第33話「境界を越える者」
沈黙の中、男が懐から何かを取り出す。
淡い光を帯びた、小さな丸薬瓶だった。
「――限界はすぐそこだ、ミレーナ。だが、お前なら越えられる」
その声は、蛇のように甘く、芯に毒を含んでいた。
「……何、それ」
ミレーナが足を止め、息を整えながら問い返す。
「《灰核の丸薬》。摂取すれば、身体マナの総量が飛躍的に拡張される。ただし――魔素の含有量が高く、適応できなければ副作用が出る」
「副作用って……魔物化?」
「一時的な適応不全に過ぎん。制御さえできれば、真の力を手に入れられる。お前なら、それができる」
ルークの中で警鐘が鳴った。
(やめろ……ミレーナ、聞くな……!)
声に出せないまま、ただ茂みの陰から息を潜める。
男は言葉を続けた。
「天剣の魔女・エイネシアの“後釜”が、お前のような落ちこぼれでないことは分かっているだろう?」
ミレーナの瞳が、わずかに揺れる。
「彼女が選んだのは、君じゃない。元は身体マナすら扱えなかった呪われた者――ルークだ」
その名が出た瞬間、ミレーナの肩がビクリと震えた。
「わたしは……ずっと努力してきた。剣も、魔法も、誰にも負けないように……それなのに、どうして……!」
赤い瞳が、憎しみに似た色を灯す。
「なんで、あんな呪われたやつが……私じゃなくて、あいつが、選ばれたの……!」
「飲め、ミレーナ。君の力を証明するんだ。自分自身に、あの女に、そして……あの少年に」
男が差し出した小瓶を、ミレーナは震える手で受け取る。
(やめろ――!)
ルークの全身が強ばる。思わず足が前へ出た。
「やめろ、ミレーナ! それはお前を壊すッ!」
声が森に響く。茂みから飛び出すルークに、ミレーナが驚愕する。
「ルーク……!? なぜ、ここに……」
「そいつから離れろ! そいつは〈灰の焔〉の……!」
「うるさいっ!」
ミレーナが怒鳴った。その瞳には、怒り、悲しみ、そして怨嗟が入り混じっていた。
「お前にだけは……言われたくない……っ!」
彼女は、迷いなく丸薬を口に運んだ。
ルークが叫ぶより早く、それは彼女の喉を通った。
「ミレーナッ!」
淡い光と共に、魔素の奔流が解き放たれる。
地面が震える。空気が軋む。木々がざわめき、魔力が渦を巻いた。
ミレーナの髪がふわりと宙を舞い、瞳が深紅に染まる。
「……すごい、これ……力が、溢れてくる……っ」
声が上ずっていた。
だが――ルークは、見逃さなかった。
ミレーナの右腕。その皮膚の下で、黒い紋様のようなものが浮かび上がっていた。
鱗のような変質が、じわじわと指先へ広がっていく。
(クソッ、……始まった)
魔物化の初期兆候。これが進行すれば、完全に人としての理性を失う可能性がある。
「ミレーナ、止まれ! お前は、今ならまだ――!」
だが、彼女は聞いていなかった。
むしろ、笑っていた。
「見てるんでしょう? エイネシア様……ルーク……私の力、ちゃんと見てなさいよ……!」
爆発寸前の魔力を背負いながら、ミレーナが剣を手に取る。
咄嗟にルークも剣を抜く。
(止めるしかない。もう――俺がやるしかない!)
――刹那、地を蹴ったミレーナの姿が、視界から消えた。
「っ……!」
ルークが剣を振り上げるより早く、彼女の斬撃が迫った。
重く、速い。体術に魔力が上乗せされた一撃は、かろうじて防御の構えを取ったルークの身体を後方へ弾き飛ばした。
「く……!」
腕が痺れる。距離を取って体勢を立て直すが、ミレーナは間髪入れずに追撃してくる。
「どうしたの!? “弟子様”! その程度なの!?」
刃と刃がぶつかるたびに、爆ぜるような魔力の衝撃波が走る。森の枝葉が次々に吹き飛ばされ、まるで嵐が吹き荒れるようだった。
(強い……こんなに、変わるのか……)
これが、丸薬の力。否、力という名の毒だ。
ミレーナの顔は、紅潮していた。戦っているというより、快楽に呑まれているかのように。
「ルーク……あんたにだけは、負けたくなかった……! 私のほうが、ずっと頑張ってた! ずっと、ずっと……!」
剣を振るうたびに、叫びが乗る。
そのすべてが、ルークに突き刺さった。
「俺は、お前と競ったつもりなんて……!」
「うるさいッ! お前が認められた時、どんな気持ちだったか、知らないくせに!」
感情の奔流とともに、魔力の暴走も激しさを増していく。
ミレーナの右腕――完全に黒い鱗に覆われていた。関節の角度が人のものとは違っている。肘の先から爪のような角質が伸び始めていた。
(まずいな……もう、限界が近い)
このまま放っておけば、理性を失い、完全な魔物になる。そうなれば、彼女を止める手段は一つしかなくなる。
(殺すしか、なくなる……)
ルークは奥歯を噛みしめた。
「まだ、戻れる……。 ミレーナ、お前はまだ“人間”だ!」
「うるさい……うるさい、うるさいッ!」
ミレーナの剣が振り下ろされる。ルークは体を低く沈め、懐に飛び込んだ。
(……いける!)
渾身の一撃――剣の柄の部分を、ミレーナの腹部に向けて叩き込む。
「くぅ……っ!」
苦悶の吐息とともに、ミレーナの身体がよろめいた。
そのまま、ルークは剣を捨て、彼女の両肩を掴む。
「……ミレーナ。お願いだから、戻ってこい。こんな力で、お前が壊れるなんて――そんなの、見たくない」
魔力の波が、ぶわりと空間を揺らした。
ミレーナの赤い瞳が、一瞬だけ大きく見開かれる。
「……ル、ー……ク……?」
次の瞬間、魔素の光が弾け――そして、霧のように散った。
ミレーナの身体が崩れ落ちる。ルークは慌ててその身を抱き留めた。
「……気絶、しただけか」
彼女の腕からは、徐々に鱗のような変異が引いていく。呼吸はある。心音も安定していた。
(ギリギリ……間に合った)
剣を交えたわけでも、圧倒したわけでもない。ただ、気持ちが届いた。それだけで止まった――奇跡だった。
「……ありがとう。戻ってきてくれて」
ルークが静かにそう呟いた時だった。
――カツ、カツ。
規則的な足音が、森の外から響いてきた。
(この音……鎧の、それも複数人……)
すぐに、数名の騎士の影が木々の間から現れた。
「誰だ! そこにいるのは――」
ルークは振り返らず、ただミレーナの身体を守るように膝をついたまま、目を細める。
だがそれとは別に、森のさらに奥。騎士団の到着とは違う、もっと遠くで気配が揺れた。
(……誰か、見てた……?)
もう一人、“何者か”がこの一部始終を、どこかから見ていた。
その視線だけが、冷たい夜風の中で確かに残っていた。