第51話 進化する劇薬と胃痛の階梯
惑星テラ・ノヴァ。
この星の時間は、地球とは異なるリズムで刻まれている。
空には二つの月が浮かび、地平線の彼方まで広がる荒野は、今や鋼鉄とコンクリート、そして無数のコンベアベルトによって幾何学的な紋様を描いていた。
工藤創一という、たった一人の人間が作り上げた「工場」は、まるで増殖する粘菌のように、あるいは星を食い尽くす機械の獣のように、その領域を拡大し続けている。
その中心部、FOB(前線基地)の司令室。
日下部は、ゲートをくぐってこの異星の大地を踏むたびに、得体の知れない圧迫感を感じていた。
それは酸素濃度の違いや重力のせいではない。
この空間に充満する「圧倒的な生産への意志」と、地球の倫理や常識が通用しない「効率至上主義」の空気に当てられているからだ。
「——というわけで、ビーコン3つの受注、承りました!」
工藤創一は、作業用のアームを背負った強化スーツ姿で、屈託のない笑顔を見せた。
彼の手にはタブレット端末が握られており、そこには日下部が持ち込んだ発注書が表示されている。
「へー、アメリカも導入ですか。
やっぱり、どこの国も悩みは同じなんですね」
創一は、日下部が説明した「テロ対策と犯罪抑止のための広域監視システム」という建前を、疑いもせずに信じ込んでいる。
彼にとって、自分の技術が地球の平和に役立つことは、純粋な喜びなのだ。
「便利ですもんね、このレーダー!
俺も、これ導入してから、バイターの巣の位置とか、資源の枯渇状況が一発で分かるようになって、すごく助かってます。
地球でも、犯罪者がどこに隠れているか丸見えになれば、警察の人たちも楽になるでしょうし」
「ええ……。
劇的に『楽』になるでしょうね」
日下部は意味深な笑みを浮かべて頷いた。
楽になるどころではない。
捜査という概念そのものが消滅しただの「摘発作業」に変わるのだ。
犯人が犯行を計画した段階で、あるいは実行に移そうとした瞬間に、警察がドアをノックする世界。
それは犯罪のないユートピアかもしれないが、同時に自由のないディストピアでもある。
「実に『便利』ですよ。
アメリカ政府も、この技術の導入を諸手を挙げて歓迎しています。
……彼らもまた、効率化を求めていますから」
「ですよね!
やっぱり、効率こそ正義ですよ!」
創一は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「じゃあ、サクッとクラフトしておきますね!
材料は余ってるし、組み立て機を回せばすぐに終わりますから。
帰る頃には、コンテナに積んでおきますよ」
「ありがとうございます。
助かります」
日下部は安堵の息をついた。
これでアメリカとの取引材料は揃った。
ワシントン、ニューヨーク、ロサンゼルス。
アメリカの心臓部に、日本の「眼」が置かれる。
ホワイトハウスの密室も、ウォール街のサーバーも、これからは日本の監視下だ。
外交カードとしては、最強のジョーカーを手に入れたことになる。
用件は済んだ。
あとはゲートを通って、泥臭い地球の政治の世界に戻るだけだ。
そう思って腰を上げかけた日下部を、創一の声が引き止めた。
「あ、そうだ、日下部さん!
帰る前に、ちょっと聞いてくださいよ!」
創一の声色が一段と明るくなった。
それは新しいおもちゃを買ってもらった子供のような、あるいは大発見をした科学者のような、純粋な興奮に満ちていた。
日下部の背筋に、嫌な予感が走る。
この男がこうやって目を輝かせる時は、ろくなことがない。
「……何でしょう?
また新しい兵器でも作りましたか?
戦車ですか? それともミサイル?」
「いえいえ、そんな物騒なもんじゃありませんよ。
もっとこう、平和的で、人類の未来に役立つやつです!」
創一は司令室の奥にある医療用ベイへと、日下部を招き入れた。
そこには清潔なホワイトルームの中に、最新鋭の分析機器と、何やら複雑な化学プラントの模型が置かれている。
「これを見てください!」
創一が指差したのは、ガラスケースの中に鎮座する一本のインジェクター(注射器)だった。
だが見慣れた『医療用キット』——あのエメラルドグリーンの液体が入ったものとは違う。
そのシリンダーの中には、深く吸い込まれるような蒼穹の液体が満たされており、内部で微細な光の粒子が星雲のように渦を巻いていた。
「……色が違いますね。
これは?」
「ふっふっふ。
ついに解禁されたんですよ、研究ツリーが!
名付けて——『医療用キット2(MK2)』です!!」
創一は効果音でもつきそうなポーズで宣言した。
「キット2……?
改良版ですか?」
「そうです!
これまでの『キット1』は、バイオマターをベースにした基本的な治療薬でしたよね?
怪我を治したり、病気を治したりするだけの」
日下部は内心でツッコミを入れた。
「治すだけ」と言うが、それだけで現代医療を数百年進める奇跡の薬だ。
末期癌を消し去り、切断された四肢を生やす薬を「基本」と呼ぶ感覚が、すでに狂っている。
「で、今回の『キット2』は、そのキット1を素材にして、さらに『発展基板(赤基板)』と『プラスチック』、それに『硫酸』などの化学素材を組み合わせて、高度に精製したものなんです!」
「……材料に硫酸とプラスチックが入っている薬を、人間に打つのですか?」
「化学反応で無害化してますから大丈夫です!
重要なのは、発展基板による『高度な演算能力』と、プラスチック系素材による『構造強化』が、ナノマシンに付与されたってことなんです。
これによって、単なる治療を超えた効果が発揮されるんです!」
創一は興奮気味にまくし立てる。
「凄いでしょ!?
これ一本で、人間が『超人化』するんですよ!」
日下部の胃が、キリリと音を立てた。
超人化。
最も聞きたくなかった単語だ。
「……具体的に、どのような効果があるのですか?
イヴ、説明を」
日下部は、主の暴走を止める気のないAIに助けを求めた。
イヴのホログラムが静かに現れ、淡々とした口調で解説を始める。
『肯定します。
医療用キットMK2——コードネーム「エボリューション・バイアル(進化の小瓶)」の主な効能は、以下の通りです』
空中にウィンドウが展開され、人体の3Dモデルと共にスペックが表示される。
『第一に、「睡眠短縮および脳機能拡張」です』
「睡眠短縮?」
『はい。
脳内に浸透したナノマシンが、睡眠中に発生するアミロイドベータなどの老廃物を能動的に分解・排出します。
また神経細胞の再構築と効率化を行います。
これにより人間は、一日あたり約2時間——あるいはそれ以下の睡眠時間で、完全な覚醒状態を維持することが可能になります』
「……2時間?」
日下部は耳を疑った。
ナポレオンも驚きのショートスリーパーだ。
いや、単に時間が短いだけではない。
『処理能力も向上します。
記憶力、計算速度、並列思考能力が劇的に向上。
IQ換算で測定不能な領域——いわゆる「超天才」の状態になります。
一度見た情報は忘れず、複雑な数式も暗算で解き、複数のタスクを同時にこなせるようになります』
「おお……」
それは全人類が、喉から手が出るほど欲しがる能力だ。
政治家、官僚、研究者、経営者。
時間と頭脳が欲しい人間にとって、これは究極の福音だ。
日下部自身、徹夜続きの官邸業務の中で「もっと脳が動けば」と思ったことは、一度や二度ではない。
だがイヴの説明は、まだ序の口だった。
『第二に、「精神安定」です。
脳内の神経伝達物質(ドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリン等)の分泌量を、ナノマシンが常時モニタリングし、最適値に制御します。
これにより過度な恐怖、パニック、鬱状態を化学的に抑制します。
常に冷静沈着、鋼のメンタルを維持し、極限状態でも最適な判断を下せるようになります』
「……感情を殺すということですか?」
『いいえ。感情は残りますが、それに振り回されなくなります。
バイターの大群に囲まれても、核ミサイルの発射ボタンを押す瞬間でも、今日のランチを選ぶのと同じ平熱でいられるということです』
兵士にとっての理想。
あるいは冷酷な指導者にとっての必須条件。
『第三に、「代謝制御および環境適応」です。
これが生存において、最も重要です。
体内エネルギーの消費効率を極限まで高め、数日間、水や食料を摂取しなくても活動可能になります。
また外部環境への耐性も獲得します』
3Dモデルの皮膚が赤く発光する。
『放射線、猛毒、極度の高温・低温への耐性が飛躍的に向上します。
例えば防護服なしで高濃度の放射能汚染エリアで作業を行っても、DNA損傷を即座に修復し、健康を維持できます。
生身でウラン鉱石を運搬することも可能です』
「……ウラン?」
日下部はピクリと反応した。
なぜ唐突にウランが出てくる?
まさか、こいつ……。
『最後に、「皮膚硬化」です。
見た目や触り心地は変わりませんが、皮膚細胞の分子結合をカーボンナノチューブ並みに強化します。
ナイフによる斬撃や、小口径の拳銃弾程度であれば、貫通を許しません』
イヴの説明が終わると、創一が得意げに胸を張った。
「どうです!?
これさえあれば、工場の作業効率は爆上がりですよ!
寝なくていいし、頭は冴えるし、ご飯休憩も減らせるし、ちょっとした事故なら怪我もしない!
まさに『工場長のための肉体』が手に入るんです!」
創一は目を輝かせている。
彼は本気で「効率化」のために、自分の体を改造しようとしているのだ。
「それに、これから原子力発電を始めようと思ってるんで、放射線耐性は必須なんですよ。
いちいちスーツ着るの動きにくいし面倒くさいし、生身でイエローケーキ触れたら楽じゃないですか!」
「……工藤さん」
日下部は震える手で、ポケットから胃薬の袋を取り出した。
封を切る手が滑り、粉薬が少し床に散らばった。
「あの……一つ、確認させてください」
「はい?」
「その『代謝制御』という項目の中に……
『老化や若返り』に関する機能も含まれていますか?」
日下部の問いに、イヴが答える。
『肯定します。
代謝を完全に制御するということは、細胞分裂のテロメア長も管理下におくということです。
使用者は自身の肉体年齢を、任意の状態で固定、あるいは逆行させることが可能です。
見た目を10歳若返らせることも、あえて老化させることも、自由自在になります』
ドサッ。
日下部はその場に崩れ落ちそうになり、慌てて近くの椅子に手をついた。
「……自由自在ですか」
キット1の時点で「若返り(機能的な回復)」はあった。
だがそれは、あくまで「全盛期に戻る」という自然な回復の延長だった。
しかしキット2は違う。
「選べる」のだ。
今日は20代の姿で、明日は50代の威厳ある姿で。
それはもう医療ではない。変身だ。
「工藤さん」
日下部は深呼吸をして、声を絞り出した。
「それ……地球出禁です」
「えっ」
「絶対に、何があっても、一滴たりとも地球には持ち込まないでください!
止めてください!
日本政府にも内緒です!
総理にも官房長官にも、絶対に報告しません!」
「えー、えー!?
なんでですか!?
総理だって寝る間も惜しんで働いてるんでしょう?
これ、あげたら喜ぶんじゃないですか?」
「喜びますよ! 狂喜乱舞して欲しがるに決まってます!」
日下部は叫んだ。
「ですが、それを使ったら最後、人間じゃなくなるんです!
考えてもみてください。
24時間、不眠不休で働き続け、感情を持たず、銃弾を弾き返し、姿形を自由に変えられる超天才……。
そんなものが永田町に現れたら、どうなりますか!?
民主主義が崩壊します!」
日下部は頭を抱えた。
キット1は「不老不死」という欲望の爆弾だった。
だがキット2は「超人」という支配の爆弾だ。
もしこれが世に出れば、人類は「持てる者(超人)」と「持たざる者(旧人類)」に分断され、取り返しのつかない階級闘争が始まる。
あるいは戦争の形態が根本から変わる。
眠らず、恐怖を感じず、放射能汚染地帯でも活動できる兵士。
そんな軍隊を持った国が世界を征服しない理由がない。
「いいですか、工藤さん。
これは薬じゃない。
人間の定義を書き換える『進化のプログラム』です。
地球の倫理観では、まだ受け入れられません。
1000年早いです」
「うーん……。
そうですか?
俺としては、ただ『便利だなー』って作っただけなんですけど」
創一は不満げに唇を尖らせた。
彼にとっての倫理は「工場の成長」にしかない。
地球の社会秩序など、知ったことではないのだ。
「これ以上、私の胃痛の種を増やさないでください!
医療用キット1だけでも、世界中が血眼になって探し回っているんですよ!?
アメリカ大統領との腹の探り合いや、中国との神経戦で、私の胃壁はもうボロボロなんです!」
日下部の悲痛な叫びに、さすがの創一も少し引いた。
「は、はい……。
分かりましたよ。
じゃあ、これは俺専用ってことで。
工場での作業用に使います」
「……ええ。貴方が使う分には、もう手遅れというか……。
この星で生きるためには必要なスペックかもしれませんから、黙認します」
日下部は妥協した。
工藤創一は、すでに常識の枠外にいる。
彼が今更、頭が良くなろうが肌が硬くなろうが、誤差の範囲だ。
むしろ、これからの過酷な拡張(原子力開発)を考えれば、彼には頑丈でいてもらわないと困る。
『補足します』
イヴが無慈悲に口を開いた。
『日下部駐在員の懸念は妥当です。
現在の地球人類の文明レベル(テックレベル)に対し、MK2はオーバースペック過ぎます。
社会構造の崩壊リスクは、99.9%と推測されます』
「だろう?
イヴもそう言うなら——」
『ですが、日下部駐在員。
ご安心ください。
これはまだ「通過点」に過ぎません』
「……はい?」
日下部の動きが止まった。
『現在解禁されたのはMK2ですが、研究ツリーの最終段階には、さらなる上位互換が存在します。
『医療用キット3(MK3)』および『医療用キット4(MK4・アルティメット)』です』
「……3と4?」
日下部の視界が、ぐらりと揺れた。
1で奇跡。
2で超人。
なら、3と4は?
『MK3では「肉体のデジタル化」および「意識のクラウド並列化」が可能になります。
肉体を捨て、ナノマシンの集合体として存在し、あらゆる電子機器に意識を転送できるようになります』
「……」
『そして最終形であるMK4では「物質生成能力」を獲得します。
自らの体内ナノマシンを使って、空気中の原子を組み替え、弾薬や機械部品を「手から生み出す」ことが可能になります。
まさしく「歩く工場」への進化です』
「……」
日下部は何も言わなかった。
言えなかった。
彼の脳が、情報の許容量を超えて、オーバーフローを起こしたのだ。
「3と4?
まだ上があるの……?」
日下部は虚ろな目で呟いた。
MK2で「出禁」だと言っているのに。
その先にあるのは、もはや生物ですらない。
神か悪魔か、あるいはSFの彼方にある概念存在か。
「あ、イヴ!
それ、まだ言っちゃダメだって!
日下部さんが壊れちゃう!」
創一が慌ててイヴを止めるが、もう遅い。
「……ああはは。
すごいですね、工藤さん。
人間やめるって比喩じゃなくて、本当なんですね……」
日下部は乾いた笑い声を漏らした。
目眩がする。
世界は、自分が必死に守ろうとしている秩序などお構いなしに、とんでもない方向へ加速している。
パンドラの箱だと思っていたものは、ただのマトリョーシカだった。
開けても開けても、中からもっとヤバいものが出てくる。
「日下部さん!?
しっかりしてください!
顔色が土気色ですよ!」
「……大丈夫です。
ただちょっと……胃薬が足りないだけです……」
日下部はフラフラと椅子に座り直した。
彼は決意した。
MK2の存在は、墓場まで持っていく。
もしこれがバレたら、地球は戦争どころの騒ぎではない。
人類という種の存亡をかけた、進化の奪い合いが始まってしまう。
「……工藤さん。
お願いですから、そのMK3とか4とかの研究は後回しにしてください。
まずは電気です。
レーダーのための電気を作ってください。
人間辞めるのは、その後でいいでしょう?」
「はーい。
分かりましたよ。
じゃあMK2を自分で打って、3日徹夜でウラン掘ってきます!」
創一は元気よく答えた。
彼は蒼穹のインジェクターを、自分の首筋に突き立てた。
プシュッという音と共に、ナノマシンが彼の体内へと流れ込んでいく。
その瞳が、一瞬青く輝いた。
以前の彼とは違う、冷徹で、合理的で、そして底知れない知性を宿した光。
だが次の瞬間には、いつもの人懐っこい笑顔に戻っていた。
「うわっ、すげえ!
頭の中がクリアだ!
設計図が3Dで見える!
これなら、いけるぞ、原子力!」
はしゃぐ工場長を見ながら、日下部は遠い目をした。
この男は、もう人間ではないのかもしれない。
そして自分は、悪魔の飼育係として、この秘密を抱えて生きていくしかないのだ。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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