第75話 紫禁城の狂宴と龍の脱皮
中華人民共和国北京。
かつての歴代皇帝たちが天下を睥睨した紫禁城の西側、中南海。
朱色の高い壁と瑠璃色の瓦に囲まれたこの広大な敷地は、現代中国における共産党指導部の中枢であり、14億の民を統べる巨大な脳髄である。
その中南海の奥深く、国賓を迎えるための豪奢な大広間『紫光閣』において、今夜は極めて特異な、そして狂気に満ちた祝宴が開かれていた。
普段であれば厳格な序列と格式によって張り詰めているはずの空気が、今夜ばかりは熱気を帯び、むせ返るような酒の匂いと歓喜のざわめきで満たされていた。
テーブルの上には、最高級のフカヒレや燕の巣、そして国酒である『茅台酒』が惜しげもなく並べられている。
集められたのは、国務院総理である李をはじめとする現役の最高指導部メンバーと、党の裏側から絶大な影響力を行使し続ける「長老」たちであった。
彼ら長老たちの多くは車椅子に座り、あるいは点滴の管を引きずりながら参加していた。
齢八十、九十を超え、権力の頂点を極めた彼らであったが、その肉体は確実に老いと病魔に蝕まれていた。
どんなに巨大な富も、どんなに強大な権力も、死の淵へと向かう彼らの肉体を引き留めることはできなかったはずだった。
だが、今夜の彼らの顔は赤く紅潮し、濁っていたはずの瞳はギラギラとした狂信的な光を放っていた。
「……乾杯だ!
偉大なる中華民族の新たなる夜明けに!」
車椅子に乗った最長老の一人が、震える手で茅台酒のグラスを高く掲げた。
その声は掠れていたが、歓喜のあまり上ずっていた。
「乾杯!!」
広間に集った権力者たちが一斉にグラスを打ち鳴らす。
彼らが祝っているのは、経済成長でもなければ軍事的な勝利でもない。
極東の島国から届いた、たった一つの「報せ」であった。
李総理が円卓の上座から静かに立ち上がった。
彼の表情には、歓喜に沸く長老たちとは対照的な、冷徹で計算高い為政者の色が残っている。
だが、その口から発せられる言葉は、この場の熱狂をさらに加速させるものであった。
「同志諸君。
改めて公式な報告を行おう」
李総理の声が響くと、広間は水を打ったように静まり返った。
長老たちもグラスを置き、食い入るように総理の顔を見つめる。
「我が国が先日、日本政府に対して水面下で提案していた『尖閣諸島周辺海域における領有権主張の完全凍結および実質的な権益の譲渡』。
……この我が国の『寛大なる譲歩』に対し、日本政府から正式な返答があった。
彼らは我が国の誠意を高く評価し、その『お礼』として我々が求めていたものを『貢物』として献上することが決定した」
おおおおおっ……!!
どよめきが地鳴りのように広がる。
「献上されるのは、アメリカにすら出し惜しみをしているという、あの『医療用キット(オリジナル)』だ。
劣化版のMK3ではない。
細胞を初期化し、失われた若さと絶対的な健康を取り戻すという神の領域のナノマシン。
……それがついに我が国に1個、引き渡されることが確定した!!」
ワアアアアアアッ!!!
割れんばかりの歓声が紫光閣を揺るがした。
車椅子から立ち上がろうとしてよろける老人。
涙を流して隣の幹部と抱き合う者。
アラーや仏ではなく、ただ『生』という絶対神にすがりついてきた権力者たちが狂喜乱舞していた。
日本から見れば、これは巧妙な外交取引であり、厄介な火種であった領土問題を薬一つで完全に解決した大勝利である。
だが、中華思想のフィルターを通した彼らの解釈は異なっていた。
「大国である中国が少し譲歩してやったことで、小国である日本が恐れおののき、至宝を貢いできた」という図式だ。
プライドを満たしつつ、実利も得る。
彼らにとって、これ以上ないシナリオであった。
「……だが、同志諸君。
喜ぶのはまだ早い」
李総理が片手を上げて歓声を制した。
「日本政府は、この『貢物』を献上するにあたり、二つの厳格な『条件』を提示してきている」
「条件だと?」
長老の一人が不快げに眉をひそめた。
「小日本が我々に条件をつけると言うのか?
偉大なる龍に対する貢物に注文をつけるとは生意気な。
……で、その条件とは何だ?
さらなる領土の割譲か?
それとも莫大な資金の要求か?」
「金や土地ではありません」
李総理は首を横に振った。
「第一の条件。
それは『医療用キットの譲渡に伴い、世界経済を混乱に陥れるような大規模な内乱や武力衝突を絶対に起こさないこと』」
総理の言葉に長老たちは顔を見合わせた。
日本は、たった1個の不老不死の薬が中国の指導部内で凄惨な殺し合いを引き起こすことを正確に予見しているのだ。
もし中国が内戦状態になれば、世界経済のサプライチェーンは崩壊し、日本も無傷では済まない。
だからこその釘刺しである。
「そして第二の条件。
……これは少し特殊です」
李総理は長老たちを一人一人見据えながら、ゆっくりと告げた。
「『医療用キットを使用した者は、その効果によって健康と若さを取り戻した直後、すべての公的な権力および党の要職から完全に引退すること』。
……これが絶対条件です」
シン……。
広間が静まり返った。
永遠の命を得る代わりに権力を捨てよ。
それは、これまで権力に執着し、死の床にあっても党を裏から操ってきた彼らにとって、受け入れがたい条件に思えた。
「……なるほどな」
だが、沈黙を破った最長老の声は怒りに震えてはいなかった。
むしろ腹の底から湧き上がるような、深く愉悦に満ちた笑い声を漏らしたのだ。
「ふふふ……ハハハハハ!
なるほど、よく考えたものだ。
小日本の官僚たちも、随分と悪知恵が働くようになった」
最長老はグラスの酒を一気に飲み干し、口元を拭った。
「彼らからしてみれば、我々のような老練な権力者が『不老不死』となって未来永劫にわたって中国に君臨し続けることなど、悪夢以外の何物でもあるまい。
ただでさえ巨大な龍が永遠の寿命を得て牙を研ぎ続ければ、いずれ世界を飲み込む。
……だからこそ『権力からの退場』を条件にしたのだ。
健全な新陳代謝を促すためにな」
「ふん。
生意気な条件だが、理には適っている」
別の長老もウッキウキとした表情で頷いた。
「我々に『権力を捨てろ』と言うのか。
……ふふふ、それだけで良いのか?」
「全くだ!
権力なぞ放り出したら健康になれると言うのなら、こんな椅子など喜んで放り出してやるわ!」
彼らの反応は、李総理の予想を覆すほどに前向きだった。
権力への執着。
それは確かに彼らを突き動かす原動力であった。
だが、それはあくまで「限られた命」の中での話だ。
毎日のように襲い来る内臓の激痛。
一歩歩くのにも他人の助けが必要な屈辱。
夜眠るたびに「明日の朝、目は覚めるだろうか」と怯える恐怖。
その地獄から解放され、再び20代の強靭な肉体と絶倫な活力が手に入るのであれば、肩書きや政治的影響力など安い代償だったのだ。
引退したところで彼らが蓄えた巨万の個人資産が消えるわけではない。
若返った肉体で世界中の美女を侍らせ、永遠のバカンスを楽しむことができる。
それこそが彼らにとっての真の天国であった。
「……というわけだ、李総理」
最長老がギラギラとした目で李総理を見た。
「我々は日本の条件を飲む。
誰が使おうとも、使った者はただちに党の中枢から身を引き、表舞台から姿を消すことを約束しよう。
日本政府もそれで安心するはずだ」
「承知いたしました」
李総理は恭しく頭を下げた。
彼自身にとっても、口うるさい長老たちが「薬」と引き換えに自ら権力の座を降りてくれるのは願ってもない好都合であった。
党内の世代交代が一気に進み、自らの権力基盤がより強固になるからだ。
「では問題は……その『たった1個の薬』を、長老たちのどなたが使うかということになりますが」
李総理が、あえて火種を投下する。
広間の空気が一瞬にして冷たく、そして鋭く研ぎ澄まされた。
車椅子に座る老人たちが、互いを牽制するようにギロリと視線を交錯させる。
先ほどまでの友好的な祝宴の空気は吹き飛び、血で血を洗う権力闘争のゴングが鳴った瞬間だった。
「ふむ……。
もちろん、党への貢献度で言えば、この私が最も相応しいはずだがな。
鄧小平同志と共に改革開放を推し進めたこの私の功績を忘れた者は、ここにはおるまい?」
「何を言うか。
あの天安門の危機を乗り越え、軍を掌握して党を守り抜いたのは私だ。
今こそその報いを受けるべき時だ」
「笑わせるな。
貴様は先日、心筋梗塞で倒れかかったばかりではないか。
貴重な薬をいつ死ぬか分からん者に使うのはリスクが高すぎる。
ここはまだ辛うじて歩ける私が……」
醜い言い争いが始まる。
それは14億の頂点に立つ者たちとは思えないほど、生々しく、そして浅ましい「命の奪い合い」であった。
「……長老の皆様」
李総理が冷ややかな声で割って入った。
「どうやって決めるかは、長老の皆様方の協議にお任せいたします。
私は口出しいたしません」
李総理は、日本の日下部参事官から受けた「忠告」を思い出しながら、鋭く釘を刺した。
「ですが、日本の条件を忘れないでください。
『世界経済を乱すほどの内乱は起こさない』ことです。
……もしこの薬を巡って派閥間で軍隊を動かしたり、あからさまな暗殺劇を繰り広げたりして、国家の機能が麻痺するような事態になれば、日本は二度と我々に薬を渡さないでしょう」
「……分かっておるわ」
最長老が不快げに舌打ちをした。
「内乱はまずい。
日本に付け入る隙を与え、アメリカに漁夫の利を得させるだけだ。
我々もそこまで愚かではない。
……あくまで『健全な権力闘争』といこうではないか。
血を流さず、知略と根回しで勝者を決める。
我々が何十年もやってきたことだ」
健全な権力闘争。
その言葉の裏で、どれだけの裏金が飛び交い、どれだけの汚職の証拠が握り潰され、どれだけの側近が「不慮の事故」に見せかけて社会から抹殺されるのか。
表には出ない、静かで凄惨な殺し合いが始まることを、ここにいる全員が理解していた。
だが、それでも彼らはウッキウキだった。
死の恐怖に怯えていた日々に比べれば、目的のある闘争など極上のエンターテインメントでしかない。
「内乱にならない程度にしてくださいよ?」
「ふふふ、案ずるな李総理。
我々の手腕を信じるがいい」
長老たちは、まるで若者のように目を輝かせ、誰を蹴落として自分が薬を手に入れるかの計算を始めていた。
だが、その熱狂の中で、国家安全部の張部長が冷静な視点で新たな可能性を提示した。
「……皆様。
一つ、よろしいでしょうか」
張部長が円卓の中央に進み出た。
「今回、我々は尖閣諸島というカードを切ることで、見事に日本から『1個』のオリジナルキットを引き出すことに成功しました。
……これはつまり、日本政府には『等価交換に応じる意志がある』という何よりの証拠です」
「それがどうした?」
「簡単なことです」
張部長はニヤリと笑った。
「1個貰えるということは、適切な対価さえ支払えば、2個目、3個目が貰えるかもしれないということではありませんか?」
ハッと長老たちが息を呑む。
そうだ。
1個しかないから奪い合いになるのだ。
2個、3個と手に入れば、自分にも順番が回ってくる可能性が劇的に跳ね上がる。
「しかし、張部長」
外交部の王が困惑したように首を傾げた。
「我々はすでに最大の譲歩カードであった『尖閣諸島の完全譲渡』を切ってしまった。
日本が喉から手が出るほど欲しがっていた領土問題を解決してやったのだ。
……次は何を出す?
彼らを満足させるような取引材料として、我々に残されているカードはもうないのではないか?」
「確かに、領土問題というカードは強力でした。
ですが、我々にはまだ提供できるものがあるはずです」
王は考え込んだ。
「例えば……国内に進出している日本企業への圧倒的な優遇措置の適用、とかでしょうか?
税の免除、レアメタルの一方的な供給、あるいは日本の外交官に対する特権的な法的保護の付与……。
日本が経済的、外交的に中国国内で完全に自由な活動ができるようにするという条件ならどうだ?」
「甘いな」
劉将軍が鼻で笑った。
「そんなセコい経済的優遇で、あの神の薬をホイホイと出すような連中ではない。
日本はすでに無尽蔵の資源を手に入れ、独自に核開発にまで手を出している。
我々の市場や金など、彼らにとっては『あれば便利だが、なくても困らない』程度のものだ」
「では、どうすれば……」
張部長がゆっくりと、そして極めて危険な言葉を口にした。
「……『台湾』を材料にするのではどうでしょう?」
シン……。
紫光閣の空気が完全に凍りついた。
誰もが耳を疑い、張部長の顔を凝視した。
台湾。
中華人民共和国にとって、それは単なる領土ではない。
国家の根幹に関わる「絶対的な核心的利益」であり、建国以来の悲願であり、それを手放すことは共産党の正当性そのものを否定することに他ならない。
「……張部長。
貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
李総理の声が震えていた。
怒りではない。
その発想の恐ろしさに対する戦慄だ。
「台湾は独立したがっている。
そして、アメリカと日本は、その台湾の民主主義を守るという名目で常に我々を牽制してきた。
……ならば、いっそのこと我々の方から『台湾の独立を容認し、武力統一を完全に放棄する』と宣言したらどうなりますか?」
張部長の目は、狂気と合理性が入り混じった異様な光を放っていた。
「台湾問題から完全に手を引く。
これは、アメリカと日本にとって東アジアの安全保障上の最大の喉の骨が取れることを意味します。
彼らは狂喜乱舞するでしょう。
これほどの歴史的譲歩を示せば、日本も『あと2個』くらいは喜んで医療用キットをくれるのではないですか?」
誰も何も言えなかった。
祖国統一の悲願。
そのイデオロギーすらも、彼らの「永遠の命」への渇望の前では、単なる『交渉のチップ』に成り下がろうとしているのだ。
「……馬鹿な。
国内の反発がある、では済まされんぞ」
劉将軍が呻くように言った。
軍のトップとして台湾侵攻を目標に軍備を増強してきた彼にとって、その目標を捨てることは軍部の解体を意味する。
「14億の人民が暴動を起こす。
党内の保守派が黙っていない。
台湾を手放せば、我々は国賊として歴史に名を刻まれることになるぞ!」
「反発は起きるでしょう。
ですが、抑え込めます」
張部長は自信に満ちた声で断言した。
「我々には、日本から導入したあの『位相空間レーダー網』があるではありませんか。
あのシステムを使えば、国内で反乱を企てる分子の動きは、密室の会話からネットの書き込みの向こう側まで、全て事前に把握できます。
暴動が起きる前に主犯格をピンポイントで摘発し、排除すればいい。
情報統制と恐怖政治。
この二つが日本の技術によって『完璧な形』で実現できるのです。
……民衆の反発など、もはや恐れるに足りません」
日本の提供した監視システムが、中国の指導部から「国民の反発」というストッパーを完全に奪い去っていた。
全てを見通せる眼があるからこそ、彼らはどんな暴挙にも踏み切れるという万能感に酔いしれているのだ。
「……確かに。
台湾を渡す(独立を認める)となれば、反発は凄まじいだろうな。
だが、あの監視網があれば……力で捻じ伏せることは可能か」
最長老が顎を撫でながらポツリと漏らした。
その言葉は、彼らが「台湾カード」を本気で検討し始めたことを意味していた。
領土よりもイデオロギーよりも、自らの肉体の永続。
日本の生み出した劇薬は、巨大な共産党国家の屋台骨を内側から確実に腐らせていた。
「……今のうちに台湾のトップと水面下で打ち合わせが必要か?
『平和的な分離独立』を演出するためのシナリオを練らねばならん」
李総理が、ついに具体的な行動への言及を口にした。
「日本政府の担当者……あの日下部という男の好みを考えれば、派手な独立宣言よりも、徐々にフェードアウトしていくような美しい政治的解決を好むはずだ。
……王書記官に指示を出せ。
日本に対し『我々はさらなる大きな決断をする用意がある』と匂わせておくのだ」
「承知いたしました」
紫光閣の狂宴は、もはや後戻りのできない深淵へと転がり落ちていた。
長老たちは、まだ見ぬ2個目、3個目の薬を幻視し、ウッキウキとした足取りで中国という国家の解体作業に向けた暗躍を開始する。
日本の『薬』と『眼』。
たった二つの技術が世界のパワーバランスを根底から破壊し、大国のイデオロギーを紙屑へと変えていく。
東京の地下で日下部が胃薬を飲みながら引いたシナリオ通りに、いや、それ以上の狂気を孕んで、赤い龍は自らの鱗を剥ぎ取り、醜くも滑稽な脱皮を遂げようとしていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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