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第6話 パンドラの箱はチルド便で届く

 東京都新宿区戸山。

 国立感染症研究所。

 ここは日本国内における感染症対策の最後の砦であり、未知のウイルスや細菌に対する研究・解析を行う最高機関だ。

 厳重なセキュリティゲートの奥、無機質な廊下が続く研究棟の一室は、常に張り詰めた緊張感と、微かな消毒液の匂い、そして空調システムの低い唸り声に支配されている。


 午後二時過ぎ。

 ウイルス第二部・主任研究員の真田さなだは、デスクに積み上がった書類の山と格闘していた。

 新型インフルエンザの変異株に関する報告書、来年度の予算申請、そして終わりの見えない倫理委員会の議事録。

 科学者としての探究心は燃え尽きていないが、行政機関特有の煩雑な事務作業と、失敗の許されないプレッシャーは、彼の精神を確実に摩耗させていた。


「……はあ。コーヒーでも淹れるか」


 彼が重い腰を上げかけた時、研究室のドアが控えめにノックされた。

 入ってきたのは若手の研究員である松島だ。

 彼は手元に、見慣れない段ボール箱を抱えている。


「真田主任、ちょっといいですか?」

「どうした、松島くん。また検体の配送ミスか? 厚労省からの急ぎなら、先に書類を回せと言ったはずだが」

「いえ、それが……正規ルートじゃなくて、一般の宅配便で届きまして」


 松島は困惑した表情で、その箱をデスクの上に置いた。

 スーパーで貰ってきたような、ありふれた再利用段ボールだ。

 ガムテープで厳重に、しかし素人くさく梱包されている。

 伝票を見る。


「……『匿名配送』?」

「ええ。コンビニからの発送です。品名は『精密機器(模型)』となってますが、X線検査を通したところ、中身は液体入りのシリンダーと、機械部品のようなものでした。爆発物反応はありません」

「模型……? 誰かの悪戯か、それとも陰謀論者の嫌がらせか」


 研究所には時折、奇妙なものが送りつけられてくる。

 未知のウイルスを発見したと主張する怪文書や、謎の白い粉末(大抵は小麦粉か砂糖だ)。

 そのたびに現場は対応に追われる。

 真田は溜め息をつきながら、デスクの引き出しからカッターナイフを取り出した。


「まあいい。爆発物じゃないなら開けてみよう。どうせまた、変な宗教団体の勧誘ビデオか何かだろう」

「ですね。一応、手袋をしておきます」


 ガムテープを切る音が、静かな部屋に響く。

 箱を開けると、丸められた新聞紙が緩衝材として詰められていた。

 その奥に、異質な輝きを放つ物体が鎮座している。


「……なんだ、これ?」


 真田の手が止まった。

 それは金属とガラスで構成された、太い注射器のようなデバイスだった。

 だが質感が違う。

 ステンレスでもチタンでもない、見たこともない合金の光沢。

 継ぎ目が見当たらない滑らかな曲線。

 そして何より目を引くのは、その内部に満たされたエメラルドグリーンの液体だ。

 LED照明など入っていないはずなのに、その液体自体が微かに発光しているように見える。


「綺麗ですね……。これ、本当に模型ですか?」

「いや、作りが精巧すぎる。……おい、手紙が入ってるぞ」


 真田は箱の底にあった、折り畳まれたレポート用紙を取り上げた。

 ワープロ打ちされた無機質な文字。


『拝啓 突然の送付失礼いたします。

 私は先日、山中で不思議な物体を拾いました。

 興味本位で怪我をしていた野良猫に使ってみたところ、信じられないことに骨折が一瞬で治りました。

 怖くなり、手元に置いておくのが恐ろしくなりましたが、捨てるにはあまりに惜しいと思い、専門機関である貴研究所にお送りします。

 どうか分析をお願いします。

 これは人類の役に立つものかもしれません。

                               一市民より』


「…………」


 読み終えた真田と松島は、顔を見合わせた。

 数秒の沈黙の後、松島が吹き出した。


「ぶっははは! なんですか、これ! 『骨折が一瞬で治りました』って、漫画じゃないんですから!」

「……山で拾ったねえ。UFOの落とし物か何かか?」

「いやー、凝った悪戯ですね。このデバイス、3Dプリンターで作ったんでしょうか。液体は……入浴剤かスライムですかね?」


 松島は笑っていたが、真田の目は笑っていなかった。

 彼はそのデバイス——『医療用キット』を手に取り、しげしげと観察した。

 重い。中身が詰まっている感覚。

 そして手袋越しにも、わずかに感じる「温かみ」。

 これは、生きている?


「松島くん。これ、分析に回そう」

「えっ? 本気ですか、主任。こんなの、ただの色水ですよ」

「ああ、多分な。だが、もしこれが未知の毒物や新種のドラッグだった場合、放置するのはまずい。それに……」


 真田は言葉を濁した。

 長年の経験が警鐘を鳴らしている。

 この物体は、あまりにも「完成されすぎている」。

 個人の工作レベルを遥かに超えているのだ。


「……所内規定第108条。

 『成分不明かつ非爆発性の検体に限り、公衆衛生上のリスク排除を目的とした緊急性の高い生物学的アッセイを認める』。

 ……これを適用しよう」

「108条って緊急措置用の……。主任、そこまでしますか?」

「直感だが、嫌な予感がするんだ。正規の手続きを踏んでいたら、一ヶ月はかかる。今すぐ、白黒はっきりさせたい」


 真田の真剣な眼差しに、松島も笑いを引っ込めた。


「分かりました。……並行して、動物実験も?」

「ああ。ちょうど先日の実験で脚を負傷した個体(ラットNo.402)がいるだろう。あれを使おう。廃棄予定だったが、最後に役に立ってもらう」

「了解です。……まあ、どうなっても知りませんよ?」


 松島は呆れながらもデバイスを持って、実験室へと向かった。

 真田はその後ろ姿を見送りながら、なぜか背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。

 パンドラの箱を開けようとしている。そんな予感がした。


 三十分後。第4実験室。

 ガラス越しの観察エリアに、真田と松島、そして興味本位で集まった数名の研究員が立っていた。

 防護服(PPE)を着た松島が、バイオセーフティキャビネットの中で作業を行っている。


 ケージの中には白いラットが一匹。

 右後ろ脚に包帯が巻かれている。

 複雑骨折により、本来なら安楽死処置を待つ状態の個体だ。

 ぐったりとして動かない。


「では、緊急アッセイ手順に従い、謎の液体『検体X』の投与実験を行います」


 松島がマイク越しに報告する。

 彼はデバイスの先端を、ラットの皮膚に当てた。

 針はない。圧搾空気か何かで浸透させるタイプらしい。


「トリガー引きます。……3、2、1」


 プシュッ。

 微かな音がして、エメラルドグリーンの液体がラットの体内に注入された。


「注入完了。……反応を見ます」


 最初の数秒、変化はなかった。

 ギャラリーの研究員たちが「なんだ、やっぱり詐欺か」「水だよ、水」と軽口を叩き始めた、その時だった。


 ビクンッ!


 瀕死だったはずのラットが、激しく痙攣した。


「おい、ショック症状か!?」

「いえ、違います! 見てください、脚を!」


 松島の叫び声に、全員の視線が一点に集中する。

 モニター越しに拡大された映像。

 包帯の下。折れ曲がっていたはずのラットの脚が、あり得ない動きを見せていた。

 皮膚の下で何かが蠢いている。

 骨が自ら正しい位置に戻り、筋肉が編み上げられ、血管が再接続されていく——そのプロセスが、早回しの映像のように展開されていた。


 ボキッ、ググッ……


 生理的な嫌悪感を催すような音と共に、脚が真っ直ぐに伸びた。

 そして次の瞬間。


 チュウ!


 ラットは弾かれたように起き上がり、ケージの中を猛スピードで走り回った。

 右脚を引きずる様子はない。

 それどころか、毛並みが艶やかになり、実験前よりも遥かに生命力に溢れているように見えた。


「…………は?」


 実験室が静まり返った。

 誰かが持っていたボールペンを落とす音が、乾いた銃声のように響いた。


「嘘だろ……。粉砕骨折だったんだぞ……?」

「おい、今の映像、録画してるか!?」

「再生しろ! スローだ!」

「体温上昇がほとんどない……代謝熱が出ていない?」


 真田はガラスに張り付き、目の前の光景を凝視した。

 あり得ない。

 生物学的常識が、音を立てて崩れ去っていく。

 細胞分裂の限界速度を遥かに超えている。

 エネルギー保存の法則はどうなっている?

 熱量は?

 代謝産物は?


 その時、分析室にいた別の研究員から、内線電話が鳴り響いた。

 真田は震える手で受話器を取った。


「……はい、真田だ」

『し、主任! 成分分析の結果が出ました! これ、ヤバいです!』

「落ち着け。何が出た。新種のステロイドか?」

『違います! 化学成分は……基本的にはアミノ酸とブドウ糖、それに魚由来のタンパク質です。ですが問題はそこじゃありません!』


 電話の向こうの研究員が、悲鳴に近い声を上げる。


『液体の中に、極小の構造物が無数に含まれています!

 電子顕微鏡で見ないと分からないレベルですが……こいつら、動いてます! 意思を持って!』

「……なんだと?」

『ナノマシンです!

 それも現在の人類科学の数十年、いや数百年先を行く、オーバーテクノロジーの産物です!

 こいつらが細胞を物理的に修復してるんです!

 自己集合してる。しかも隊列を組んでる!』


 受話器を取り落としそうになった。

 ナノマシン。

 SF映画の絵空事。理論上は可能でも、実用化には程遠い夢の技術。

 それがコンビニの宅急便で届いた?


「馬鹿な……」


 真田は呟いた。

 目の前では元気になったラットが、回し車を爆走している。

 電話の向こうでは分析担当者がパニックを起こしている。

 これは夢か? 集団幻覚か?


 ——いや、現実だ。

 だとしたら、今ここで起きていることは「科学の敗北」ではない。

 「未知との遭遇」だ。

 真田の脳裏に最悪のシナリオがよぎる。

 もしこのナノマシンが制御を失ったら?

 あるいは特定のDNAを攻撃するようにプログラムされていたら?


「……総員、作業中止!」


 真田は叫んだ。

 その声は裏返っていたが、指示は明確だった。


「検体を直ちに隔離!

 実験室を『最高度封じ込め区画』に指定する!

 ラットもだ! 一切の持ち出しを禁ずる!」

「し、主任? 封じ込めって、所内の最高封じ込め手順(封鎖プロトコルA)ですか?」

「違う。 未知の自己駆動ナノ構造体だ。感染症じゃなくても“最高度封鎖”で扱う。

 外部搬出ゼロ。アクセスログ必須。廃棄手順は最高ランク。――今この瞬間から、ここは隔離区画だ。

 エアロックを閉鎖しろ!

 所長を呼べ!

 緊急委員会を招集だ!」


 一時間後。

 研究所の最上階にある特別会議室。

 重苦しい空気が漂う中、所長を含む幹部たちが円卓を囲んでいた。

 彼らの表情は一様に蒼白で、脂汗をかいている者もいる。

 正面のスクリーンには、先ほどのラットの実験映像と、電子顕微鏡が捉えた「細胞を縫い合わせる極小の機械」の映像が映し出されていた。


「……にわかには信じがたいな」


 志賀しが所長がハンカチで額を拭いながら呻いた。

 彼は日本の感染症対策のトップに立つ人物だが、今の彼はただの怯える老人にしか見えなかった。


「骨折が一瞬で治癒する薬。しかも正体はナノマシン……。

 真田くん、これは何かの冗談ではないのかね?」

「私もそう思いたいです、所長。ですが、目の前のデータは全て事実を示しています」


 真田は立ち上がり、説明を続けた。


「分析の結果、このナノマシンは生体エネルギーを動力源とし、プログラムされた通りに『生体の最適化』を行っているようです。

 毒性はありません。副作用も……今のところ皆無。

 それどころか、投与されたラットは細胞のテロメアまで修復され、若返っている可能性すらあります」

「不老不死の薬とでも言うつもりか?」

「そこまでは断言できませんが、少なくとも……現代医療を根底から覆す代物です」


 会議室がどよめいた。

 恐怖と興奮。

 科学者としての好奇心と、官僚としての保身本能が入り混じる。


「こ、これはどう扱うべきだ? 厚生労働省に報告するか?」

「待て待て! こんな報告書を出してみろ!

 『魔法の薬が見つかりました』なんて書いたら、我々は全員、精神鑑定送りだぞ!」

「しかし隠蔽して後でバレたら、懲戒免職どころじゃ済まんぞ!」

「そもそも、これがテロに使われたらどうする!

 逆に生物兵器として転用されたら……」


 議論は紛糾した。

 無理もない。彼らの常識のキャパシティを超えているのだ。

 誰かが言った。


「集団ヒステリー……ということはないか?

 誰かが空調に幻覚剤を混ぜたとか」

「ラットの骨折が治ったのは物理現象だ!

 幻覚で骨が繋がるか!」


 怒号が飛び交う中、真田は冷静になろうと努めた。

 彼は深く息を吐き、机を叩いた。


 ダンッ!


「静粛に!

 ……今は議論している場合ではありません。事実確認が先決です」


 全員の視線が真田に集まる。


「まず、この検体は『トップシークレット』扱いです。

 研究所内の箝口令を徹底してください。SNSへの投稿も厳禁です」

「ううむ。それは当然だ」

「関連ログを全部凍結。閲覧権限を主任直轄に切り替えます」

「監視カメラ映像は上書き前に保全(隔離サーバへ)。アクセス履歴も保全」

「次に、送り主の特定です」


 真田は手元の配送伝票のコピーを指差した。


「伝票のロゴはヤマト運輸です。

 匿名配送システムを使っていますが、これはあくまで『受取人に対して匿名』なだけです。

 ヤマトの集荷データベースを照会すれば、発送手続きをしたコンビニの端末、日時、そして電子マネー等の決済情報は即座に割れます」

「つまり警察を使えば特定できると?」

「警察を動かすには事件性が必要です。ですが今回は……」

「『未知の生物兵器テロの疑い』。これでどうだ?」


 所長が低い声で言った。その目は据わっていた。


「国益……いや、国家の存亡に関わる案件だ。

 内閣情報調査室、あるいは公安案件に持ち込むべきだろう。ただし表沙汰にはせずにだ」

「……所長、官邸に報告するおつもりですか?」

「せざるを得んだろう。

 もしこれが中国やアメリカの新型兵器だったら?

 あるいは地球外生命体の技術だったら?

 我々だけで抱え込めば、取り返しのつかないことになる。

 この件は、研究じゃない。国防だ」


 所長は震える手で、赤い電話機——直通回線——に手を伸ばした。


「私が責任を持つ。

 総理……いや、まずは官房長官にホットラインを入れる。

 真田くん、君は詳細な分析データをまとめろ。一時間以内にだ」

「……了解しました」


 真田は敬礼に近い形でお辞儀をし、会議室を飛び出した。

 廊下を走りながら、彼は思った。

 この荷物を送った「一市民」と名乗る人物。

 そいつは一体、何者なんだ?

 善意の発見者か? 愉快犯か?

 それとも……人類を試そうとしている「何か」なのか?


 研究所の窓の外、東京の空は曇っていた。

 だが真田には見えた気がした。

 日常という薄い皮が一枚剥がれ、その下から、とてつもない「未来」が顔を覗かせているのが。


 パンドラの箱は開かれた。

 そしてその中身は——希望か、絶望か。

 日本政府中枢を巻き込んだ大騒動の幕が、今まさに上がろうとしていた。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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今日の常識崩壊組 賢者がネコでなかったら・・・のいい例ですねー
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