第50話「静かなる目覚めの刻」
軋む音を立てて開かれた石扉の奥――そこは、まるで祭壇のような空間だった。
霧の気配は薄れ、代わりに、張り詰めた静寂が支配している。
天井は高く、壁際には古びた魔導装置らしき柱が等間隔に立ち並んでいた。その中心にぽつりと浮かぶ、黒い結晶の塊。
「……あれは」
かつて訪れたときには、こんなものはなかった。
結晶は心臓のように脈動している。赤黒い光がゆっくりと明滅し、周囲に淡い魔素を散らしていた。
ルークは剣を握ったまま、警戒を解かずに一歩、また一歩と近づいていく。
祭壇と思しき円形の床面には、かすかに刻まれた魔法陣の痕跡がある。それはすでに機能を失っているように見えたが――
――次の瞬間、黒い核が光を放った。
「……っ!?」
咄嗟に身を引こうとした刹那、床全体が赤く輝く。
陣が――展開された。
脚元に奔る光がルークを飲み込み、空間が歪む感覚が全身を襲う。
「しまっ……!」
叫びも、逃げようとした足も、間に合わなかった。
ルークの身体は光に包まれ、視界が反転する。
◆
重い空気とともに、視界が戻る。
ルークは、荒い息を吐きながら身を起こした。
全身が妙に重かった。足元はぐらつき、感覚がうまく戻らない。
(転送の反動か……)
意識は覚醒しているが、魔力の流れが不安定だ。体内でうねるような違和感があり、一時的に術式制御が難しくなっている。
周囲を警戒しつつ、地に手をついて立ち上がると、眼前に広がる空間の異様さがようやくはっきりと輪郭を持ち始めた。
天井は低く、洞窟のような岩肌がむき出しになっている。壁には松明が灯されており、その揺れる炎が、地面に描かれた不気味な陣を照らしていた。
(……儀式魔法か?)
そう考えるより早く、鼻腔に錆びた匂いが入り込んでくる。血の匂いだった。
地面に直接描かれたそれは、乾いた赤黒い線で構成されている。血によるもの――それも、かなり濃く、濃密な魔素を帯びている。
陣の外縁には、崩れかけた封印文字がいくつも刻まれていた。古代語の流れを汲んだ構造……だが、そのほとんどが読めないほど風化している。けれど、残された痕跡からでも察せた。これは“縛る”ための陣だ。
視線を動かす。奥に、何かがいる。
岩壁から伸びた魔力の鎖に、ひとりの“女性”が拘束されていた。
その姿はあまりに異様で、あまりに美しかった。
透けるように白い肌。背中まで流れる銀白の髪。
身体はくったりと項垂れていたが、揺れる松明の火に照らされたその肉体は、見る者の目を奪うほど豊満で、艶やかだった。
衣服は破れ、かろうじて覆っていた布も、今やほとんど役目を果たしていない。
大きく張った胸元が、魔力の鎖に押しつけられ、艶やかに隆起している。かすかに上下する呼吸が、彼女がまだ“生きている”ことを告げていた。
腰からは、九本の尾――淡く紫がかった毛並みのそれが、静かに揺れている。
魔力の鎖は、ただ拘束するためだけに存在しているのではない。彼女の魔力そのものを“押さえ込む”ための装置の一部だと、ルークの直感が告げていた。
(……こんなものを作る技術、いったい誰が)
それほどの封印が必要とされる存在。
魔性のごとき妖艶さと、神秘的な威圧感が同居していた。
その場にいるだけで、魔力がざわつく。強者と対峙した時とはまた違う、抗いがたい吸引力。
美しい。だが、それ以上に――危険だ。
思わず、ルークの喉が鳴る。
「……九尾……?」
呟いた言葉に答えるように。
ふ、と。
その女性が――眼を開けた。
揺れる松明の火を映し込んだ、金色の瞳が、まっすぐにルークを捉える。
感情の読み取れない、無機質な光。
その眼差しが、言葉もなく、すべてを貫いてくる。
まるで問いかけるように。あるいは、すでに知っていたかのように。