86話 あなたのためなら
どこから整理すればいいのだろう?
とにかく確実なことから列挙すべきだろうか?
まずはセレストがミュリエルを知っていること。
でないと彼のあんな反応に説明はつかない。
セレストはおそらく、彼女に助けられたことがあるのだろう。
それも遠い昔に。
加えて彼にとって、ミュリエルは特別な存在なのかもしれない。
だが、1つだけわからないことがある。
それはどうして彼が彼女のことをミュリエルと呼んだのか、だ。
この名前はレイモンが名付けたもので、目覚めたばっかりのセレストが知っているはずがない。
たまたま昔の名前と同じだったのか、それとも眠っている間に少し意識を取り戻していたのか……
いずれにしろ、情報量が多すぎる。
レイモンは2人の再会を、ただ茫然と見守ることしかできなかった。
それに気づいたのか、金の君はレイモンの方を向いた。
「レイモンさん。申し訳ないのですが、少し外していただいても?
2人でお話がしたいのです」
「あ、はい……」
釈然としないながらも、レイモンは床に置いたタオルと桶を持って外に出た。
それを台所に置いた後、あまりにも気になりすぎてレイモンはドアに耳をくっつけた。
しかしいくら経ってもセレストのすすり泣く声しか聞こえない。
その時間があまりにも長すぎて、レイモンはとうとうしびれを切らしてドアから離れた。
そしてそのまま後片付けをはじめ、渋々掃除で気持ちを紛らわそうと努力した。
***
セレストが泣き止むのに、一時間くらいはかかっただろう。
途中でミュリエルはベッドの方に移動し、彼を座らせた。
そして自分も隣に座り、ずっと背中をさすってあげていた。
「……すみません、突然泣いてしまって」
「いえ、気にしないでください」
セレストは自分からミュリエルと距離を取った。
だが目はまだ真っ赤で、悲哀に満ちた顔をしている。
よほどミュリエルに会えたことがうれしかったのだろう。
「髪、まとめて差し上げましょうか?」
「え、いや、それは……」
セレストは遠慮気味に目を逸らした。
だがミュリエルがじっと彼を見つめていると、折れたように「お願いします」と呟いた。
ミュリエルは笑みを返した後、近くに置いてあるブラシとヘアゴムを取った。
そしていつの間にか背を向けたセレストの前に立ち、丁寧に髪をとかし始める。
「セレストさん、あなたのことは薄々ですが分かっております。
あなたが私を存じている理由、ここにいる経緯……
そして、あなたの正体も」
「……」
セレストは何も言わなかった。
彼の髪はとてもさらさらしていて毛が細く、触り心地がよかった。
そのため、ミュリエルは必要以上にブラシで髪を撫でていた。
「はは……そうですよね。
だってあなたは、魂を扱う者。
僕の魂がどんな状態か、手に取るようにわかりますよね?」
「……ええ」
しばらく、ただ髪をだけの時間が続いた。
セレストは彼女に、何から話せばいいのか分からなかったのだ。
対してミュリエルは、セレストの心の整理ができるまで話すのを遠慮していた。
その時間は気まずかったが、どこか心が温まるような気がした。
そこで沈黙を破ったのは、ミュリエルだった。
「セレストさん、もしよろしければ教えていただけますか?
あなたがずっと見てきたものについて」
「……」
彼はしばらく戸惑った。
だが彼女にはいつか話さないといけないと、ずっと思っていた。
だからセレストは、ボソボソと囁くように話し始めた。
彼が経験し見てきた、地獄について。
セレストが見たものは、ミュリエルの想像以上だった。
どうして彼の心が摩耗したり壊れたりしなかったのかが不思議なくらいに。
そのせいでミュリエルは、笑い方が一時的に分からなくなってしまった。
「そう、でしたか……」
ミュリエルは俯くセレストの髪を1つにまとめて、ブラシで整えた。
「あなたも禁忌を冒したのですね。
そこまで私との約束を守ってくださるなんて……
ふふっ、あなたは不器用な方ですね」
ミュリエルはやっと笑い方を思い出した。
だがセレストは無反応だった。
彼女はそのまま、彼の髪をヘアゴムで束ね始めた。
「セレストさん、私はうれしいです。
私にとってあなたは救いたい人の一人に過ぎなかったのに、あなたは私を大事に思ってくれた。
それだけで私は……本当に、うれしいです」
「……っ」
髪が結び終わった矢先、セレストはミュリエルの方を振り向いた。
彼はまた泣きそうな顔をしており、懇願するように彼女をじっと見つめた。
「ミュリエル、お願いがあります」
「……はい」
セレストは危機迫る顔で、彼女の肩を掴んだ。
「――どうか、チュテレールを助けないでください!
もしこの戦争に加われば、あなたには残酷な運命しか待っていません!
僕は、それを止めに来たんです!
だから、どうか……!」
「……」
ミュリエルは複雑な顔のまま黙り込んでしまった。
けれどもセレストにはもう殆ど手段が残されていない。
もし彼女が頷けば、もうこれ以上望むことはない。
セレストは、じっと彼女の反応を伺った。
しかし返ってきたのは、一番してほしくない返事だった。
「……それはできません」
「……え」
ミュリエルは肩を掴むセレストの手を取った。
そのまま彼女は優しく握りしめ、セレストを絶望へと追いやっていく。
「私は、誰かを救うためならどんなことも惜しみません。
それが自分の命であったとしても。
ですので、どんな運命であろうとこの手を誰かに差し伸べることを止めることはできません」
「――っ!?」
だめだ、だめだだめだ。
セレストの頭の中でその三文字がぐるぐると駆け巡った。
「僕の話、聞いていましたか!?
このままだとあなたは、無駄死にすることになるんですよ!?
救った命も、全部失うことになるんですよ!?」
「でも、少しでも多くの人を生き長らえさせることはできます」
「――」
絶句するしかなかった。
セレストは優しい顔をするミュリエルに対して、ただ首を横に振っていた。
「あなたのお話は信じております。
ですが、私に世界の運命を止めることはできません。
私ができるのは1つ……今までのように、誰かの幸福を願って助けることです。
そのために私の命を犠牲にできるのなら、安いものだとは思いませんか?」
ミュリエルは立ち上がった。
そしてブラシを元の場所に置き、部屋を立ち去ろうとした。
セレストはそんな彼女を止めようとしたが、体が言うことを聞かず立ち上がれなかった。
まるで彼女の魂に拒絶されているかのように。
ミュリエルは膝を使って、彼にお辞儀をした。
「教えてくださりありがとうございます、セレストさん。
おかげで覚悟を決める時間を作ることができます。
あなたに、幸せがあらんことを」
「――ぁ」
ミュリエルは背中を向けると、ドアをゆっくりと開いた。
そして必死に手を伸ばすセレストを尻目に、外に出てしまった。
「待って!! ミュリエル!!!」
セレストの叫びは届くことなく、ドアは閉まった。




