第136話 宇宙屋たちの歓喜と絶望
ワシントンD.C.、ホワイトハウスの地下深くに位置するセキュア・ブリーフィングルーム。
普段は国家安全保障会議や、深刻な軍事的危機の際にのみ使用されるその堅牢な空間に、この日、極めて異質な空気が充満していた。
空調の低い唸り音が響く中、マホガニーの長大な円卓を囲むように座っているのは、アメリカ合衆国の宇宙開発における「頭脳」の全てであった。
NASA(アメリカ航空宇宙局)長官、そして同局の主任技術者。
新設されて久しい宇宙軍の将官たち。空軍研究所の推進系担当将校。
エネルギー省の核融合研究を統括する高官。
さらに、普段は政府機関と予算を巡って激しい探り合いを演じている民間宇宙企業のトップたちも顔を揃えていた。その筆頭が、現在アメリカの宇宙輸送の大部分を担っている巨大民間宇宙企業「スペースX」の社長、レオナード・グレイであり、彼の傍らには現場の叩き上げである主任エンジニアが座っている。
彼らは皆、一様に落ち着きがなかった。
資料の束を意味もなく揃え直す者、コーヒーカップの縁を指でなぞる者、天井の防音パネルをただ見つめる者。
誰も大声では口に出さない。だが、全員がすでに察していた。
先日から世界中を震え上がらせている、あのニュース。極東の島国から発信された、現代物理学の常識を嘲笑うかのような異常なテクノロジーの連続投下。
「……例の件だよな?」
耐えきれなくなったように、スペースXの主任エンジニアが隣の席のNASA主任技術者に向かって小声で囁いた。
NASA主任技術者は、分厚い眼鏡の奥の目を細め、静かに頷きを返す。
「それ以外で、我々のような畑違いの人間までまとめてホワイトハウスの地下に呼びつける理由がない」
「頼むから、今日だけは胃薬が必要ない内容であってほしいものだ」
腕を組んだまま、顔に深いシワを刻んだ宇宙軍の将官が苦々しげに吐き捨てた。彼の立場からすれば、未知のテクノロジーはそのまま国家の脅威に直結する。
だが、その言葉に反応したレオナード・グレイが、まるで悪戯を企む少年のようにニヤリと笑った。
「逆だろ、将軍。とびきり強めの胃薬が必要な内容のほうがいい。そうでもなきゃ、我々の宇宙開発はもう何十年もこのまま停滞し続ける。壁を壊すには、胃に穴が空くほどの劇薬が必要なんだよ」
宇宙屋たちの感覚は、政治家や軍人とは根本的に異なる。
彼らは「未知」を恐れない。彼らが最も恐れるのは、地球の重力という呪縛に縛り付けられたまま、人類の足踏みが続くことだった。
重いチタン製のドアが開き、ホワイトハウスのダグラス首席補佐官が入室してきた。その後ろには、国防総省とエネルギー省の担当官が厳しい顔つきで控えている。
ダグラスが所定の位置につくと同時に、参加者全員のスマートフォンやスマートウォッチといった端末の画面が一斉に暗転し、強制的にロックアウトされた。室内への電波も完全に遮断され、あらゆる録音・通信機器が無効化されたことが示された。
「本日の内容は、最高機密です」
ダグラスの声は低く、感情の起伏を感じさせなかった。
「この部屋で聞いた情報は、指定されたクリアランスを持つ者以外には、家族であろうと一切共有できません。よろしいですね」
「いつものことです」
レオナードが軽く片手を挙げて応じた。彼の目は、早く獲物を見せろと輝いている。
「それで、ダグラス。今回は……日本からの贈り物ですか?」
ダグラスは、一拍だけ間を置いた。
その沈黙が、部屋の温度を数度下げたように錯覚させた。
「……はい。日本です」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
誰かが「やっぱり」と小さく息を漏らす音が聞こえた。それは安堵でもあり、同時に計り知れない恐怖の現れでもあった。
ダグラスは手元のコンソールを操作し、背後の巨大なスクリーンにスライドを投影した。
『日米共同・次世代宇宙輸送基盤パッケージ』
そのタイトルの下に、三つの項目が箇条書きにされていた。
1.新型スラスター推進剤・専用酸化剤
2.慣性ダンパー(極限加速度保護システム)
3.小型核融合炉との将来的統合
「本日は、主に項目1と2の実証データおよび基礎理論について共有します。日本政府より、宇宙輸送のための全く新しい概念に基づく新型推進剤と専用酸化剤、ならびに急激なG(重力加速度)から船体や生体を保護するための『慣性ダンパー』の技術情報が提供されました」
ダグラスの淡々とした説明に対し、会議室は水を打ったような静けさに包まれた。
NASA長官が、組み合わせていた両手を口元に当て、極めて静かな声で尋ねた。
「……その推進剤の性能は、どの程度のものを想定しているのですか?」
ダグラスは、画面の次のスライドへ切り替えながら答えた。
「理論上、秒速150キロメートル級までの加速が可能です」
沈黙。
圧倒的で、絶対的な沈黙が会議室を支配した。
秒速150キロメートル。時速に換算すれば、約54万キロメートル。
地球の重力を振り切って宇宙に出るための第一宇宙速度が秒速約7.9キロメートル。地球の重力圏を完全に脱出する第二宇宙速度が秒速約11.2キロメートルである。
人類がこれまでに作り上げた最速の探査機でさえ、木星や土星の重力を利用したスイングバイを何度も繰り返して、ようやく秒速十数キロメートルに達するのが限界だった。
秒速150キロメートルとは、これまでの化学ロケットの歴史を、ツィオルコフスキーのロケット方程式そのものを、根本から全否定する異常な数字であった。
数秒間、誰一人として言葉を発することができなかった。脳がその数字の現実味を処理しきれなかったのだ。
やがて、スペースXの主任エンジニアが、震える手で机をドンと叩いた。
「……月面基地だ」
その呟きを皮切りに、魔法が解けたように部屋中から声が上がり始めた。
「火星に行けるぞ」と、NASAの職員が上ずった声で言う。
「いや、火星だけじゃない」若手軌道力学者の青年が、顔を真っ赤にして立ち上がった。「木星圏の探査計画まで、設計思想が根底から変わります。はやぶさやボイジャーのような何年もかかるスイングバイ軌道を計算する必要がなくなる。直線で、力任せに飛べるんだ!」
そして、レオナード・グレイが、まるでクリスマスの朝に欲しかったおもちゃを見つけた子供のように、両手を突き上げて叫んだ。
「いえーい! 月面基地だー!!」
普段は政治家たちを相手に冷静なポーカーフェイスを崩さないNASA長官でさえ、口元を抑えながら肩を震わせて笑っていた。彼らの顔は、一瞬にして数十歳若返ったように見えた。
「……落ち着いてください。まだ説明の途中です」
ダグラスが窘めるように言ったが、宇宙屋たちの熱狂は容易には収まらなかった。
彼らはこれまで、あまりにも重い「地球の重力」という鎖に繋がれてきた。わずか数グラムのペイロード(積載物)を宇宙に運ぶために、何百トンもの燃料を燃やさなければならない。燃料を運ぶために、さらに燃料が必要になるという絶望的な方程式。
その理不尽な制約の中で、彼らは何十年もかけて、文字通り血の滲むような努力で数パーセントの効率化を競い合ってきたのだ。
「150キロが現実なら、月への輸送は完全に別次元のビジネスになる。数ヶ月かかる計画が、数日で終わる」とNASA主任技術者が早口で捲し立てる。
「火星往還船の設計も全部やり直しだ。いや、やり直させてくれ!」と民間主任エンジニア。
「打ち上げウィンドウの概念すら変わります」と若手軌道力学者がタブレットを叩きながら言う。「地球と火星の距離が近づくタイミングを何年も待つ必要が減る。燃料と速度に余裕があれば、人間が『行きたいタイミング』で行けるようになるんだ!」
「軍事転用の話は後でいい」と、宇宙軍の将官までもが身を乗り出していた。普段なら真っ先に安全保障上の脅威を指摘する彼でさえ、この絶対的な速度がもたらす「宇宙輸送基盤」の価値に魅了されていた。「まず、輸送手段として何ができるか、ロジスティクスのロードマップを整理しろ」
「月面基地は、もう『いつか予算がついたら』の夢物語じゃない」レオナードが目をギラギラさせて言った。「このエンジンがあれば、建設資材を運ぶコストが現在の百分の一、いや千分の一になる。今日、今すぐ始められる話になったんだ」
NASA長官は、深く息を吐き出し、低く重い声で言った。
「……人類の宇宙開発の歴史は、今日を境に、前史と後史に分かれることになるかもしれないな」
その言葉に、全員が深く頷いた。
「では、具体的な技術データに移行します」
ダグラスが合図を送ると、スタッフが分厚い紙のバインダーを参加者一人ひとりに配り始めた。デジタルデータはハッキングやコピーのリスクがあるため、極秘指定の特殊な透かしが入った物理的な紙媒体が用意されていた。
そこには、新型推進剤と専用酸化剤の成分表、合成プロトコル、危険性、保管条件などが事細かに記されていた。
NASA主任技術者が、食い入るようにそのページをめくり、ある箇所でピタリと動きを止めた。
彼は、信じられないものを見るように目を瞬かせた。
「……炭素?」
その呟きを聞きつけ、民間主任エンジニアが横から身を乗り出して資料を覗き込んだ。
「炭素ベースなのか? 液体水素でもメタンでもなく?」
空軍の推進剤専門家も、眉間を深く寄せて数式を追っている。
「待て、この分子構造は……。理論上は、確かに出力は出る。だが、この反応経路は現行の化学推進の枠を完全に逸脱している。燃焼というより、特定の条件下での結合エネルギーの暴走的な解放だ。こんなシンプルな基材で、なぜこれほどの推力が生まれるんだ?」
彼らの驚きは当然だった。推進剤が極めて特殊な希少物質ではなく、宇宙においてありふれた「炭素」をベースとしていることの異常さ。
その時、若手軌道力学者がハッと息を呑み、顔を上げた。彼の顔は興奮で青ざめてすらいた。
「皆さん……これ、必要な主成分が炭素だとするなら……極論、小惑星帯で補給できますよね?」
その一言で、熱狂していた会議室が、一瞬にして水を打ったように静まり返った。
NASA長官が、ゆっくりと若手の方へ首を向ける。
「……もう一度言ってくれ」
「C型小惑星、つまり炭素質小惑星です。太陽系内には無数に存在します」若手力学者は、震える声で続けた。「これまでは、地球の重力の底から全ての燃料を持ち上げなければならなかった。ですが、この推進剤の生成プロセスなら、現地で小惑星を採掘し、処理プラントを通せば、宇宙空間で推進剤を精製できる可能性がある。つまり……燃料の補給地点が、地球だけじゃなくなるんです」
レオナード・グレイの目が、獲物を見つけた猛禽類のように見開かれた。
「なるほど……。地球から持ち出すのは、最初の片道分の燃料と、精製プラントだけでいい。あとは宇宙のガソリンスタンドで補給しながら、どこへでも行ける」
「あのアンノウンという技術者は、そこまで先を見据えて……この成分を選んだのか?」推進剤専門家が、畏怖の念を込めて呟いた。
「いや、どうだろうな」別の研究者が苦笑交じりに言う。「あいつのことだ。深い意味はなくて、単に手近な材料で作ってみたら一番効率が良かった、くらいにしか思ってないかもしれないぞ」
その言葉に、部屋の中に乾いた笑いが起きた。
しかし、誰もが笑いながらも、背筋に冷たいものを感じていた。自分たちが何十年もかけて到達できなかった頂を、見知らぬ匿名の天才が、まるで休日のDIYのような手軽さで飛び越えてしまったことへの、抗いがたい絶望と恐怖。
だが、それ以上に、彼らの中には「これで宇宙に行ける」という歓喜が勝っていた。
「……ダグラス」
民間主任エンジニアが、勢いよく立ち上がった。
「推進剤を早く作ろう。理論の検証は後だ。実物を燃やしてみたい」
「そうだ。ここで座って話している時間が惜しい」とNASA主任技術者も同調する。
「待ってください。未知の推進剤です。環境への影響や、安全審査、危険物管理プロトコルを遵守しなければ——」エネルギー省の代表が慌てて制止しようとするが、宇宙屋たちはもう止まらない。
「手続きが必要なのは理解しています」民間主任エンジニアが食い下がる。「でも、テストは今日やるべきです。我々のチームなら、数時間で合成ラインを立ち上げられます」
宇宙軍の将官が、重々しく口を開いた。
「ホワイトハウスが許可を出すなら、ネバダの軍管轄ロケット実験施設を使わせよう。あそこなら万が一爆発しても隠蔽できる」
ダグラスは、まるで言うことを聞かない子供たちを見るような目で小さくため息をつき、しかし、どこか予想していたような口調で言った。
「そのために、皆様の午後のスケジュールは全て白紙にしてあります」
宇宙屋たちが、一斉に顔を輝かせた。
レオナードが机を叩く。
「最高だ。あんた、話が分かるじゃないか」
「喜ぶのはまだ早いです」ダグラスは、もう一つのバインダーを指差した。「二冊目の資料を開いてください。項目2、『慣性ダンパー』についてです。この技術の理解なしに、あの推進剤を実用化することは不可能です」
参加者たちは、促されるままに二冊目の資料を開いた。
そこには、日本から提供された基礎的な限定版データとはいえ、重力制御と人工的な慣性相殺に関する数式がびっしりと書き込まれていた。
NASAの構造担当エンジニアが、数ページ読んだところで額に汗を滲ませた。
「……一応、数式のロジックは追えます。理論上は理解できます」
「理解はできるが、自分たちでこれを一から発明しろと言われても、絶対に無理だな」と、民間宇宙企業の構造技術者が白旗を揚げるように首を振った。
NASA主任技術者が、顎を撫でながら解説する。
「局所的な人工重力場の生成。そして、それを構造保全フィールドとして作用させる……。要するに、秒速150キロまで急加速した時、通常なら中の人間は重力加速度(G)で潰されてミンチになり、船体も粉々に砕け散る。それを、外側から頑丈な素材で支えるのではなく、船体の『内側の物理条件』そのものを歪めて、加速のエネルギーを相殺・無効化するということか」
「それは、一種の防護シールドとしても機能するということだな」宇宙軍将官が、鋭い視線で言った。
「はい」構造技術者が頷く。「微小隕石の衝突エネルギーも、この場の歪みで受け流せる可能性があります。物理的な装甲に頼る必要性が劇的に下がります」
NASA長官が、深く息を吸い込んだ。
「推進剤だけなら、ただの速すぎる危険な弾丸だ。だが、この慣性ダンパーがあることで、初めてそれは『人間が乗れる宇宙船』になる」
「その通りだ」レオナードが真剣な表情で言った。「この二つはセットだ。片方だけでは、決して実用化できない」
「推力、宇宙での補給、加速Gの相殺、船体の構造保全、デブリ対策……」推進剤専門家が、呆然と呟いた。「アンノウンは、我々が抱えていた宇宙船の欠点を、全て一つのパッケージで解決している」
「普通は、一つずつ解決するんだ」NASA主任技術者が、悔しさと感嘆の入り混じった声で言う。「エンジンを作って、それに耐えうる船体を設計して、安全性を高めて、補給路を考える。何十年もかけて、少しずつ。だがこれは……最初から全てが計算され尽くした、完璧な完成品だ」
「ずるいよな」レオナードが笑った。その笑顔の裏には、自分たちが積み上げてきた技術が、一瞬にして旧時代のアナログな遺物へと追いやられたことへの、技術者としての絶望があった。「こっちは何十年も、ロケット方程式っていう悪魔と殴り合ってきたっていうのに」
「でも」若手軌道力学者が、資料を力強く握りしめながら言った。「これでようやく、その悪魔に殴り勝てるかもしれません」
その言葉に、誰もが反論しなかった。
彼らの心の中には、敗北感と歓喜が、強烈な化学反応を起こしながら渦巻いていた。
数時間後。
ネバダ州の荒野に位置する、宇宙軍管轄の隔離ロケット実験施設。
分厚い防爆ガラスで囲まれたコントロールルームには、ホワイトハウスの地下にいたメンバーたちが、白衣や軍服、作業服姿で集結していた。モニター群の光が、眠気を完全に忘れた彼らの瞳を照らしている。
施設の外の巨大な試験スタンドには、急遽製造された少量の新型推進剤が、既存のスラスターエンジンを改造したテスト機に装填されていた。
ダグラスは、腕組みをしながら見学席で苦い顔をしている。
「本当に今日やるのか……。事前のシミュレーションすら不十分だぞ」
「今日やらなければ、ここにいる全員、一生眠れませんよ」NASA長官が、少年のように目を輝かせながら答えた。
「燃焼試験、点火準備完了」
民間主任エンジニアの声が、コントロールルームに響く。
「カウントダウン開始。スリー、ツー、ワン、イグニッション(点火)」
ボタンが押された瞬間、防爆ガラスの向こうで、凄まじい轟音が響き渡った。
だが、その炎は、彼らが見慣れた化学ロケットのオレンジ色の炎でも、水素の透明な炎でもなかった。
それは、まるで雷を凝縮したような、眩い白青色のプラズマの奔流だった。試験スタンド全体が、未知のエネルギーの解放に耐えかねるように激しく振動している。
モニターに表示される各種センサーの数値が、狂ったような勢いで跳ね上がる。
「推力上昇! 異常な速度です! しかし、燃焼は極めて安定しています!」推進剤専門家が叫ぶ。
「燃焼効率、理論値の98パーセントをマーク! 信じられない……」
「嘘だろ……燃焼が綺麗すぎる。不純物による推力ロスが全くない」NASA主任技術者が、画面に齧り付くように見入る。
第一回の燃焼試験は、完璧な成功を収めた。
「ハハハハ! 素晴らしい! これが新しい時代の火か!」レオナードが、コントロールルームの中で一人、歓喜の声を上げて拍手をした。
その後、推進剤の配合や噴射圧を変えながら、複数回の試験が繰り返された。
加速シミュレーションと実測データが次々と蓄積されていく。
やがて、民間主任エンジニアが、汗を拭いながら報告を上げた。
「推進力、全く問題ありません。理論通りの出力が出ています。……ただし、現在の試験施設のスタンドの強度と計測機器の限界により、安全に計測・シミュレーションできるのは、せいぜい秒速50キロメートル級までが限界です」
「つまり?」NASA長官が問う。
「これ以上の性能限界を引き出すには……地球上では不可能です。宇宙空間で実際に飛ばして実験するしかありません」
コントロールルームに、ドッと笑い声が起きた。
それは、限界にぶつかった諦めの笑いではない。地球の設備では到底測りきれないほどのバケモノじみたスペックに対する、呆れと喜びが入り混じった笑いだった。
全員が同じことを思っていた。
——なら、宇宙でやろう。
「既存のエンジンの燃焼室を少し改造して、この推進剤を入れ替えるだけでも、おおよそ50km/sまでは加速可能です」推進剤専門家がデータを指差す。
「これに最適化した『専用スラスター』を新規で設計すれば、150km/sの理論値に確実に届きます」民間主任エンジニアが力強く断言した。
「その専用スラスターの製造に、どれくらいかかる?」NASA主任技術者が尋ねる。
「……一ヶ月は欲しいですね」主任エンジニアが答える。「設計変更、耐熱素材の選定、燃焼室の再構築、噴射制御プログラム、全部一からやり直す必要があります。本来なら数年かかるプロジェクトですが、眠らなければ一ヶ月で形にします」
「たった一ヶ月で済むのか」
NASA長官が、呆れたように、しかし誇らしげに笑った。
宇宙開発の常識からすれば、一ヶ月で全く新しい概念のエンジンの実証機を作るなど狂気の沙汰だ。しかし、ここにいる狂人たちなら、間違いなくやってのけるだろう。
続いて、別の区画で「慣性ダンパー」の簡易的な稼働実験が行われた。
高加速度環境を模擬した衝撃試験機の中に、生体を模したセンサーや精密なガラス機器を入れ、外側から人工重力場を発生させる。
通常であれば、内部の機器は一瞬で粉砕されるレベルの衝撃が加えられた。
「……信じられん」
構造技術者が、モニターの数値を二度見して叫んだ。
「内部にかかる加速度が、外部の衝撃の12パーセントまで低下しています! ほぼ完全に相殺されている!」
「これなら、人間が乗れるな」宇宙軍将官が、初めて満足そうに頷いた。
「ええ、乗れます」NASA長官が深く頷く。「これなら、速いだけの危険物ではなく、本当の意味での『有人宇宙船』が作れる」
推進剤という「絶対的な速さ」。
そして、慣性ダンパーという「人間を乗せるための資格」。
二つのピースが揃ったことで、彼らの頭の中に、明確な未来のビジョンが完成した。
深夜。再びホワイトハウスの地下、ブリーフィングルーム。
参加者たちの顔には疲労の色が濃く滲んでいたが、その瞳の奥には、新たな火が煌々と燃え盛っていた。
「現場の状況と、技術の真価は十分に理解しました」
NASA長官が、代表して口を開いた。
「専用スラスターの設計チームを、明日……いや、今日中にスペースX内に立ち上げます。他社の優秀な人間も引き抜いて総力戦でやります」レオナードが前のめりになって言う。
「NASA側は、軌道実証計画のロードマップを直ちに組みます。安全性を考慮し、まずは無人の実証機によるテストから始めるべきでしょう」NASA主任技術者が手帳にペンを走らせる。
「打ち上げの安全区域の設定と、レーダー追跡網の構築は軍が引き受けよう」宇宙軍将官が胸を叩く。
ダグラス首席補佐官が、疲れたように額を揉みながらまとめた。
「……では、アンノウンの技術を適用した次世代ロケットを、一ヶ月後を目安に実用化……正確には、軌道上での実証可能な状態へ持ち込む。政府としては、そういうスケジュールで大統領に報告を上げます。よろしいですね」
「はい」NASA長官が力強く頷く。
「一ヶ月ください。必ずモノにしてみせます」民間主任エンジニアが目を血走らせて答える。
「一ヶ月後までに、火星航路の新しい軌道計算も全て更新しておきます」若手軌道力学者が、すでにパソコンの画面に向かいながら言った。
「月面基地の第一期工事の予算案も、大至急まとめ直さないとな」レオナードが、愉快そうに笑った。
会議が終わり、彼らがホワイトハウスの外へ出た時、ワシントンD.C.の夜空には、白く輝く月がぽっかりと浮かんでいた。
NASA長官は、足を止め、その月を静かに見上げた。
これまでは、あの月も、その先の火星も、あまりにも遠かった。
国家予算の壁、ペイロードの制限、燃料の呪縛、打ち上げウィンドウの狭さ、そして搭乗員の命のリスク。
その全てが、宇宙の「遠さ」を作っていた。
だが今日、その遠さを作り出していた壁の大部分が、音を立てて崩れ去った。
「……月は、もう空の飾りではないな」
長官の呟きに、隣に並んだレオナードがニッと笑って応じた。
「我々の、新しい行き先だ」
「そして……」背後から歩いてきた若手軌道力学者が、眼鏡を押し上げながら静かに付け加えた。「次なる深宇宙への、補給地点でもあります」
その日、アメリカの宇宙屋たちは、自分たちが何を与えられたのかを完全に理解した。
日本の地下に潜む「アンノウン」という名の神が、彼らに手渡したもの。
それは、単なる高効率なロケット燃料でも、便利な盾でもなかった。
それは、人類を長年縛り付けてきた「地球」という重力の檻を開けるための、絶対的な『鍵』だった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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