85話 セレストの目覚め
あれから、ミュリエルはよく笑うようになった。
レイモンはよく片付け中に本を足に落としたり、家具の角にぶつかってしまうことがあった。
以前彼女はレイモンがヘマをする度心配そうにしているだけだった。
でも最近はツボにはまるようで、クスクスと面白そうにしている。
本来ミュリエルは少しお茶目な性格なのかもしれない。
だが割り切っていたとしても、孤独な生活や記憶を失う恐怖に怯えていたのだろう。
そのためか、レイモンがあげた名前を呼ぶ度に嬉しそうに返事をしてくれた。
レイモンもそんな彼女の反応を見ていると、ついつい笑顔になってしまう。
「ところでレイモンさん。
最近よくぶつかるのは、髪が長くなったせいではありませんか?」
「あ……」
言われてみれば確かにそうだった。
第14部隊に所属してからというもの、レイモンは床屋に行く暇がなかった。
自分で切っても良かったのだが、面倒でそのまま放置していた。
そのせいで今では黒い髪が肩につきそうなほど伸びてしまい、時々目に入って鬱陶しく感じることもあった。
「良ければ私が切りますよ?」
「ありがとうございます、ミュリエル。
でも結べばなんともありませんし、大丈夫ですよ」
ミュリエルは少しだけ口角を緩ませた。
変わりに彼女はヘアゴムを持ってきてくれて、髪の毛を綺麗にまとめる方法を教えてくれた。
その時彼女の指がレイモンの手に触れ、思わず肩が反応した。
「ふふっ、上手くできましたね。
すごくお似合いですよ」
鏡の前に座ったレイモンの肩から、ミュリエルは顔を覗かせた。
しかしレイモンは自分の姿をじっと眺めたまま、唸りながら首を傾げ始めた。
「……? どうかされましたか?」
「あ、いえ! 大したことはないです」
レイモンはミュリエルを安心させようと、少しぎこちなく笑い返した。
彼女は少し不思議そうにしながらも、「そうですか」と言ってそれ以上は追及しなかった。
それでもレイモンは心の中で引っかかりを覚えながら、自分の姿を眺め始めた。
(髪を結ぶのは初めてなのに、なんで既視感があるんだ?)
その日彼はずっとそのことを考えていたが、答えは出なかった。
そんな日々を送っているうちに、レイモンはもう外出できるほどに回復していた。
時々軽いトレーニングをしているが、それも問題なくこなせるようになってきた。
しかし、まだ体を捻ると少し痛む。
チュテレール軍はもうすでにテアトロから離れ、各々の基地に戻っているはずだ。
となれば山道を下って基地に向かう必要があるが、それはまだ少しきつかった。
少なくともあと1週間はミュリエルのお世話になった方がいいだろう。
ただでもまだセレストが目を覚ましていないのだから。
(あいつ、本当に目を覚まさないなあ……
かといって僕にできることは限られているし。
うーん……最悪担いで下りるしかないか)
レイモンはセレストの体をタオルで拭きながら、これからのことを考えていた。
ミュリエルが少し医学を齧っているものの、このまま医者に見せないのもまずいだろう。
それに彼女が言うには、山道はそこまで険しくないらしい。
だとしたら完全にレイモンの体が回復していれば、時間をかけて下ることもできるはず。
でもやはり一番なのは、彼が目を覚ましてくれることではある。
体を拭き終わると、レイモンはセレストに寝着を着させてあげた。
そして長い灰色の髪をとかしてあげ、ベッドに横にさせて布団も被せた。
そのままいつものようにタオルと水の入った桶をもって部屋から出ようとした。
その時だった。
「…………う……ぅ……」
久々に聞いた彼の声に驚いて振り返った。
セレストは顔を歪ませて、僅かに唸っていたのだ。
しかも寝言でそうしているわけではなさそうだ。
「……ここ……は……」
「セレスト! 起きたのか!?」
レイモンは桶とタオルを床において、彼に駆け寄った。
セレストはまだ意識がはっきりしていなさそうだった。
だがレイモンの声に反応し、ゆっくりと顔を横に向けた。
「……? お前……レイ、モン……?」
「あぁ、そうだよ。
髪が伸びたから結んでみたんだ。
お前が起きてよかったよ」
「……」
セレストは顔を反対側に向けてしまった。
心なしか、少し落ち込んだような気がする。
レイモンにはどうしてそう思ったのか、全く分からなかった。
そんな中、セレストの様子が急に変わった。
「この花……知ってる」
「え?」
セレストは起き上がり、突然ベッドから出た。
だが体がうまく動かないようで、すぐに床に倒れこんでしまった。
「おい、大丈夫か!? まだ起きたばっかりなんだから寝てろよ!」
しかしレイモンの注意は彼の耳に入らなかった。
セレストは上手く立てずに、そのまま這いながら置かれている花の方に向かった。
彼はそこにたどり着くと、感触と花びらの形を確認するようにそっと手を触れた。
すると次第に、彼の目に涙が浮かんできた。
「知ってる……この花も、この花も……
この匂いも、部屋も、全部……
ここは、まさか……」
その時、ミュリエルが騒ぎを聞きつけて部屋に入ってきた。
扉が空いた瞬間に、セレストは振り返った。
そしてミュリエルの姿を見た途端に、唇を震わせて固まってしまった。
「セレストさん、でよろしかったでしょうか?
レイモンさんから事情はお伺いしております。
目を覚まして本当に良かったです」
「――」
セレストは言葉を失ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
そしてゆっくりとおぼつかない足で彼女に近づき、間近でまじまじと見つめた。
レイモンが状況を飲み込めずぽかんとしている間、セレストはミュリエルの手に触れた。
本当に彼女がその場にいるのかを確認するかのように。
「本当に……あなたなのですか?
ミュリエル……」
「はい、私はここにいます」
「っ! あ……ぁ……」
セレストはそのまま彼女に抱き着いた。
そして声やしゃっくりを一切上げずに、泣き始めた。
そんな彼を、ミュリエルは優しく抱きしめた。




