第72話 熱砂の巨富と悪魔の取引
東京都港区。
虎ノ門に聳え立つ超高級ホテルの最上階、ワンフロアを完全に貸し切ったプレジデンシャル・スイートは、中東の砂漠からやってきた絶対的な権力者たちを迎えるために、厳重なセキュリティと豪奢な調度品で彩られていた。
ペルシャ絨毯が敷き詰められた広大なリビングルームの窓からは、東京タワーや国会議事堂、そして東京湾の夜景が宝石箱のように煌めいている。
だが、この部屋に集う者たちの関心は、眼下の美しい夜景には全く向けられていなかった。
部屋の奥、重厚なマホガニーのテーブルを挟んで対峙しているのは、二つの異なる「力」の象徴だった。
一方は、中東屈指の産油国を実質的に統治する若き指導者、アブドゥル・アル・ラシード皇太子。
真っ白なトーブに身を包み、頭には金の刺繍が施されたクフィーヤを纏う彼は、世界最大級の政府系ファンドを動かし、数十兆円のオイルマネーを指先一つで左右する絶対君主である。
彼の背後には、鋭い眼光を放つ護衛たちと、経済担当の大臣たちが恭しく控えていた。
彼らが極秘裏に日本を訪れた理由は、ただ一つ。
連日世界を騒がせている日本の「次世代エネルギー技術」の正体を探り、そしてその利権をいち早く金で買い叩くためである。
彼らにとって、化石燃料の時代が終わることは、一族の権力基盤が砂と化すことを意味していた。
そしてもう一方、彼らを迎え撃つ日本側の代表は、経済産業大臣と内閣官房参事官の日下部であった。
経産大臣が表向きの外交儀礼をこなす一方で、実質的な交渉の主導権を握っているのは日下部だ。
彼は仕立ての良い、しかし目立たないグレーのスーツを着こなし、いつものように感情の読めない穏やかな微笑みを浮かべている。
「アブドゥル皇太子殿下。
本日は長旅の疲れも癒えぬ中、こうしてお時間をいただき、お目にかかれて大変光栄に存じます」
日下部が流暢な英語で挨拶を述べると、皇太子は鷹揚に頷いた。
「外交辞令は抜きにしよう、ミスター・クサカベ。
我々はビジネスマンとしてここに来ている。
時間は金よりも重いのだ」
皇太子の声には、砂漠の王族特有の傲岸不遜さと、隠しきれない焦燥感が入り混じっていた。
「今日の議題は『次世代エネルギー』ということだが、我々は単に話を聞きに来たのではない。
日本の『次世代核エネルギー』および『深海からの無尽蔵なレアメタル採掘』。
世界中の市場が貴国の発表に踊らされ、原油価格は乱高下を続けている。
我が国としても、この事態を静観しているわけにはいかない」
皇太子は身を乗り出し、日下部の目を真っ直ぐに見据えた。
「単刀直入に言おう。
我々は、日本の新エネルギー技術開発に全面的な投資を行いたい。
数兆円、いや数十兆円規模のファンドを用意している。
見返りとして、その技術の共有と、将来的な中東地域への優先導入を確約していただきたい。
……日本にとっても、これほどの巨額の資本投下は魅力的なはずだ。
悪い話ではあるまい?」
圧倒的な資金力を背景にした力技の交渉。
通常の国家であれば、この白紙の小切手とも言える申し出に飛びつき、平身低頭して契約書にサインするだろう。
石油の呪縛から逃れつつあるとはいえ、国家運営には莫大な現金が必要だからだ。
だが、日下部は表情をピクリとも変えなかった。
彼は手元にあった緑茶の湯呑みをゆっくりと持ち上げ、一口啜ってから、静かに口を開いた。
「殿下。
貴国の寛大なるご提案、心より感謝申し上げます。
……しかし、今日の議題である『次世代エネルギー』について具体的なお話を進める前に、まず殿下に一つ、ご理解いただきたいことがあるのです」
「理解だと?」
皇太子が怪訝そうに眉をひそめた。
「はい。
我々日本国が、現在どのような『次元』に到達しているのか。
その前提を共有していただかなければ、恐らくこの後の交渉は噛み合わないでしょう」
「……次元だと?
何を言っているのか、よく分からないな」
皇太子は不快げに鼻を鳴らした。
エネルギーの技術的ブレイクスルーを果たしたからといって、自惚れるなと言わんばかりの態度だ。
彼に随行する大臣たちも、日下部の回りくどい物言いに露骨な苛立ちを見せている。
金を出してやると言っているのに、なぜすぐに飛びつかないのか。
彼らの常識では、オイルマネーの前にひれ伏さない国家など存在しなかったのだから。
「言葉で説明するよりも、ご覧いただいた方が早いでしょう」
日下部はそう言うと、手元のタブレットを操作した。
部屋の照明がゆっくりと落とされ、壁面に設置された大型の有機ELディスプレイに、ある映像が投影され始めた。
「まず、この映像をどうぞ。
これは我が国が極秘裏に行っている、ある『基礎研究』の臨床データです」
スクリーンに映し出されたのは、無機質な医療施設のベッドだった。
そこに横たわっているのは、不慮の事故で右腕の肘から先を完全に失い、血まみれになっている男の姿だ。
切断面からは生々しい骨と肉が露出し、男は激痛に顔を歪めて絶叫している。
「……なんだこれは。
我々にグロテスクな医療現場を見せて、どうしようというのだ?」
皇太子が顔をしかめた、その時。
映像の中の医師が一本の銀色に輝くインジェクターを取り出し、男の首筋に謎の液体――エメラルドグリーンに発光するナノマシン溶液――を投与した。
直後、画面の中で「奇跡」が起きた。
男の切断された腕の断面から、白い蒸気のようなものが立ち昇り始めたかと思うと、その中から真っ白な骨格が、まるで植物の芽が伸びるかのような異常な速度で形成されていく。
それに絡みつくように筋肉の繊維が編み上げられ、血管が脈打ちながら伸び、最後に新しい皮膚がそれを覆い隠していく。
所要時間、わずか1分。
男の腕は、指の先、爪の一枚に至るまで、完全に「再生」していた。
「なっ……!?」
皇太子は息を呑み、ソファの背もたれから弾かれたように身を乗り出した。
彼の瞳孔は極限まで見開き、口は半開きになったまま硬直している。
背後に控えていた中東の重鎮たちも、アラーの名を口走りながら、信じられないものを見る目でスクリーンを凝視していた。
映像は、それだけでは終わらない。
次は、全身のあらゆる臓器に癌が転移し、骨と皮だけになって死を待つばかりの老人が映し出された。
同じエメラルドグリーンの液体が投与されると、老人の体内の腫瘍がサーモグラフィー上で次々と消滅していく。
それだけでなく、痩せこけていた肉体に弾力が戻り活力が見える。
数分後、ベッドの上に座っていたのは、死にかけの老人ではなく、20代の全盛期の肉体を取り戻した屈強な老人だった。
「……アッラー・アクバル……」
護衛の一人が、思わず祈りの言葉を漏らして膝をついた。
それは特撮映画でもCGでもない。
現実の物理法則を根本から破壊する、神の領域の顕現であった。
「……理解していただけましたかな?」
日下部が再び室内の照明を点灯させながら、静寂を破った。
彼の声は、冷徹な死神のように部屋の空気を支配していた。
「日本のナノマシン・テクノロジーは、すでにここまで進歩しております。
我々は、エネルギーの次元を突破しただけではありません。
生命そのものの構造を再設計し、老いと死を克服する技術を、実用化のレベルで掌握しているのです」
皇太子は震える手で、額に浮かんだ脂汗を拭った。
彼の頭脳は、今見た光景の持つ意味を、必死に処理しようとフル回転していた。
もしこれが本物なら。もしこの技術が実在するなら。
石油の利権など、取るに足らない砂粒に等しい。
権力者が、王族が、歴史上のあらゆる絶対君主たちが、国家を傾けてでも追い求めてきた究極の至宝――不老不死。
それが今、極東の島国の官僚の手のひらの上にあるのだ。
「……ミスター・クサカベ」
皇太子の声は、先ほどまでの傲慢さが完全に消え失せ、震えと熱に浮かされたような渇望に満ちていた。
「それを……その奇跡の薬を、ぜひ買いたい!!!」
皇太子は立ち上がり、テーブルに両手をついて身を乗り出した。
彼の目には、理性を焼き切るほどの強烈な欲望が渦巻いている。
「いくらだ!?
いくら出せば、それを譲ってくれる!?
500億ドルか!? 700億ドルか!? 800億ドルか!?
……それとも1000億ドル(約15兆円)か!!?」
金額が天文学的な数字へと跳ね上がっていく。
国家の年間予算に匹敵するような巨額の富を、彼は躊躇なく一人の人間の命、あるいは一族の永遠の繁栄のために投げ出そうとしていた。
オイルマネーの真の恐ろしさ。
彼らは、必要なものがあれば市場ごと買い占めるだけの力を持っている。
「ともかく我々に買わせてくれ!!!
要求する額はすべて支払おう!
サウジの油田の権益でも、政府系ファンドの全資産でも、なんだって構わない!
我が父である国王陛下はご病気で苦しんでおられるのだ。
この薬さえあれば、父上を……いや、我々一族を永遠の繁栄へと導くことができる!」
興奮の絶頂に達し、唾を飛ばさんばかりに迫る皇太子に対し、日下部はどこまでも冷ややかだった。
「少しお待ちを、殿下。
落ち着いてください」
日下部は、手で軽く制するような仕草を見せた。
その冷たい態度に、皇太子はハッとして動きを止めた。
「金額の問題ではありません。
これは、金を出せばスーパーマーケットで買えるような代物ではないのです。
この『医療用キット』は、製造プロセスにおいて極めて特殊な希少資源と天文学的なエネルギーを消費するため、在庫に厳格な限りがある『戦略物資』なのです」
日下部は、テラ・ノヴァの工場で工藤創一がバイオマターを量産し始めているという事実を完璧に隠蔽し、徹底的な希少価値を演出した。
「我々は最も緊密な同盟国であるアメリカ合衆国に対しても、この薬を融通しております。
しかし……それでも彼らに渡したのは『10個にも満たない数』に過ぎません」
「ア、アメリカという同盟国にすら、それだけしか渡していないと……?」
「ええ。
アメリカという超大国、我々の最大の同盟国であっても、その程度の数しか用意できないのです。
大統領ご自身も、追加の要請をなさるのに大変な苦労をされているほどです」
日下部はアメリカの威光を巧みに利用して、この薬のハードルの高さを強調した。
アメリカ大統領すら頭を下げる薬。
それがどれほど特別なものであるか、皇太子は肌で感じ取った。
「ですから、殿下がどれほど巨額のオイルマネーをご提示されようとも、すぐに販売できるとは限らない代物なのです。
我々としても、誰に、いつ、どれだけ渡すかは、国家の命運を懸けた極めて慎重な判断が必要になります」
「…………」
皇太子は大きく生唾を飲み込んだ。
絶対的な富の力が通じない壁。
これまでの彼の人生において、金で買えないものなど存在しなかった。
だが今、目の前に座る日本の官僚は、世界中の富を集めても開かない扉の鍵を握っている。
「……だが」
皇太子は、すがるような視線で日下部を見た。
「貴方は私にこの映像を見せた。
見せたからには、我々に売るつもりがあるということではないのか?
意味もなく、このような国家機密を披露するはずがない」
さすがは一国の未来を担う指導者だ。
欲望に狂いながらも、政治的な嗅覚は失っていない。
日下部は満足げに微笑んだ。
「ご理解いただけて何よりです。
ええ、もちろん交渉の余地はあります」
日下部は再び湯呑みを手に取り、静かに言った。
「正直に申し上げますと、我々は中東の『原油』そのものには、もはやそれほど惹かれておりません。
先日の発表の通り、我々には化石燃料を完全に代替できる次世代エネルギーのテクノロジーがありますし、資源のリサイクル技術も確立しています。
つまり日本は、『石油に依存しない国家』へと変貌を遂げつつあるのです」
「……そ、そりゃあ、それほどのナノマシンが作れる技術力があれば、石油なんて旧時代の燃料は不要になるということか……?」
皇太子が顔面を蒼白にさせた。
日下部の言葉は、テラ・ノヴァで工藤が「無尽蔵の原油」を掘り出しているから中東の石油が不要になったという事実を巧妙に隠し、「ナノマシン技術の応用でエネルギー問題を解決した」と誤認させるものだった。
だが、どちらにせよ中東にとって「日本が石油を買わなくなる」という結論は同じであり、それは致命的な経済的打撃を意味する。
「……それでも。
なんとかならないか?」
皇太子は、もはや買い手としての強気な態度は完全に崩れ去り、懇願するような声になっていた。
日本の新技術に置いていかれれば、自分たちの国は終わる。
そして何より、目の前にある「永遠の命」を手に入れなければならない。
そのためなら、日本に隷属することすら厭わないという覚悟が、その態度に表れていた。
日下部は心の中で完璧な勝利を確信し、ゆっくりと頷いた。
「ええ、もちろん。
我々も古くからの良き友人である中東諸国を見捨てるつもりは毛頭ありません。
この『医療用キット』につきましても、VVIP(超重要人物)向けの特別サービスとして、極秘裏に販売するルートを設ける予定はありますよ」
「おお……!!」
「ただし、それは単なる金銭のやり取りではありません」
日下部の声が、一段と低く重みを増した。
「まずは日本のこのテクノロジーの威力を、殿下の口から本国の中枢へとお伝えいただけると嬉しいですね。
日本は今、世界中の様々な国から『過剰な注目』を浴び、不当な圧力を受けかねない立場にあります。
我々が安心して研究と開発を続けられるよう、貴国の持つ国際的なネットワークと政治力を駆使して、日本の防波堤となっていただきたい」
「……防波堤か」
「はい。
日本が国際社会で行動を起こす際、常に強力な支持国として振る舞っていただく。
我々の技術を非難する国があれば、オイルマネーの力でそれを黙らせる。
……そうした『誠意』を見せていただけるのであれば、今後のお付き合いの深さに応じて、あのキットの供給枠を貴国のために用意することも、決して不可能ではありません」
日下部の提案は、明確な「従属の要求」だった。
莫大な富を持つ中東の王族を、日本のパトロンであり、都合の良いATMであり、そして国際社会における強力なロビイストとして取り込む。
その対価が、数本の注射器である。
皇太子は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
選択の余地などなかった。
神の奇跡を目の前にぶら下げられて、それに背を向けることなど、人間の欲望には不可能なのだ。
「……分かった」
皇太子が目を開けた時、そこには絶対的な服従を受け入れた者の、しかしどこか安堵したような光があった。
「本国の国王陛下には私から直接進言しよう。
日本国の圧倒的な技術力と、我々が結ぶべき新たなる同盟の形について。
中東の富と影響力は、全て日本の技術発展と安全保障のために使われることになるだろう。
……だからどうか。
その薬を我々のために残しておいてくれ」
「賢明なご判断に感謝いたします、殿下。
日本の技術は、必ずや貴国の繁栄と健康をお約束するでしょう」
日下部は深々と一礼した。
会談が終わり、中東の王族たちが嵐のように去っていった後、プレジデンシャル・スイートには再び静寂が戻った。
経産大臣がネクタイを緩めながら、大きく息を吐き出した。
「……恐ろしいものだな。
あの傲慢なオイルダラーの化身が、最後はすがりつくような目で懇願してきたぞ。
1000億ドル……日本の国家予算の何分の一だ?
それをポンと出すと言い切るとは」
「彼らにとって、命は何よりも重い投資対象ですからね」
日下部は冷めた緑茶を飲み干した。
「これで中東の資金力と政治的発言力は、完全に我々のコントロール下に置かれました。
アメリカ、中国に続き、中東の王族までが日本の『薬』の虜になった。
……彼らはもう、我々の技術なしでは世界を描けません」
「しかし日下部くん。
彼らに『アメリカにも10個も渡していない』と言ったのは本当か?
確か最近、追加で……」
「ええ、少し前に3個追加で渡しましたから、合計で8個ですね。
10個未満というのは嘘ではありません。
それに、数が少ない方が彼らの飢餓感を煽れますから」
日下部は事もなげに言った。
嘘と真実を巧妙に織り交ぜ、世界の権力者たちを恐怖と欲望の糸で操る。
それが彼の、日本の生き残るための戦い方だった。
「さて、資金と政治的な防波堤の確保は完了しました。
……問題は、この稼いだ時間を現地の彼がどう使うかですが」
日下部は窓の外の夜空を見上げた。
東京の曇り空の向こう、次元の彼方にあるテラ・ノヴァ。
そこでは今頃、工藤創一が無尽蔵のエネルギーを使ってロケットの打ち上げ準備を進めているはずだ。
地球の権力者たちが注射器一本に狂奔している間に、あの超天才は宇宙という新たな領域に、どんな狂気を描き出すつもりなのか。
「……胃薬の追加、本気で頼んでおこう」
日下部の呟きは、東京の夜景に吸い込まれて消えた。
世界の中心軸は、もはやワシントンでも北京でもなく、極東の島国から繋がる未知の惑星へと、完全に移行しつつあった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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