第49話「静寂を裂く、死者の気配」
《薄明の裂谷》の入り口に、ルークはひとり立っていた。
風のない空間に、霧が静かに漂っている。それはまるで、地面の底から湧き上がってきた“瘴気”のようだった。
(……やっぱり、何かがおかしい)
以前、シエルとこのダンジョンを訪れた時にも、確かに異変の兆しはあった。
だが、今感じるそれは“兆し”ではなく、もはや“進行”だった。
空気が重い。湿り気を帯びた魔素が、肌にまとわりついてくる。
そして、背筋を撫でるような寒気――無人のはずの空間に、誰かの気配が潜んでいるような錯覚。
ルークは静かに剣の柄に手を添え、谷を進み始めた。
その足取りは迷いなく、だが油断のない慎重さを帯びている。
第一層の通路を抜けたところで、岩陰から突如現れたスケルトンが、ギィ、と濁った音を立てて動いた。その頭部には赤黒い光が灯り、ルークの存在に気づいた瞬間、直線的に突進してくる。
ルークは剣を抜き、短く呟いた。
「《火属性付与》」
剣身が赤く光り、たちまち熱を帯びた炎が刀身に宿る。
ルークは正面から突撃してくるスケルトンの動きを見極め、一歩踏み込み、斬り払った。
炎が骨を砕き、霧の中へと散らしていく。
続けて、腐肉をまとったグールが這い出てきた。その目は濁っているが、動きには迷いがない。
かつてのこの階層にいた“低級”のそれとは、明らかに活性が異なっている。
剣に込めた炎を纏わせたまま、ルークは体を低く沈め、一気に間合いを詰めて斬り上げた。
グールの断末魔が霧の中に吸い込まれ、再び静寂が戻る。
「……数も、反応も、以前より上がってるな」
警戒を強めながら進むと、グールだけでなく、レイスのような魔物が薄闇の中を浮遊していた。
炎の剣で何体かを斬り伏せながら、ルークは確信した。
このダンジョンは、確実に“異変が起こっている”。
それはただ敵の強さの話ではない。
構造自体がどこか“呼吸”しているような、底知れない不気味さがあった。
階層をひとつ、またひとつと降りていくごとに、空気は重く濃くなっていく。
第三層に足を踏み入れた瞬間、ルークはふと立ち止まった。
通路の先、岩壁の一角。
そこに刻まれていたのは、巨大な“爪痕”だった。
岩を紙のように引き裂いたような鋭さ。
そして、そのすぐ傍に――人間のものとは思えない、深く抉れた足跡が残っていた。
ルークはしゃがみ込み、足跡に指を添える。
冷たい。だが、ただの冷たさではなかった。
(……生きてるみたいだ)
そんな感覚が、指先から伝わってくる。
踏み込まれた足跡の並びは一直線ではなく、あちこちへ散らばるような形で残されていた。
まるで“何かを探している”かのように。
「……誰かを、追ってる?」
無意識に漏れた言葉に、自分でもぞっとする。
そこへ、また霧の濃さが変化したことに気づく。
魔素の濃度が、明らかに先ほどよりも濃い。
空気が、重いというより“まとわりつく”ようになってきていた。
足元の地面も、うっすらと赤黒く染まって見える。魔素の侵蝕が、ダンジョンそのものを蝕み始めているような感覚。
“呼吸”ではない。これは“脈動”だ。
生き物のように、このダンジョンが脈打っている。
そして、それに反応するように――魔物たちが、目を覚ましつつある。
その後も何体かの死霊系を倒しながら、ルークは最深部への通路を抜けた。
霧が濃く、視界は数メートル先もぼやける中、やがてそれは現れる。
最下層の広間。
そして、中央にそびえる――巨大な石扉。
以前に見たものとは、まるで別物のように感じられた。
ただの封印扉だったはずが、今は“こちらを睨んでいる”ような威圧感を放っている。
(……変わったのは、ここもか)
剣を握り直し、ルークは扉の前に立つ。
ほんの僅か、深呼吸をし、意識を整える。
そして、両手で扉に触れた。
ゆっくりと、しかし確かな手応えと共に、それは軋む音を立てて開いていく。
冷たい風が、ルークの頬をかすめる。
その先に、何が待っているのか。まだわからない。
けれど――
(この先に、“答え”がある)
そう確信したルークは、一歩を踏み出す。