第8話「運命の出会い」
「お、起きたね! 動けるようになったみたいで何より。まあ、好きなところに腰かけてよ」
軽やかな声とともに、あのときの女性が扉を開けて部屋に入ってきた。彼女はそのままキッチンへと向かう。家の中に他の人の気配はない――おそらく、この家には彼女一人で暮らしているのだろう。
少年は言われた通り椅子に腰を下ろし、あらためて周囲を見渡す。木の温もりを感じる室内は素朴でありながらも清潔感があり、どこか落ち着く雰囲気をまとっていた。
やがて女性は、木の皮を編んだ小さな籠に切り分けたバケットを丁寧に並べ、もう片方の手に温めたミルクの入ったコップを二つ持って戻ってくる。そして、籠とコップをテーブルの上に置くと、少年の向かいに腰を下ろした。
「ま、軽く何か食べながら話そうか。僕、もうお腹ペコペコでさ」
そう言って笑みを浮かべながら、彼女はバケットを一切れ手に取り、ぱくりと口に運ぶ。
「じゃあ、まずは自己紹介から。僕はエイネシア・フランベル。十九歳。一応、これでもギルドの団長やってます。君は?」
「僕は……ルーク。九歳です。……貧困街で暮らしていました」
その言葉に、エイネシアの表情がわずかに変わった。驚きと、そして少しの悲しみが混じったような色が、瞳に浮かぶ。
貧困街――通称スラム街と呼ばれるその場所には、職を失った者や犯罪に手を染めた者、社会から見放された人々が多く住みついている。幼い子供が生きるには、あまりに過酷で危険な場所だ。
「……そうだったんだ。じゃあ、あの森にはどうして?」
「あの森に入ったのは……僕、魔力がないんです。それと、この髪の色のせいで、『呪われた子』って周りからずっと虐げられてきて……。家族にも捨てられて……でも、今はもういないけど、育ててくれたおじいちゃんのためにも、強くなりたくて。魔物を倒せば、きっと誰かに認めてもらえる気がしたんです。だから……あの森に」
ルークの声は、静かに、けれど震えるように続いた。言葉を紡ぎながらも、その瞳はどこか虚ろで、感情が遠くに置き去りにされているようにさえ見える。
エイネシアは、黙ってルークの話を聞いていた。彼の目に宿る光の薄さから、彼がこれまでにどれほど辛く、孤独な日々を生きてきたのかが伝わってくる。
――愛されることも、抱きしめられることも知らずに。
誰にも頼れず、たったひとりで踏ん張ってきた幼い少年。その姿を前に、エイネシアの胸に淡い痛みが走る。
ルークが「強くなりたい」「誰かの力になりたい」と願った末に、その身には無数の傷が刻まれた。下手をすれば命を落としていてもおかしくはなかった。
確かに、彼の行動は無謀だったかもしれない。だが、そこに込められた想いを思えば、その理不尽さはあまりにも残酷だった。
しばしの沈黙が、部屋を包む。
その静けさを破ったのは、ルークのほうだった。
「……あの、よく覚えてないんですけど。僕を助けて、治療してくれたのって……エイネシアさん、ですか?」
問いかけに、エイネシアは一瞬きょとんとしながらも、頷く。
「え? うん、そうだよ」
その返答を聞いた瞬間、ルークの中にあった靄が晴れた。森の中で光に包まれ、見上げた先に立っていた人影――あれは、やはりエイネシアだったのだ。
「……どうして助けてくれたんですか? 今まで僕を助けてくれたのは、おじいちゃんくらいで……。僕が気味悪くないんですか?」
おずおずと投げかけられたその問いに、エイネシアは少しだけ天井を見上げ、考え込むような仕草を見せる。
「うーん……人を助けるのに、理由っているかな?」
ぽつりと呟いた言葉には、迷いのない芯があった。
「確かに、黒髪は“不吉の象徴”なんて言われることもあるし、魔力がないから“呪われた子”なんて呼ばれてるのかもしれない。でも、正直どうでもいいことだよ。少なくとも、僕がルークを助けない理由にはならなかったかな」
淡々と語るその言葉に、ルークは目を見開いた。
人を助けるのに、理由なんていらない。そんな考え方は、ルークの人生の中には存在しなかった。だからこそ、エイネシアの言葉は――心の奥底まで、優しく染み渡っていく。
気づけば、ルークの頬には涙が伝っていた。自分でも気づかぬうちに、感情が溢れていたのだ。
慌てて袖でぬぐい、小さな声で呟く。
「……ありがとう」
何事もなかったかのように、エイネシアはミルクに口をつけた。そして、何かを思いついたように両手をパンと軽く合わせ、にこりと笑う。
「ねえ、ルーク。君、強くなりたいんだよね? だったらさ……僕の弟子にならない?」
「……えっ?」
予想外の提案に、ルークの手が止まる。コップを持ったまま固まり、目を見開いた。
それはルークにとって、夢のような申し出だった。だが同時に、疑問も浮かぶ。どうしてこの人が、自分なんかを――?
エイネシアはギルドの団長を務める実力者であり、彼女の弟子になりたいという者は、きっと山ほどいるはずだ。そんな彼女が、なぜ自分なんかに――?
ルークにはその意図が理解できなかった。
ギルドを立ち上げるには、いくつかの条件を満たし、それらを国に書面で申請し、受理されなければならない。許可を得ずに活動しているギルドは“闇ギルド”と呼ばれ、摘発の対象となる。
正式なギルドとして認められるためには、以下の五つの条件を満たす必要がある。
一つ、ギルドに在籍するメンバーが十名以上であること。
二つ、ギルドマスター一名とサブマスター一名を配置すること。
三つ、ギルドマスターは国からAランク以上の認定を受けていること。ただし、百名以上のギルドとなる場合は、Sランク以上である必要がある。
四つ、依頼達成時に得られる報酬の一割を、国に納めること。
五つ、国からの依頼があった際には、速やかにそれを遂行する義務を負うこと。
これらを遵守することが最低条件だ。
ランクとは、国によって定期的に実施される試験によって認定される等級のことを指す。Eから始まり、D、C、B、A、S、SS、SSSと続き、SSSが最上位となる。このランク付けは人間だけでなく、魔物にも適用されており、ランクが上がるほど危険度も跳ね上がっていく。
この制度から考えるに、エイネシアは少なくともAランクの実力者ということになる。
アストレア王国の総人口は現在およそ二億人。その中でAランク以上に認定されているのは千人にも満たない。つまり、エイネシアは文字通り“選ばれた千人”のうちの一人であり、極めて希少な存在だ。
そんな彼女の弟子になりたいと願う者がいたとしても、不思議ではない。実際、ギルドに所属する理由として、マスターの下で修行を積みたいと願う者も多いとされている。
「本当に……僕を弟子にしてくれるんですか?」
嬉しさと驚きが入り混じる声で、ルークは問いかけた。まだ手の震えが止まらず、コップを机に戻すと、膝の上で拳を握りしめ、真っ直ぐエイネシアを見つめる。
「うん、もちろん。そろそろ本気で弟子を取ろうと思ってたところだったし、君を見てるとね、昔の僕を思い出すんだ。放っておけないよ」
エイネシアはそう言って、にかっと笑ってみせた。
その笑顔と、何よりも言葉のひとつひとつが、ルークの心に染み渡った。これまで否定され、拒絶され続けてきた彼にとって、その優しさは何よりの救いだった。
――必ず強くなろう。
ルークは、胸の内で固く誓った。自分を拾い上げてくれたこの人に、必ず報いたいと。
エイネシアとの出会い。それは、ルークの運命を大きく変えることとなる、最初の一歩だった。