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自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~  作者: パラレル・ゲーマー
第十二部 奇跡の実証試験編

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254/262

第214話 厚労省、眼科とメガネ屋に謝る(後編)

 午後二時。

 問い合わせの嵐は、医療業界の枠を超え、他省庁や教育現場へと燃え広がっていた。

 文部科学省の担当者と、全国の学校保健関係者(学校医や養護教諭の代表)との合同オンライン会議である。

 議題は「学校健診」と「子供への適応」だ。


「文科省としては、春の学校の定期視力検査において、視力低下が見られた児童生徒に対し、この視力回復薬の処方へ誘導を行うべきでしょうか」

 文科省の担当者が、責任の所在を厚労省に押し付けるように尋ねた。

「現時点では、学校での健診結果をもって、薬の処方を国として勧める段階ではありません」

 課長が即座に否定する。


 だが、学校保健関係者の顔は蒼白だった。

「そう言われましても、すでに保護者からの問い合わせが各学校に殺到しているんです!『うちの子にいつ使えるのか』『保険が効くなら早く紹介状を出してくれ』と。現場の教員は対応しきれません!」

「眼球が発達段階にある成長期の児童生徒については、大人とは異なる極めて慎重な基準が必要です」

 学校医の代表が苛立った声を上げる。

「ですから、使えるのか、使えないのか。イエスかノーか、どちらなんですか!」

「対象年齢、現在の症状、眼球の成長状態、日々の生活習慣、既往歴などを総合的に踏まえ、専門の眼科医が個別に判断するべき事案です。国が一律にイエスかノーかを決めることはできません」

「つまり?」

「現時点では、学校側が保護者へ処方を推奨することは避け、国からの正式な適応基準の発表を待つよう案内してください」


 文科省の担当者がため息をついた。

「……では、その旨を記載した保護者向けの案内文を、厚労省と文科省の連名で出せますか? 文科省単独では責任を負いきれません」

「『規範』としてなら、すぐにお出しできます」

「またそれですか」

「非常に便利ですので」


 その場で、若手官僚が素早くキーボードを叩き、全国の学校向けに配布する案内文案が作成された。


『視力回復薬については、現時点では導入検討段階であり、学校健診の結果のみをもって使用を推奨・許可するものではありません。

 成長期の児童生徒への使用については、今後正式な対象年齢・安全性基準が示された後、専門の眼科医の診察に基づいて個別に判断されます。

 保護者の皆様におかれましては、インターネット等で非正規品や個人輸入品を絶対に使用しないようお願いいたします。

 また、仮に視力回復薬を使用したとしても、スマートフォンやゲーム端末等による目の酷使を避ける正しい生活習慣が不可欠です』


 文面を確認した学校関係者が、皮肉っぽく笑った。

「……最後の一文、保護者に『お前らゲームばっかりやってるとまた目ぇ悪くなるぞ』って説教する時の最高の武器として、家庭でめちゃくちゃ使われますね」

「それは、当省としてもむしろ望ましい波及効果です」

 課長は真顔で答えた。


 午後三時。

 今度は、日本の物流と交通を支える運送業界からの直談判だった。

 トラック協会、タクシー業界、バス会社の代表、そして運転免許制度を管轄する警察庁の担当者も同席している。


「職業ドライバーにとって、加齢による視力低下は即、雇用関係の終了に直結します」

 運送業界の代表が、切実な声で訴えかけた。

「視力回復薬が正式に導入されるのであれば、我々事業者が費用を全額負担する形で、ドライバーへの処方や定期検診を『制度化』したい。これは交通安全を守るための死活問題です」

「労働衛生と安全管理上の意義は、大いにあります」と課長は頷いた。

「では、会社としてすべてのドライバーに服用を『義務化』してよいですね?」

「いえ。いくら安全のためとはいえ、本人の同意なく、医療行為である薬の服用を企業が強制することは適切ではありません」

「しかし、免許の視力基準を満たさないと法的に運転させられないんですよ!」

「そこは、免許制度および事業者の安全管理という、また別のレイヤーの問題です」

「……逃げましたね」

「所管が違います」


 見事な官僚的トス回しを受け、画面の端に映っていた警察庁の担当者が渋い顔で口を開いた。

「警察庁にも、全国の免許センターを通じて『視力回復薬の服用歴と、免許の眼鏡等条件をどう連動させるのか』という問い合わせが殺到しています。眼鏡不要の条件に変更するのか、という問題です」

「医療情報の共有には、プライバシー保護の観点から慎重さが必要です」

「では、免許更新時の視力検査は、従来通りのやり方でよいですか?」

「現時点では、薬の有無にかかわらず、視力検査の方式そのものを変える必要はないと考えます」

「つまり……」警察庁担当者が確認する。「薬を飲んでいようがいまいが、更新時のその瞬間に、視力検査の基準を満たしていればハンコを押してよい、と?」

「その整理が最も自然です」


 運送業界の代表が再び割って入る。

「ちょっと待ってください。それでは、更新時だけ薬を飲んで視力を上げ、その後目を酷使して急激に視力が落ちたドライバーが運転を続けるリスクがあります。我々が職業ドライバーに『毎月検査を受けろ』と命令したい場合はどうなるんですか?」

「事業者の安全管理の枠組みとして、労使間で適切に協議してルール化してください」

「また規範ですか?」

「はい。服用の強制と、適切な安全管理の線引きに関する規範です」


 ここで課長は、語気を強めて一つの明確なラインを引いた。

「ただし。会社が従業員に薬の服用を執拗に強制し、体質等の理由で拒否した者を『不利益に扱う(解雇や減給、配置転換等)』ことは、労働法制上、絶対に望ましくありません」

「望ましくありません、ですか?」

「まずは、規範です」

 法律という大上段に振りかぶる前に、まずは行政指導のジャブを打つ。その官僚的な手回しに、参加者全員が薄く笑いを漏らした。


 午後四時。

 最も生々しく、最も金に絡む悲鳴が上がった。

 健康保険組合連合会、協会けんぽ、そして地方自治体の国民健康保険関係者など、日本の医療費を財布の底で支える「保険者」たちからの悲痛な叫びである。


「厚労省さん。……本気で、一回二千円程度で回すおつもりですか」

 保険者代表の声は、怒りを通り越して絶望に染まっていた。

「国民の窓口負担の軽減と、広範なQOL(生活の質)向上を最大限に考慮した制度設計を目指しております」

「現在の日本において、適応となり得る対象者の数を正確に見積もっていますか?」

「現在、関係部局にて精査中です」

「日本の近視・乱視・老眼予備軍の人口を合計すれば、対象者は数千万人規模に跳ね上がる可能性がありますよ!」

「はい。その可能性は十分に承知しております」

「はい、ではありません! 保険財政が燃え尽きますよ!」

 代表が机をバンと叩いた。

「全員が明日一斉に眼科に駆け込んで使用するわけではありません」

「朝の報道とSNSのパニックを見ましたか? 国民は、全員が一斉に使う気で眼科のドアを叩いていますよ!」


 厚労省側は、返す言葉がなく沈黙した。事実、国民の熱狂は彼らの想定を遥かに超えていた。

 別の保険組合の担当者が追撃する。

「過剰受診対策はどうするんですか? 半年ごとに再服用が必要になれば、それは一時的な出費ではなく『継続的な財政負担』になります。さらに、一か月ごとの定期検査にも診察費や検査費が発生する。これをすべて保険でカバーするんですか? 美容や単なる利便性目的の使用と、真に医療的必要性がある使用の線引きは? 予防医療として扱うのか、治療として扱うのか! 子供、職業ドライバー、強度近視などの優先順位はどうつけるのか! 自由診療との混在をどう扱うか!」


 一息にまくし立てられた懸念事項の山に、課長は冷静に答えた。

「……眼科医の精密な診察、厳密な対象基準の策定、定期検査の履歴などを総合的に踏まえた『適正使用のガイドライン』を、規範として示します」

「規範では、毎月上がってくる膨大なレセプト(診療報酬明細書)の請求は止まりません!」

「……そこは、今後の診療報酬改定の要件や、運用上の算定ルールで厳格に調整します」


 保険者代表が、ようやく溜飲を下げたように頷いた。

「ようやく、金に直結する具体的な話が出ましたね」

「具体化はこれからですが、持続可能な制度にします」

「燃えていますよ、我々の財布は」

「知っています。我々も火の粉を被っていますので」

 厚労省は「標準的な対象基準」「適正使用指針」「段階的な導入」というカードで追及をかわしたが、その逃げ方は極めて行政官らしい、したたかなものだった。


 午後五時。

 地方自治体の窓口からの報告が上がってくる。

「課長。全国の市役所や区役所から、『住民からの問い合わせで窓口が死にそうです』という悲鳴が上がっています」

「住民から市役所に? 医療機関ではなく?」

「はい。『二千円の視力回復薬は、市役所のどこに行けばもらえるのか』『整理券はどこで配っているのか』という、完全に勘違いした問い合わせが殺到しているそうです」

 課長は頭を抱えた。

「医療機関へのご案内は、正式な導入後になると伝えてくれ」

「現時点では、住民に何と答えればいいですかと泣きつかれています」

「正式な発表をお待ちください、と答えろ」

「それだけでは、窓口の職員が住民から怒鳴られます」

「非正規品や怪しいネット通販を使わないよう、厳重に注意喚起してください、と添えてくれ」

「住民は『国が隠している』とさらに怒ります」

「現時点で、我々が言えることはそれだけだ」

「国の不用意な報道のせいで住民が暴れているのに、自治体には『待て』と『怒られろ』しか言うなと?」

「……はい」

「正直ですね」

「国民に嘘はつけません」


 自治体側からの強い要請により、厚労省は急遽、自治体窓口向けの「住民対応Q&Aテンプレート」を作成して全国にばら撒いた。


【視力回復薬に関する住民向けQ&A案】

 Q:どこに行けば受けられますか?

 A:現時点ではどこに行っても受けられません。正式な導入時期は未定です。

 Q:近所の眼科に行けば処方してもらえますか?

 A:現時点では処方されません。医療機関への個別問い合わせは業務の妨げになるためお控えください。

 Q:子供にも使えますか?

 A:対象年齢・適応基準は今後専門家が決定します。自己判断で使用しないでください。

 Q:ネットで売っている先行版を買っていいですか?

 A:絶対に使用しないでください。非正規品の使用は重大な健康被害(失明等)につながる恐れがあります。

 Q:薬を飲めば、一生メガネは不要になりますか?

 A:個人差があります。回復後も定期検査が推奨され、目を酷使すれば再び悪化します。


 Q&Aを一読した自治体職員が、乾いた笑いを漏らした。

「……このQ&A、ほぼ全部『まだです』『待ってください』『買わないでください』ですね」

「現実がそうなので、仕方がありません」


 午後六時。

 消費者行政関係部局と、大手EC(電子商取引)プラットフォームの担当者との緊急すり合わせが行われた。

「すでにネット上で、『厚労省認定・視力回復薬先行版』や『アンノウン医療技術由来サプリ』を名乗る、極めて怪しい通販サイトや出品が多数確認されています」

 消費者行政の担当者が報告する。

「早すぎる。人類の悪意はどれだけ仕事が速いんだ」

 課長が顔をしかめた。

 ECプラットフォームの担当者が確認を求めた。

「弊社としても即時削除対応を行いたいのですが、法的根拠となる『出品削除基準』が必要です」

「現時点で、該当技術を用いた正規品の一般販売は、国内外を問わず一切行われておりません。したがって、一般向けにインターネット上で販売されているものは、例外なくすべて『非正規品(偽造品)』と見なして、即時削除対象とする方向でお願いします」

「明確な基準で大変助かります。即時システムに弾かせます」

 消費者行政担当者が懸念を示す。

「しかし、『視力2.0完全保証』『老眼完全回復』『もうレーシックは不要』などの過激なウェブ広告がすでに出回っています」

「全て、薬機法および景品表示法上、重大な問題があります」

「ここは『規範』ではなく、国として強く出ますか?」

「はい」

 課長の目が鋭く光った。

「非正規品の流通と虚偽広告は、国民の『目』という取り返しのつかない器官を直接危険に晒します。ここは一歩も引きません」


 直ちに、厚労省と消費者庁の連名で、SNSや各メディアに向けて強烈な注意喚起文が発信された。

『現時点で、視力回復薬の一般販売は一切行われていません。ネット上で販売されている商品は非正規品であり、使用により失明等の重大な健康被害を生じる恐れがあります。絶対に購入・使用しないでください』


 ネット民たちも、これには素早く反応した。

『偽物出るの早すぎワロタ』

『人類の悪意、仕事が速すぎるだろ』

『保険適用で二千円になる予定なのに、わざわざ怪しい海外サイトで十万円の謎の液体買うバカいるのか?』

『でも、どうしても今すぐ裸眼になりたい奴は買っちゃうんだろうな』

『だから厚労省もガチギレしてるんだろ。怖すぎ』


 午後七時。

 厚労省内の記者会見室で、夕方の定例記者ブリーフィングが開かれた。

 待ち構えていた無数のメディアの記者たちが、一斉に広報官を問い詰める。


「視力回復薬は、具体的にいつ導入されるのですか!」

「現時点では、導入に向けた制度の検討段階です。正式な時期は未定です」

「一回二千円という朝の報道は事実ですか!」

「保険適用時の自己負担額の目安として、その程度の水準を目指して関係各所と調整していることは事実です。ただし、最終決定ではありません」

「対象者はどうなるのですか!」

「今後、専門家の医学的意見を踏まえて、厳密な基準を示します」

「子供は対象になるのですか!」

「成長期の児童生徒については、より慎重な判断が必要と考えております」

「レーシックやICL済みの人は使えますか!」

「手術歴のある方は、専門医の個別の診察が必須となります」

「メガネ屋で検査できるようになるというのは本当ですか!」

「認定された眼鏡店等での検査導線を、現在検討しております」


 最前列の記者が、苛立ちを隠せずに声を荒げた。

「検討、未定、調整……。朝からずっと検討ばかりですね! 厚労省として、この社会的パニックにどう責任を持つのですか!」

 広報官は、マイクに向かって落ち着き払って答えた。

「国としては、標準的な『規範』を示し、関係団体と緊密に連携して、安全かつ円滑な導入に努めてまいります」

「……規範という言葉が今日一日で何度も出ていますが、逃げているのではありませんか?」

「『規範』は、制度を構築する上で極めて重要です」


 この会見の様子は、即座にネットニュースでテキスト中継された。

『厚労省「規範は重要です」』

 このパワーワードは、瞬く間にX(旧Twitter)のトレンド1位に躍り出た。


 会見後、ネット上では厚労省の「規範」という言葉を使った大喜利が爆発的に流行し始めた。

『厚労省「規範を示します」 現場の眼科「人を寄越せ」』

『これから仕事で困ったら、全部「規範を示す」で逃げたいww』

『上司「この資料、今日中にできる?」 俺「作成に向けた標準的な規範を示します」』

『取引先「納品まだですか?」 弊社「納品に向けた規範を示します」』

『妻「皿洗って」 夫「家庭内における食器洗浄の規範を示します」 妻「洗え」』


 5ちゃんねるの掲示板でも、スレッドが乱立していた。

『1:名無し 厚労省「規範を示すだけです」』

『2:名無し 便利すぎるだろこの言葉』

『3:名無し 眼科「電話が鳴り止まない助けて」 厚労省「規範を示します」』

『4:名無し メガネ屋「うちは死ぬんですか?」 厚労省「規範を示します」』

『5:名無し コンタクト業界「市場が吹き飛ぶんですが」 厚労省「規範を示します」』

『6:名無し 規範万能説。最強の魔法の呪文かよ』

『7:名無し アンノウン様は視力を回復し、厚労省は規範を示す』

『8:名無し 役割分担しっかりできてるな』

『9:名無し できてるか?www』


 こうして「規範」は、完全なネットミーム(ギャグ)として定着した。


 午後十時。

 夜の帳が完全に下りた厚労省・医療関連部局の執務室。

 大量の問い合わせ対応、関係団体との水面下の調整、記者会見、Q&Aの作成を終えた職員たちは、まるで魂を抜かれたように疲労困憊していた。

 若手官僚が、空になったエナジードリンクの缶をゴミ箱に投げ捨てながら、課長に声をかけた。


「課長。今日の元凶、結局あの『モーニング・ジャーナル』ですよね」

 課長の眉が、わずかに動いた。

「……独占スクープ、か」

「ええ。昨晩のブリーフィングで全社に『あくまで検討段階だ』と念を押したそばから、あの局だけ抜け駆けして、朝イチで『二千円で眼鏡もコンタクトも不要に!』と派手にぶち上げた。おかげで、全国の眼科とメガネ屋と、うちの電話回線が、半日で焼け落ちました」

「……」

「しかも質が悪いのが、火をつけた当の本人が、昼の番組では『厚労省の見切り発車で医療現場が大混乱』なんて被害者面で続報を打っているんですよ。自分で放火しておいて、消火活動を生中継して視聴率を稼いでいる」

 課長は、冷めきったコーヒーを一口含んで、低く唸った。

「報道の自由だ。腹は立つが、こちらから報復はできん。やった瞬間、今度は『国家による報道への圧力』が明日の一面に躍る」

「分かっています。分かっていますが……恨めしいものは、恨めしいです」

「ネットでも『クソメディア』と散々に叩かれているそうだぞ。国民のほうが、よほど我々の仇を討ってくれている」

「せめてもの救いですね。……正直、あの局のスタジオに、今日一日でうちにかかってきた問い合わせの電話を、一本残らず転送してやりたかったです」

「気持ちは分かるが、それも規範に反する」

「規範、本当に便利すぎませんか」

「便利だから使っている」


 若手は、力なく笑った。


「……課長。『規範を示します』という言葉、ネットで完全にネタのおもちゃにされていますよ」

「見た」

 課長は、充血した目をこすりながら短く答えた。

「どうしますか。広報のトーンを変えますか?」

「どうもしない。実際、我々行政の仕事の根本は、規範を示すことだ」

「でも、現場や国民からは『国が責任から逃げている』と叩かれています」

「現場の運用ルールを、国が全部細かく決めてトップダウンで押し付けたらどうなる? それはそれで『現場の実態を無視した独裁だ』と猛反発されるだけだ」

「……まあ、それはそうです」

「国がやるべきことは、最低限の安全基準、対象者の考え方の大枠、検査の頻度、悪質な広告の規制、非正規品の排除、そして保険適用の財政的な枠組みを示すことだ。全国の眼科ごとの個別の診療判断や、各眼鏡店の細かい検査運用、学校現場での生徒への案内、企業のドライバーへの健康管理まで、すべてをこの霞が関の会議室で決めることなど、物理的にも権限的にも不可能だ」

「つまり、だからこその『規範』ですか」

「そうだ。規範だ」


 疲労の限界を超えた職員たちが、力なく笑い声を漏らした。

 これは単なるネットのギャグではない。現代の高度で複雑な社会における「行政の限界」そのものなのだ。

 厚労省は確かに逃げている。個別具体的な責任の明言を避けている。だが、数千万人の利害が絡む超技術の導入において、国がすべてを統制し決断することもまた不可能なのだ。

 だから「規範を示す」という言葉は、行政の巧妙な逃げ口上であり、同時に、国が果たし得る最大限の仕事の証でもあった。


 深夜零時。

 課長と数名の職員は、各団体に向けた「暫定ガイドライン案」の策定を急ピッチで進めていた。


【視力回復薬に関する暫定ガイドライン案(抄)】


 [眼科医療機関向け]

 ・現時点では処方開始前であることを院内掲示等で明示すること。

 ・患者に対し、非正規品を使用しないよう強く指導すること。

 ・手術歴、緑内障等の眼疾患、成長期、強度近視などは専門医の個別判断とすること。

 ・導入後は、投与前の精密検査および、投与後一か月ごとの経過確認を強く推奨する。

 ・過剰な広告、過度な効果保証(「完全回復」等)を行わないこと。


 [眼鏡店等の関連事業者向け]

 ・医療行為(診断や処方)は絶対に行わないこと。

 ・視力測定、見え方の確認、生活習慣の相談等の範囲に留めること。

 ・測定において異常が疑われる場合は、速やかに眼科の受診を勧めること。

 ・検査結果の保存、および本人への説明を適切に行うこと。

 ・「当店で薬を処方できる」と誤認させるような広告を行わないこと。


 [学校・教育機関向け]

 ・学校健診の場において、本薬の使用を一方的に推奨しないこと。

 ・保護者からの問い合わせには、正式基準を待つよう案内すること。

 ・生活習慣の改善、スマートフォンの使用時間、照明環境等の指導は継続すること。

 ・児童生徒に対する非正規品への注意喚起を行うこと。


 [職場・事業者向け(運送業等)]

 ・従業員に対し、本人の同意なく服用を強制することは原則禁止とする。

 ・体質等の理由で服用しない者への、不利益な取扱い(解雇、減給等)を避けること。

 ・職業上必要な視力管理は、本人同意と関係法令に基づいて適切に行うこと。

 ・安全運転・安全作業のための検査導入については、労使間で十分に協議すること。


 [メディア・広告関係者向け]

 ・「完全回復」「永久保証」「誰でも使える」などの断定的な表現を避けること。

 ・未承認の治療法との組み合わせ等を宣伝しないこと。

 ・医師の診察なしに容易に使用できると誤認させないこと。

 ・非正規品の紹介、購入サイトへの誘導を絶対に行わないこと。


 プリントアウトされた分厚い資料の束を見て、若手官僚がため息をついた。

「……課長、これ、見事なまでに全部『規範』ですね」

「そうだ」課長は満足げに頷いた。「だからこそ、厚労省の仕事なんだ」


 翌朝。午前九時。

 厚労省の大会議室から、全国の眼科団体と眼鏡店業界に向けて『視力回復薬導入検討に伴う暫定対応方針説明会』がオンラインで配信された。

 画面の前に立った担当課長は、冒頭で深く、長いお辞儀をした。


「まず初めに、昨日の早朝の報道により、全国の眼科医療機関および眼鏡店の皆様に、多大なる混乱と問い合わせ対応の負担をおかけしてしまったことを、心よりお詫び申し上げます」


 画面越しの眼科側の代表たちは、厳しい顔で腕を組んでいる。

 眼鏡店側の代表たちも、同じく腕を組んで課長を見据えている。


「重ねて申し上げます。現時点では、視力回復薬の一般処方は開始されておりません。患者様やお客様からの個別のお問い合わせに対しては、正式な発表を待つようご案内ください」

 眼科医会の代表が、鋭く要求した。

「その案内文を、厚労省という『国の名前』で正式に出してください。現場の医師がいくら言っても、患者は納得しないんです」

「はい。直ちに公式のポスターデータとしてお出しします」


 続いて、眼鏡店業界の代表が身を乗り出す。

「我々眼鏡店が、どこまでの範囲で検査業務を担っていいのか、その明確な基準を早く示してください」

「はい。暫定的な規範を、速やかにお示しします」

 眼科代表がすかさず牽制する。

「医療行為との厳密な線引きはどうするんですか」

「眼科医の皆様の『診断と処方』という不可侵の領域を侵さない範囲で、日々の視力測定と経過確認を眼鏡店で行う方向で調整しております」

 眼鏡店代表が確認する。

「つまり、我々眼鏡店は、国民の視力管理の『一次窓口』として生き残れると、そういう理解でよろしいですね?」

「少なくとも国としては、皆様の店舗という既存の地域インフラを最大限に活用する方針です」

 その言質を取った瞬間、眼鏡店側の人々の表情が、目に見えてほっと緩んだ。


 眼科代表が念を押す。

「我々、眼科医の立ち位置は?」

「当然、診断と処方、適応の最終判断、そして異常時の対応の中心を担っていただく、最も重要な要です」

 眼科側も、しぶしぶといった様子で、少しだけ納得の表情を見せた。だが、まだ完全に怒りが収まったわけではない。


 課長は、もう一度深く頭を下げた。

「制度の導入前に、情報が先行して現場が大混乱に陥ったことは、我々の落ち度です。重ねてお詫び申し上げます」

 眼科代表が、冷たい声で釘を刺した。

「厚労省さん。次からは、テレビで華々しく報道される前に、必ず我々現場の医療機関に先に通知してください。順序を守ってください」

「はい。そのための規範も、省内でしっかりと整えます」

「……そこは『規範』ではなく、絶対の『手順ルール』にしてください」

「…………はい」


 天下の厚労省の課長が、ついに言葉に詰まりながら承諾した。

 こうして、厚労省は眼科とメガネ屋に平謝りし、なんとか一時的な協力関係を築き上げることに成功したのである。


 しかし、現場の火災が完全に鎮火したわけではなかった。

 説明会の直後、全国の眼科クリニックの受付では、依然として不毛なやり取りが繰り返されていた。


「すいません、昨日のテレビで見た薬、いつから打てますか?」

「申し訳ありません、まだ未定です。厚労省からの正式な発表をお待ちください」

「じゃあ、予約だけでも先に取らせてよ!」

「予約の受け付けも、まだ一切できません」

「名前だけでも書いておくからさ!」

「できません」


 別の患者が身を乗り出してくる。

「私、三年前にレーシック手術済みなんですけど、この薬飲めますか!?」

「導入された後で、医師に個別にご相談ください」


 さらに別の若者が、スマホの画面を見せながら焦った声で聞いてくる。

「あの、ネットで『先行版・視力回復サプリ』ってやつ買っちゃったんですけど、これ飲んでいいですか!?」

「絶対に、絶対に使わないでください!!」

 受付スタッフの悲鳴が待合室に響き渡った。


 一方、地域の眼鏡店でも、客と店員による新たな駆け引きが始まっていた。

「すいません、視力回復薬の検査って、ここのお店でできるようになるんですか?」

「現時点ではまだ開始されておりません。ただ、今後の検査体制の認定に向けて、当店でも最新機器の準備を進めております」

「ってことは、もう高いお金出して新しいメガネ買わなくてよくなるってこと?」

「……それは、お客様の目薬の効き目などの個人差によります」

「じゃあ、今、ここでメガネ買うべき? 買わないべき?」

 店員は、プロの販売員としての笑顔を崩さずに答えた。

「『今』、見えなくてお困りなのであれば、買ってください」

「……正論だな」

 客は妙に納得して、フレームの棚へと歩いていった。


 全国のメガネチェーンは、早くも店の入り口に巨大なPOPポスターを掲示し始めていた。

『視力回復薬導入に関するご相談・検査は、国の正式発表後に承ります。

 それまでは、現在の見え方に合った最適なメガネ・レンズをご利用ください。

 ――あなたの目は、待ってくれません』


 このポスターの写真がSNSで拡散されると、ネット民たちは大いに沸いた。

『メガネ屋の“目は待ってくれません”のキャッチコピー、強すぎて草』

『殺し文句すぎるだろww』

『商魂たくましくて嫌いじゃない』


 パニックの初日から一夜明け、ネット上の空気も、お祭り騒ぎから少しずつ現場への「同情」へと変わりつつあった。

 SNSのタイムラインには、冷静な意見が目立ち始める。


『眼科に電話するなって公式から何度も言われてるのに、まだ電話する人多すぎるらしい』

『病院の受付の人たち、マジで可哀想……』

『「まだ処方できない」って、今日だけで何百回言わせるんだよ日本人』

『メガネ屋も大変だな。売上が完全に吹き飛ぶかもしれない恐怖の中で、厚労省から「検査体制作れ」って丸投げされてるんだから』

『厚労省もネットで規範省とか言われて燃えてるけど、実際問題、規範を示すしかないのは分かるわ』

『でもさ、最初の報道の出し方はやっぱり悪かったよ』

『「二千円で視力回復!」なんて見出しで朝から煽られたら、そりゃ国民はぶっ壊れるって』


 掲示板でも、現場を気遣う声が書き込まれていた。

『1:名無し 眼科の受付、昨日と今日だけでストレスで寿命三年くらい縮んでそう』

『2:名無し メガネ屋の店員も、客から「買うべきですか?」って無限に聞かれ続けてゲシュタルト崩壊してそう』

『3:名無し 厚労省「規範を示します」 眼科「電話を止めろ」 メガネ屋「商売を守れ」 国民「早く飲ませろ」』

『4:名無し 全方位で地獄絵図』

『5:名無し でも、やっぱり視力回復薬はどうしても欲しい』

『6:名無し それはそう。絶対欲しい』

『7:名無し 現場の病院には心から謝る。でも、正式導入の手続きはマジで急いでくれ』

『8:名無し 人間って、本当に業が深い生き物だな』


 厚労省は、事態を完全に沈静化させるため、公式サイトとすべてのメディアを通じて、最後となる決定的な追加告知を出した。


【厚生労働省からの重要なお知らせ】

『視力回復薬については、現在、安全な導入に向けた制度設計の検討を進めておりますが、現時点で一般処方は開始されておりません。

 医療機関、眼鏡店、自治体等への個別のお問い合わせは、救急医療や通常業務の重大な妨げとなるため、絶対にお控えください。

 対象者、導入時期、実施医療機関、検査体制等については、関係各団体との協議を経て、整い次第改めて公表いたします。

 また、非正規品、個人輸入品、転売品等の使用は、失明等、重大な健康被害につながる恐れがあります。絶対に使用しないでください。

 国としては、国民の皆様への安全かつ公平な導入に向け、標準的な規範と実施方針を示してまいります』


 ネット民は、この告知文の最後の言葉を見逃さなかった。

『最後まで“規範”で締めてて草』

『でも、必要なことは全部しっかり書いてあるな』

『“医療機関への問い合わせは控えて”って、ついにド直球で明記されたぞ』

『これで眼科の受付のお姉さんたち、少しは救われるか?』

『救われないね。明日も絶対に電話は鳴る』

『だろうな』

『悲しいけど、人間は注意書きを読まない生き物だからな』

『でも、視力回復薬があれば、小さい注意書きの文字も読めるようになるかもしれないぞ』

『うまいこと言うなwww』


 その日の夜。

 厚労省の執務室。

 担当課長は、ネクタイを緩め、ようやく自分のデスクの椅子に深く腰を下ろした。

 フロアにはまだ数名の職員が残っているが、あの日中の狂乱のような電話のベルは、今はもう鳴っていない。

 若手官僚が、机の上に散乱していた空のコーヒー缶や書類の束を片付けながら、ふと口を開いた。


「……課長。今日一日で、『規範』という言葉を何回使いました?」

 課長は、目を閉じたまま答えた。

「数えていない」

「ネットでは、うちの省のこと『規範省』って呼び始めていますよ」

「厚生労働省だ」

「でも今日は、たぶん規範省でしたね」


 課長は目を開け、疲れた顔でふっと笑った。

「……国は、国民のすべての病気や不便を直接治してやることはできない。現場の細かいルールを全部決めてやることもできない。だが、最低限、人が安全に前へ進むための『線』は引かなければならない」

「それが、規範ですか」

「そうだ」

「でも国民は、立派な規範よりも、目の前の二千円の薬を待っていますよ」

「知っている」


 窓の外には、日本の中心である霞が関の美しい夜景が広がっていた。

 課長は、机の端に積まれた『問い合わせ一覧』のリストを見つめた。

 眼科。眼鏡店。コンタクト業界。学校。運送業界。保険者。自治体。消費者行政。

 そして、その向こう側にいる、無数の国民たち。

 日本中の全員が、まだこの世に存在しない「一本の薬」を、固唾を飲んで待っているのだ。


 課長は、深く、長く息を吐き出した。

「……よし。明日から、本当に制度を作るぞ」

 若手官僚が、わざとらしく首を傾げた。

「あれ? じゃあ、今日までは何をしていたんですか?」

「今日は、各方面に謝り倒して、規範を示しただけだ」

「立派なお仕事ですね」

「皮肉か?」

「いいえ。規範です」


 若手官僚の切り返しに、課長はついに返す言葉を失い、苦笑するしかなかった。


 国民は視力回復薬を待っていた。

 眼科は電話が止まるのを待っていた。

 メガネ屋は生き残る道筋を待っていた。

 そして厚労省は、今日もまた、規範を示していた。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
ほんとにテレビ局って懲りねぇなぁ 情報を操作してるのにその後どうなるか分からないのか 責任なんて二の次三の次なんだろうなぁ
誘導放送をした番組・局には実名を出して批難すべきだね! 放送法に則って停波措置をとりましょう! 現実でも停波すべき局が多すぎだしね
ネット民も厚労省もユーモアを理解している世界だ。
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