第104話 クレムリンの悪魔と福音の代償
ロシア連邦、モスクワ。
分厚い雲が空を覆い尽くし、赤の広場を突き抜ける凍てつくような冬の風が、歴史ある石畳を白く染め上げている。だが、その厳寒の風景を分厚い防弾ガラス越しに見下ろすクレムリンの最奥、大統領執務室の中は、豪奢な暖炉の炎とセントラルヒーティングによって、汗ばむほどの熱気を帯びていた。
壁に掛けられた双頭の鷲の紋章が、アンティークのシャンデリアが放つ鈍い光を反射して、部屋の主を静かに見下ろしている。
広大なマホガニーのデスクの奥。重厚な革張りの椅子に深く体を沈めているのは、ロシア連邦大統領、ウラジーミル・ボグダノフであった。彼の前には、熱い紅茶が注がれたロシアンティーのグラスと、幾つかの分厚いファイルが置かれている。
「……大統領。アメリカ、およびヨーロッパ各国との水面下の交渉は、極めて順調に進推しております」
デスクの前に直立し、恭しく頭を下げる外務大臣の声には、長きにわたる重圧から解放されつつある安堵の響きが色濃く滲んでいた。
泥沼化した戦争、そして西側諸国からの執拗な経済制裁。それらは確実にロシア経済の体力を削り取り、国庫の底を見えさせつつあった。だが、ここに来て風向きが劇的に変わり始めている。
「裏ルートを経由したエネルギー輸出の枠組み……特に天然ガスと石油の第三国を経由したロンダリング取引が、西側諸国によって実質的に『黙認』される方向でまとまりつつあります。建前上は制裁を継続しながらも、安いガスを合法的に入手できる抜け道が用意されたことは、やはり欧州としても喉から手が出るほど嬉しいようでして。彼らの足並みは、見事なまでに乱れております」
「ふふふ……。そうか、そうか。順調そうで結構なことだ」
ボグダノフは、グラスの縁を指でなぞりながら、腹の底から響くような低い笑い声を立てた。
彼の氷のような灰色の瞳には、ヨーロッパの指導者たちに対する底知れぬ軽蔑が浮かんでいる。
「人権だの、国際法だの、民主主義の連帯だのと、テレビのカメラの前では我々を悪魔のように罵りながら……。その裏では、自国のインフラを維持し、凍える市民の不満を逸らすために、我々のガスで暖を取ろうと必死に尻尾を振ってくる。なんとも滑稽な三文芝居だ。
結局のところ、連中の掲げる高尚な理念など、暖炉の火を絶やさないための安い燃料に過ぎんということだ」
「御意の通りです。アメリカの新大統領であるヘイズも、表向きは強硬姿勢を崩しておりませんが、裏の交渉人たちは驚くほど妥協的です。我々が一定のラインさえ守れば、彼らもこれ以上の締め付けを行う気はないのでしょう」
「このまま、アメリカの顔色を窺う従順な熊のフリを続けろ。実利はこちらで確実に吸い上げる。国庫を潤し、次の時代への布石を打つための時間を稼ぐのだ」
「はっ。承知いたしました」
外務大臣が深く一礼し、分厚い絨毯を踏みしめて退室しようとした、まさにその矢先であった。
ノックの音もそこそこに、重厚な扉が乱暴に開け放たれた。
入室してきたのは、対外情報庁(SVR)の長官である。普段はいかなる事態にも表情を崩さない、氷のように冷徹なはずの諜報機関のトップが、血相を変え、額に冷や汗を浮かべて飛び込んできたのだ。
「大統領! 緊急事態です! ヨーロッパ各地に潜伏しているスパイたちから、信じがたい報告が相次いで上がってきました!」
ボグダノフは、ピクリと眉をひそめた。
自らの機嫌の良い空気を、無作法に壊されたことに対する苛立ち。そして何より、SVR長官をここまで狼狽えさせる「何か」が起きたという事実への警戒心が、彼の全身の筋肉をわずかに緊張させた。
「騒々しいぞ。何があった。NATOの軍隊でも国境に向けて動いたか? それとも、国内でクーデターの兆候でもあったというのか」
「いえ、軍事的な動きではありません。政治的なテロでもありません。……『医療』です」
SVR長官は息を呑み、手にした暗号解読済みの最高機密タブレットを、震える手で大統領のデスクに置いた。
「実は……ヨーロッパ各地の、最高レベルの権力を持つ超富裕層たちが。
不治の病とされ、余命宣告まで受けていた末期ガンを……【日本】で、完全に治療しているという情報が確認されました」
シン、と。
執務室の空気が、モスクワの冬の風よりも冷たく凍りついた。
外務大臣は足を止め、ボグダノフは目を細めて、SVR長官の顔を胡散臭そうに見つめ返した。
「……ガンを、治療するだと?
馬鹿なことを言うな。そんな魔法のような話があるわけがないだろう。ウォッカの飲み過ぎで幻覚でも見たのか? 西側のプロパガンダか、それとも低俗なネットの陰謀論を真に受けて報告にきたのか」
「事実です!!」
長官は、大統領の不興を買うことを恐れず、声を荒らげた。
「イギリスの貴族院の重鎮や、フランスの巨大エネルギー企業のトップなど、いずれも我々の監視下にあった余命数ヶ月の者たちが……わずか数日の『日本への極秘渡航』を経て、完全に健康な肉体を取り戻して帰国しています。
フェイク画像ではありません。我々のエージェントが、彼らのスキャンデータと、活力に満ちた肉声を直接確認したのです。腫瘍が、文字通り『消滅』しているのです!」
魔法。奇跡。
そんな非科学的な言葉を、現実主義者のボグダノフは決して信じない。
だが、彼の脳裏に、かつてウクライナの凄惨な戦場で報告された、ある不可解な現象が強烈なフラッシュバックとなって蘇った。
――四肢を吹き飛ばされた兵士が、謎の薬品によって瞬時に再生し、再び銃を取ったという、悪夢のような報告。
――そして、自分自身が窮地に陥った際、あのザスローン部隊を全滅させた、次元の違う「日本の地下に潜むテクノロジー」の存在。
「……ああ、そうか」
ボグダノフは、低く、唸るような声を漏らした。
点と点が、彼の冷徹な頭脳の中で一本の線へと繋がった。
「あの『不死身の兵士の薬』か……!
細胞を強制的に修復し、異常を排除するあの常軌を逸したテクノロジー……。日本の化け物どもは、あれを兵器としてではなく、ガン治療に応用したというのか?」
兵士の肉体を再生できるほどの技術力があるのなら、体内のガン細胞だけを選択的に破壊することなど、彼らにとっては造作もないことなのかもしれない。
そう考えれば、全ての辻褄が合う。
「ヨーロッパ全土、いや、世界中に潜伏している全エージェントに告げろ!
スパイたちに全リソースを割いて、この『奇跡の治療』に関する情報収集をさせろ!
これは単なる医療ニュースではない。世界の権力構造を根底から覆す、国家の存亡に関わる重大事だ!!」
ボグダノフの怒号が、重厚なクレムリンの壁を震わせた。
◇
数日後。
モスクワはさらに深い雪に覆われ、街は白一色に染まっていたが、大統領執務室の中は、先日の比ではないほどの異様な熱気と緊迫感に包まれていた。
SVR長官、外務大臣、そして新たに呼び出された財務大臣と大統領側近たちが、部屋の壁面に設置された巨大な暗号化モニターの前に集結している。
「……大統領。世界中から、詳細な報告が集まってまいりました。
現在、西側の情報空間や裏社会は、この件で軽く騒動……いえ、パニック状態に陥っています。一部のハッカー集団が、極秘の医療データと請求書をダークウェブに流出させたようです」
SVR長官が、モニターに数々の証拠画像——自衛隊中央病院のロゴが入った請求書や、生々しい適性検査のデータを次々と映し出していく。
「技術の出処は、間違いなく日本です。ナノマシンを用いた、ガン細胞の物理的な超精密除去。彼らはそれを『消しゴム君』というコードネームで呼んでいるようです。
そして、判明したその治療価格ですが……。
現在、日本の国内ルートを通じた直接の価格で、500万ドル。日本円にして約5億円であることが判明しました」
「500万ドル……。一般の市民には逆立ちしても手が届かない絶望的な金額だが、国家の予算や、我々が相手にしている資本家たちからすれば、プライベートジェットの維持費にも満たない端金だな」
ボグダノフは、腕を組みながら冷たく吐き捨てた。
「ええ。ですが、問題はここからです」
SVR長官は、モニターの表示を切り替え、アメリカの星条旗と、巨大な軍産複合体のロゴを映し出した。
「日本政府へ直接アクセスできる極秘ルートを持たない、あるいは日本の『審査』に直接通るコネクションがない海外の富裕層たちは、必然的にアメリカのディープステート……『タイタン・グループ』を仲介として経由する必要があります。
その場合のアメリカが提示する価格……いわば『アメリカ価格』で、5000万ドル(約50億円)です。彼らはこの価格で、ガン治療のパッケージを売り捌いている事実が判明しました」
5000万ドル。
仲介料として、原価の10倍もの価格を平然と上乗せするアメリカの強欲さと、命をダシにしたえげつない商売の手口に、ボグダノフはチッと鋭い舌打ちをした。
「ガン治療が確実に出来るという事実が白日の下に晒されたことで、西側の市場はこれに対して極めて過敏に反応しております」
すかさず、財務大臣が経済的な影響について補足する。
「既存のガン治療を独占していた巨大製薬会社や、医療機器メーカーの株価が、将来的な市場の消滅を織り込んで歴史的な大暴落を記録しました。
一方で、富裕層たちは完全なパニックに陥り、現金や流動資産をかき集めて、なんとかアメリカの治療枠、あるいは日本の直接枠に滑り込もうと、醜い奪い合いを演じています。
この異常事態に対し、バチカンのローマ教皇が『命の選別は神への明らかな冒涜である』と異例の非難声明を出す事態にまで発展しており、西側の倫理観は根底から揺らいでいます」
ボグダノフは、深く、重い息を吐き出した。
西側市場の混乱も、製薬会社の倒産も、ましてや宗教家の道徳的な戯言など、彼にとっては本当にどうでもいいことだった。
重要なのはただ一つ。
『権力と命の相関関係が、日本とアメリカの手によって根本から書き換えられた』という、圧倒的な現実である。
「5000万ドルで、ガンが治癒、ね……」
大統領は、無意識のうちに自身の胸にそっと手を当てた。
西側のゴシップメディアは、ことあるごとに「ロシアの大統領は重度のパーキンソン病だ」「いや、すい臓ガンで余命わずかだ」と面白おかしく書き立てる。
だが、それは愚かなプロパガンダに過ぎない。巷で言われるほど重病ではない。定期的な最高レベルの検診も受けており、至って健康だ。
激務による蓄積疲労や、年齢による肉体の衰えの影響は否めないが、それでも国家を導くための活力は十二分に残されている。至って健康だ。
だが……。
権力者にとって、「死」は最大の、そして唯一絶対に勝てない敵である。
どれほど強大な軍隊を持っていようとも、どれほど核ミサイルのボタンを握りしめていようとも、自分自身の体内の細胞が反乱を起こせば、全ての権力は砂上の楼閣のように崩れ去る。
「だが、ガン患者にとって……いや、死の恐怖に怯える全ての権力者にとって、これは紛れもない福音だな……。悪魔がもたらした、抗いがたい福音だ」
ボグダノフは、モニターに映るヨーロッパの首脳たちや資本家たちの顔を、忌々しげに睨みつけた。
「大統領。現在、ヨーロッパでは、アメリカへの支持と追従の動きが異常なほどに増えています」
SVR長官が、緊迫した声で報告を続ける。
「当初は環境規制やテック企業の覇権を巡ってアメリカと対立していたはずのEUのトップたちが、次々とアメリカの外交アジェンダに賛同し始めています。
……おそらく、アメリカのディープステートが、この5000万ドルの『ガン治療の枠』をエサにして、ヨーロッパの超富裕層や指導者たちを一本釣りしているのかと……!
命を人質に取られたも同然の彼らは、もはやアメリカの意向に逆らうことなど不可能です」
「……羨ましい限りだな」
ボグダノフの口から、無意識のうちに本音が漏れた。
武力でもなく、経済制裁でもなく、「治癒」という究極の恩恵をもって他国を支配する。為政者として、これほど完璧で、これほど恐ろしい支配のシステムはない。
「長官。ヨーロッパが落ちたということは……」
財務大臣が、青ざめた顔でSVR長官を見た。
「いずれ、ロシア国内の富裕層たちにも、アメリカから『ガン治療の枠』をチラつかせた釣り上げの工作がくるのでは?」
その言葉に、執務室の空気が一段と張り詰めた。
ロシアの経済を裏で支えるオリガルヒたち。彼らの忠誠は、決して盤石ではない。もしアメリカが「クレムリンを裏切れば、お前たちのガンを治してやる」と持ちかければ、彼らはあっさりと国を売り渡すだろう。命には代えられないのだから。
「ああ、それもあるな」
ボグダノフは、冷静にその最悪のシナリオを肯定した。
「奴ら資本家は、祖国への愛国心よりも自分たちの命と資産を最優先する。アメリカからの甘い誘惑に乗る裏切り者が、確実に出てくるだろう。
……だが、だからといって、彼らに『アメリカの治療を受けるな、国のためにガンで死ね』とは言えないな。そんなことを強制すれば、それこそ不満が爆発し、内側からクーデターの火種を生むことになる」
大統領は、デスクの上で両手の指を組み合わせ、深く沈思黙考した。
力で押さえつけることはできない。かといって、放置すればロシアの富と権力がアメリカに吸い上げられていく。
「……大統領。いかがなさいますか。このままでは、ロシアの経済基盤そのものが、アメリカの『医療外交』によって切り崩されてしまいます」
側近の一人が、悲痛な声で問いかけた。
ボグダノフの灰色の瞳に、残酷で、しかし極めて合理的な光が宿った。
「まあ、オリガルヒどものアメリカへの依存が増えたとしても、いざ戦争や決定的な対立となれば、連中の存在ごと無視して国家を動かせばいいだけのことだ。
……だが、国庫が戦争と制裁で危うい今の状況下で、ただ黙って指をくわえて見ているのは下策中の下策だ」
ボグダノフは、ゆっくりと顔を上げ、室内にいる側近たちの顔を見渡した。
「ここは発想を転換する。
アメリカと水面下で『連携』し、我々自身のシステムを使って、国内の富裕層から巻き上げるか?」
「……大統領。それは、どういう意味でしょうか?」
「簡単なことだ」
ボグダノフは、まるでチェスのチェックメイトを宣言するように、冷徹に語り始めた。
「オリガルヒたちが、アメリカに直接コンタクトを取る前に、我々ロシア政府が『アメリカへの仲介窓口』を独占するのだ。
『政府のルートを通せば、安全にアメリカの5000万ドルの治療枠を確保してやる。その代わり、政府への特別協力金として、さらに手数料を上乗せして支払え』とな。
アメリカに金と忠誠を吸い上げられるくらいなら、我々が中間搾取の構造に入り込み、奴らの資産を合法的、かつ強制的に国庫へと還流させる」
そのあまりにも非情な提案に、財務大臣は絶句し、SVR長官でさえも僅かに顔を引きつらせた。
「そ、それは……自国の国民の命をダシにして、さらに金を搾り取るということですか。……なんという、悪魔的な考えですね……」
「なんとでも言え。国家を存続させるためなら、私は喜んで悪魔になる」
ボグダノフは、悪びれる様子もなく言い放った。
「だが、有効な戦略であることは確かだ。
そして、この戦略にはもう一つの巨大なメリットがある。
我々がアメリカの『医療ビジネス』の顧客であり、協力者であると見せかけてアメリカに擦り寄るフリを続けていれば……いずれ、アメリカの背後にいる【日本】のガードも下がるかもしれんぞ?」
その言葉に、側近たちはハッと息を飲んだ。
「日本のテクノロジー。あの『消しゴム君』の根源にあるオーバーテクノロジーの秘密。
今は鉄壁の守りに阻まれているが、アメリカの仲介ルートという内部に入り込めば、必ずどこかに技術の尻尾を掴むチャンスが巡ってくる。
……その時こそ、ロシアが世界の覇権を奪い返す真の反撃の時だ」
ボグダノフは、グラスに残っていた冷めた紅茶を一息に飲み干し、力強くテーブルに叩きつけた。
「よし、決まりだ!
表向きはアメリカ政府に協力する姿勢を見せ、国内の超富裕層にガン治療の枠を斡旋しろ!
そして、死の恐怖に怯える奴らの資産から、桁外れの手数料をふんだくれ!
命の代償は、国家の存亡のための血肉として、私が全て啜り上げてやる!!」
クレムリンの奥深くで下された、余りにも冷酷で、しかし国家の延命に執着する悪魔の決断。
日本の生み出した奇跡の医療は、世界を平和に導くどころか、大国同士のさらに醜く、底知れぬ泥沼の生存競争へと引きずり込んでいくのだった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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