第138話 月まで四十二分と、複製できない神の火
ホワイトハウスの地下深く。
幾重もの分厚いコンクリート、鉛の防護壁、そして最新鋭の電磁パルスシールドに守られた大統領危機管理センター(PEOC)、通称「セキュア・ルーム」。
かつてはキューバ危機や、国家の存亡を揺るがす深刻なテロ、あるいは核戦争の脅威が迫った時にのみ使用されてきたこの冷徹な空間に、今日ばかりはかつてないほど奇妙で、そして熱を帯びた空気が渦巻いていた。
壁面を覆い尽くす巨大なメインモニターには、軍の極秘暗号回線を経由して送られてきた一つのハイライト映像が、音を絞った状態で繰り返し再生されている。
それは先日、ネバダ州の隔離された実験施設から打ち上げられた「アンノウン技術適用・無人実証ロケット」の飛翔データであった。
既存の化学燃料ロケットが吐き出すオレンジ色や透明な炎とは、根本的に次元が異なる。
まるで落雷を極限まで圧縮し、強引に解き放ったかのような白青色のプラズマ噴射。
大気の壁を紙切れのように切り裂き、機体は人類の常軌を逸した、あまりにも滑らかな加速曲線を描いて宇宙空間へと躍り出る。
画面の端にはテレメトリーデータが表示され、第一宇宙速度、第二宇宙速度という人類が長年苦しめられてきた重力の壁を、瞬時に突破していく数値が絶え間なく刻まれていた。
そして、内部のダミーペイロードにかかる本来なら致死的な重力加速度を完全に無効化し、グリーンランプを灯し続ける『慣性ダンパー』の稼働ステータス。
映像の最後には、ヘッドセットを投げ捨てて抱き合い、涙を流しながら歓喜の雄叫びを上げるNASAや民間宇宙企業の技術者たちの姿が映し出されていた。
円卓の上座に座る合衆国大統領ヘイズは、その映像をしばらく無言で見つめていた。
彼女の顔には、大国を率いる重圧からくる深い疲労が刻まれていたが、その瞳の奥には確かに、歴史的偉業を成し遂げたという安堵の光が宿っていた。
「……実験成功、ね」
ヘイズが短く、確かめるように呟いた。
その言葉を合図にしたかのように、円卓の中座に控えていたNASA長官が、バネ仕掛けのように勢いよく立ち上がった。
彼の顔は紅潮し、数日間の徹夜作業を微塵も感じさせないほどの異常な興奮状態にあった。
先日の「宇宙屋たちの狂喜」の熱が、そのままこの地下室に持ち込まれたかのようだった。
「はい、大統領! 完璧な、これ以上ないほどの成功です!」
NASA長官は、手元のタブレットを力強く叩き、壁面のモニターを新たなプレゼンテーション資料へと切り替えた。
「今回の実証データの解析結果を受け、NASAが策定した『次の実験計画』、ならびに今後の宇宙探査のグランドデザインについてご説明します」
ヘイズは、わずかに片眉を吊り上げた。
「もう『次』なの? 基礎データの検証すら終わっていない段階で?」
「もちろんです!」
NASA長官は即答した。
その声は部屋中に響き渡るほど熱を帯びていた。
「大統領、今回の実証により、我々は地球低軌道などという近所の水溜まりの話ではなく、月、火星、さらには小惑星帯へ向かう『宇宙輸送体系そのもの』を再設計できる切符を手に入れたのです。
これはアポロ計画以来の……いえ、それをも遥かに凌駕する人類史の特異点です」
長官の背後のモニターに、地球から月へ、そして火星へと向かう、直線的で力強い航路のシミュレーションラインが描かれた。
「大統領、現在の地球から月までの平均距離は約三十八万キロメートルです」
NASA長官は、出席者たちを一人一人見回しながら、熱情を込めて語り始めた。
「先日の試験で実証された秒速五十キロメートルの巡航、そして専用スラスターの完成によって確実に到達可能となる『秒速百五十キロメートル級』の宇宙輸送が実用化されれば、単純計算で月までどれくらいの時間で到達できるか、お分かりでしょうか」
長官は、言葉を区切り、そして誇らしげに宣言した。
「約四十二分です」
その数字が提示された瞬間、同席していた国務省や国防総省の高官たちの間に、どよめきに似た低いざわめきが走った。
どれほど事前にスペックを聞かされていようと、「分」という単位で月までの距離が語られる衝撃は、彼らの常識を物理的に殴りつけるほどの威力を持っていた。
「もちろん」
NASA長官は早口で補足する。
「実運用においては、出発時の強烈な加速、到着時の減速マニューバ、慣性ダンパーの安全マージン確保、そして軌道投入の微調整などが必要になりますから、ドア・ツー・ドアで四十二分ジャストというわけにはいきません。
しかし、それでも……」
長官は、両拳を握りしめた。
「月はもはや『数日かけて決死の覚悟で向かう、果てしなく遠い天体』ではないのです。
『一時間圏内の、ちょっとした日帰り目的地』に変わるのです!」
会議室の空気が、さらに一段と熱を帯びた。
長官の言葉は止まらない。
「これにより、月面基地の建設プロセスは完全に現実味を帯びます。
宇宙開発の最大のネックであった『資材の輸送コスト』が、文字通り劇的に下がるからです。
有人の月面長期滞在のリスクも、何かトラブルがあればすぐに地球へ帰還できると考えれば極小化されます。
さらに、火星探査計画。
これも根本から作り直せます。
数年がかりの危険な旅から、わずか数週間の安全なクルーズへと変わる。
大統領、お願いです。
ここは国家の総力を挙げて、全力で進めるべきです。
アンノウンの技術を我々アメリカの手で実用化し、スケールさせることで、今後の宇宙開発コストを極限まで押し下げつつ、地球圏外における『絶対的な宇宙覇権』を、再び我が国のものにするのです!」
息もつかせぬ熱弁だった。
宇宙屋としての純粋な夢と、国家機関の長としての野心が、これ以上なく完璧に融合していた。
彼にしてみれば、目の前に「宇宙へのドア」が全開になっているのだ。
そこに飛び込まない理由など存在しない。
だが、ヘイズ大統領は、その熱意を真っ向から否定しはしなかったものの、すぐに飛びつくような軽率さも見せなかった。
彼女は静かに腕を組み、モニターに映し出された月面基地の壮大なCGイメージを見つめた。
「宇宙、ねぇ……」
ヘイズは、深く息を吐き出してから、ゆっくりと口を開いた。
「まあ、悪くないと思うわ。
その圧倒的なフロンティアと、アメリカが再び文句なしの覇者になるというロマンは、否定しない」
その言葉に、NASA長官の顔がパッと明るくなった。
大統領の全面的な支持が得られたと思ったのだろう。
しかし、大統領の次に続いた言葉は、氷のように冷徹で、そして重かった。
「でもね、長官。まず『地上』をなんとかしないと、と思うのよ」
その一言で、会議室に充満していた宇宙へのロマンが、急速に重力のある現実へと引き戻された。
「……地上、ですか」
NASA長官が、戸惑ったように反芻した。
「そうよ」
ヘイズは鋭い視線で長官を射抜いた。
「あなたは宇宙の彼方しか見ていないかもしれないけど、私にはこの国を現実的に運営する責任がある」
大統領の頭の中には、常に無数の地上の問題が渦巻いている。
日本のアンノウンがもたらした「がんしぼり君」によって、アメリカの巨大な製薬利権と医療費問題は根本から揺さぶられている。
インフラは老朽化し、貧富の格差は広がる一方だ。
「いいこと、長官。
今、アメリカ国民がどんな目をして日本を見ているか知っている?」
ヘイズの言葉に、苦渋が滲んだ。
「日本の若者や企業は、中東が用意した『パックス・ファンド』から莫大な無利子融資を受け、生活を劇的に好転させている。
日本のガン患者は年間二百万円で命を繋いでいる。
そのニュースを、我が国の国民は強烈な羨望と嫉妬の目で毎日見せつけられているのよ。
私が記者会見で『莫大な税金をかけて月面基地を作ります! 火星に行きます!』と華々しくぶち上げた瞬間、国民や野党から必ずこう言われるわ」
ヘイズは皮肉げに唇の端を歪めた。
「『月に行く金があるなら、その前にこの国の馬鹿げた医療費をなんとかしろ。インフラを直せ。日本の真似事でもいいから、私たちの生活を楽にしてくれ』ってね。
私は、彼らにそれを納得させるだけの、血の通った政治的な正当性を用意しなければならないのよ」
NASA長官は、押し黙った。
それは、ぐうの音も出ないほどの正論だった。
夢やロマンを語るだけでは、国家の莫大な予算は動かせない。
国民の不満という現実が、常に足元に横たわっているのだ。
だが、ヘイズは決して宇宙開発の道を閉ざしたわけではなかった。
彼女は小さくため息をつくと、長官に向かって真っ直ぐに言った。
「ただし、NASAの予算は増やします。
アメリカが宇宙開発の最前線をリードしなさい。
それが、世界におけるアメリカの『ブランド』と威信を保ち、国民に『我々はまだ超大国なのだ』と信じさせるために、今は必要不可欠だからよ」
その言葉に、NASA長官はハッと息を呑み、そして深く、安堵と感謝の入り混じったお辞儀をした。
「……分かりました、大統領。必ずや、ご期待に応えてみせます」
大統領がロマンを理解しつつも、決して地上の政治の泥臭さを忘れていない。
その絶妙なバランス感覚に、同席していた側近たちは静かな畏敬の念を抱いた。
長官が席に戻った後、円卓の少し離れた席から、優雅で、どこか楽しげな声が響いた。
強大な民間ネットワークと軍産複合体を裏で牛耳る「タイタン・グループ」の総帥、ノアである。
彼は政府の公的な役職を持たないが、その絶大な権力ゆえに、このセキュア・ルームの常連となっていた。
「まあ、大統領の方針は極めて妥当ですね。
宇宙開発という『表の舞台』で、アメリカが堂々とリーダーを演じるのは良いことです」
ヘイズ大統領は、ノアの方をじろりと睨んだ。
「その言い方、絶対裏があるわね」
ノアは悪びれもせずに軽く肩をすくめ、薄く笑った。
「裏というわけではありませんよ。
ただの事実です。
この秒速百五十キロメートルの推進技術と慣性ダンパーは、後々、極めて優秀な『極超音速ミサイル』や『迎撃不可能な軌道運動エネルギー兵器』にそのまま応用できますからね」
ノアの言葉に、同席していた国防総省の将官たちがピクリと反応した。
「ですが、順番としては大統領の言う通りです。
いきなり軍事転用して自爆でもしたら目も当てられない。
まずは『宇宙開発』という平和的な名目で、あのテクノロジーの挙動を徹底的に使いこなす必要があります。
推進剤の制御、慣性ダンパーの位相調整。
それらを安全に扱えるようになってから、軍事応用を考えるべきです」
ノアの隣に座っていたCIA長官のエレノアが、氷のような冷たい声でそれに同意した。
「タイタン総帥の言う通りです。
宇宙開発は、この未知のオーパーツをテストするための、最も自然で安全な『実験場』として機能します。
表向きの正当性があり、国民や国際社会への説明もしやすい。
軍事のカードを切るのは、NASAに十分なデータを集めさせてからです」
国家の裏を司る二人の化け物の冷徹な分析に、ヘイズ大統領は額を押さえてため息をついた。
「まあ、分かるけどね。……ところでノア」
ヘイズは、NASA長官が残していった月面基地の資料を指差した。
「さっきのNASA長官のプレゼンにあった『月面基地』の件だけど。
私はあれ、少しやり過ぎだと思うのよね」
その言葉に、ノアが少し意外そうな顔をした。
「月面基地が、ですか?
あれこそ、アメリカの宇宙覇権を示す最も分かりやすいシンボルだと思いますが」
ヘイズ大統領は首を振った。
「あのね、さっき長官が言った『月まで四十二分で着く』っていう事実が引っかかってるのよ。
もし本当にそんな短時間で、飛行機に乗るような感覚で安全に行き来できるなら、わざわざ巨額の費用とリスクをかけて『恒久的な基地』を建設し、人間を常駐させる意味って薄くならない?」
会議室にいる者たちは、一瞬、その発想の逆転に驚いた。
普通であれば「移動が簡単になったからこそ、基地を作って本格的に開発しよう」と考える。
だが、大統領は逆だ。
「近いなら、泊まらなくていいじゃない」
ヘイズは、まるで隣町のスーパーへ行くような口調で言った。
「必要な時に人員と機材を送って、探索や採掘が終わったら、その日のうちに、あるいは数日で地球に帰ってくればいい。
莫大な生命維持システムの維持コストや、閉鎖環境での精神的リスクを負ってまで、月面に『居座る』必要性を感じないのよ」
CIA長官のエレノアが、即座にその考えをインテリジェンスの観点から評価した。
「大統領のご意見は、戦略的にも運用コスト的にも極めて妥当です。
距離と時間がこれほど短縮されるのであれば、前哨基地の価値は相対的に低下します。
固定された巨大な基地は、維持費を食いつぶすだけでなく、有事の際には『脆弱な攻撃目標』になりかねません」
ノアも、顎を撫でながら愉快そうに笑った。
「なるほど。
他国が旧来のロケットで月面基地を建設し、領土権を主張するような状況なら『陣取りゲーム』をする必要がありますが……現状、秒速百五十キロメートル級の輸送技術を持っているのは、日本とアメリカの同盟ラインだけです。
我々が圧倒的な速度的優位に立っている以上、無理にコストをかけて居座る必要はまだ薄い、ということですね」
「でしょう?」
ヘイズ大統領は頷いた。
「月面基地の構想は派手で国民ウケはいいかもしれないけど、まずは『いつでも、誰よりも早く、大量の物資を月に輸送できる能力』を完全に確立して独占する方がずっと大事よ。
巨大な基地を作るのは、他国が我々の輸送能力に追いついてきそうになった時で十分だわ」
アメリカの宇宙戦略が、大統領の冷徹な現実感によって明確にシフトした瞬間だった。
いきなり拠点を構えるのではなく、輸送路の絶対的な支配。
NASAのロマンを後押ししつつも、アメリカの国益を最大化する道筋が引かれた。
「では、関連して次の議題です」
エレノアが、手元のファイルから新たな報告書を取り出した。
「今回の実証実験の成功を受け、中国とロシアが非公式の外交ルートを通じて、我々の宇宙開発計画への『参加』および『基礎技術の共有』を強く申し出てきています」
ヘイズ大統領の答えは、ほとんど即答だった。
「却下よ」
会議室に、ピリッとした軽い緊張が走った。
「……理由は、確認するまでもありませんね?」
エレノアが、確認のために尋ねる。
「当然よ」
ヘイズは冷たく言い放った。
「我々自身が、日本からアンノウンの技術を受け取ったばかりで、その詳細な安全性も、長期的な戦略的影響も、完全には飲み込めていない状態なのよ。
そんな手探りの段階で、中国やロシアを同じテーブルに座らせて、技術の果実を分け与える理由なんて一つもないわ」
ノアが、楽しそうに笑い声を立てた。
「極めて妥当な判断です。
特に、あの加速技術と慣性ダンパーは、軍事的な価値が高すぎます。
彼らに触れさせれば、必ずリバースエンジニアリングされて、数年後には我々に牙を剥く極超音速ミサイルとして返ってきますよ」
「では」
エレノアはタブレットにメモを打ち込んだ。
「中国とロシアに対しては、表向きには『現在はまだ日米による初期の実証段階であり、参加国の拡大については将来的検討事項である』という、無難なゼロ回答の外交辞令で突き返しておきます」
「そうしてちょうだい」
ヘイズ大統領は短く答えた。
この瞬間、アメリカは明確に「アンノウン技術」の囲い込みに入った。
宇宙という新たなフロンティアの扉を開ける鍵は、日米の同盟ラインだけで独占する。
その確固たる意志が示された。
宇宙輸送に関する議題が一段落し、ヘイズ大統領は少し肩を回すと、表情を一段と厳しくして、本日のもう一つの、そして最も厄介な本題へと移った。
「さて。宇宙の景気のいい話はこれくらいにして……。
もう一つの『神の火』の方はどうなっているのかしら?
核融合炉の解析レポートをちょうだい」
その言葉が出た途端、会議室の空気が目に見えて重くなった。
先ほどまでのNASA長官の熱狂が嘘のように、重苦しい沈黙が降りた。
エネルギー省の代表であり、政府の最高科学顧問も務める初老の男が、重い足取りで立ち上がり、分厚い資料の束をテーブルに広げた。
「……はい、大統領。
日本から引き渡された『小型核融合炉(連続稼働実証型)』の現物、およびその基礎理論についての解析状況をご報告します。
まず、現物の稼働実験についてですが、こちらは現時点ではオールグリーンです。
我々のエネルギー省の極秘施設において、日本から提供されたマニュアル通りに起動したところ、何の問題もなく、極めて安定した状態で莫大なクリーンエネルギーを出力し続けています」
「それは良い知らせね」
ヘイズ大統領は頷いた。
科学顧問は、その言葉に小さく頷きはしたものの、すぐにその表情を暗く曇らせた。
「……しかし、大統領。
問題は、その構造の『複製』についてです。
こちらに関しては、我々アメリカの科学の敗北と言わざるを得ない、絶望的な状況です」
ヘイズ大統領は、眉間を寄せて科学顧問を睨みつけた。
「どういうこと? 詳細を」
科学顧問は、屈辱に耐えるような、苦渋に満ちた声で説明を始めた。
「今回、同時に提供された新型推進剤と酸化剤については、言い方は悪いですが、一種の『料理のレシピ』に近いものでした。
材料の配合と手順さえ分かれば、我々アメリカの化学産業の力で、比較的短期間で再現することが可能でした。
慣性ダンパーについても、基礎理論は難解を極めますが、限定的な実装であれば、時間をかければ我々の技術力でも理解し、運用できる範疇にあります」
そこまで言って、科学顧問は深く息を吸い込んだ。
「ですが、あの核融合炉は別格です。
レシピではありません。
あれは、我々の文明基盤そのものを、数段飛ばしで進化させた結果の産物です」
「具体的に何ができないの?」
ヘイズが苛立ち交じりに問う。
「全てです」
科学顧問は、情けない事実を認めるように首を振った。
「使用されている超耐熱素材の分子構造、プラズマを封じ込めるための磁場制御の加工精度、そして何より、あの3メートルという極小の箱の中で、1億度を超える反応を安定させるための内部場の制御アルゴリズム。
我々のスーパーコンピューターで解析を試みていますが、エラーの山を築くばかりで、全く歯が立ちません。
結論として、極限まで小型化・ブラックボックス化されているため、現在のアメリカの最高レベルの技術力をもってしても、あの炉を自国の力で『複製不能』です」
会議室が、死者のような静けさに包まれた。
世界最高の技術大国を自負してきたアメリカが、他国から提供された機械のコピーすらできないという、完全な敗北宣言だった。
ヘイズ大統領は目を閉じ、こめかみを強く揉んだ。
「……核融合炉は、複製無理、ね……」
重い沈黙の後、ヘイズ大統領は低い声で、核心を突く質問を投げかけた。
「……教えて。
我々アメリカと、あのアンノウンという存在との技術格差は、いったいどれくらいあると言うの?」
エレノアが、無表情のまま科学顧問の方へ視線を送った。
科学顧問は、口の中で何度も言葉を反芻した後、ようやく苦い顔で答えた。
「……解析にあたっているエネルギー省のトップの科学者たちは、絶望を込めて『少なくとも、五百年は進んでいる』と表現しています」
ヘイズ大統領の目が、驚愕に見開かれた。
「……五百年」
「もちろん、比喩的な表現です」
科学顧問は慌てて補足した。
「ですが、現代の材料工学や物理学の延長線上で、我々が数年や数十年頑張れば追いつけるような代物ではないということです。
パラダイムが違いすぎるのです」
「では、どうすればいいの?
永遠に日本から完成品を買うしかないと?」
「我々が自国で生産し、運用できるようにするためには……」
科学顧問は、言葉を絞り出した。
「アンノウン側に、わざと性能を落としたり、現代の工業レベルでも製造できるように『ダウングレード(簡略化)』した設計図を再提出してもらう必要があります」
ヘイズ大統領の口から、乾いた、自嘲するような笑みが漏れた。
「つまり……『あなたから貰ったプレゼントは、難しすぎて私たちには理解できませんでした。
もっとアメリカの知能レベルに合わせた、簡単な課題を出し直してください』と、日本に頭を下げてお願いしろというわけね?」
科学顧問は、もう何も言えなかった。
ただ俯くことしかできなかった。
ヘイズ大統領は、天井を仰ぎ見て、苦々しく吐き捨てた。
「……屈辱的だけど、それが現実なら、しょうがないわね……!」
アメリカが、自らの技術的限界を公式に認めた瞬間だった。
絶対的な覇者であった超大国が、一人の匿名の天才の前にひざまずき、教えを乞う立場に落ちたのだ。
その重苦しい空気を切り裂くように、ノアがパンッと手を叩いた。
「まあ大統領、そんなに気を落とさないでください」
ヘイズ大統領がじろりとノアを睨む。
「慰めてるの?」
「いいえ。そんな感傷的なことではありません」
ノアは真顔になって、ゆっくりと首を振った。
「魔法使い、アンノウンは、テクノロジーにおける絶対的な神だと思った方がいい。
人間が神の御業を理解できないのは当たり前です。
恥に思う必要はありません。……私が言いたいのは、もっと別のことです」
「じゃあ、何を言いたいの?」
ノアは、会議室の全員を見回してから、タイタン・グループの総帥としての鋭い眼光を光らせて言った。
「今、我々はこの『3メートルの小型核融合炉』だけを見て、アンノウンのテクノロジーは五百年進んでいる、と評価しています。
ですが……私は、あれでもまだ『彼らにとっての過去の技術』なのではないかと疑っています」
ヘイズ大統領の眉がピクリと動いた。
「……続けて」
「今回、日本が表に出したのは、あくまで『高温プラズマを用いた核融合炉』です。
確かに我々からすれば魔法のようですが、理論自体は我々も知っているものです」
ノアは、まるで恐ろしい怪談を語るように続けた。
「しかし、あのアンノウンが、それで満足して立ち止まっているはずがない。
あの炉のさらに上に、より常識外れな『常温核融合炉』のようなものが完成しているかもしれない。
あるいはその先に、反物質発電のような、我々の想像すら絶するエネルギー技術が、すでに日本政府の地下に眠っていてもおかしくないんです」
ノアの言葉に、部屋の空気が一段と冷え込んだ。
あのアンノウンという存在の常軌を逸したスケール感を知る者にとって、ノアの推測は決して突飛な被害妄想などではない。
彼らが「極限の技術」だと信じているものが、彼らにとってはただの「手遊びの産物」に過ぎない可能性は十分にあり得た。
ヘイズ大統領は、深く、長く息を吐き出した。
背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
「……そうね。
今回日本が気前よく表に出した技術が、彼らの手持ちの『最新のカード』だと思わない方がいいわね。
裏ではもっと恐ろしい開発が進んでいる可能性がある。
最悪のシナリオを想定して動くべきだわ……!」
CIA長官のエレノアも、大統領の言葉に強く頷いた。
「ええ。
その前提に立って、今後の対日政策と、アンノウンへのアプローチを極めて慎重に再構築すべきです」
「さて、最後の議題です」
エレノアが、残っていた一枚の資料を大統領の前に差し出した。
「フランス問題です」
ヘイズ大統領は、あからさまに嫌そうな顔をして額を押さえた。
「でしょうね」
「はい」
エレノアは冷徹に報告する。
「あの小型核融合炉の発表から約二か月。
我々はフランス政府からの度重なる技術共有の要求に対し、『現在、安全性の精査中である』として回答を引き延ばしてきました。
ですが、彼らもITERプロジェクトを完全に潰された当事者です。
そろそろ外交的な忍耐が限界に達し、爆発する頃かと」
ノアが肩をすくめて笑った。
「あのプライドの高いフランスの自尊心を、二か月も生殺しにして焦らしたわけですからね。
よく暴動を起こさずに持った方ですよ」
「嫌な言い方だけど、正しいわ」
ヘイズ大統領は、ペンを指で弄りながら考え込んだ。
「……そうね。
そろそろガス抜きが必要だわ。
解析結果の一部を、フランスに連絡してあげて」
エレノアが、確認のために尋ねる。
「共有する情報の範囲は、どの程度に設定しますか?」
「核融合炉の存在の事実、基本的な出力の安定性、安全性の担保、そして素材系統の一部くらいまでね」
大統領は指示を出した。
「ただし……『アメリカ政府の技術力をもってしても再現ができない』という事実は、絶対に、一言も漏らさないで」
先ほどまで項垂れていた科学顧問が、その言葉に少しだけ顔を上げた。
ヘイズ大統領は言葉を続けた。
「フランスには、『アメリカも現在、自国での複製と量産化に向けて最終段階のテストをしている』程度に匂わせておきなさい。
どうせそのうち、我々が日本からダウングレード版をもらっていることがバレるでしょうけど、少なくとも現時点で、こちらからわざわざ『アメリカの敗北宣言』をしてやる必要はないわ」
「承知しました。
そのように情報工作を手配します」
エレノアが頷く。
ノアが、少し意地悪く笑った。
「フランスの外交官は優秀です。
我々が情報を出し渋っている行間から、『あ、アメリカも実はまだ作れてないんだな』と正確に読み取りますよ」
「読ませておきなさい」
ヘイズ大統領は堂々と言い放った。
「裏で何を悟られようと、表の体面さえ守れれば、それでいいのよ」
事実は敗北していても、表のブランドと虚勢は絶対に崩さない。
それが、超大国アメリカの意地だった。
会議が終わり、出席者たちが次々と退室していく中、ヘイズ大統領は窓のない地下室に一人残り、机の上の二つの資料に静かに目を落とした。
一方の資料には、NASA長官が熱弁を振るった『月まで四十二分』の航路図が描かれている。
宇宙は、劇的に近くなった。
人類は今、月を日帰り圏内にし、新たなフロンティアへと手を伸ばそうとしている。
しかし、もう一方の資料には、エネルギー省が提出した『小型核融合炉・解析不能領域』の図面があり、その大部分が未解明を示す真っ赤なマーカーで塗りつぶされていた。
アンノウンの生み出した神の火は、まだ人類の理解の遥か遠くにある。
ヘイズ大統領は、二つの資料を交互に見つめ、誰に言うともなく小さく呟いた。
「……月はこんなに近くなったのに。
アンノウンは、遠いままね」
その時、まだ部屋に残っていたノアが、背後から静かに微笑みかけた。
「だからこそ、我々が追いかける価値があるんですよ、大統領」
ヘイズ大統領は、自嘲するように笑った。
「世界のトップを走り続けてきたアメリカが、見ず知らずの誰かの背中を『追いかける側』になるなんて……アメリカらしくないわね」
「ですが」
入り口の影に立っていたエレノアが、静かに、しかし力強く言った。
「我々は今、アンノウンを追いかけるその列の、最も前方にいます」
ヘイズ大統領は、二人の側近の顔を見て、ふっと表情を和らげた。
「ええ、そうね。
なら、やるべきことは一つよ。……絶対に、この列の先頭から振り落とされないことね」
宇宙への扉は開いた。
だが、その鍵を作った神の手は、まだ人類の理解の外にある。
アメリカは、その眩しすぎる光に目を細めながらも、プライドを賭けて必死に食らいついていく覚悟を決めていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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