世界を欺いてきた泥にまみれた秘密も、いずれは次の主へと引き継がれなければならない運命にあった。
「……いよいよ、祭りが始まるな」
ウォーレンは手元に置かれた分厚いプロファイリング・ファイルをパラパラとめくり、深く長く息を吐き出した。
ソファには、彼が最も信頼する腹心であるダグラス首席補佐官と、冷徹なるCIA長官エレノア・バーンズが座っている。
そして部屋の隅、影が最も濃く落ちる場所に、まるで劇場で特等席を得た観客のように優雅に足を組んで座る一人の少年がいた。
アメリカ最大の軍産複合体『タイタン・グループ』の次期総帥であり、日本から提供された『医療用キット』によって不治の病から蘇った若き怪物、ノア・マクドウェルである。
「……大統領。
次期候補者の選定についてですが、党本部はキャサリン・ヘイズ上院議員の指名をほぼ確実なものとして調整に入っています」
ダグラスが手元のタブレットを操作しながら、静かに口火を切った。
その声には、複雑な政治的調整を終わらせた安堵と、これから始まる本戦への緊張が入り混じっている。
「キャサリン・ヘイズ。
元連邦検事であり、その経歴はどこまでもクリーンでタフです。
ウォール街の巨大金融資本の不正を徹底的に追及した実績があり、大衆受けも良く、マイノリティからの支持も厚い。
先日のテレビ討論会で見せたアグレッシブな姿勢は、有権者に『強いアメリカ』と『透明性のある政府』を印象付けるには十分すぎるほどの効果を上げました。
大統領が公式に彼女を後継者として推すれば、対立候補を大差で引き離し、ホワイトハウスの主の座を確実なものにできるでしょう」
ウォーレンは、ファイルの表紙に印刷された知的で勝気な女性の顔写真をじっと見つめた。
キャサリン・ヘイズ。
確かに彼女は優秀だ。
アメリカ国民が今求めている「正義」と「法と秩序の回復」を体現したような政治家である。
彼女が次期大統領の座に就き、表の世界の舵取りを任せることに何の異論もない。
むしろ彼女以外に、この分断されたアメリカを一つにまとめる求心力を持つ者はいないだろう。
「ああ、彼女でいい。
キャサリンなら、この巨大な船を力強く引っ張っていけるだろう」
ウォーレンはマグカップの冷めたコーヒーを啜りながら、同意を示した。
だが、その表情には深い憂慮の影が落ちていた。
彼はペンを執り、デスクの上でコツコツとリズミカルに音を立てた。
「しかしな、ダグラス。
彼女は『クリーン』すぎるのだ。
連邦検事上がりという経歴が、彼女の正義感を強固なものにしすぎている。
不正を許さず、すべての情報を白日の下に晒すべきだと本気で信じている。
……それは平時であり、国内の問題だけを処理していれば良いのであれば、素晴らしい美徳だ。
だが、今のこの狂った世界情勢においては、致命的な弱点になりかねない」
ウォーレンの視線が、部屋の隅に座るノアへと向けられた。
ノアは薄く微笑みながら、大統領の言葉の真意を完璧に理解しているというように、微かに顎を引いた。
「日本との関係だ」
大統領の口から出たその言葉が、オーバル・オフィスの空気を一瞬にして氷点下まで冷え込ませた。
「我々が今、極東の島国と結んでいる『悪魔の契約』。
一部の特権階級の命を永らえさせる不老不死のナノマシン。
世界中のあらゆる密室の会話を拾い上げ、空間そのものを透視するレーダー網。
そして彼らが深海か、あるいは秘密の地下施設から次々と引っ張り出してくる、数々の物理法則を無視したオーバーテクノロジー。
……これらすべての『絶対的かつ非人道的な秘密』を、正義感の塊であるキャサリンにそのまま引き継がせて、果たして彼女は正気を保てると思うか?」
ダグラスとエレノアは、重い沈黙を守った。
日本の技術は、現代のアメリカの法律や倫理観、そして人権という概念を根本から破壊する劇薬だ。
自国民のプライバシーを完全に侵害する監視システムをテロ対策の要として容認し、独裁国家と不老不死の薬を巡って血で血を洗う暗闘を繰り広げ、さらには見返りとして日本という国家の異常な軍備拡張と覇権的振る舞いを黙認しているという事実。
もしヘイズ新大統領がそれを知れば、「こんな非民主的で違法なシステムは直ちに破棄し、議会に公表すべきだ」と暴走する可能性は極めて高い。
あるいは日本に対して「同盟国として、技術の完全開示と人道的利用を強く求める」などという無謀な圧力をかけ、せっかく築き上げた絶妙な均衡(共犯関係)を決定的に破壊してしまうだろう。
「アメリカ合衆国という国家が、日本のもたらす技術的特異点の前で舵取りを間違えれば、我々は覇権を失うどころか、国家として破滅する。
日本の『眼』と『薬』なしでは、もはや中国やロシアといった狂犬たちを抑え込むことはできない体質に、我々自身がなってしまっているのだからな」
ウォーレンは重々しく告げた。
表の政治家である大統領が清廉潔白でありたいと願うのは当然だ。
だが、世界の裏側で進行しているゲームのルールは、すでに正義や法律、あるいは国際条約では測れない次元へと完全に移行してしまっている。
綺麗事ではこの国は守れない。
「だからこそだ」
ウォーレンは立ち上がり、ゆっくりとした足取りでノア・マクドウェルの前へと歩み寄った。
老練な権力者と、超常の力を得た若き怪物が、至近距離で視線を交えさせる。
「ノア。
その時は、君が介入するんだ」
ノアは青白い光を宿した瞳で、アメリカ合衆国大統領を静かに見上げた。
その表情には驚きはなく、むしろ「ようやくその話になりましたね」とでも言いたげな嗜虐的な喜びが滲んでいた。
「これまで君の一族が、軍産複合体という『ディープステート(影の政府)』としてアメリカの政治と経済を裏からコントロールしてきたように。
……いや、それ以上にだ」
ウォーレンは言葉に力を込め、絞り出すように言った。
「キャサリン・ヘイズには、日本との関係の『全て』は教えない。
大統領として知るべき最低限の安全保障上の情報――例えば、新しい兵器の調達ルートや一般的な情報共有の枠組み――だけを渡し、最も深く、最もドロドロとした部分は完全に伏せておく。
彼女には『日本は優秀なハイテク兵器を提供してくれる頼もしい同盟国だ』という程度の認識でいてもらう」
それは、アメリカという国家の最高機密の管理権を、事実上一介の民間人と諜報機関の長に委ねるという恐るべき宣言だった。
民主主義の根幹を揺るがす究極の越権行為。
「後ろ暗いことは、大統領として知らない機密であった方がいいこともある。
知らなければ彼女も議会やメディアに対して嘘をつかずに済む。
堂々と『我が国は正義の道を歩んでいる』と胸を張って言える。
その『正義の顔』こそが、今のアメリカには必要なのだから」
ウォーレンはノアの肩に手を置いた。
「日本との関係、特にあのナノマシンや監視網に関する『真の主導権』は、ホワイトハウスではなく、そっち――君たちタイタン・グループとCIA――が握っても良いかもしれない。
いや、握るべきだ。
エレノア、そしてノア。
日本からの技術供与の実質的な窓口となり、彼らとの交渉の最前線に立ち続けるのは君たちだ。
最終的な判断は君らに任せる。
大統領が己の正義感に駆られて道を誤りそうになった時は、君たちの力で影から強引に軌道修正を行え」
エレノアは背筋をピンと伸ばし、深く力強く頷いた。
「はっ!
承知いたしました、大統領。
アメリカの覇権と安全を守るため、いかなる泥も被る覚悟です」
ノアもまた薄く美しい微笑みを浮かべ、まるで中世の貴族のように優雅に頭を下げた。
「ご安心を、ウォーレン大統領。
表の舞台で正義のヒロインが美しく踊るための血塗られた舞台装置は、我々が完璧に管理いたします。
……日本という名の底知れぬ『魔法使い』とのダンスは、私にとって極上のエンターテインメントですから。
彼らが次にどんな奇跡を深海から引き揚げてくるのか、楽しみで仕方ありません」
二人の返答を聞き、ウォーレンは少しだけ肩の荷が下りたような深い息を吐いた。
これで、自分の任期が終わった後も、アメリカが日本の技術を取り込み続けるための「見えないシステム」は機能し続けるだろう。
自分が引いたレールの上を国が走り続ける。
政治家としての最後の仕事は、この影のネットワークを完成させることだった。
「よし。
未来の担保はこれでいい。
……さて、エレノア。
現在の世界の近況を教えてくれ。
各国は今、日本の技術を巡ってどう動いている?」
ウォーレンはレゾリュート・デスクに戻り、椅子に座り直して腕を組んだ。
「はい、大統領」
エレノアが手元のタブレットを操作し、壁面の巨大なスクリーンに世界地図を投影した。
「まずは中国ですが。
現在、北京の共産党指導部は完全に機能不全に陥っています。
日本から尖閣諸島譲渡の『お礼』として譲渡される予定の、たった1個の『医療用キット(オリジナル)』。
これを巡って、党の長老たちによる血で血を洗う権力闘争が勃発しています」
スクリーンには、北京・中南海の周辺で発生している不自然な人民解放軍の部隊移動や、有力な党幹部の突然の失脚、さらには謎の交通事故死を告げる断片的な情報が次々と表示される。
「日本の日下部参事官が仕掛けた『毒饅頭』は、見事に中国の胃袋を食い破っているようです。
誰もが永遠の命と若さを欲し、ライバルを蹴落とすことに血道を上げている。
外交や経済政策といった本来の国政は二の次で、国家としての意思決定プロセスは完全に停滞しています。
彼らは今、自らの欲望という迷路の中で互いを食い合っている状態です」
「ははは、見事な自壊ぶりだ。
それは放っておいても良いでしょう」
ウォーレンは冷ややかに笑った。
かつてアメリカの最大の脅威であった巨大な赤い龍が、外部からの攻撃ではなく、自らの内なる欲望の炎で身を焦がし、のたうち回っている。
これほど痛快なショーはない。
彼らが内部抗争で疲弊してくれれば、アメリカは台湾海峡や南シナ海での軍事的負担を劇的に減らすことができる。
「次に中東です。
これが少し厄介な動きを見せています」
エレノアの声が一段と重くなり、スクリーンがアラビア半島を中心としたマップに切り替わった。
「日本政府は、中東の某主要産油国の王族に対し、医療用キットを『2個』譲り渡す予定で最終調整に入りました。
これにより、世界のオリジナル・キットの配分バランスは、米国に8個、中東に2個、中国に1個という形になるわけです」
「アメリカ政府が確保した8個のうち、すでにいくつかは消費したのだったな?」
「はい。
現在、政府が保有する未使用の在庫は『2個』です。
残りの分は、すでに国内の強大なフィクサー、次期政権に絶大な影響力を持つ大物上院議員、そして世論を操作する巨大メディアのトップたちに使用し、彼らを我々の陣営に完全に引き込むための『命の恩』として投資しました。
すでに国内の影のネットワークは、いつでも日米協調路線で動ける形に構築済みです」
「よしよし。
影の政府として、日本との連携に支障が出ないよう完璧な布陣を敷いてくれたな。
だが……中東の2個か」
ウォーレンは眉間に深い皺を寄せ、ペンでデスクをコンコンと叩いた。
「懸念としては、あの中東の絶対君主たちが『健康』になると、勢力拡大が予想されることだ」
ウォーレンの懸念は、極めて現実的かつ地政学的なものだった。
「中東という地域は、長らく絶対君主制や宗教的な対立、そして王族内部の世代交代の度に起きる権力闘争によって不安定化してきた。
我々アメリカは、その不安定さを利用し、安全保障を提供する見返りに彼らのオイルマネーをコントロールしてきたのだ。
だが、もし彼らが日本の薬で健康問題や老化を解決してしまったらどうなる?
カリスマ性のある王族が永遠の命を得て、半永久的な長期政権を築き、中東諸国が強固にまとまる可能性がある。
……最悪の場合、彼らはアメリカの庇護を捨て、日本を新たな旗印として強大な独自の経済・軍事ブロックを形成する可能性すらある」
「うーん……。
日本が莫大なオイルマネーと完全に結びつくのは、我々としては非常に嫌な動きだなぁ」
ウォーレンは忌々しげに舌打ちをした。
日本はすでに「次世代の核エネルギー」というカードを持ち、化石燃料からの脱却を図っている。
だが、中東側からすれば、自分たちの富を日本の技術に投資し、生き残りを図るのは当然の戦略だ。
日本のオーバーテクノロジーと中東の無尽蔵の資金力が融合すれば、アメリカの介入する余地が完全になくなってしまう。
それはペトロダラー体制の終焉を意味する。
「だが、ここで我々が横槍を入れて日本と中東の取引を邪魔したり、医療キットの譲渡を阻止したりすれば、中東の王族たちは一斉にアメリカを敵に回すだろう。
命を奪われたと逆恨みされるのは目に見えている。
……非常に嫌な動きだ。
中東とは早急に秘密裏の協議が必要だな」
ダグラスが進言した。
「中国の長老たちには、日本側が『薬を使う代わりに権力の座から引退しろ』という足かせをはめさせました。
しかし、中東の絶対君主たちにはそのような条件は課されていないと聞いています。
彼らが永遠の命を得て永遠に権力に居座り続ければ、これが後々、世界情勢において取り返しのつかないトラブルになりかねません」
「そうだな。
協議しようか。
彼らが健康になるのは構わんが、権力維持のあり方については釘を刺しておかなければならない。
中国には足かせをしたが、中東にはなしか。
日本ももう少し考えて配って欲しいものだが……これが後々、とんでもない火種になりかねんな」
ウォーレンは頭を抱えた。
日本が技術を小出しにするたびに、世界のパワーバランスが複雑な方程式となってアメリカにのしかかってくるのだ。
「トラブルと言えば、大統領。
もう一つ、極めて厄介な問題が進行中です」
エレノアがスクリーンを切り替えた。
今度はヨーロッパ大陸——ロンドン、パリ、ベルリン、ローマなどの主要都市のマップが表示される。
「ロシアです」
その名前に、部屋の空気がさらに冷え込んだ。
「先日、我々が実行した『大掃除』によって、アメリカ国内および日本国内のロシア諜報網は完全に全滅しました。
彼らはアメリカと日本が何か途方もない監視能力を持っていることに気づき、恐怖して撤退し、ウクライナでの休戦にも応じました」
「ああ、おとなしく冬眠していると思っていたが?」
「いいえ。
彼らはアメリカと日本から手を引いた代わりに、その他の国——特にヨーロッパや第三国でのスパイ活動を、かつてない規模で加速させています」
エレノアはマップ上に無数に点滅する赤いマーカーを指し示した。
「SVRやGRUの残存部隊が血眼になってヨーロッパで活動しています。
彼らの目的は明らかです。
アメリカと日本が共有している『謎の監視システム』の正体、そして『日本の技術の限界』を探り出そうとしているのです」
ロシアは、自分たちが何によって監視されているのかを完全には理解していない。
だからこそ、その正体を暴き、弱点を見つけるために、ヨーロッパの同盟国や関連機関をハッキングし、あるいは各国の首都にいる日本の外交官や技術者の周辺を執拗に嗅ぎ回っているのだ。
「彼らの動きは非常に活発で、かつ焦燥に駆られています。
このままでは、いずれヨーロッパのどこかで日本の技術の断片が漏洩する危険性があります」
「……馬鹿な熊どもめ。
まだ諦めていなかったか。
しかし、なぜ彼らの動きがそこまで詳細に分かる?」
ウォーレンの問いに、エレノアの唇が冷酷な弧を描いた。
「グラス・アイの監視ネットワークを拡大するため、我々はすでに世界各国に存在する『米国大使館』の通信施設や屋根裏に、日本から提供された『広域制御用ビーコン』を密かに設置済みだからです」
スクリーンに、ロンドン、パリ、ベルリン、ローマといったヨーロッパの主要都市が、青いドーム状の光で覆われている図がオーバーレイされる。
「ビーコンを中心とした半径100キロメートル。
……つまり、ヨーロッパの主要な首都圏で起きていることは、すべてこのシチュエーション・ルームから丸わかりなのです。
ロシアのスパイがパリのカフェで誰と会い、ロンドンの地下室でどんな暗号通信を打っているか。
彼らの鼓動の音まで、我々は完璧に把握しています」
「見事だ。
ならば、アメリカ国内でやったように、ヨーロッパでも現地の警察や情報機関に裏から情報を流して、ロシアのスパイを一網打尽にすればいいではないか」
ウォーレンが簡単に言うと、エレノアは重々しく首を横に振った。
「それが……そう簡単な話ではないのです、大統領」
「なぜだ?」
「この監視網の存在自体が、極めてデリケートな問題だからです。
もし我々がヨーロッパでのロシアの動きを、あまりにも正確に、かつ広範囲にわたって把握していることが明らかになれば……。
EU諸国は必ず疑念を抱きます。
『なぜアメリカは、我々の首都のそんな密室での出来事まで知っているのだ?』と」
エレノアは重苦しい声で続けた。
「そして、もし我々が同盟国の首都にある『米国大使館』に勝手にビーコンを置き、彼らの国の国民のプライバシーや政府の機密までをも空間透視によって丸裸にしていることがバレたら……。
これは、バラすと取り返しのつかない国際問題になりかねません」
「……最悪の国際問題か」
ウォーレンは息を呑んだ。
エドワード・スノーデンによるNSAの同盟国首脳盗聴暴露事件の比ではない。
同盟国の首都を物理的・電子的な死角ゼロで24時間監視しているなどと知られれば、NATOの信頼関係は一瞬で崩壊し、アメリカは世界中から孤立し、激しく糾弾されることになる。
「はい。
ですから、バラすべきではないかと……。
我々はヨーロッパでロシアの工作員が動いているのを『見て』いながら、大々的に手出しをすることができないのです。
下手な動きをして、このグラス・アイの存在をヨーロッパの同盟国に察知されるべきではありません」
「そうだよなぁ……。
いくら同盟国とはいえ、『テロ対策のためにお前たちの寝室まで覗いているぞ』とは言えんわな」
ウォーレンは、まるで自分の首を絞められているかのような苦しさを感じた。
すべてを見通す神の眼を持っているのに、それを行使すれば自分自身が破滅する。
日本がもたらしたオーバーテクノロジーは、常にこのような猛毒のジレンマを孕んでいる。
「まあ、これは絶対にバラせない。
我々は全能の神の視座に座りながら、彼らが嗅ぎ回るのを、ただ黙って見ていることしかできないのか」
ウォーレンはデスクの上のコーヒーを一気に飲み干し、苦々しい表情で結論を下した。
「ロシアの動きをただ注視するしかない。
彼らが日本の技術の核心にたどり着く前に、我々が影から少しずつ、絶対にバレないように糸を引いて妨害する。
……全く、骨の折れる綱渡りだ」
「それが、覇権を握り続けるための代償です、大統領」
ノア・マクドウェルがソファから立ち上がりながら、静かに言った。
その声には、人間たちの苦悩を見下ろすような冷酷な響きがあった。
「私が引き継ぎましょう。
大統領は表の選挙戦に専念してください。
キャサリン・ヘイズを次期大統領の椅子に座らせ、アメリカの正義の顔を世界に見せつけるのです。
……その裏で、ロシアの熊を踊らせ、中東の王族を縛り付ける汚れ仕事は、我々ディープステートが完璧にこなしてみせます」
ノアの青白い瞳が、モニターの光を受けて妖しく輝いた。
「日本という特異点が吐き出す『魔法』。
それをどう使いこなし、どう隠蔽するか。
……世界はまだ、このゲームの本当の恐ろしさを知らないのですから」
ウォーレンは、その若き怪物の言葉に深く頷いた。
アメリカ合衆国は、もはや後戻りのできない深淵へと足を踏み入れている。
日本の技術という絶対的な力に依存しながら、世界を欺き続ける狂気のパノプティコン。
窓の外では雷鳴がワシントンの空を引き裂いていた。
それは、これから始まるさらなる混沌と、隠しきれない真実の露呈を予感させる不吉な咆哮のように響き渡っていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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