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自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~  作者: パラレル・ゲーマー
第九部 空の街ヤタガラスと、次の奇跡を探す世界編開始

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第122話 切れない切り札と、相乗りする帝国

 ロシア連邦、モスクワ。

 空を重く覆い尽くす鉛色の雲から、氷の刃のような細かな雪が音もなく舞い落ち、赤の広場を一面の純白に染め上げていた。かつて幾多の侵略者の野望を凍りつかせたその冬の厳しさは、今やロシアという大国そのものを内側から冷やし、孤立という名の絶対零度の中に閉じ込めているかのようだった。

 だが、クレムリン宮殿の地下深く、核戦争の熱線すら遮断する分厚いコンクリートと鉛の壁に守られた深層バンカーの空気は、以前のような血の気を失ったパニックや絶望のどん底からは、わずかに抜け出していた。


 そこにあるのは、破滅を免れたあとに訪れる、重苦しくも静かな停滞感である。

 西側との屈辱的な休戦協定を結び、国家資産である三千億ドルを差し出し、自国の精鋭たるスパイ網をアメリカと中国に狩り尽くされるのを黙って見届けるしかなかった。底の底まで叩き落とされたロシアは、いまや牙を剥く猛獣ではなく、暗がりで傷を舐めながら「どう他者に寄生して生き延びるか」を冷徹に計算する、老獪なハイエナのフェーズへと移行していたのだ。


 円卓の最奥、革張りの椅子に深く沈み込むようにして座るウラジーミル・ボグダノフ大統領は、まるでその身に氷を纏っているかのように冷ややかな瞳で、手元に置かれた分厚い書類の束を見下ろしていた。

 黒塗りの箇所が目立つ欧州情勢レポート、諜報報告書、そして最近になって急激に分厚さを増している『特殊医療ルート』に関する関連資料。


「……報告しろ」


 ボグダノフの口から漏れた短く低い声が、静寂のバンカーに響いた。

 それに応じ、参謀本部情報総局(GRU)長官のミハイルが、わずかに背筋を正して手元のメモに視線を落とした。


「はっ。ヨーロッパの諜報網から上がってきた最新のインテリジェンスによりますと……イギリスとフランスが、ついに『フェーズグレイ』の存在に気づいたようです。少なくとも両国の政府中枢および軍事・情報機関のトップレベルにおいて、アメリカ軍の特殊部隊が使用しているとされる『外傷治療用ナノマシン』の存在が、明確な議題として上程されております」


 ミハイルの報告を聞き、ボグダノフは薄い唇の端を微かに歪めた。


「……ようやく気がついたのか。

 周回遅れどもめ」


 その一言には、かつて世界を共に牽引してきた欧州の大国に対する、明確な冷笑と優越感が込められていた。

 自分たちは、アメリカや日本が持つ「神のグラス・アイ」の恐怖を骨の髄まで味わわされ、国を切り売りしてまでその不可視の支配に屈した。だが、あの気位ばかり高いイギリスやフランスの連中は、今頃になってようやく、アメリカの足元に転がっていた「魔法の薬の欠片」に気づいて右往左往しているのだ。自分たちがすでに飲み込まれている巨大な枠組み(システム)の存在にすら思い至らず、ただ一つの戦場医療技術の噂に踊らされている。


「それで、連中はどう動いたのだ?」


「両国の動きは対照的です」


 連邦保安庁(FSB)長官のアレクセイが、冷ややかな声で引き継いだ。


「イギリスは、非常に静かに、そして陰湿に動いています。彼らは正面からアメリカに問いただすような真似はせず、かつて極秘裏にアメリカの仲介で日本の『ガン治療』を受けた王室関係者や旧貴族の人脈をフル活用し、東京の裏ルートへと直接接近を試みています。あくまで『我々も列に並ばせてほしい』という従順なポーズを崩していません」


「いかにもアングロサクソンらしい、抜け目のないやり口だな」


「一方、フランスの動きは極めて直線的でした。彼らは事態を把握するや否や、エリゼ宮からワシントンのホワイトハウスへ大統領直通のホットラインを繋ぎ、アメリカに対して直接『情報の開示と共有』を迫りました」


「ほう。ヘイズ大統領に食ってかかったか。結果は?」


「ワシントン側は、『我々アメリカが単独で判断できる案件ではない』と突っぱねたようです。……事実上のゼロ回答ですね。フランス側はそこで完全に口を閉ざすしかなく、現在、どうにかして日本との直接交渉のテーブルに着こうと、軍事医療の共同研究などを名目に足掻いている状況です」


 その報告に、バンカーの円卓を囲むロシアの首脳たちの間から、押し殺したような、しかし明確に意地の悪い笑い声が漏れた。

 かつての冷戦時代からロシアを目の敵にし、人権や民主主義を盾にして上から目線で説教を垂れてきた欧州の指導者たちが、極東の島国が差し出した餌の前に無様にひれ伏し、アメリカに袖にされて途方に暮れている。その滑稽な姿は、全てを失ったロシアの指導部にとって、この上ない極上のエンターテインメントであった。


「ははは。いい気味だ。ヨーロッパの連中は、我々よりもまだ一年は遅れているな」


 ボグダノフは、本気で楽しそうに喉の奥で笑い声を立てた。

 だが、その笑いは数秒と続かなかった。

 彼はスッと表情を消し、冷え切った声で自らにブレーキをかけた。


「……まあ、下を見て喜んでいる場合でもないか」


 その切り替えの早さに、側近たちも即座に表情を引き締め直した。

 そうだ、今のロシアには他国を嘲笑うほどの余裕など、どこにも残されていないのだ。イギリスやフランスが日本に頭を下げているのは事実だが、ロシアはそもそもその「頭を下げる列」にすら並ばせてもらえていない。完全に蚊帳の外に置かれた、哀れな敗残者でしかない。


「イギリスは、日本に近い」


 ミハイルが、冷徹な現実認識を言葉にした。


「彼らはすでに『消しゴム君』の恩恵に与っているVIPを多数抱えており、日本政府とのパイプも構築されつつあります。……彼らの従順な姿勢が評価されれば、いずれ『不死身の兵士を作る薬』の限定的な貸与を受ける可能性は十分にあります」


「脇の甘い英国の軍部や貴族社会にその薬が入り込めば、我々の諜報網を通じて、ロシアもその現物をかすめ取ることができるかもしれません」


 アレクセイが、希望的観測を交えて付け加える。


「イギリスのセキュリティは、アメリカや日本ほど鉄壁ではありません。彼らが運用テストを行う段階になれば、必ずどこかに付け入る隙が生まれます」


「だが、アメリカが当然邪魔をしてくるだろうな」


 ボグダノフは、組んだ指の関節を鳴らしながら実務的な顔になった。


「アメリカのディープステート……あのタイタン・グループが、自分たちが独占している軍事的優位を、そう簡単に他国に横流しするとは思えん。イギリスに渡すにしても、何重にもロックをかけ、自壊プログラムを仕込んだ状態での貸与になるはずだ」


「はい。ですから、今はまだ待つのが無難かと存じます」


 ミハイルが頷く。


「ここで我々が欧州で強引な奪取作戦などに出れば、せっかくウクライナでの休戦と経済制裁緩和によって少しずつ戻り始めた『ロシアは大人しくなった』という国際的な印象を、自ら破壊することになります。

 イギリスがすぐに貸与されるとは限らない。フランスもまだ何も得ていない。欧州は、まだ『秘密の入り口を知ったつもり』になっているだけの段階です。我々が焦って動く必要はありません」


「アメリカ次第だな」


 ボグダノフは、世界地図の広げられたモニターを睨みつけた。


「アメリカが、NATO全体への技術共有を決意したら、我々にとっては最悪の悪夢だ。ヨーロッパ中の軍隊が不死身の歩兵で構成されれば、我々の通常戦力などただの案山子と同義になる。……だが同時に、それは技術を盗み出す絶好のチャンスでもある」


「ですが、アメリカは共有はしないでしょう」


 アレクセイが即座に否定した。


「彼らは漏洩の危険を何よりも恐れています。ロシアや、何より中国に『リバースエンジニアリング』の機会を与えるほど、アメリカの影の政府ディープステートは甘くありません。彼らは同盟国すら信じていないのですから」


 その一言で、ロシアの指導部が、アメリカの「本当の判断者」がホワイトハウスの主ではなく、その背後にいる軍産複合体と情報機関の怪物たちであることを正確に理解していることが窺い知れた。


「……なお、大統領。イギリスとフランスは、まだ『そこ』までしか辿り着いていません」


 ミハイルが、声をさらに一段階潜め、極めて慎重なトーンで報告を続けた。


「彼らが血眼になって探しているのは、あくまで戦傷治療用のナノマシン(フェーズグレイ)と、ガン治療の薬までです。

 ……中国のチャオ長老が使用したとされる、あの『不老不死の薬』の存在には、欧州の情報機関はまだ一切気づいておりません」


 その報告がもたらされた瞬間、バンカー内の空気が、先ほどまでの「悔しさ」や「計算」といった生温いものから、もっと深く、底知れぬ暗淵の冷たさへと一気に変わった。


 これこそが、現在のロシアが抱える最大の、そして最も呪われた秘密であった。


「ロシアには、まだ彼らに対するアドバンテージがあるということか」


 ボグダノフが、目を細めて静かに問う。


「少なくとも、情報としては」


 ミハイルの答えに、重い沈黙が降りた。


 ロシアは知っているのだ。日本という国が隠し持つオーバーテクノロジーの最深部を。

 ガンを治す消しゴムでも、傷を塞ぐ絆創膏でもない。細胞のすべてを初期化し、老いた肉体を全盛期の状態へと強制的に若返らせ、死という絶対の運命すらをも否定する神の霊薬。

 中国の元最高権力者がそれを使用し、マイアミのビーチで水着姿で狂喜乱舞していたという、あの悪夢のような現実。


 情報はある。

 だが、それをどう使えるかは、全くの別問題であった。


「……ロシアとして……」


 ボグダノフは、半分独り言のように、ポツリと呟いた。


「この『不老不死の薬』の存在を、世界に向けて匂わせたら、どうなる?」


 その問いが発せられた瞬間、円卓の空気がピンと極限まで張り詰めた。

 ここにいる全員が、一度はその「禁断のカード」を切ることを想像したことがある。だが、その結果がもたらすあまりにも破滅的な未来を予見し、誰も軽々しく口にすることはできなかったのだ。


「……大混乱が起きると思います」


 参謀本部の分析官が、乾いた喉を鳴らしながら、淡々とシミュレーションの結果を述べた。


「我々が情報をリークすれば、アメリカと日本は即座にそれを『ロシアの悪質なフェイクニュースだ』と全面否定するでしょう。中国もまた、自国の元指導者の姿を隠蔽するために同調して否定に回ります。

 ……だが、火のない所に煙は立たない。趙長老という『生き証人』が存在し、その動画がネットの海に漂っている以上、完全な否定は不可能です。

 そして、その情報の真実味を悟った瞬間、欧州の特権階級たちは狂乱して日本の門を叩く。中東の王族や、新興国の独裁者たちも一斉に『我々にもよこせ』と騒ぎ立てるでしょう」


 分析官は、言葉を切らずに一気に最悪のシナリオを描き出した。


「日本とアメリカへの猜疑心は爆発し、西側の同盟関係は内部から崩壊します。中国は、特権階級だけが不老不死を独占しているという事実が人民に知れ渡れば、体制の正統性そのものが揺らぎ、大暴動に発展しかねません。

 ……つまり、世界はかなり、いえ決定的に壊れます」


 世界が壊れる。

 それは、全てを失ったロシアにとって、ある意味で溜飲の下がる復讐のシナリオのようにも思えた。

 だが、ボグダノフは少しだけ目を閉じ、深く思考を巡らせた後、ゆっくりと首を横に振った。


「……なしだな」


 その一言に、会議室の全員が、張り詰めていた息を静かに吐き出した。


「ここで日本とアメリカの機嫌を致命的に損ねるのは、最悪の悪手だ。世界が壊れたところで、我々ロシアに利益が転がり込んでくるわけではない。むしろ、激怒した彼らが『報復』として、我々の経済制裁の緩和を白紙に戻し、再び完全な孤立状態へと叩き落とすだろう。

 ……このカードは、使うなら、ロシアが本当に沈む時だけだ」


「……」


 ボグダノフは、自らの前で組んだ指をじっと見つめながら、冷徹な声で宣言した。


「あの薬の情報は、“使うカード”ではない。

 “使うぞ”と、相手に考えさせるための『影』として残すのだ」


 その言葉の真意を、側近たちは即座に理解した。


「切り札というものは、切った瞬間に死に札になります」


 アレクセイが、静かに補足する。


「我々が不老不死の薬を持っているわけではない。ただ『存在を知っている』というだけです。それを公表してしまえば、世界は混乱しますが、我々の手元には何も残りません。

 ……ですが、今は『ロシアは、お前たちが隠している一番奥底の秘密まで知っているぞ』という曖昧な気配自体に、極めて高度な外交的価値があります。

 日本、アメリカ、そして中国のいずれに対しても、我々をこれ以上追い詰めれば、この秘密を世界にばら撒くぞという、無言の脅迫材料として保持し続けるのです」


 不老不死薬は暴露しない。だが、決して捨てない。

 この「切れない切り札」を懐に抱え込み、他国の首脳たちに薄ら寒い疑心暗鬼を抱かせ続ける。それこそが、情報戦で全てを失ったロシアに残された、唯一にして最大の武器であった。


「……よし。深い秘密の話はここまでだ」


 ボグダノフは、意図的に重苦しい空気を切り裂くように、少しだけ声を張った。ここからは、妄想ではなく、明日のパンをどうやって確保するかという、極めて現実的で泥臭い金の話に戻らねばならない。


「それより、アメリカの『VIP向けガン治療』に我が国の富裕層を相乗りさせる件は、どうなっている?」


 この話題こそが、現在のロシアの「落ちぶれた姿」を最も如実に表している実務であった。


「おおよそ半々、というところです」


 ミハイルが、タブレットのリストを参照しながら答えた。


「半々?」


 ボグダノフが眉を上げる。


「はい。現在、ガンを患っている国内のオリガルヒ(新興財閥)や政府高官たちのうち、一部の者は、独自にヨーロッパの闇ブローカーや、タイタン・グループの関係者へ直接接触を図り、5000万ドルという法外な対価を払ってでも自力で『消しゴム君』の治療枠をもぎ取ろうと奔走しています」


「国を捨て、自分の金だけで命を買おうとする薄汚いネズミどもめ」


「しかし、別の一部……より計算高く、現状の国際情勢を理解している者たちは、ロシア政府ルートを経由する方が『安全』だと判断し、我々の窓口に泣きついてきています」


 ミハイルの言葉に、ボグダノフはふっと冷ややかな笑みをこぼした。


 現在、ロシア人の超富裕層がアメリカや日本へ直接渡航することは、制裁の影響や資金洗浄の監視の目があるため、極めてリスクが高い。タイタン・グループに5000万ドルを払ったところで、途中でアメリカの司法当局に資産を凍結されたり、日本の入国審査で弾かれたりすれば、金だけ奪われて死を待つことになる。

 だからこそ、ロシア政府が『仲介役』となるのだ。


「政府経由であれば、外務省を通じた特別ビザのパスポートの手配、確実な資金の移動ルートの構築、そして現地での身辺警護を含めた完全なパッケージとして、彼らを日本の極秘施設へ送り届けることができます。

 ……その代わり、政府は彼らから『通行税』を取る、というわけですね」


「なるほど」


 ボグダノフは、皮肉に満ちた笑いを浮かべた。


「我々は奇跡を作れない。アメリカのように奇跡を独占することもできない。

 ……だが、奇跡へ向かう列の『整理券』を売り捌くことはできる、ということか」


 なんという没落ぶりか。

 かつての超大国が、今や富裕層の命をダシにして、他国の治療施設への「ツアーコンダクター」兼「闇のブローカー」に成り下がっているのだ。


「それで、我が祖国が要求する『通行税』の条件はどうなっている?」


「対象者の資産規模や政治的影響力に応じて個別に調整しておりますが、概ね以下のような条件を突きつけております」


 ミハイルが読み上げたリストは、命を担保にした究極の強要カツアゲと呼ぶにふさわしい、露骨極まりないものであった。


「海外のタックスヘイブンに隠匿している資産のうち、最低三割の国庫への還流。

 ロンドンやドバイで展開している、彼らの親族のペーパーカンパニーや法人の即時清算。

 反体制派のメディアやNGOに対する一切の資金提供の停止。

 ウクライナ復興で失われた国家資産を補填するための『愛国基金』への巨額の拠出。

 ……そして、今後のいかなる政権運営に対しても、絶対的な忠誠と資金的支援を約束する『公式な忠誠声明』への署名です」


「よろしい」


 ボグダノフの青い瞳が、残酷な光を帯びて細められた。


「死にたくないなら、まず祖国に払え。

 彼らが長年、国家から吸い上げてきた富を、今こそ絞り尽くしてやるのだ」


 それは、ロシアという国家が生き残るための、あまりにも醜く、しかし極めて合理的な延命策であった。


「……我々は奇跡を作れない」


 ボグダノフは、テーブルの上の資料をトントンと指で揃えながら、冷徹な声で宣言した。


「だが、奇跡へ向かう者から通行税を取ることはできる。

 今のロシアに必要なのは、それで十分だ。帝国は終わったのだ。これからは、泥水をすすってでも、他国のシステムに寄生して生き延びる」


 ◇


 数日後。

 モスクワ市内の、とある政府系ビルの無機質な応接室。


 アンドレイ・ソコロフは、豪華だがどこか空虚な革張りのソファに深く沈み込み、激しい咳の発作に耐えながら、ハンカチで口元を押さえていた。

 六十代後半。ロシアの天然資源輸出の多くを担ってきた資源財閥のトップであり、かつてはボグダノフ政権と一定の距離を置き、ヨーロッパの社交界で華麗な人脈を築いてきた大物オリガルヒの一人である。

 だが、今の彼にその栄華の面影はない。彼の肺には、一度は寛解したはずのガンが再発し、すでに周囲の臓器へと絶望的な浸潤を始めていた。顔色は土気色にくすみ、数ヶ月前よりも体重は十キロ以上落ちている。


 彼の目の前には、白衣を着た医師ではなく、仕立ての悪いスーツを着た国家安全保障会議の役人が、分厚いファイルを開いて感情のない顔で座っていた。


「……ソコロフ氏。貴方の病状の深刻さは理解しております。そして、貴方が望んでいる『アメリカが仲介する、日本の極秘治療』……への参加をご希望とのことですね」


 役人は、まるで市役所で書類の不備を指摘するかのような、事務的で平坦なトーンで言った。


「我々ロシア政府は、貴方のような国に多大な貢献をされた愛国者の健康回復を、全面的にバックアップする用意があります。

 アメリカのVIP治療への相乗りは可能です。我々が政府ルートで優先順位を調整し、確実な治療枠を確保いたします。……出国管理、スイス銀行を経由した資産の安全な移動、そして日本における外交的便宜を含め、すべてパッケージ化してご提供いたします」


 ソコロフは、ゼェゼェと荒い息を吐きながら、血走った目で役人を睨みつけた。


「……もったいぶるな。要求は何だ。

 いくら払えば、その『整理券』を私にくれるのだ」


「ご協力に感謝します。では、手続きに必要な『条件』をご確認ください」


 役人が差し出した書類には、目を疑うような要求が羅列されていた。

 キプロスとバハマに隠している海外資産の35%の国庫への無条件還流。

 ロンドンで彼の息子が運営している投資法人の即時清算と、国内への資金の引き揚げ。

 ヨーロッパの反体制系メディアに対する支援活動の完全な停止。

 国家主導の復興基金への10億ルーブルの拠出。

 そして、ボグダノフ政権の今後の政策に対する絶対的な支持を約束する誓約書。


「…………っ!!」


 ソコロフの震える手が、書類を握りしめ、くしゃりと音を立てた。


「これは……脅迫か?

 私の築き上げた財産の半分以上を奪い、息子たちの未来まで縛り付けようというのか!

 こんな強盗まがいの条件を呑めと言うのか!」


 激昂するソコロフに対し、役人は顔色一つ変えず、冷たく静かに答えた。


「いいえ。脅迫ではありません」


 役人は、万年筆をソコロフの前に置き直した。


「これは、祖国を経由して確実な命を手に入れるための、正当な『優先手続き』です。

 ……もちろん、サインを拒否されるのは貴方の自由です。その場合は、どうぞご自身の力で、アメリカのブローカーと直接交渉なさってください。ただし、貴方の出国ビザが承認されるか、あるいは海外の口座が突如として凍結されないかについては、我々は一切関知いたしませんが」


 ソコロフは言葉を失った。

 絶望的な事実が、冷水のように彼の頭から浴びせかけられた。

 彼は自分が、純粋に「治療を受けるため」にここへ来たのだと思っていた。だが違う。

 彼は、自らの命と引き換えに、国家へ身売りをしに来たのだ。

 かつては国家を金で動かしていると自負していた自分が、今は国家という巨大なシステムに「買い戻され」、搾取される側に回っている。


 激しい咳が再びソコロフを襲い、彼は口元を押さえたハンカチに微かな血の跡を見た。

 時間が、ない。

 ここでプライドを守って死ぬか。全てを奪われても、生き延びるか。

 選択肢など、最初から存在しなかった。


「……分かった」


 ソコロフは、屈辱と絶望に震える手で万年筆を握り、書類の末尾に自らのサインを書き殴った。

 インクが紙に染み込んでいくのを見届け、役人は無表情のまま書類を素早く回収し、カバンに収めた。


「ご協力に感謝します、ソコロフ氏」


 役人は立ち上がり、形式的な一礼をした。


「祖国は、あなたの健康回復を、心より『祈って』おります」


 その言葉には、国民の命を案じるような温もりは微塵もない。あるのは、彼が今後も生きて、国のために金を稼ぎ、忠誠を誓い続けることへの「利益の祈り」だけであった。

 役人が去った後の静まり返った応接室で、ソコロフは一人、革張りのソファに深く座り込んだまま、天井の虚空を見つめていた。

 奇跡のルートに乗るために、自分は全てを売り渡した。

 その冷たい事実だけが、彼の胸を鈍く締め付けていた。


 ◇


 クレムリン地下の深層バンカー。

 会議は終わり、他の閣僚たちは足早に退室していった。


 誰もいなくなった部屋で、ボグダノフ大統領は一人、窓の形を模した巨大なモニターに映し出された、モスクワの雪景色を静かに眺めていた。

 アレクセイから提出された、ソコロフをはじめとする数名のオリガルヒの「誓約書」の束が、デスクの端に積まれている。


「……成果があるなら、それでいい。所詮、相乗りだ」


 ボグダノフは、低く自嘲するように呟いた。

 かつては自らの手で核ミサイルを造り、宇宙へロケットを飛ばし、世界を恐怖で支配した大国。それが今や、極東の島国が落としたパン屑に群がる自国の富裕層から、手数料をピンハネして国庫を潤すだけの、みすぼらしい存在に成り果ててしまった。


 だが、彼はその現実を直視し、受け入れている。

 生き残るためには、泥水をすする覚悟が必要なのだ。


 ボグダノフの視線は、デスクの中央に置かれた二つの極秘ファイルへと向けられた。

 一つは、欧州で英仏が血眼になって探している『フェーズグレイ(外傷治療ナノマシン)』に関する情報。

 そしてもう一つは、表紙に厳重な封印が施された『趙長老の不老不死』に関するファイルだ。


 彼は、その二つ目のファイルの上にそっと右手を置いた。

 分厚い紙の感触が、手のひらに伝わってくる。

 これを世界にぶちまければ、アメリカの威信も日本の隠蔽工作も一瞬で崩壊し、世界はかつてない大混乱へと叩き落とされるだろう。


 だがボグダノフは、そのファイルを開くことなく、ゆっくりとデスクの引き出しを開け、その奥深くへとファイルを滑り込ませた。

 そして、重い鍵をガチャンと回す。


「……最後の一枚は、沈む時まで切らない」


 皇帝の冷たい瞳は、モニターの中で降りしきる雪を見つめたまま、決して光を失うことはなかった。

 北の熊は死んでいない。ただ、暗闇の中でじっと息を潜め、世界が自らの欲望で自壊するその日を、執念深く待ち続けているのだった。



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がんしぼり君が普及したら仲介ビジネス崩壊したりして。
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