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第15話 老兵は死なず、ただ再生す

 東京都新宿区。

 都内某所にある国立高度医療センター。

 その最上階にある特別個室の窓からは、曇天の東京の街並みが広がっていた。

 無機質な電子音だけが、一定のリズムで時を刻んでいる。

 ピッ、ピッ、ピッ……。

 心電図モニターの波形は、この部屋の主の命が風前の灯火であることを、残酷に示していた。


 ベッドに横たわっている男の名は、鬼塚おにづかゲン。

 警視庁公安部外事課。

 その世界で「鬼のゲン」と呼ばれ、数々のテロリストやスパイを震え上がらせた伝説の捜査官だ。

 だが今の彼に、その面影はない。

 年齢は五十五歳だが、見た目は七十を超えた老人のように枯れ果てている。

 頬はこけ、眼窩は落ち窪み、かつて鋼のようだった筋肉は削げ落ちて、骨と皮だけになっていた。


「……ふぅ、ふぅ……」


 浅い呼吸を繰り返すたびに、胸の奥で錆びた刃物が暴れるような激痛が走る。

 膵臓癌。ステージ4。

 発見された時には、既に手遅れで、肝臓や肺にも転移していた。

 現代医療の敗北。

 余命宣告は「あと一ヶ月」。

 だが鬼塚自身は悟っていた。

 おそらく今週が山場だろう。


 コンコン。

 控えめなノックの後、かつての部下たちが顔を出した。

 彼らは高級なメロンや花束を抱え、痛々しいほど気を遣った表情をしている。

 その視線にあるのは「憐れみ」だ。

 かつての鬼上司が見る影もなく衰弱している姿に対する、残酷なほどの同情。

 それが鬼塚のプライドを、何よりも傷つけた。

 十分ほどの当たり障りのない会話の後、彼らは逃げるように去っていった。


 再び静寂と、電子音だけが残る。

 鬼塚は目を閉じた。

 これでいい。老兵は静かに消え去るのみだ。


 だが、その静寂を破るように、再びドアが開いた。

 今度はノックなしだ。


「……お父さん」


 凛とした、しかし微かに震える声。

 鬼塚はゆっくりと目を開けた。

 そこに立っていたのは、一人の若い女性だった。

 黒いスーツに身を包み、髪を後ろで束ねた知的な美女。

 一人娘のマリだ。

 彼女もまた父の背中を追って公安警察の道を歩んでいる。

 現在は内閣情報調査室に出向中だ。


「……マリか。仕事はどうした」

「休憩時間に来たの。……顔色が悪いわね」


 マリはベッドの脇に立ち、父親の痩せ細った手を握った。

 その手は冷たく、血管が浮き出ている。

 彼女は悲しみを押し殺すように、唇を噛んだ。


「……お父さん。今日は話があって来たの」

「遺産の話なら、もう整理してあるぞ」

「違うわ。……もっと重要な任務の話よ」


 マリは周囲を警戒するように、一度廊下を確認し、声を潜めた。

 そして鞄から一枚の書類を取り出した。

 『未承認医療技術・臨床試験同意書』。

 その上部には、見たこともないプロジェクトコードが刻印されている。


「……政府が極秘に入手した、未知の『新薬』があるの。

 劇的な細胞修復効果があると言われているわ。

 ただ、データが不足している。

 人間に投与した場合の副作用も、長期的な影響も未知数。

 ……つまり、モルモットよ」


 マリの声が震えた。

 実の父親に人体実験の検体になれと言うのだ。

 娘として、これほど辛いことはないだろう。


「政府は被験者を探していたわ。

 身元が確かで、守秘義務を絶対に守り、そして……万が一のことがあっても社会的な影響が少ない人間を」


 鬼塚は書類を見つめた。

 なるほど。末期癌の元公安刑事。

 国への忠誠心は保証付き。

 そして放っておいても数日で死ぬ命。

 実験台として、これほど好都合な素材はない。


「……お前が推薦したのか?」


 鬼塚の問いに、マリの肩がビクリと跳ねた。


「……ごめんなさい」


 彼女の手が小刻みに震えているのが分かった。

 内調のエリートとしての仮面が剥がれ落ち、ただの娘の顔になっていた。


「私がリストに入れたの。

 医者はもう無理だと言った。緩和ケアしかないって。

 でも私は諦めたくなかった。

 例え実験台でも、化け物になっても……お父さんに生きていてほしいの!」


 涙が書類の上に、ポタリと落ちた。

 彼女は自分が何をしたか分かっている。

 父親を救うために、父親を国に売り渡したのだ。

 もし実験が失敗して、苦しみながら死んだら、彼女は一生、親殺しの罪悪感を背負って生きることになる。


(……馬鹿な娘だ)


 鬼塚は心の中で苦笑した。

 だが、その不器用な愛情が、冷え切っていた彼の心に火を灯した。


「……ペンを貸せ、マリ」

「えっ……」

「国のためじゃない。

 お前が俺を殺したと、一生悔やまないためにサインしてやる」


 鬼塚は震える手でペンを取り、同意書にサインをした。

 その筆跡は弱々しかったが、迷いはなかった。

 鬼塚ゲン。

 その署名が、彼の運命を大きく変える契約となった。


 翌日。

 鬼塚は厳重な警備体制の下、自衛隊中央病院の地下にある「特別隔離区画」へと移送された。

 そこは病院というより、要塞の内部にある実験施設だった。


 無影灯が眩しく輝く手術室。

 分厚い防弾ガラスの向こうにある観察室には、白衣を着た医師団に加え、スーツ姿の政府高官たちの姿が見える。

 その中には、内閣官房から派遣された日下部の姿もあった。

 彼の手元には、赤いカバーの付いたコンソールがある。

 『緊急浄化パージ』ボタン。

 万が一、被験者が暴走し制御不能になった場合、手術室内に致死性の神経ガスを散布するための安全装置だ。


(……失敗すれば死体。成功しても怪物か)


 日下部は胃の痛みを堪えながら、マイクに向かった。


「……これより、検体番号001に対する『医療用キット』の投与試験を開始します」


 手術台に固定された鬼塚は、四肢を革製のベルトで拘束されている。

 執刀医は防護服とゴーグルで完全武装している。

 手には金属製の奇妙なデバイスが握られていた。

 注射器ではない。

 SF映画に出てくるような未来的なインジェクターだ。

 シリンダーの中には、エメラルドグリーンに発光する液体が満たされている。


「バイタル、低下しています。……急いでください」

「投与開始します」


 医師がデバイスを鬼塚の首筋に押し当てた。

 プシュッ。

 圧縮空気が解放される音。

 冷たい液体が体内に滑り込んでくる。


 その瞬間だった。


 ドクンッ……ドクンッ……


 心臓の鼓動が、奇妙なほどゆっくりと、しかし力強く聞こえた。

 鼻をつく消毒液の匂いが消え、代わりに甘い花のような香りが脳髄を満たす。

 感覚が変質していく。


 そして、灼熱が走った。


「ぐっ……うううううっ!!」


 鬼塚は歯を食いしばった。

 痛いのではない。熱い。

 全身の細胞が沸騰するかのように暴れ回っている。

 骨が軋み、筋肉が収縮し、血管が脈動する。


「バイタル急変! 心拍数180! 体温42度突破!」

「代謝異常です! 細胞分裂の速度が測定限界を超えています!」


 医師たちの狼狽する声が、スローモーションのように聞こえる。

 だが鬼塚の体内で起きていたのは、崩壊ではなく「再構築」だった。


 ナノマシン。

 数兆の極小の機械たちが、プログラムされた通りに任務を遂行する。

 膵臓の腫瘍が消滅する。

 転移した肝臓の癌が、消しゴムで消すように綺麗になる。

 萎縮した筋肉繊維が編み直され、脆くなった骨密度が鋼のように強化される。


 観察室でモニターを見ていた医師の一人が、震える声で呟いた。


「……これは治療じゃない」

「え?」

「若返りでもない。人体の『設計図』そのものを書き換えているんだ。

 老化した細胞を修復しているんじゃない。新品に取り替えている……!」


 それは一分間の奇跡だった。

 一人の人間が一生をかけて行う代謝と治癒を、六十秒に圧縮したかのようなエネルギーの奔流。


「……数値、安定しました」

「心拍数60。血圧120の80。……正常値です」

「腫瘍マーカー……検出限界以下。癌細胞が完全に消失しました」


 医師たちが呆然と立ち尽くす中、手術台の上の拘束ベルトがギチギチと音を立てた。

 鬼塚が身じろぎをしたのだ。


 日下部の指が、コンソールのボタンにかかる。

 隣に控えるSAT隊員たちが、麻酔銃のセーフティを解除する音がした。


「……熱いな」


 鬼塚が呟いた。

 その声には、先ほどまでの枯れた響きは微塵もなかった。

 腹の底から響く重厚で力強いバリトンボイス。


 彼は目を開けた。

 視界がクリアだ。

 天井の無影灯のフィラメント一本一本までが見える。

 彼はゆっくりと上半身を起こそうとした。

 拘束ベルトが食い込む。


 ブチッ。


 革のベルトが、あっけなく引き千切れた。

 無理やり引きちぎったのではない。

 ただ「起き上がろうとした」だけの動作に、ベルトの強度が耐えられなかったのだ。


「ひっ……!」


 執刀医が腰を抜かして後ずさる。

 日下部が息を呑む。

 だが鬼塚は暴れなかった。

 彼は自分の手を見つめ、握り込み、そして静かに医師を見た。


「……先生。検査は終わりか?」


 その瞳には理性の光があった。

 だが同時に、猛獣のような底知れぬ生命力が宿っていた。


 数時間後。

 別室にて精密検査が行われていた。

 MRI、CTスキャン、血液検査、運動能力測定。

 あらゆるデータが、鬼塚の「完全復活」を裏付けていた。


「……主要臓器の機能は二十代前半相当。骨密度は若者の150%。

 反射神経、動体視力ともにアスリートレベルを凌駕しています。

 医学的には『奇跡』としか言いようがありません」


 ソファに座った鬼塚は、支給された新しいスーツに袖を通していた。

 筋肉量が増え、以前の服はサイズが合わなくなっていたため、ワンサイズ上の特注品だ。

 その背筋はピンと伸び、かつての「鬼のゲン」の威圧感が完全に蘇っていた。


 日下部が複雑な表情で書類をめくった。


「おめでとうございます、鬼塚さん。実験は成功です。

 ……ですが貴方は、もう『一般人』ではありません」

「分かっている。検査漬けの日々だろう?」

「ええ。それに貴方の存在そのものが国家機密です。

 本日付けで貴方の戸籍上の死亡届は保留されますが、公安部への復帰もありません」


 日下部は眼鏡を光らせ、冷徹な事務口調で告げた。


「貴方の新しい所属は、内閣官房直轄……『特別強化要員(仮称)』です。

 要するに、政府のモルモット兼、使い捨ての番犬ですよ」


 辛辣な言葉だ。

 だが鬼塚はニヤリと笑った。


「上等だ。

 どうせ拾った命だ。ベッドの上で腐っていくより、よほどマシだ」


 彼はガラスの向こうにいる娘マリを見やった。

 彼女は泣き崩れていた。

 父親が生きて戻った安堵と、彼を人間ではない何かに変えてしまった罪悪感で、顔を覆っている。


(……泣くな、マリ)


 鬼塚は心の中で語りかけた。


(俺は、お前に感謝しているんだ。

 この体なら、まだ戦える。

 国を、そしてお前を守るために)


「日下部さん。

 この薬……『テラ・ノヴァ』からもたらされた物だと言ったな」

「ええ、そうです」

「なら俺の新しい職場はそこか?

 それとも、この力を使って国内のゴミ掃除か?」


「両方、頼むかもしれません。

 工藤創一氏という『特異点』の護衛や、機密保持のための汚れ仕事……色々と働いてもらいますよ」


「了解した」


 鬼塚はネクタイを締め直し、ビシッと敬礼をした。

 指先まで神経の行き届いた、美しい敬礼だった。


「鬼塚ゲン、只今より現役復帰する。

 ……国のために、この命、骨の髄まで使い潰してくれ」


 老兵は死ななかった。

 ただ人間としての余生を終え、国家の最高機密兵器として生まれ変わったのだ。

 その背中には、医学の常識を超えた「ナノマシンの加護」と、国と娘への狂気じみた忠誠心が宿っていた。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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メインヒロインと護衛・・・ 護衛に熨される未来しか見えない
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