第108話 恩義のコードと濾過される奇跡
惑星テラ・ノヴァ。
紫がかった大気を切り裂き、巨大なロケットがまた一機、轟音と共に暗黒の宇宙へと吸い込まれていく。
その光の尾が完全に雲の彼方へと消え去るのを見届けた後、工藤創一は前線基地(FOB)の最上層に位置する司令室のレザーソファに深く身を沈めた。
「ふぅ……。軌道上プラットフォームへの資材搬入、第七十二便完了。
あっちの建設も大分形になってきたな」
創一は独り言ちながら、手元に浮かび上がる無数のホログラムディスプレイをスワイプした。
彼の瞳は、自らに投与した『医療用キットMK2(エボリューション・バイアル)』のナノマシンの影響により、微かに青白い知性の光を放っている。
常人の数百倍、数千倍という速度で思考を並列処理する彼の脳にとって、宇宙空間でのプラットフォーム建設という人類史上の偉業すらも、単なるバックグラウンド処理のタスクの一つに過ぎなくなっていた。
だが、彼が現在、最も手を取られていたのは、ロケットの打ち上げでも、全自動化された工場のライン管理でもなかった。
それは地球の——正確には、アメリカの『タイタン財団』の慈善事業や、各国の超富裕層から送られてくる、ガン患者の3Dスキャンデータへの対応であった。
「……よし。このマサチューセッツの患者の肺ガン、腫瘍の境界マッピング完了。
隣接する血管への浸潤ギリギリだけど、ナノマシンの切除プロトコルをフェーズ4まで細分化すれば安全に削り取れるな。
……次、ロンドンの患者の胃ガン。これもマッピング完了」
創一の指先が、空中に投影された仮想キーボードの上で目にも止まらぬ速さで踊る。
カタカタカタカタッ! という軽快な打鍵音が、防音ガラスで完全に外界の騒音から隔離された司令室内に響き渡っていた。
『消しゴム君』——腫瘍選択除去ナノマシン治療キット。
その効果は地球の医学の常識を覆す奇跡そのものであったが、致命的な弱点があった。
それは、患者一人ひとりの腫瘍の形状や位置に合わせて、創一自身が「手作業で」ナノマシンの動作プロトコルを個別にコーディングしてやらなければならないという、極めて属人的な作業工程が存在することだ。
「いくら俺の頭の回転が速くなったとはいえ、いちいち一人ずつ手打ちでコードを書いてたら、俺の貴重な自由時間が削られる一方じゃないか……。
そもそも、こういう単調な繰り返し作業を自動化するために工場を作ったのに、本末転倒だぞ」
創一は、キーボードを叩きながら愚痴をこぼした。
この数週間、地球から送られてくる患者データの量は日に日に増大していた。
5億円という途方もない価格設定のVIP枠だけでなく、タイタン財団の「無償枠」で送られてくる小児ガン患者のデータも多数混ざっている。
特に子供たちのデータを見るたびに、創一は「少しでも早く治してあげたい」という生来の人の良さ?を刺激され、ついつい夜を徹してコーディングに没頭してしまうのだ。
「……だから、作った」
ターン! と、創一がエンターキーを力強く叩き込んだ。
その瞬間、彼の目の前のメインモニターに、全く新しいインターフェースの画面が立ち上がった。
黒を基調とした洗練されたデザイン。
中央には患者の3Dスキャンデータをドラッグ&ドロップで放り込むためのエリアがあり、右側には「腫瘍サイズ」「隣接臓器の種別」「切除マージンの安全域」といったパラメーターをスライダーで直感的に調整できるパネルが並んでいる。
「名付けて、『消しゴム君・統合制御GUIシステム』だ!
これまでは俺がコマンドラインで直接文字を打ち込んでたけど、このソフトを使えば、ある程度の医学的知識がある人間なら……地球の医者たちでも、マウス操作とスライダーの調整だけで、最適なナノマシンのプログラミングが自動生成される仕組みだ!」
創一は自らの成果を前に、満足げに腕を組んだ。
背後で控えていたAIのイヴが、ホログラムの姿で滑らかにお辞儀をした。
『素晴らしいアルゴリズムです、マスター。
このGUIを日本の特別医療ブロックの端末にインストールすれば、マスターご自身の稼働率を現在の1パーセント以下にまで削減することが可能と推測されます。
患者データの適合審査およびプロトコル生成の大部分を、地球側の医師団に委譲できます』
「だろ?
これで俺は、あの面倒なコード打ちから解放される!
本来の工場長としての仕事……宇宙開拓に専念できるってわけだ」
創一は大きく背伸びをして、凝り固まった肩の筋肉をほぐした。
ふと、彼の視線が、先ほどまで処理していた患者データのリストに落ちた。
その中には、「エンジェル・チケット」の枠で送られてきている子供たちのデータがずらりと並んでいる。
「それにしても……小児ガンって、結構多いんだな。
俺、独身でずっとシステムエンジニアやってたから、病気の子供がこんなにたくさんいるなんて知らなかったよ」
創一は、モニターに映る幼い顔写真を見つめながら、少しだけ声を落とした。
彼が地球で社畜として働いていた頃、世界は「納期」と「バグ」と「理不尽な仕様変更」だけで構成されていた。
他人の命や病気について深く考える余裕など、1秒たりともなかった。
だが今、彼の指先一つが、文字通り地球の裏側にいる子供たちの生殺与奪を握っているのだ。
「でもイヴ。送られてくるデータって、脳腫瘍とか神経芽腫とか、固形のガンばっかりだよな。
……ニュースで見る限り、小児ガンで一番多いのって『白血病』じゃなかったっけ?
なんで白血病の子のデータは全然送られてこないんだ?」
『お答えします、マスター』
イヴが即座にデータベースを参照し、冷徹な事実を告げた。
『現在の「消しゴム君(Eraser-kun)」の適応条件において、血液ガンである白血病は【審査対象外(不適合)】として設定されているためです。
白血病細胞は、固形腫瘍のように一箇所に留まっているわけではなく、血液やリンパ液に乗って全身を循環し、骨髄の深部にまで入り込んでいます。
現在のナノマシンのアルゴリズムは「境界が明確な塊を物理的に切り取る」ことに特化しているため、全身の血流に散らばった異常細胞を一つ残らず識別し、正常な血液細胞と完璧に分離して破壊することは、安全性の観点から極めて困難です。
そのため、日本政府側の事前審査の段階で、白血病の患者はすべて自動的に弾かれています』
「ああ……そうだった。
俺が自分で『固形ガン以外は無理』って日下部さんに言ったんだったな」
創一は頭を掻いた。
物理的なメス(消しゴム)で、水に溶けたインクを削り取ることはできない。それは理屈としては当然のことだ。
だが、助けられる命があるのに、仕様の限界で見捨てられている子供たちがいるという事実は、彼の技術者としての矜持と、ほんの少しの人間らしい罪悪感を微かにチクリと刺激した。
「……血液のガン、か。
何とかしてやりたいけど、消しゴム君のマイナーチェンジじゃどうにもならない壁だな」
創一は気分を変えるために、コンソールの端に表示させていた地球のSNS——X(Twitter)のタイムラインを開いた。
彼は最近、自分の作った技術が地球でどんな騒ぎを起こしているのかを、完全に「高みの見物」のスタンスで眺めるのを密かな楽しみにしていたのだ。
「おっ、またアメリカの陰謀論者が元気に暴れてるな。
メドベッドの正体が俺の作った注射器だってバレてから、ますますカオスになってるじゃないか……ん?」
彼が何気なくタイムラインをスクロールさせていると、ふと、ある英語の投稿が目に飛び込んできた。
それは、彼が社畜時代にプログラミングの情報を集めるためにフォローしていた、ある海外の著名なIT系アカウントの投稿だった。
『@Silicon_Valley_CEO_Official(フォロワー1800万人)
ふざけるな!! 日本政府、そしてあのクソ忌々しい仲介業者ども!!
私は自分の命のために、5000万ドルどころか、1億ドル(約150億円)のデポジットを即金で積むと申し出た!
それなのになぜ、私の『Eraser-kun』の申請は却下された!?
「固形ガンではないから」だと!?
「白血病の細胞は全身の血管や骨髄に散らばっており、現在のアルゴリズムでは正常な細胞と識別して完全に削り取ることが物理的に不可能だから」だと!?
金ならあるんだ! 私の総資産は300億ドルだぞ!
それなのに、なぜ私は見殺しにされなければならないんだ!!
誰か、私の血を入れ替えるナノマシンを今すぐ開発しろ! いくらでも払う!!』
血を吐くような、そして絶望に満ちた怒りの長文。
その投稿主のアイコン写真を見た瞬間、創一の目が大きく見開かれた。
「……あっ! この人……!」
創一は、思わず身を乗り出した。
見間違えるはずがない。
「この人、『オメガ・スタジオ』とか『ブルー・コード・エディタ』を作った会社のCEOじゃん!!」
創一の脳裏に、かつて東京の狭く薄暗いワンルームマンションで、安物の栄養ドリンクをガブ飲みしながら、吐き気を堪えてデスマーチを乗り切っていた日々の記憶が鮮明に蘇った。
他人が書いたスパゲッティのようなクソコードの山。どこでエラーを吐いているのか全く分からないレガシーシステム。
それを徹夜で解析し、修正するための唯一の武器が、このシリコンバレーの天才CEOが開発し、全世界に無償で提供してくれていた「超優秀な統合開発環境(IDE)ツール」であった。
「あの無料ツール……動作は軽いし、シンタックスハイライトは見やすいし、何よりデバッグ機能が神がかってたんだよな……。
あのツールがなかったら、俺は確実に30歳を迎える前に過労とストレスで首を吊っていた。
俺のIT土方時代の命の恩人……いや、神様みたいな人だぞ!」
創一は、画面の中の怒りに満ちたCEOの投稿を、食い入るように見つめ直した。
「そうか……白血病だったのか、この人。
金は腐るほどあるのに、俺が『固形ガン以外は弾け』って仕様を組んだせいで、審査に落ちて絶望してるのか……」
創一の胸の奥で、強烈な感情が燃え上がった。
それは、世界を救うという大層な正義感でも、巨万の富を得るという野心でもない。
ただ純粋な、「かつて自分を助けてくれた恩人に、恩返しがしたい」という、一人の元・底辺エンジニアとしての義理と人情であった。
「……イヴ」
創一の声色が、これまでにないほど真剣なものに変わった。
「白血病を……治そう。
小児ガンで一番多いのも白血病だし、何より、俺の命の恩人をこのまま見殺しにするなんて、義理が廃る」
『マスター。先ほども申し上げた通り、現在の「消しゴム君」の物理的切除アプローチでは、血流に混ざった異常細胞の完全な除去は——』
「分かってるよ、そんなことは」
創一は、イヴの言葉を遮り、鋭い目つきでコンソールに向き直った。
彼の超高速思考が、全く新しい解決へのアプローチを凄まじい勢いで模索し始めている。
「切り取るのが無理なら、アプローチを変えるんだ。
体の中にナノマシンを入れて、全身の血管を走り回りながらガン細胞を探して壊すなんて、効率が悪すぎるしリスクも高い。
だったら……血液を、一旦体の『外』に出せばいいんだよ」
『体外循環、ですか?』
「そうだ。人工透析や、ECMO(体外式膜型人工肺)と同じ原理だ」
創一は、何もない空間に手をかざし、新しい3Dモデルの設計図を引き始めた。
瞬く間に、幾つものチューブとポンプ、そして巨大な円筒形の装置の図面が空中に描画されていく。
「患者の静脈から血液を連続的に体の外へ引き込み、この『専用の閉鎖回路』を通す。
そして、その回路の途中に、ナノマシンをビッシリと高密度で敷き詰めた『超微細な特殊フィルターモジュール』を設置するんだ」
創一の指が踊り、フィルターの内部構造が拡大表示される。
そこには、血液の成分をリアルタイムで解析するセンサーと、不要なものだけを捕まえる無数の微細なアームが備わっていた。
「このナノフィルターの中で、血液の成分を1滴残らずスキャンする。
正常な赤血球、白血球、血小板、血漿成分はそのまま素通りさせる。
だが、白血病細胞などの『異常血球』や、血中を流れる循環腫瘍細胞(CTC)、あるいは毒素や異常なタンパク質を検知した瞬間、フィルターのナノマシンがそれを選択的に『捕獲』し、その場で完全に分解・無毒化する。
……そして、綺麗に浄化された真っ更な血液だけを、再び患者の体内に戻すんだ!」
『……なるほど。
体内という複雑なブラックボックスの中で処理を行うのではなく、体外の「完全にコントロールされた環境(フィルター内)」に血液を通すことで、精度と安全性を極限まで高めるというわけですね』
イヴが、その合理的かつ暴力的なまでに直接的な解決策に同意を示した。
「その通り!
これなら、血液中に散らばったガン細胞も、何時間かかけて全身の血液を何度も循環させて濾過し続ければ、確実にゼロにできる。
『切る』んじゃない。『濾す』んだ。……これこそが、白血病に対する最強のアンサーだ!」
創一の脳内で、開発のインスピレーションが爆発的に広がっていく。
「しかも、このフィルターの『検知パラメーター』を書き換えられるようにモジュール式にしておけば、白血病だけじゃなくて応用が効くぞ。
例えば、敗血症の原因になるサイトカインストームの炎症物質だけを濾し取るとか、自己免疫疾患の暴走した抗体を抜くとか。
あ、薬物のオーバードーズ(過剰摂取)とか化学兵器の毒素なんかも、これで一発で血液から浄化できるじゃん!
ヤバい、これめちゃくちゃ汎用性高いな!」
天才の閃きは止まらない。
彼はそのまま一睡もすることなく、体外循環装置のハードウェア設計と、ナノフィルターのソフトウェア・アルゴリズムの構築に没頭した。
鉄板、銅線、プラスチック、発展基板、そして制御用のナノマシン。
テラ・ノヴァの工場の潤沢な資源を惜しみなく使い、プロトタイプの実機が組み上げられていく。
そして数時間後。
テラ・ノヴァに朝の光が差し込む頃。
「——よォし!! 完成だあああああ!!!!!」
創一は、目の前に鎮座する巨大な医療機器——ベッドほどの大きさがある、複数の透明なチューブと光るフィルターモジュールを備えた装置——をバンバンと叩いて歓喜の声を上げた。
「完璧だ! 理論値上の除去率99.999%!
どんな汚れも一滴残らずすくい取る、最強の血液浄化装置だ!」
彼は額の汗を拭い、満面の笑みでその装置に名前を付けた。
「よし、お前の名前は今日から……『ザルすくい君』だ!!」
相変わらずの、絶望的なネーミングセンスであった。
人類の医療の歴史を根本から書き換え、数千万人の命を救うであろう、神の如きナノフィルター・システム。
その記念すべき第一号機に、台所の調理器具のような名前が刻まれた瞬間であった。
「さーて、善は急げだ。
早速、日下部さんに連絡して、地球に持って行ってもらおう!」
創一は、ワクワクした顔で通信コンソールのスイッチを乱暴に叩いた。
◇
同時刻。
東京都千代田区、首相官邸地下5階『特別情報分析室』。
内閣官房参事官の日下部は、先日のロシアの件や、アメリカと中国の裏取引の調整で徹夜が続き、死んだ魚のような虚ろな目でデスクの上の書類の山を睨みつけていた。
彼の胃の中には、すでに致死量に近いのではないかと思われるほどの胃薬が収まっているが、もはやプラシーボ効果すら発揮していない。
ピロリロリン!
ピロリロリン!
突然、テラ・ノヴァからの直通ホットライン(緊急回線)が、けたたましいコール音を鳴らした。
ビクッ! と日下部の肩が跳ねる。
「……こんな朝早くから、なんだ……?
まさか、ロケットの打ち上げに失敗して基地が吹っ飛んだとか、そんなんじゃないだろうな……」
日下部は、震える手で通信ボタンを押した。
「……はい。日下部です。
何かトラブルですか、工藤さん」
モニターに映し出されたのは、トラブルどころか、この世の春を謳歌しているような、満面の笑みを浮かべた工藤創一の顔だった。
その背後には、何やら見慣れない、チューブが何本も生えた巨大な機械が鎮座している。
『あ、日下部さん! おはようございます!
いやートラブルじゃないですよ!
ちょっと、日下部さんに『お願い』があって通信したんです!』
「……お願い?」
日下部の眉が、怪訝そうにピクリと動いた。
工藤創一という男が、日本政府に対して「お願い」をしてくるのは極めて珍しい。
普段の彼は「これ作りました!」「これ試していいですか!?」という事後承諾か、自分本位の提案ばかりだからだ。
「工藤さんが、私にお願いですか?
それは珍しいですね。……何が欲しいんですか?
また地球の最新の漫画のデータですか?
それとも新しいカップラーメンの味ですか?」
『いやいや、物資の要求じゃないですよ!
実はですね……俺が昔、社畜でシステムエンジニアやってた頃に、めちゃくちゃお世話になったツールの開発元のCEOさんがいるんですけど』
「……はあ。それが何か?」
『その人、白血病らしくて。
この前、X(Twitter)で「俺の金で消しゴム君の審査落とされた! ふざけんな!」って愚痴ってて。
なんか、可哀想だなぁって思いましてね』
日下部の脳裏に、先日アメリカのタイタン・グループ経由で申請があり、「血液ガンのため適応外」として容赦なく弾き返した、あのシリコンバレーのIT長者の顔が浮かんだ。
(……あいつのことか。なんで工藤さんが、あんなアメリカの金持ちのことを気にかけるんだ?)
『それに、日下部さんが送ってくる小児ガン患者のデータも、白血病の子が一番多いじゃないですか。
今まで対象外で助けられなかったのが、俺としてもちょっと心苦しかったんで。
……だから、ちょっと頑張って、白血病にも対応した新しい機械を作ってみたんですよ!』
ドクン。
日下部の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「……新しい、機械……?」
『はい!
血を一旦体の外に出して、このナノマシンフィルターを通すことで、ガン細胞や異常な成分だけを綺麗に濾し取る、体外循環型の最強浄化システムです!
えーと、名前は……『ザルすくい君』です!』
「ざる……すくい……くん……」
日下部の口から、魂が抜けていくような掠れた声が漏れた。
消しゴムの次は、ザル。相変わらずの絶望的なネーミングセンス。
だが、その名前の裏にある技術的な意味合いを、日下部の優秀な官僚としての頭脳は瞬時に理解してしまった。
「……つまり。
今まで治せなかった白血病や、血液中のあらゆる異常を、その機械で『濾過して治す』ことができるようになった、と?」
『その通りです!
フィルターのモードを切り替えれば、白血病だけじゃなくて、敗血症の原因物質とか、自己免疫疾患の暴走とか、あと薬物のオーバードーズとか化学兵器の毒素なんかも、一発で綺麗さっぱり抜くことができますよ!
応用次第で、結構いろんなヤバい状況から命を救えるはずです!』
創一は、誇らしげに親指を立てた。
『とりあえず、この『ザルすくい君』の実機と、操作用のプログラムセットをコンテナに積んで、そっちのゲートに送っておきますね。
だから日下部さん、俺からのお願いです!
その機械を使って、俺の恩人であるあのシリコンバレーのCEOさんを、治療してあげてください!
あと、エンジェル・チケットの枠で待ってる白血病の子供たちも、これでバンバン救ってあげてくださいね!』
「…………」
日下部は、モニターの中の創一の笑顔を見つめたまま、完全にフリーズしていた。
白血病が治る。敗血症が治る。毒物が抜ける。
……それはつまり。
救急医療、集中治療室(ICU)、そして軍事医療の根底が、またしても完全にひっくり返るということを意味している。
これまで「消しゴム君」は、あくまで「事前に予定を組んで行う、外科手術の代わり」であった。
だが、この「ザルすくい君」が持つ機能——特に敗血症や毒物の即時除去という機能は、「今まさに死にかけている急患を、その場で強引に引き戻す」という、全く別のベクトルでの奇跡の顕現である。
もしこんなものが世に出れば、あるいはその存在が各国の軍部や諜報機関に知れ渡れば。
「毒殺」という暗殺手法は無効化され、戦場の致死率はさらに異常な数値を叩き出すことになる。
(……まただ。
またこの男は、私が必死に築き上げた世界のバランス(防波堤)を、善意と暇つぶしだけで軽々と乗り越えて、特大の爆弾を投下してきやがった……!)
日下部は、震える手でデスクの上の胃薬の瓶を掴んだが、その中身はすでに空っぽであった。
「……承知いたしました、工藤さん」
日下部は、引きつった笑みを顔に貼り付け、どうにか声を絞り出した。
「貴方のご要望通り、そのシリコンバレーのCEOを日本に呼び寄せ、治療の手配をいたしましょう。
……これほどの素晴らしい装置をご提供いただき、日本政府を代表して……深く、深く感謝申し上げます……」
『おお、ありがとうございます!
じゃあ、よろしくお願いしますね!
俺はロケットの打ち上げに戻ります!』
ブツッ。
一方的に通信が切られ、スクリーンが暗転した。
静寂が戻った地下の密室で、日下部は一人、机の上に突っ伏した。
「……あいつ、自分が何を作ったか、全然分かってない……。
『ザルすくい君』だと……?
お前がすくい取ったのは、私のわずかに残っていた精神の安寧だよ……!!」
日下部の悲痛な叫び声は、分厚い鉛の壁に吸い込まれて誰にも届くことはない。
ただ、日本という国が手にした外交カードが、また一つ、恐ろしく強力で、そして劇薬すぎる形で増えてしまったという事実だけが、そこに重く横たわっていた。
世界の狂乱は、まだまだ終わる気配を見せない。
いや、新たな「濾過の時代」の幕開けと共に、さらなるカオスへと突入しようとしていたのである。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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